ハイペリオン (8)




〈ミノス・ホール〉の陪審員評議室は、陪審員席のすぐ裏手にある。


一時休廷の報せが舞い込んで間もなく、ぞろぞろと出てくる陪審員を案内し終えたアリーナ・フェイスフルに、上司のリヴァース・シャロンが胸に一物ありげな難しい顔で近付いてくる。


「まったく。今日の顔触れはいつもと違うな」


アリーナは石膏のような顔を微動だにせず、


「あら、そうですか? 私にはいつもと同じ、国の一パーセント――いや〇・一パーセントの上澄みを代表する、多種多様な顔触れのように思えますけれど――正義を、物見遊山の肴にするような」


「そこは言わずもがな。その大前提が崩壊したら、〈公正なる七人の陪審員〉は意義を失う――でもけっして平均化された、凡庸な有力者セレブの集まりではないよ、今回は。ヘリアの、ヘリア人主体のヘリアの平穏と秩序を護るための催しとしては、いささか尖り過ぎている七人だ。まずレナード・ヘル――ヤツは大物過ぎる。七人の中でも力量差が明白で、貴族のティーパーティーに国王が紛れ込んでいるような事態だ。幸いにして彼は司法を私物化しようという輩ではないから、ひとまずは安心だが――それが余計に薄気味悪い」


アリーナは頷いた。


確かにヘルはあの七人の中で最も異彩を放ち、存在感のある大人物なのだが、どこかその派手さは陽炎かげろうのように移ろいでいる。最も読みにくく、最も食えない男。それが最も高み――あるいは地獄の最も深いところにいるのだから、孤高そのものだ。


「過去には確かに、一部の陪審員が他のメンバーに必要以上に影響力を行使して、黒い噂が巷に流れたりしましたけれど。ミスター・ヘルに限って、そのような抜かりあることはしないでしょう」


「それはその通りだ。彼はとても賢いから――いや儂が気になっているのは、その横の女――ただ一人の無名者ダークホースだよ」


「ダークホース? ああ、ミス・サマンサ・ジャストのことですね。どこか地方の学園長をしていらっしゃるという」


「そうだ。彼女も馬鹿じゃない。むしろヘル以上に、知性がギラギラと瞳からたぎり落ちている。極めて社交的で無害な淑女レディの立ち振る舞いでオブラートに包んではいるが、どう考えてもただ興味本位で人の生き死にを判断しに来るタイプじゃない――それに儂は見たのだ」


「――何をです」


アリーナは、普段は冷静沈着この上ないシャロンが、不適切なまでに詮索好き染みている事実に興味を覚えつつ言った。バックスの離脱後、アリーナは自分が自分でないような瞬間ときを過ごすことがままある。もしかしたらシャロンも、同様なのかもしれない。


シャロンは思い入れたっぷりに声を潜め、一語一語ハッキリと区切るように発音した。


彼女ジャストが、バージット・ゲーブル=テンペとすれ違うところをだ」


「何を言い出すかと思えば」


アリーナは眉を高々と揚げた。


「それはすれ違うことぐらいあるでしょう――この〈ミノス・ホール〉の陪審員席と証人席は、皆広間の大階段から一本で繋がっているのですから」


「いや、そういう意味ではない」


シャロンは頑なに頭を振った。


「テンペとすれ違い、それでいてヤツにギョッとすることなく、チラリと一瞥しただけで顔色一つ変えずに通り過ぎた」


「そりゃ赤の他人同士でしたら、いちいち顔見て驚いたり怖れたりはしないでしょう。第一、テンペ課長の見た目のおぞましさは、中身ほどじゃありませんよ」


「いや、違う」


シャロンは尚も言い募った。


「ミス・ジャストがそういう振舞いをしただけなら、そういう性質なのだろうということで納得も行く――何せ、儂は彼女の事を何一つ知らんのだからな。だがテンペに関しては違う。ヤツは、ジャスト女史を知っている。それでいて知らんぷりをして、至って何気ない顔をして通り過ぎた。根拠はない――これは、長年警察の厄介になっている常習犯と接する際と根底を同じとする、捜査員の勘だ」


「『勘』ねぇ――」


アリーナは一理あるとは思いつつも、まだ承服しかねる様子だった。


「それは私も、未熟な保安官生活の中でそうした勘というものの神聖さを認めるところではありますし、あなたのような熟練の保安官ともなれば、その精度もよっぽど優れたものだということは重々承知なのですが――」


「『ですが』?」


アリーナはほんの少しばかり頬を綻ばせて、


「いえ、どうして私の周りには摩訶不思議な第六感に魅入られた人間ばかり集まるのか、とね。部長もあんなに手を焼いていたバックスとそっくり――『同じ穴のむじな』、『類は友を呼ぶ』ということかしら」


