「ずれ」の考察

 私は流山の妙に硬い表情に少し気詰まりを感じて、気を紛らわすためにその二面の見開きページを行ったり来たりめくっていると、ふとあることに気づいた。

「この、最初の四枚と、次のページの四枚とで、制作者のクレジットが替わってますね。CD……クリエイティブディレクターですか、が別な人に替わっている」

「ええ、そうなんです。この、九十五年の初夏バージョン『好きでいたいから、今日は会わない。』から、代理店のCDが、コピーライターも兼任していた鹿島光男から、CD専業の市田裕に替わりました。 ADの村尾はウチの人間です」

「聞いていいものかわかりませんが、何かあったんでしょうか。よくあることなのかもしれませんが、先ほど伺った代理店と流山さん達とのいきさつから、ちょっと気になりまして」

「ははは、ちょっと喋り過ぎましたか。まあいい、今日は祭りだし、こうなったら全部お話ししましょうか……」

 流山はそういって例の暗い瞳を私の方にチラと向けて言った。「実は、さっきの昔話に出ていた、イヤな代理店のクリエイター、それがまさにこの鹿島光男のことだったんですよ。そして彼はこの『好きでいたいから……』の社長プレゼンの三日前、彼の会社から我々の事務所に向かう途中で、地下鉄のホームから列車に飛び込んで自殺しました」

 ちょうどその時、かかっていたアルバムの最後の曲が終わった。六十年代後半のフリージャズの喧しいともとれるサックスがピタリと止んで一瞬静寂が店内をつつんだ。だが次の瞬間には、酔っ払いのおしゃべりが再び周りにあふれ、祭りの太鼓がドンドンドンとくぐもった音を響かせた。

「なるほど」と私は言った。そして本を閉じると、カウンターの汚れのないところにそっと置いた。「プレゼンの三日前に、ですか。さぞや大変だったでしょう」

「ええ、かなりのドタバタでしたね。さすがにプレゼンは延ばしてもらいましたよ。その酒造メーカーの社長はかなり鹿島のことを気に入っていたようで、葬式にも顔を出していました。まあ私も、立場上、葬式に参列したわけですが、日頃憎んでいただけに、複雑な気持ちでした……」

「それで、スタッフが入れ替わって、無事ポスター制作は完了したんですね」

「ちょっとまずい表現ですが、彼が亡くなったお陰で、私は自分の力だけで書き上げたキャッチコピーを、作品にすることができました。彼は作品になんらコミットすることなく死んでしまったので、コピーライターとして私の名前が単独でクレジットされることになったわけです。これもまた、ずいぶん複雑な気持ちになりました」

「代理店の新しいクリエイティブディレクターは、あなたのキャッチコピーに口を出さなかったんですか」

「ええ、市田という男は、テレビCMのプランナー上がりのCDだったので、グラフィックデザインにはあまり興味がないようでした。単にクライアントと我々をつなぐだけの役割といった感じで。クライアント側も社長自身が論理よりフィーリングといったタイプだったし、何かと忙しかったこともあってか、何も直しが入らず、すぐにオーケーがもらえました。この時の『好きでいたいから……』は結構世間の評判も良かったため、我々への発注はその後も継続しました。時期になると市田がやってきて、ラフ案を作れと指示がくる。我々が対応するとそれをそのままクライアントに持参して社長に通す、といったルーティンが三期ほど続きました。が、しかしそこで発注が止まりました。後で市田に話を聞いたところ、他の小さな代理店が、綿密なマーケティング計画を添えて社長にポスターの自主プレゼンをし、それが大変好評でそこに仕事を奪られてしまった、とのことでした」

「厳しい世界ですね」私は残り三センチほどになっていたビールを飲み干し、マスターにハイボールを頼んでから流山に、「すみません、もう一度いいですか」と断って再度本を手に取って、『大人の恋』シリーズのページを探し出すために、パラパラとページをめくった。

