その手をいつまでも
桜の花咲く春。大学一年生になった僕は、キャンパスライフデビューに期待と不安を抱きながら、最寄の駅で電車を待っていた。デビュー、とは言ったものの、お世話になる学科の教員、先輩や同期との顔合わせは、入学式の後に催された懇親会で済んでいる。参加の有無は自由なため、欠席者が数人ほどいたが、参加した人たちとは一通り言葉を交わし、少しは親しくなったと自負している。それでも、何かを新たに始める時には、誰しも緊張感を持つように思う。少なくとも僕はその一人だ。構内に音楽が鳴り響き、駅員のアナウンスと共に電車が目の前にやってくる。大都市の主要駅かつ通勤・通学時間帯ということもあり、乗車口の停止位置には利用者が群がり列を成していた。始発駅ではないため、既に人が乗り込んでいる状態の車内にこの大人数が追加で乗り込むわけだ。少しでも良い位置に立てるようにと、早めに家を出てきたのだが、ホームに着いた時には、最前列常連組と思しき何人かで列が作られていた。列の最前にいるからといって座れる保証は無いが、彼らも恐らく最低限掴める場所を確保したいのだろう。ドアが開き、乗客が降りて、替わるように人の群れが車内に流れ込んでいく。席には着けなかったが、何とかつり革を手にすることはできた。案の定、人がどんどん詰め込まれて、人同士の間隔が密になっていく。スーパーの詰め放題セールで乱暴に詰め込まれていく商品の気持ちが分かった気がした。リュックを棚の上に置き、防犯対策をして発車を待つ。目的地までは一時間弱。残り二駅の所で人が大幅に減るというのは事前の調査で分かっている。アナウンスが入り、警鐘が鳴り響く。まもなく発車するようだ。緊張感はいつの間にか抜け、窮屈さと体勢の維持に意識が向く。ドアが閉まり、ゆっくりと電車が走り出した。
息苦しさはあるものの、場の空気に慣れてきた頃、不意に緊張感が僕を襲った。大学関係に対しての緊張感が戻ってきたわけではない。その異常を知らせてきたのは、僕の、つり革を掴んでいない左手だった。恐らく、僕の背中に背中を密着させている人物のものだろう。その人物の右手が、僕の左手をぎゅっと掴んでいた。細い指、僕のものより小さな手、その感触で女性と分かり、一層混乱する。一体何のつもりだ?痴漢の冤罪を作って僕の転落を嘲笑おうとしているのか?それとも人違いをしているのか?様々な憶測が頭の中を駆け巡り、ますます混乱する。とにかく、このままでは駄目だ。下手に相手を刺激しないように手を離そうとして動きを止める。彼女の手は小刻みに震えていた。その振動が僅かながら僕に伝わってきたのだ。不安なのだろうか?それとも痴漢に体を触られて、拒めずにいるのか?彼女の背中は僕の背中にピッタリと付いていて、身じろぐ様子も無かったため、後者は考えにくかった。とにかく、見ず知らずとはいえ女性が震えている。その不安を少しでも取り除けるなら、と気付けば僕は彼女の手を握り返していた。一瞬、彼女の体がピクッと反応した。やはりまずかったか?軽率な行動をしてしまったことに僕は後悔した。が、それもすぐに杞憂だと分かり安心した。力を緩めた僕の手を、彼女が再び握りだしたのである。少し落ち着いたのか、彼女の手は平静を取り戻していた。僕もまた、心に安堵が戻り、彼女の手を優しく握り返した。そのまま、電車は刻々と歩を進めていった。電車に揺られながら手を握り続ける僕と彼女。例の二駅前で人がいなくなるまで、その不思議な状態が続いた。座席がすっかり空いた車内。彼女から手が離され、つられて僕も手を離す。こちらに声を掛けないまま、彼女は反対側の席に座ったようだ。僕も声を掛けられず、黙って目の前の席に腰掛ける。終始、手の方に意識を向けていたせいか、満員電車特有の疲れは無かった。相手に失礼と思ったが、ちらりと彼女の方を見る。大学への道中に見かける高校だかの制服。