茉莉花(ジャスミン)

吾妻栄子

茉莉花(ジャスミン)

「熱いので、お気を付けください」


店員の声に形ばかり頷いて、私はそろそろとカップを窓際の席に運ぶ。

こぼさずに移動する要領は得たが、卓上に置くまでいつも緊張する。

音を立てないようにそっとカップを置くと、側のガラス戸にぱっと霧がかかった。


外ではとうとう雨が降り出したらしい。

私はおろしたばかりのスカートに皺が寄らないよう注意して椅子に腰掛けた。

香り立つ湯気が顔を包む。


この空白の一年で、私は何杯のジャスミンティーを口にしただろう。

花にすれば、何本の茉莉花を飲み込んだのだろうか。

生きた花としては一度も愛でたことのないジャスミンの花を。



「ジャスミン茶は昔、中国の娼妓が好んで飲んだらしい」

あの人は言った。

「飲むと息が花の香りになるから」と。

去年の今頃、彼が私の向かいでそう語ったのだ。


今、私の正面には誰もいない。

立ち上る湯気を私は大きく吹いてまた吸い込む。

自分の息の匂いなど、自分では分からない。


雨が強くなってくる。


一年前のあの日、初めてこの店に入った時も、小雨がぱらついていた。

映画の帰りで、半ば雨宿りに入ったようなものだった。


その日観た映画については、チャイナドレスを艶やかにまとった

美しい女優の姿しか覚えていない。

彼の目が画面の女を夢中で追う様子を私は穏やかでない気持ちで眺めていた。


何度か土曜に二人で出かけたが、彼の口から私を好きだという言葉は出ていない。


初めての店で、私がジャスミンティーを注文したのも、

単に中国映画を観た帰りだから、コーヒーよりお茶の方が似合いそうだと

場当たり的に判断したからだ。

それまではろくに飲んだこともなかった。


なかなか飲める温度まで冷めないお茶をせわしく吹き続ける私に、

彼はそんな話をしたのだ。

私はたじろいだ。

何かを誤解されたまま、また別の何かを見抜かれた気がした。


それで、カップの取っ手を握り締めたまま話をそらした。

「今日の映画、面白かったね」

彼は笑って頷いた。

「向こうに行く前に見られて良かったよ」


小雨が小雨のまま止んで店を出る頃には、花の香りどころではなく、

しょっぱい味だけが喉の奥にこびりついていた。



「茉莉花」と書いて、中国語で「モー・リー・ホア」と読む。

教えてくれたのは、彼ではなく先生だ。


「あなたも最近は熱心になりましたね」

「ええ」


返事もそこそこに、私はガラスポットの蜜色の湯の中で揺らめく

白とオレンジの花びらに目を注いでいた。

どうして今になって中国語に力を入れ出したのか、と続けて問われたくなかった。


「これは、菊花茶(きっかちゃ)ですか」

菊にしてはあえかな花だと思いつつ、当てずっぽうに私は尋ねた。


「ジャスミンですよ」

その発音では通じません、と告げる時と同じ微笑で

先生はポットの湯を茶碗に注ぐと、こちらに差し出した。


「中国語だと、ジャスミンティーはモー・リー・ホア・チャーと言いますけれど」


マツリカ、ジャスミン、モー・リー・ホア。他にどんな呼び方があるかは知らない。



通りの車が水を跳ねながら走り去る音がガラスを隔てて聞こえてくる。


三日前の水曜、帰国したと彼からメールが届いた。


ごくよそ行きの、他の友達に全く同じ文章を個別に送っていたとしても

全く不思議はないような文面だった。


彼は所詮、私のことなど視野に入れていないのだ。

私が期待するほど大きくは。


それに、私は彼の留学中に一度書き送っただけだ。

「土曜の午後は、いつもあの店でジャスミンティーを飲むようになりました」と。

来てください、と直接誘ったわけではない。


彼からは、

「こちらでも茉莉花茶をよく飲むよ」

とだけ返ってきた。


現地で本物を散々楽しんだ後に、

帰ってからわざわざ安物を飲みたいわけがなかろう。

考えるうちに飲み干したはずのジャスミンの香りがどんどんこみ上げてきた。


雨が路地をたたく音が耳内で大きくなる。


もう、帰ろう。

カップから顔を上げた瞬間、虫眼鏡で何かを覗いたような感覚が目を襲った。


「やっと気付いたね」

一年振りに聞く笑い声が耳に響く。

「僕も同じのを頼むよ」


声と同時にテーブルに置かれた、鮮やかな白い花の香りが私を包む。

(了)

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茉莉花(ジャスミン) 吾妻栄子 @gaoqiao412

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