八本のキャッチコピー
男は大事そうに本を手に取ると、「これは非売品でして、発売三十周年を記念して関係者だけに内々で配本されたものです。私も以前この焼酎の広告に関わっていたということで、代理店の好意で分けてもらったのです。あなたならこのブランドはご存知ですよね」と言って本の表紙を私の方に向ける。
「ええ、もちろん知っています。残念ながらこの店には置いてないようですが、居酒屋のメニューでよく見かけますし」
「そう、この酒が発売されたのは、ちょうど焼酎ブームの八十年代半ばで、その頃の焼酎のイメージといえば、安くて手軽、味なんかどうでもよくて、何か甘いもので割ってあれば女性も喜んでオーダーする、といったものでした。このブランドも、そんなブームに乗っかって大分県から東京に進出してきたのですが、ブームが沈静化してからはずっと右肩下がり、しかもバブル崩壊なんかもあって九十年代に入るとさらに苦境に陥りました。ところが、まあここの当時の社長はもともとワンマンだったのですが、九十四年頃に、社員たちの反対を押し切ってバッサリと今までの若者受け路線を捨て、起死回生を賭けて酒瓶のラベルから広告まで全てを一新したのです。ゆっくりたしなむ落ち着いた大人の酒として、売り出し直すことになり、結果としてその時の英断が、今のブランドを作ったと言っても過言ではないでしょう。で、その時の最初の広告キャンペーンに、担当広告代理店の要請のもと、私はコピーライターとして参加したというわけです。ちょっと見てみますか……」
そう言うと男は、本を丁寧にめくってページを開くと、私が読みやすい向きに本を回してこちらに差し出した。
私は本を手に取り、そこに掲載されているポスターの縮刷画像を眺めた。『大人の恋シリーズ 九四年~九五年』と題されたコーナーで、一ページにポスターが二点ずつ計四ページ、八枚のポスターが並べられている。それぞれのポスターは皆、雰囲気のある情景写真を全面に使用してあり、人物はその中に写っていない。写真の中に抜き文字で配置されたキャッチコピーは、ビジュアルにマッチした落ち着きのある書体とやわらかい言い回しで構成されていた。
その八本のキャッチコピーは、ポスターの画像の下に再度、活字で掲載されていて、続けて制作者のクレジットが記載されていた。
つかずはなれず、いつものペースで。
(CD/C: 鹿島光男、C:流山隆作、AD/D:村尾潤一)
ほどほどに、だから近くにいられる。
(CD/C: 鹿島光男、C:流山隆作、AD/D:村尾潤一)
愛しすぎるのは、らしくないと思う。
(CD/C: 鹿島光男、C:流山隆作、AD/D:村尾潤一)
あまえたい夜でも、自分をしっかり。
(CD/C: 鹿島光男、C:流山隆作、AD/D:村尾潤一)
好きでいたいから、今日は会わない。
(CD: 市田裕、C:流山隆作、AD/D:村尾潤一)
明日はもっと、ハッピーになるから。
(CD: 市田裕、C:流山隆作、AD/D:村尾潤一)
夜が更けたことも、気づかないほど。
(CD: 市田裕、C:流山隆作、AD/D:村尾潤一)
あたらしい夢には、こころも弾んで。
(CD: 市田裕、C:流山隆作、AD/D:村尾潤一)
「九四、五年というと、二十年も昔ですね」
「ええ、その頃は本格的にバブル崩壊の影響が現れ始めていて、様々な経済指標もマイナス成長を記録しました。広告表現の世界でも、今のままではダメだ、という機運が高まっていた時期でもあります。そうした中で誕生した先駆的作品群にはとてもかなわないのですが、自分としてはこのシリーズに少なからず自負をもっていました……何も仕掛けなどのない、他愛ない作品なんですけど」
男は開いた本の方に身を乗り出して、名前を指差しながら言った。「ちなみにこの流山隆作というのが私になります。Cはコピーライターのことで、CDがクリエイティブディレクター、ADがアートディレクター、Dがデザイナーですね。この中の広告のどれかをご覧になったことはありますか」
「いえ、どれかを見たような記憶もありますが……」
私は確信を持てずにあいまいに頷いてみせた。
「それは無理もありません。大きな駅貼りポスターで大々的に宣伝したわけではなく、酒屋の店頭や居酒屋なんかに、季節ごとに一枚ずつ地味に掲出してきたものですから。ただ、さっきも申し上げたように、社長がワンマンで広告宣伝も仕切っていた時期で、その社長の持論が、言いたいことを伝えたらあとは広告クリエーターに任せるべき、というものだったために、随分自由にやらせてもらえました。とはいっても代理店のクリエーターにとって、ということですが」
流山と名乗るその男は、口をキュッと結んで、どこか遠くを見るように宙を見つめた。暗い眼球が更に奥に沈んで、ポツンと一点だけが白く濁った光を放っていた。
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