彼女も降りる場所が同じだと分かった。小柄な体に小動物のような愛らしい顔…いかん、これでは本当に痴漢じゃないか。我に返って慌てて目線を逸らし、沈黙のまま目的地に到着した。ドアが開き、彼女は足早に出ていく。初日から珍妙な体験をしたものだとしみじみ思いながら、僕も忘れ物の確認をして、発車する前に電車から降りた。改札口を抜けて一息つく。これから始まりだというのに、何かを成し遂げた後のような気分だった。実際、成し遂げたといえばそうなのだろうが。珍しい話の種が手に入ったと思うことにして、僕は大学への道を歩き出した。あれは今日限りのイベント、そう思っていたのだが、思っていたのは僕だけだった。
翌朝、昨日と同じ時間に電車に乗る。昨日は気の合う友人が数人でき、グループの輪に入ることもできた。お昼を一緒に食べたり、地元の子に町を案内してもらったりで楽しかった。今日の晩御飯の誘いも受けたのだが、アルバイトが入っていたため断った。代わりに明日行くことになったので楽しみだ。昨日の出来事や今日と明日の予定をあれこれ考えながら発車を待っていると、再び左手を握られた。手の主は、昨日の彼女であることに間違いなかった。今日も震えた手で僕の左手を握り締めてくる。昨日だけかと思っていたので正直驚いたが、拒む理由は特に無く、寧ろこれで彼女の心が落ち着くならと、こちらからも手を握り返した。今日も握り返してくれたことに安心したのか、彼女はもう一度握る手に力を込めた。電車が走り出し、人の波に押されながらも体勢を保ち、こらえる。背中越しの彼女も小さな体を揺らしながら耐えているようだ。その間もずっと、荒れ狂う海の中、離れ離れにならないようにと、繋いだ手を固く握り締めていた。そして、嵐が過ぎると昨日のように二人離れて向かい合わせで座席に着く。そのまま目的地に着き、また言葉を交わさないまま彼女は電車を降りた。僕も次いで電車を降りる。先を歩く彼女の背中を見ながら、僕のようなどうでもいい人間と手を繋ぐ彼女の心情が気になったが、余計な詮索はしない方が良いと判断し、こちらから声を掛けるのはやめようと思った。彼女が冤罪を目論む愉快犯という筋も捨て切れていなかった。それに、見知らぬ女子学生に地味な男が声を掛けるというのがどうにも抵抗感が強かった。世間の目は、僕が想像している以上に厳しいものだと思う。こちらにやましい気持ちが無くても、怪しいと判断されれば通報されたり駅員から声を掛けられたり、とにかく面倒事に発展しかねない。こんな時、自分がイケメンと呼ばれる部類ならすんなり話をできただろうにと、苦笑しながら大学への道を急いだ。もっとも、「ただしイケメンに限る」が現実でまかり通ったという事例は聞いた事もないが。
それからも朝の電車内では、背中合わせに手を繋ぐのが決まりになった。一向に事情説明や彼女からの接触は無かったが、それでも良いと僕は思っていた。彼女に僕を馬鹿にしているような様子は無かったし、寧ろ、自惚れかも知れないが、頼られているように感じて、彼女の為に喜んで手を貸すことにした。僕自身も、講義でプレゼンをする日、緊張が抜けずに困っていた時に、彼女の手のおかげで救われたことが何度かあった。柔らかく、温かい手。いつも繋いでいるおかげか、彼女の手には不思議な安心感があった。僕が緊張していると、それを察してか一番最初の時のように優しく握り返してきてくれる。それだけで、僕の心は穏やかに戻れた。この非日常的な日常が動き出したのは、初めの出会いから三ヶ月近く経ってからだ。
