喝采
立て続けにハイボールを空けたせいか、流山は多少ろれつが回らなくなっていた。
「ギリギリのところで、なんとか時効を迎えることができたわけですね」と私は言った。
「そうなりますね。けれども、結局のところ、それで終わりではありませんでした」
「この本が出版されたからですね」
「ええ、その通りです。出版にあたっては春頃に、今は関西支店に勤務している市田経由で制作者クレジットの掲載を打診されたのですが、当時は最近にしては珍しく仕事が立て込んでいたのと、時効を過ぎてからはなんとなく気が抜けて注意力散漫になっていたこともあって、よく話を聞きもせずにオーケーしてしまったんです。そうして今日この本を受け取って『大人の恋』シリーズのページを開いたとき、私はとんでもないことを許諾してしまったことに気付きました。いつもは過剰なくらいに自分を防御しているのに、本当に肝心なときには間抜けなミスを犯してしまう。そんな自分にほとほと愛想が尽きたところです」
流山は再び本を手に取ると、手慣れた感じで例のページを開いて指差しながら言った。「何しろここにはほら、鹿島の作品に私の名前がしっかりクレジットされている、つまり鹿島のコピーを盗んだ事実が、はっきりと活字になって刻印されているんですから。たとえ他の人間にはわからなくても、それは私に突き付けられた、過去の忌まわしい殺人の動かぬ証拠です。この本が何部印刷されたのかはわかりませんが、こうして日本中に配本され、誰かの家の本棚で、どこかの街の図書館で、私の罪を無言で糾弾し続けるというわけです。私が死ぬまで、いや死んだ後も、永遠に……」
私がどう応えたものか迷っていると流山は、「ああ、ちょっと酔っ払ってしまいました。実はこのことを他人に話したのは今日が初めてなんです。そのせいか、ほんの少し気持ちが楽になった気がします。その代わり、君には何かを背負わせてしまったのかもしれない。申し訳ない」と言って軽く頭を下げた。
「では、私は今日はこの辺で帰ることにします」
流山は立ち上がると、私の横に立ってマスターに勘定をしながら、意外に落ち着いた声のトーンで言った。
「探偵さん、君の推理は素晴らしかったが、一部間違っています」私の隣の、今まで座っていたのとは反対側のスツールにちょっともたれかかりながら続ける。「君はあの五作目までと六作目以降のコピーの作法が変わったのは、書いた人間が変わったからだと推理しました。だから五作目は私の作品ではないと。でも、それは違うんです。いくらロジックでなく感覚でポスター案を決裁するクライアントだからといって、コピーライターが気分や思いつきでキャッチコピーを書くということはありません。我々広告制作者は、しっかりと表現コンセプトというものを組み立ててスタッフで共有し、その土台に従って各々がクリエイティビティを発揮していくんです。あのシリーズは、当初は君が感じ取ったように、体に害を及ぼす飲み方を抑止し、焼酎本来の楽しみ方を提示していこう、というコンセプトで始まりました。ところが翌年、九十五年になると、ある大企業がスター野球選手を使って、日本人は変わらなきゃいけない、と訴える広告が世間で大きな話題となり、それがきっかけで時代の変革をポジティブに謳う広告がちょっとしたブームになりました。それに追従するように、例によって社長の一声で、六作目から突然、シリーズのコンセプトが軌道修正されたんです。それは、どちらかといえば商品自体よりもメーカーとしての企業姿勢をアピールするもので『一途に、前向きに』というコンセプトでした。だから私はその方向に従ってコピーの作法を変えたのです。決して五作目までの作法を理解していなかったわけではありません。そうしたうえでなお、私は鹿島のコピーに負けたんです」
流山隆作は、ぎこちない、けれどもどこか悪戯っぽいウィンクをすると、くるりと背中を向けてゆっくりと戸口に向かって歩き出した。ライブ盤から流れる観客の拍手と歓声が、あたかも彼を送り出すかのように店内を満たした。
私は気持ちの整理がつかないまま、流山が出て行ったドアをしばらく眺めていた。何か消化不良のような違和感が私の中に残っていた。私は気を取り直してバーボンのロックをオーダーすると、コピーライターを名乗る流山隆作という男の奇妙な告白をもう一度検証してみることにした。
流山の話が概ね事実だったとするなら、次の点が引っかかる。つまり、私が盗作の疑念を向けたとき彼は、単にそれはシリーズのコンセプトがクライアント都合で変更されたために、コピー作法と制作者クレジットがずれて見えるだけだ、と答えれば済むのであって、なにも見知らぬ他人に殺人を告白する必要はない。私の業界に対する無知を諭せばいいだけの話だ。彼が過去の犯罪を隠そうとする限りにおいては、私の指摘が決定的なトリガーにはなり得ない。
では、こう考えてみよう。今日の昼間にあの本を受け取った流山は背負うべき罪の重さに絶望し、誰かに自分の過去を告白せずにはいられない気持ちで街を彷徨していたとしよう。そうしてたまたま幾度か訪れたことのあるこの店に本を抱えて立ち寄ったところ、たまたま今夜は祭りの夜で、普段はガラガラのこの店が思いのほか混雑していた。だから空いていたカウンターの席に座らざるを得なかった。次に、そのカウンターのたまたま隣に座った探偵が彼の所持していた本に興味を持ち、たまたま広告制作の知見がなかったために、あるキャッチコピーを彼が盗作したのではないかと誤った推理を披露する。ところがなんという偶然か、探偵の推理はその過程こそ誤っていたが、流山がそのキャッチコピーを盗作したという結論だけは真実を言い当てていた。そしてそれこそが消すことのできない二十年前の罪の刻印だった。流山は、その偶然を渡りに船とばかりに利用して、当初の目的通り自分の罪を告白しカタルシスを得ることができた。果たして、そんなことがあり得るだろうか。いや、そんな都合の良い展開が現実に起こるはずがない。
とすれば、答えはひとつだ。私はバーボンのグラスを、さっき流山がしていたようにカラカラと音を立てて回した。流山隆作は、コピーを盗んではいないし、殺人も犯してはいない。彼には、PR誌にファンタジーを書くような能力がある。彼は、私の誤解にインスパイアされて、その場であの犯罪ストーリーを創作し、私に語って聞かせたのだ。
後日、私はそのことを流山隆作に確かめようと、何度かあのジャズ喫茶兼バーに通ったが、彼と会うことは二度となかった。やがて私は精神的に立ち直り、仕事を忙しくしているうちにバーに立ち寄る回数も減っていった。ふと思い出した時には、もうその店は老マスターの引退とともに閉店していた。
(終わり)
キャッチコピーは密やかに 夕方 楽 @yougotta
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