「クリエイティブディレクターが替わったことの理由は納得しました。亡くなったとは思いもしませんでしたが。ただ、実は私が気になったのは、クリエイティブディレクターが替わったことそれ自体ではなく、”ずれ”ていることなんです」

 私はようやく見つけ出した『大人の恋』シリーズのページを開いて、流山の近くに本を動かして、彼に見えるように置いた。

「ずれている?」

「ええ、キャッチコピーがずれているんです」冒頭の作品を指差しながら続ける。「この一作目から四作目まで、つまりこの最初の見開きの分までが、亡くなった鹿島さんがクリエイティブディレクターとコピーライターを兼任していたチームの時の作品で、ページをめくった次の見開きの四作品が、クリエイティブディレクターが市田さんに替わり、あなたがひとりでコピーを書いた時の作品ということになってますよね。ちょうど四作ずつです」

「そうなりますね」流山は、私が何を言わんとしているのかわからない、といった風な怪訝な表情で鼻と眉間の間に一瞬、パグ犬のような横ジワを作ったが、シワはすぐに元に戻った。

「ところが、キャッチコピーの成り立ち方、とでもいうのでしょうか。私が言うのもおこがましいですが、いわゆる表現作法は、あなたが単独でコピーを仕上げたという最初の作品、さっき話題になった五作目の『好きでいたいから、今日は会わない。』までが同様の作法で作られたひとまとまりの作品群、後の三作品が別の作法による別の作品群、に私には思えるんです」

 流山は表情を変えないまま、私がページを行ったり来たりさせている本を見つめている。

「あ、すみません。貴重な本が汚れないように、ちょっとキャッチを書き出してみますね」

 私は、開いたページが見えるように彼に本を支えてもらい、ここに来る前に駅前で配られた中古戸建の案内チラシが上着のポケットにあるのを思い出して、取り出して広げた。そして、リクエスト記入用の鉛筆で八本のキャッチコピーを写し取り、五作目と六作目の間に線を引いて二つに分けた。


 つかずはなれず、いつものペースで。(旧スタッフ)

 ほどほどに、だから近くにいられる。(旧スタッフ)

 愛しすぎるのは、らしくないと思う。(旧スタッフ)

 あまえたい夜でも、自分をしっかり。(旧スタッフ)

 好きでいたいから、今日は会わない。(新スタッフ)

    ☆  ☆  ☆

 明日はもっと、ハッピーになるから。(新スタッフ)

 夜が更けたことも、気づかないほど。(新スタッフ)

 あたらしい夢には、こころも弾んで。(新スタッフ)


「これら八枚のキャンペーンポスターは、人が写っていないのに、人の心が伝わってくるような、印象深い情景写真で構成されています。海だったり、山だったり、街だったり、写っている景色はバラバラですが、アートディレクターの手腕なのでしょう、ひとつの統一された世界観を創り出しています。そこにさりげなく配置されたキャッチコピーが、さらに相乗効果をあげている。そしてそれを受けるかたちでポスター右下の商品名の上に小さく『大人の恋はじめよう』とキャンペーンスローガンが書いてあります。読み方によっては、不倫を連想する人もいるんじゃないでしょうか……。さて、本題に入ります。これらのポスターは、実際に掲出された時には、当たり前ですが、季節ごとに一枚ずつ貼られ、差し替えられていったはずで、このようにキャッチコピーが八本ともずらりと並ぶことはなかったと思います。そして、こうして並べて見てみると、さっきお話ししたように、初めの五作と残りの三作のキャッチコピーには、明らかな作法の違いが現れています」