「『朱に交われば赤くなる』とも言うな」


「私も同罪の謗りは免れないようですね――アッ」


何の気なしに空っぽの陪審員席から、聴衆犇めく下界を見下ろしていたアリーナが、不意に小さな驚きの声を上げた。


「どうした」


今度はシャロンが、厳しくも気遣うような調子で問い掛ける。


一瞬硬直した面持ちをしていたアリーナは、すぐに頭をふるふると振って、


「いえ――何でもありません。ふとバックスに似た人影を見たような気がして――」


「そんな馬鹿な。あのバカは、いよいよ病院のベッドを抜け出して、こんなところをうろつくまでの問題児に成り果てたのか?」


「いえ、気の所為でしょう――ええ、気の所為」


そう自分に言い聞かせるアリーナだったが、確かにその白濁したまなこは杖にすがる相棒の姿を捉えており、それが例え気の迷い、あるいは幻覚の類だったとしても、その胸にざわざわとした不穏のさざなみもたらしていることに変わりはなかった。


――まったく、本当に人騒がせな。



アリーナ・フェイスフルは、堪らず不安だった。




     * * *




〈ミノス・ホール〉二階の柱の陰では、一組の男女が額を突き合わせて密談に勤しんでいた。


とはいえ、別に愛を囁き合っているのではない。


こと司法の聖地においてそうした色恋はご法度とされ、人は清く正しく、男でも女でもない風に振る舞うことを余儀なくされている。『この門を潜る者、希望を棄てよ』――そうした厳粛な大門の内側では、自ずと行儀が良くなるものだ。


「いったい何の真似だ、ダフォード」


女――バージット・ゲーブル=テンペが、苛立ちも顕に詰め寄った。手綱のような鎖が、臼歯の間で悲鳴を上げている。


対する男――トリストラム・ダフォード医師は完全に怖気づいた形で、まるで喉元にナイフを突きつけられているかのように身を反らしていた。


テンペは、ダフォードのネクタイを軽く引き寄せながら続けた。


「貴様の挙動不審は今に始まったことじゃない。貴様はどうしようもないヤク中で、セックス依存症で、その動脈の一滴一滴に余すことなく毒が回っていることは、この私がよォく知っている。そうじゃなきゃ、部署うちの不潔極まりない雑用しごとは、到底任せられんからな――まさに適材適所というヤツだ。だがどうした、今日は? 物には限度というものがあるぞ、ダフォード――貴様がその崩壊した個性パーソナリティを発揮するのは、自宅か、総スカンされている職場か、娼婦とヤク入りタバコの転がっているベッドの上だけだと思っていたんだがね。いつから最高裁にまでそれを持ち込むようになった?」


ゲーブル=テンペの言う通りだった。ダフォードの衣服は永年アイロン掛けとは無縁の薄汚れたツイードで、顔には動揺と緊張のせいか斑点が浮かんでいる。襟ぐりは灰色と黄色のグラデーションで、あろうことかズボンの真ん中には緩くなってきた膀胱を諸に表す染みが浮かんでいた。そして何よりテンペが気に食わないのは――ダフォードはテンペを怖れていた。コソコソと、何かを包み隠すように視線が宙を彷徨さまよっている。


「べ、べ、別に」


咄嗟にそう口走ったダフォードだったが、見る見るうちにテンペの眼に残忍な光が宿るのを見て取って、慌てて言い直した。


「イ、イヤ、ほ、報告しようとは思っていたのですが、に、任務の最中でしたし、機会を失っていたというか、何というか――」


しどろもどろなダフォードに対して、テンペは癇癪玉を破裂させた。


「いい加減にしろ、ダフォード! 貴様の目の前にいるのがいったい誰だと思っている? そんな稚拙な態度じゃ、世の親馬鹿な母親だって騙されはせんぞ。言ってみろ――いったい貴様は、何のヘマをやらかした?」


「わ、私の所為じゃありません!」


ダフォードは叫んだ。


「馬鹿な警察病院の、無能な看護婦と寝てばかりいる守衛の所為です! そして何より、あの半死人――」


「半死人? デュラント・バックスのことか?」


「そうです、バックスです。畜生め。あの半焼けの継ぎぎは、あろうことか夜中の内に病室を抜け出して――」


「なんだと!」


バージット・ゲーブル=テンペは吠えた。ダフォードはビクンと身を竦め、やがて小刻みに震え始めた。


「昨夜最後に見た時は一切異常がなかったんです。窓は頭がやっと通るほどにしか開かないよう固定してありましたし、外側から鍵も掛けました。面会時間ギリギリで、それ以降は外部の人間は何人たりとも立ち入ることはできません。それなのに――ああ、畜生! 神よ!」


「畜生は貴様だ! 神と同列に並べるな!」


再度吠えたテンペだったが、すぐに落ち着きを取り戻し、その焼け爛れた右手をさすりながら冷静な知略を張り巡らせた。テンペは八つ当たりも粛清も大好きだったが、成すべきことの優先順位ヒエラルキーはきちんと弁えていた――


「過ぎたことへの追及はひとまず後回しだ。考えようによっては、アイツがそれだけ有能な保安官であったことの裏返しかもしれんしな。問題は『どこへ向かったか』、だ――同僚がいて、自分を半身不随の目に至らしめた仇敵がいて、その裁きが粛々と執り行わている場所――そうだ、ここに決まっている!」