夏休みシーズンに入って、前期の講義が終了した頃、学科内での交流イベントが催されることになり、それに参加するために駅に向かった。平日のいつもよりも遅い時間帯ではあるが、相変わらず電車を待つ人は多かった。数分待ってから電車が入ってきて、それに乗車する。時間が時間で、他の学生も夏休み中のようだったので、当然彼女の姿や気配はなかった。当たり前になっていたことがふと無くなると寂しいものだ。空いた左手を見つめて、やり場のないそれを、空虚を埋めるように握り締めて、目的地到着を待つことにした。客足がなくなって、ようやく座席に着く。対面席に彼女はいない。何を気にしているのかと、苦笑するしかなかった。僕は思っていた以上に彼女の存在が気になっていたのかもしれない。独りよがりだというのは分かっている。それでも、非日常を僕にもたらした彼女は、僕にとって特別な存在のように思えた。だからといって彼女を縛るつもりも追いかけ回すつもりもない。ただ、この不思議と湧き上がる寂しさに戸惑っていた。それだけのこと。ふぅ、とため息をつき、溜まっていた感情を吐き出す。そう、彼女は赤の他人、それ以上でも以下でもない。それだけのこと。自分の心に言い聞かせ、寂しさを紛らわせて降りる準備をする。目的地に到着し、駅に降りると、不意に後ろから声を掛けられた。
「あのっ。」
聞いた事もない少女の声に、最初、自分が呼ばれたのではないと思っていたのだが、左手を掴まれたことで、声の主が彼女だということに気付いた。振り向いた僕の前に立つ彼女は、服装は私服だったが、変わらず可愛らしい出で立ちをしていた。
「お、お久しぶりです。」
一応初対面の相手だというのに、咄嗟に出した自分の言葉に思わず恥ずかしくなる。そんな僕の様子を見て、彼女もまた微笑んでくれた。
彼女に促されて、駅ビルの喫茶店に入る。テキトーに飲み物を頼み、彼女の言葉を待っていると、照れくさそうに話し始めた。
「突然手を握ってしまって、申し訳ありませんでした!高校初めての新学期ということもあって、緊張しちゃって…。」
彼女もまた、僕同様に不安を抱いていたのだろう。少しでも緊張が解れたならよかったと、彼女に笑顔で返した。
「優しいんですね。あの時誤って掴んでしまったのが、あなたの手で良かった。」
僕の手で良かった。あの時、僕以外の誰かの手を握ってしまっていたら、彼女はどうなっていたのだろうか。善良な人間なら良いが、最悪、粘着されて、彼女自身が悲しい思いをしていたかもしれない。
「緊張していたのは分かるけど、見知らぬ人間に無警戒に接触するのは危険だと思わなかったのかい?」
彼女を心配する気持ちからつい声を荒げてしまった。彼女は驚いた様子で俯いてしまう。はっと気付いて慌てて謝ると、彼女はこちらこそと言葉を返してきた。
「確かにその通りですよね…。でも、本当のことを言うと、あなただから私は手を繋いだんですよ。」
彼女の目は真剣だ。僕だから繋いだ?僕と彼女に接点はないはずだ。現に何度も思い出してみたが、彼女との繋がりは見つからなかった。どういうことか分からずに困惑していると、彼女が僕との接点を説明してくれた。
高校時代、隣町の夏祭りに友達とよく出かけた。その夏祭りの時に彼女は僕と出会ったそうだ。当時、彼女は中学生で町に引っ越してきたばかりだったらしい。友達もまだいない頃で、両親と祭りを見て回っていたそうだが、人ごみに揉まれてはぐれてしまったとか。まだ不慣れな土地で、小柄な体ということもあり、両親を見つけられずに不安だったという。そして、探し疲れて神社の階段で一人俯いて泣いていたそうだ。誰も声を掛けてくれる人がいない中、僕が心配して声を掛けたのだという。確かに夏祭りで迷子を助けた覚えは何度かあるが、彼女には申し訳ないのだが、漠然としていて詳しく覚えていなかった。彼女に声を掛けた僕は、彼女の手を握って「大丈夫!」としきりに声を掛けながら、はぐれないように手を強く握って、友達の先導で運営の元に連れていったそうだ。その後、運営スタッフに彼女を預けて、両親が来る前に僕たちは彼女のもとを去ったらしい。この時、彼女は自分を心配してくれて助けてくれた僕の顔を覚えたのだとか。それから、いつかお礼をしたいと思っていたのだが、結局僕と会う機会がなく、今回偶然にも僕と出会えたそうだ。
