当たり前が難しい

 太郎はしかめっ面で、居間のテーブルに肘をついて座っていた。そこに、学校から帰ってきた姉の花子がやってきた。不機嫌そうな弟の顔に、何かあったのだろうかと、弟の分のジュースを持ってきて、事情を聞くことにした。

「学校で何かあったの?」

普段から自分に優しい姉にならば話してもいい、と太郎は重い口を開き、今日の出来事について話し始めた。


 その日、給食後の昼休みが始まり、クラスメート数人と校庭へ遊びに行こうとしていた太郎。友達の後を追って昇降口に向かおうとしていたところで、教室の廊下でクラスメートの一郎が、別のクラスの彼の友達と話をしているのが見えた。その時、教室の廊下には、図工の時間にクラスの皆が作った粘土造形作品が展示されていた。その中には当然太郎の作品も置いてあり、丁度一郎たちが立っている場所の目の前にあった。会話に割って入るのも悪いと思い、一郎たちの後ろを通り過ぎようとした太郎。そこで、問題の種を耳に入れてしまった。

「ほんと下手糞すぎるよなこれ!センスを疑うわ!」

通り過ぎて、ちらりと一郎たちの方に目をやる太郎。間違いなく自分の作品の方を見て笑っている。太郎の中で、燃えたぎるような怒りと黒い憎しみの感情が湧き上がる。確かに不出来な部分はあると、太郎は自覚していた。しかし、図工の先生でも芸術家でもない他人に、人の作品をどうこう言われる筋合いは無い、と理不尽な評価、そして太郎本人がいないところでの陰口に憤慨した。ただ、正面から文句を言ったのでは、二対一でこちらが不利だと判断し、またこちらも陰で仕返しをする方がよいと、その時は煮えたぎる感情を抑えて、校庭で待つ友達の下へと向かった。

昼休みが終わり、午後の授業は体育だった。女子は別の教室に着替えに行ってしまうため、教室は男子が着替えに使用する。昼休みを挟んでいたおかげで、忘れ物を取りに行く振りをして教室に戻った時には、中に誰もいなかった。これは好都合と、太郎は一郎の机に近付き、机の中の物を全て足元に全部落とし、達成感と高揚感を抱えて授業に向かった。

授業が終わり、太郎が友達と教室に戻ってみると、先に戻ってきていた一郎が黙々と床に散らばった私物を机の中に戻していた。太郎は心の中で、ざまあみろ、とほくそ笑み、素知らぬ顔で自分の席に戻っていった。と、それに気付いた一郎が太郎に近付いてきた。険しい表情から、一郎が、太郎に怒りの感情を抱いていることはすぐに分かった。

「太郎、どういうつもりだよ?人の机の中、ひっくり返しやがって!三郎が教えてくれたんだ。とぼけても無駄だからな!」

三郎は、足を捻挫していて体育の時間は見学だった。授業で使うプリントを取りに来た時に、太郎が机を荒らすのを目撃していた。目撃者もおり、周囲のみんなの視線も痛い。太郎は、観念して一郎に謝った。

「ごめん。机を荒らしたのは悪かった。でも、悪いのはお前もだよ!人の作品に陰でケチつけて…だから俺は頭に来て!悪かったとは思うけど、そもそもお前があんなことを言わなければこういうことするつもりもなかったんだよ!だから…」

「もういいよ。」

太郎の謝罪も虚しく、一郎は半ば呆れて席に戻っていった。周りで見ていたクラスメートたちも、それを合図にその場を去った。悪いのは自分だけではないのに、せっかく謝ったのに、太郎は心にモヤモヤを抱えて渋々着替えた。

その後、一郎が先生に言わなかったこともあって、この一件は大きくならずに済んだが、太郎と一郎は、帰りの会までずっと顔を合わせることも言葉を交わすことも無かった。帰りに、帰宅仲間の次郎から、

「もう一度ちゃんと謝った方がいいんじゃない?」

と仲直りを促されたが、

「お前も一郎の肩を持つのかよ!裏切り者!」

と、次郎に罵声を浴びせて、太郎は一人駆け足で家に帰っていった。そして今に至るという。


 太郎の話を一通り聞いた花子は、精神的に追い詰められているであろう弟に優しく諭し始めた。

「一郎君が陰口をしていたのが事実なら、確かに一郎君が悪いね。でもね、だからって太郎まで悪いことをしちゃったら、誰も太郎に賛同してくれないよ?」

「それはそうだけど…何もしないままだと、舐められてるみたいで嫌じゃん!それに俺、謝ったし。」

それだけど、と花子は太郎のもう一つの失敗について指摘した。

「太郎の謝り方、自分でどう思う?ちゃんとできたと思う?」

当然ベストを尽くしたと、首を縦に振る太郎。花子は、続けて質問する。

「じゃあ、立場が逆になったとして、太郎が一郎君に謝ってもらったとするよ。一郎君が、太郎の机を荒らしたことを謝る一方で、そもそもの原因は太郎で自分は悪くない、と言い張ったら太郎はどう思う?ちゃんと謝罪しているように思える?」