 パグ氏は、鼻のシワを出したり消したりしながら、「私にはわからないな。説明していただけますか」と幾分くぐもった声を発した。

「いいですか、初めの五作にはどれも、どちらかといえば女性目線での、自分と恋人との関係性が表現されています。相手の気持ちを顧みず突進する若者の恋ではなく、大人同士の、心地よくいられる距離の取り方、といったものが上手く描かれている。しかし、後の三作には、そうした人間関係の機微がない。シリーズとしての一貫性を保ってはいますが、表現がストレートで何か深いひねりのようなものが消えている」パグのシワが完全に出っ放しで固定されたのを感じながら、私は続けた。「さらにもうひとつ。この焼酎が発売された八十年代半ばというのは、いわゆる一気飲みブームが起こった時代です。私はまだ小さかったですが、漫才コンビが歌の題材にしてヒットしたことを覚えています。焼酎をジュースで割ってさんざん薄めて、使い捨て容器のようにガブ飲みする一気飲みは、本当に酒が好きな人間が見たら、顔をしかめずにはいられない行為です。そればかりか、年月が経つにつれ一気飲みのスタイルもより過激になっていきます。アルコール度数の高さを競ったり、飲めない仲間に無理やり強要したり。そうして九十年代に入ると、一気飲みによる急性アルコール中毒で死亡する若者が増加の一途をたどり、社会問題となっていきました。それに呼応するように、この焼酎の売り上げも低迷していく。『大人の恋』シリーズの九十四年は、そんな時代の節目だったんだと思います。そしてこの初めの五本のキャッチコピーは、焼酎を粗末に扱い身体にも害を及ぼす一気飲みの風潮を牽制し、もっと楽しく上手にアルコールと付き合おう、というメッセージを発信していたのではないでしょうか。お酒はほどほどに。それを恋の相手に擬人化して表現していたわけです。例えば頭の二作『つかずはなれず、いつものペースで。』と『ほどほどに、だから近くにいられる。』は、そうした視点で読み返せばすぐにその意図が理解できます。続く『愛しすぎるのは、らしくないと思う。』と『あまえたい夜でも、自分をしっかり。』は、アルコールに溺れないように自分をコントロールしよう、です。そして『好きでいたいから、今日は会わない。』は、数日に一度はアルコールを控えて身体を休ませなさいという、いわゆる休肝日の推奨だったのでしょう。そこには、広告に備わっているべき公共性を失うまいとする、真摯な姿勢が感じられます。だから、同様の作法で書かれたこの五作目までが、鹿島さんが関わった仕事ではないかと思ったのです」

 そこまで一息に喋ってから、私は自分がとんでもないことを言ったことに気づいた。少なくとも初対面の人間に言うことではない。それも、クリエイターといったプライドの高い人種には、特に気をつけるべきだ。やはり私は心が相当に疲れ果てているのだ。しかしもう遅かった。

「つまり、それは、この五作目は、私が鹿島の作品を盗んだ、ということでしょうか?」

私は顔を上げることができずに、下を向いてギュッと目を閉じたまま黙っていた。怒号を浴びせられるか、あるいは殴られるか。私は覚悟を決めた。

 店内には、五十年代あたりの甘ったるいテナーサックスのソロが流れていた。酔客は相変わらずやかましかったが、祭りの太鼓の音は止んでいた。神輿が神社に到着したのかもしれない。

 しかし、いつまでたっても流山は怒鳴りもしなければ、殴りかかってもこなかった。私は少し落ち着きを取り戻し、目を開けて顔を上げた。

「大変失礼しました。そんなつもりはありませんでした」

 おそるおそる流山の顔を見たが、パグのシワはいつの間にか消えていた。

「いえ、こんな広告文の端くれから、そこまで推理が広がるなんて、たいしたものです。もしかして君の仕事は、探偵とかそんなあたりだったりするわけですか」

 私は彼が怒っていないことにホッとしながら、「はい、私立探偵をやってます。開店休業状態ですが」と答えた。

「それは素晴らしい。探偵は少年時代からの憧れです。広告業界にいると、いろんな職業の人間と接しますが、探偵の方は初めてです」流山の目に光が戻り、口元には控えめな笑みが浮かんだ。「やはり君には、何もかも話さなければならないようだ」

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