「それならあの日、一言声を掛けてくれれば良かったのに。」
苦笑しながら最初の日を思い返す。彼女もまた、僕のことを気に掛けていたのか。
「そうできれば良かったのですが、そこでふともし別人だったら失礼かなと思いまして。」
彼女も困った顔で笑う。
「それなら今日は、僕だと確信したから声を掛けてきたってこと?」
彼女は元気に肯定した。
「その通りです!私の家からは隣町ですが、祭りの会場から距離的に無理のない駅での乗りあわせ、毎日のように私のわがままに付き合ってくださるその優しさ、そして私が覚えていたものと全く同じ顔、何より下心がないのが決め手です!」
こうして僕は名探偵に事情聴取を受けることになったわけか。それにしても…
「下心ってどこで判断したんだ?」
「それは…体の方に手を回してこなかったとか、連絡先を聞いてこなかったとか?」
おどけるように話して笑う彼女につられて、僕も思わず笑ってしまった。最初の印象では大人しそうなイメージだったのだが、その実は気さくで明るい子だっだ。
それから、予定の時間になるまで彼女と雑談を交わし、大いに盛り上がった。店を出ると、彼女は不安そうに聞いてきた。
「あの、もし宜しければですが…」
言いたい事は大体察しがついている。だからこそ、今日という日を踏まえて、彼女との関係を進めても良いのではないだろうか。僕は、彼女の言葉を途中で遮って、一つの提案をした。
「座席に座ってからは話をしよう。もう赤の他人ではなく、友達同士なのだから。」
笑顔で彼女に握手を求めると、彼女も同様に握り返してくれた。
「下心は抜きでお願いします!」
悪戯っぽく付け加える彼女の言葉に、また二人で笑い合った。
別れ際に繋いだ彼女の手は、今までで一番温かく感じた。
彼女との関係が続いて三年、電車に乗り込む僕の横には彼女が並んで立っていた。あれから色々な事があったが、今でも電車での契りは続いている。彼女は今年から大学デビュー。進路に沿った学部があるようで、僕と同じ大学に進学した。親に内緒にしているらしいが、進学理由半分のもう半分は僕がいるかららしい。嬉しいことをいってくれると、打ち明けてくれた時彼女をからかったが、また何か手助けできればと思っている。そんな訳で、彼女とこうして並んで通学できるようになったわけだ。新しい環境の始まりということもあり、彼女は酷く緊張していた。何度も上を見上げたり深呼吸したり、どうやら彼女は僕以上に神経質な所があるらしい。震える彼女の手を優しく握る。僕の存在を忘れていた彼女は我に返り、心落ち着いたのか、笑顔を見せてくれた。握り返す彼女の体温に、僕も安らぎを覚えていた。
これからも、彼女との関係は続いていくだろう。大学を卒業しても、結婚しても、年を取っても。これからも、彼女の手を離さずに共に歩んでいきたい。今ではそれが僕の夢の一つであり、目標の一つでもある。なので、しばらくして彼女が大学生活に慣れて落ち着いてから、僕は彼女に告白しようと思う。彼女の答え次第ではどうなるか分からないが、少なくとも僕はこの思いを彼女に伝えたい。興味から始まり、どんどん僕の中で大きくなっていった彼女の存在。繋いだ手の感触だけでは伝えられないものもある。大学に向かう途中、そんな先の話を考えていた僕は、意識せずに握られた手に力を入れていた。突然の反応に彼女は僕の顔を覗き込む。それに気付いた僕は、慌ててテキトーな理由で取り繕ったが、彼女は何かを察したように、ふーんと頬を緩ませて、うんうん頷き始めた。どうやら手の感触でも伝わるものは伝わるようだ。繋いだ手がじんわりと湿ってくる。
使い方は違うが、手に汗握るとはよく言ったものだ。
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