想像してみて、太郎は黙って俯いた。良い気持ちはしなかった。された方は、見苦しく自己弁護しているだけにしか聞こえなかった。一郎が、もういい、と言った気持ちが分かった気がした。口をつぐんだ弟に、花子が続ける。

「それから、次郎君の事、裏切りじゃなくて、二人が仲直りしてくれると良いなっていう次郎君の優しさじゃないかな。もし太郎じゃなくて一郎君と一緒に帰った場合でも、同じように一郎君に言ったと思うよ?次郎君は優しいから。」

俯いて聞いていた太郎は、自分の情けなさと次郎への申し訳なさで涙を流した。太郎の頭を撫でて、花子は次郎の提案を繰り返した。

「もう一度、一郎君に、あと次郎君にも謝ろう。二人とも待っていると思うよ。」

しかし、顔をぐちゃぐちゃにしながら、太郎は首を横に振る。

「もう、もう遅いよ…。許して、くれないよ…。」

今日最後に見た一郎の顔、去り際の次郎の寂しそうな顔、思い出すたびに、太郎の心は締め付けられた。むせ返る太郎の背中をさすって、花子は弟を宥めた。

「謝るのに遅すぎるなんてことはないよ。許してもらえるかは別だけど、相手はきっと太郎の言葉を待っている。ちゃんと謝罪の意を伝えることで、相手も、何より太郎自身もモヤモヤが晴れるんじゃないかな。」

目の周りが赤くなるほどに泣きはらした太郎は、落ち着いてから、二人に謝ることを姉と約束した。


 翌日、教室に入り、次郎を呼んで、一郎の前に集まった太郎。無言で睨む一郎に、震えながらも太郎は口を開いた。

「昨日は本当にごめん!あれから家に帰って色々考えた。俺が悪かった!許してもらえないかもしれない。でも、机を荒らしたこと、ちゃんと謝りたいんだ。本当に、本当にごめんなさい!」

誠心誠意、一郎に謝罪する太郎。一郎は、思わぬ謝罪に呆気に取られていた。一郎の言葉を待たずに、太郎は次郎に向き直る。

「次郎も昨日はごめん!せっかく、俺のために言ってくれていたのに、裏切り者とか色々酷いこといって悪かった!」

まさか自分も謝られるとは思っていなかったのか、次郎は謝罪を受けて、別に気にしてないよ、と笑顔を見せてくれた。黙っていた一郎も、二人のやり取りを見て口を開いた。

「お前の気持ちは伝わったよ。俺も許す!ただ、気になっている事があるから、それについて詳しく聞かせてくれ。」

一郎の言葉に、笑顔で感謝を述べた太郎は、一郎が気になっていた、事の発端を詳しく説明した。すると、一郎は苦笑いしながら、二人を廊下に連れて行き、展示物の太郎の作品の前に立った。そこを見ると、太郎の作品の後ろに、一郎の作品が置いてあった。

「これ酷いだろ?俺の作品なんだぜ。センス疑うだろ?」

一郎が話していたのは、自分の作品についてだった。丁度登校してきた、別のクラスの友人の証言もあり、太郎の誤解は解け、完全に太郎の早とちりだったことが分かり、太郎は恥ずかしくなった。誤解を与えるような言い方をした自分も悪かった、と一郎と友人も謝ってくれた。

 自分で正しいと思ったことでも、端から見たらおかしいことがある。相手の気持ちになって言葉を紡ぐことは大切だ。また、自分の意見を過信し過ぎて盲目にならずに、周囲の意見も良く聞いて、先走らずに落ち着いて対応することも必要だ。自分にとって煩わしいと感じる言葉にも、その人を思って発信された言葉はある。謝罪が必要になるような過ちを犯す前に、あらゆる手段を考えて、対象と意思疎通を取り合うことが何より大事であろう。問題が起こらずに済むに越したこと無い。

 当たり前の事も、単純に見えて実は難しい。その難しさを乗り越えるからこそ、相手に気持ちを深く伝えられるのではなかろうか。

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