殺人の時効

 そこまで言い終わると、流山は手で持ち上げたグラスを回して、氷をカラカラと鳴らすことを繰り返した。暗い目が深く沈み込み、相変わらずその中心点だけが鈍く光を放っていた。いつの間にか例の酔客たちは帰っていて、静まった店内に、JBLがクラシックなジャズピアノ・トリオのライブ演奏を気怠げに吐き出していた。淡々と過去の殺人を告白する流山は、何か今までとは別人のようだった。私は形容しがたい恐怖を感じた。流山は再び話し出した。

「それからしばらくは落ち着かない日々が続きました。こうしているうちにも警察がやってきて、私は逮捕されてしまうかもしれない。そう思う一方で、もしかしたら捕まらないんじゃないか、このまま逃げ切れるんじゃないか、という思いも、同時に頭をもたげてきました。事実、彼がクリエイターにありがちな鬱病を患っていたことから、警察はすんなりと自殺と認定し、深く調べようとはしませんでしたから。そうして葬儀も普通に終わって歳月が流れていくにつれ、なんだか自分とは無関係の事件のように思えてきて、都合のいい話ですが、私は彼が本当に自殺したんだと思うようにさえなっていました。例の焼酎の仕事も、市田のいい加減な性格を逆手にとって、自分のやりやすいように、あまり力まずに淡々とこなしていきました。やがて時代も変わり、私は結婚して子供も生まれました。妻も同業なものですから、彼女一人に家事や育児を押し付けるわけにはいかず、私はできる限りそれらを分担することにしました。子育て全般はもちろん、掃除や洗濯、簡単な料理と、妻と対等とまではとても言えませんが、家に帰ろうとしないこの業界の人間の中にあっては、自信を持って家事や育児を手伝っている、と手を挙げることができました。そんなある日、子供が幼稚園に入った頃でしょうか。妻が突発的に休日出勤となり、私はいつものように留守番を担当して、少し手のかからなくなった子供の相手をしていた時のことです。晩秋の頃で、妻の実家に頭金を出してもらったマンションの広めのリビングに、穏やかな午後の日差しが長く奥まで差し込んでいました。子供は男の子ですが、私はアニメのヒーローの敵役を演じながら、ああ、これが幸せというものなんだな、などと何ら後ろ暗いところのない一般市民のような感慨を抱きました。その時、子供が突然、どこで覚えてきたのか、『パパ、さつじんざいで、たいほする!』そう言いながら私に飛びかかってきて、手錠をかける真似をしたんです。衝撃的でした。その瞬間、私は、はっきりと、自分が殺人者であることを思い出したんです。鹿島を突き落とした時の、彼の背中の感触さえ蘇ってくるかのようでした。いや、忘れていたことを思い出した、というのは語弊があるかもしれません。忘れるはずがないことを、忘れたかのように自分を騙し続けてきた、そのことを隠しようのない事実として認識した、というのが正しいかもしれません。その日から、今までとはまた別の毎日が始まりました。殺人を忘れることなんかできるはずがない、と悟った私が次にすがったのは、いわゆる時効の到来です。時効が成立すれば、どんな事情があったにせよ、社会的に罪に問われることはない。誰はばかることなく堂々と社会生活ができるんです。その頃の私は、カレンダーの日付が先に進むことだけを励みとして日々を送っていたように思います。そうして犯行の日からあと半年で十年になろうという年の暮れ、刑事訴訟法の改正で、殺人の時効が二十五年に延長される、というニュースが私の耳に入ってきました。当時殺人の時効は十五年でしたから、もし私の犯罪に適用されれば、そこからさらに十五年もの間をこんな状態で耐え忍ばなければならないんです。忘れもしない二〇〇四年の出来事で、その頃はもうインターネットが発達していましたから、私は自宅のパソコンで貪るようにその法改正について調べました。そうしてその改正では、新しい二十五年の時効が適用されるのは、法施行日以降に起こった犯罪で、それ以前の犯罪は従来通り十五年が適用されると知り、椅子から転げ落ちるほど安堵したのを覚えています。しかしそこから五年後、二〇一〇年の春になりますが、前回とは比べ物にならないぐらいの恐怖が私を襲いました。わずか五年で、再び法律が改正されることになり、今度は殺人の時効が廃止される、というんです。つまり殺人者は死ぬまで逃げ回るか、観念して刑に服するかのどちらかしかなくなるわけです。しかも今度の改正では、時効の成立していないすべての事件について、法施行日より遡って適用されるというんですから、文字通り私は生きた心地がしませんでした。何よりも私の犯罪はその年、二〇一〇年の四月二十五日いっぱいで時効を迎える予定だったんです。四月末にも法案が可決され、早々に施行されるとわかった時の私の気持ちがどんなだったか、それはもう言葉では尽くせません。もし二十五日よりも前に法が施行されたら……、そう考えただけで、それこそ、わあっと叫びながら、鹿島の後を追って地下鉄に飛び込みたくなったことも一度や二度ではありませんでした。結局、改正法は四月二十七日に可決され、異例の即日公布、即日施行となりました。翌日の二十八日で時効を迎える十五年前の残忍な殺人を時効にさせないための措置だった、といわれています。まあ、殺人者の私が、残忍な殺人、などと表現するのは笑い話にもなりませんがね……」

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