短編集:不幸の手紙

夕涼みに麦茶

私と風呂と彼女と

 息を切らしながら慌てて家に入る。台所に居た母親が、何事かと玄関に駆けつけてきた。心配する母に、久々に駅から走って来たとだけ告げ、逃げるようにその場を去った。走りたくなった理由は、まだ母には言わない。いや、誰にも言わない。ひとまず、吹き出る汗を流そうと、早めにお風呂を沸かし、本日の一番風呂を貰うことにした。

 シャワーから与えられる温もりに、心を落ち着かせる。未だに動悸の速さは持続しているが、先程よりは冷静になれた気がした。冷静になって押し寄せる後悔。まだ結果は出ていないのに、悪い未来ばかりを考えてしまう。

「どうしてあんなことを言ってしまったの?」

目の前の彼女が、不安そうな顔で呟く。分かっている。言ってしまった以上、今までのような友達には戻れない。でも、それでも私は、言わない後悔はしたくなかった。高ぶる感情のままに、洗髪剤を乱暴に髪に掻き馴染ませ、豪快にそれを洗い流した。このまま、この湧き上がる不安も、胸躍る期待も、全て流れ落ちてしまえばいいのに。彼女は、相変わらず酷い表情をしていた。とても見ていられるものではなかったので、すぐに視線を外して体を洗い始める。体をこするスポンジにも力が入る。今まで優しく労わってきた自分の体を、ここまで痛めつけて私は何がしたいのだろうか。私の暴挙で赤くなった肌と抜け落ちた髪の毛に心から謝罪をして、彼女と目を合わせることも無く湯船に浸かった。

全身にほどよい熱を感じながら、放課後の出来事を思い返す。言ってしまった。言ってしまったのだ。しまっておけば良かった言葉。でも、しまったまま色褪せさせたくない言葉。あいつの驚いた顔が、目に焼きついている。いつも以上にアホな顔をしていた。そのまま返事をしてくれてもよかったのに。先延ばしなんて卑怯だ。待つ方の身にもなれ。なんて、私以上にあいつは悩んでいるのだろうな。それとも、あっさり答えを出してしまっているだろうか。ぶくぶくと水面に泡を立てながら、あいつの気持ちを想像することしかできないもどかしさを吐き出す。こんな些細な行動でも、心が少し軽くなるのだから、私という生物は実に単純にできているのだなと感心してしまう。考えていても仕方ない。そんなの初めから分かっていた事だ。顔を洗い、気を入れ直して浴槽から出る。ちらっと、もう一度彼女の方を見る。少しはマシな顔になった彼女が、頬を緩ませて口を開く。

「きっと大丈夫。大丈夫。」

気休めの言葉に対して不器用に笑顔を返し、私はお風呂場を出た。


 翌日の夕時。私はやはり、全力疾走で家に帰った。途中で通行人がこちらを怪訝そうに振り返った気がしたが、そんなのはどうでもいい。玄関で呼吸を整えていると、休日だった父親が、心配になったのか様子を見に来た。私は、部活でもっと体力をつけるように言われたから、とテキトーな理由を提示し、父はそれに満足したので、すぐに部屋に向かった。着替えを用意し、お風呂を沸かして、父には申し訳ないが、今日も一番風呂は私のものだ。

 丁寧に労わるように髪を優しく洗いながら、彼女を見つめる。目が合った彼女は、昨日の事など嘘のように生き生きとした眩しい笑顔を見せていた。

「大好き。本当によかった。大好き!」

ポッ、と内側から顔全体に熱が走り、歯痒さに思わず顔を掻く。声が漏れていたのか、母に声をかけられるが、何でもないと、平静を装った。母に話すのはもう少ししてからにしよう。父には…母に話してからでいいかな。

体も優しく丁寧に洗い、浴槽に入る。ふぅ、と一息ついて、私にとっての一大イベントが終わったことを実感する。まだドキドキしている。昨日のそれとは全く別の鼓動。あいつの言葉を思い返す度に、私はまた泣きそうになった。顔をぐしゃぐしゃにした私を抱きしめてくれたあいつ。その優しさに、私はまたダムを決壊させた。鼻と目から溢れた洪水であんたの胸を水浸しにしてごめんね。でも、全て受け止めてくれてありがとう。受け入れてくれて、ありがとう。熱さが引かない自分の温度のせいか、お風呂の温かさはすっかり感じなくなった。体を少し冷やそうと、浴槽を出て、冷水よりに調節したシャワーを浴びる。心地よい冷たさに、熱が少しばかり冷めた。しかし、内側から湧き上がる熱は留まる事を知らず、絶えず、私の胸にその熱さを送り続ける。延々と湧き上がる幸福感から来た、止めようもなく零れる私の小さな笑い声に、彼女も半ば呆れた様子で笑い返した。

「ありがとう。」

自分でも何を言っているのだろうと思いつつも、いつでも私の正直な気持ちを映して、私を励ましてくれる彼女に、一言お礼を告げて、お風呂を後にした。

 今夜はぐっすりと、よく眠れそうだ。

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