すぐさま傘下の陣営に指示を下さんべく立ち去ろうとするテンペに、ダフォードは縋るようにして言った。


「あ、あの、私は――」


「貴様は無能だ、ダフォード。貴様は、当初与えられた使命だけ精一杯こなせるようにしておけば良い」


人の行き交う回廊を前にして、腰元の得物をまさぐって士気を高めようとしたテンペは、その不在に気が付いた。


〈ミノス・ホール〉において、当直の警備員以外の武装は固く禁じられている。


――これはいよいよ、不測の事態に備えて公安課の特例措置を議会に通させばならんな――


日進月歩。


着々と法治国家においての優位性を盤石のものとしつつあるバージット・ゲーブル=テンペは、胸を高鳴らせながら雑踏へと消えて行った。



そんな後姿を目で追いながら、ダフォードはびっしょりと濡れた額を拭っていた。




     * * *




陪審員審議室では、銘々が好みの飲み物や嗜好品(タバコ等)を楽しみながら質問ならびに評議結果を練り上げていた。


レナード・ヘルは退屈していて、まるで自社の役員会議のようだと思っていた。無能たちがしきりに意見交換を行い、愚にも付かない議論で盛り上がっている。


ヘル氏は冷静で即物主義な性質だったから、裁判の矛盾点あるいは抜かりを簡潔な一文で指し示すに留めていた。人を裁けるのは人だけだとしたら、その裁きは切れの良い『粋』なものに限る。彼は世を捉えるのは自分自身の主観のみであることを鑑みて、自分の尺度からの見解を率直に伝えることを至上としていた。


この愚者の集まりにおいて、あまりよく知らないミス・サマンサ・ジャストだけは興味を惹くに値する人間だと目していた。


――派手な翡翠色のブレスレット。それだけでも趣味が良い。


それはミス・ジャストも同様で、ゆえに二人は審議ではほぼだんまりを決め込み、学校の生徒のようにメモ書きを行き来させることで暇を凌いでいた。


最初のミス・ジャストからの手紙は、以下のようなものだった――


『ヘスター・アッシャーは、黒だと思いますか、白だと思いますか。裁判の公正性は、どうお考えになりますか』


それに対するヘル氏の返信。


『黒。しかし検察側の主張には、火元と殺意の点で矛盾が生じている』


それを見たサマンサ・ジャストは、ちょっと驚いた顔をしたものの、すぐさま好戦的で魅力的チャーミングな笑みを漏らした。自分の目に狂いはなく、ヘルこそが唯一にして最上の話し相手であることを再確認しているかのようだった。


『同意です。もし仮にヘスター・アッシャーが継母の殺害目的で火事を起こしたのだとしたら、隣の書庫に立て籠もるのはおかしい。自分の寝室に戻るという、この上なく尤もらしい言い訳ができるのですから。私だったらそうします』


そして思い出したかのように、殴り書きでこう付記してあった――


『それにヘスターの確保場所ですね』


ヘルは、ジャスト女史にだけ見えるように頷いた。


『書庫で火遊びをしていたのだとしたら、自ずと火元は書庫だということになる。救出されたヘスターは書庫にいた。だとしたら、彼女が無傷で継母が焼け死ぬというのは、いささか奇妙ではないだろうか』


ジャストは肩を竦めた。


『火の神は、我々が思っている以上に気まぐれなのでしょう。偶然は必然。詮索しても、栓なきこと』


――『栓なきこと』。


それは簡潔にして強烈な議論の終止符だった。


こと法廷において、精査されるべきは人為の齎す明白な事実のみだけであって、運命の悪戯までを加味する訳にはいかない。人は人を裁けるが、自然は断じられないのだから――ミス・ジャストもヘル氏もそれを弁え、あとは為るがままに身を任せる必要性を知っていた。



評議はつつがなく進み、やがて辿り着いた結論は――はたして。




     * * *




〈ミノス・ホール〉からほんの少しばかり南。


大通り沿いの軽食屋インビスの前に、一台の自家用空艇が止まっていた。もっぱら軍事用、政府機関用あるいは〈地獄火連盟ヘルファイア・ユニオン〉の物と目されている高価な火翔石ヴェスタイト機関だったが、ごく僅かに一般化もされている。しかしまだまだ高すぎる嗜好品という粋を達しておらず、それが路上に降り立つや否や、軽く人垣ができた。


助手席から出てきた大柄な女性は、ベタベタと触ろうと群がってくる子供たちを、軽く片手でいなしながら言った。


「ああ、後生だから早くしてくれ、アナイス。あまり時間がない。我々は仕事中だということを判っているのか」


当のアナイス・ヴェンドラミンは、大柄な女性――アイラ・ドレイク陸軍大尉の悲痛な叫びには涼しい顔だった。目の前では、無骨そうな肉屋の店主が分厚いローストビーフを裂いている。ここは王都でも有名な肉の卸問屋直営のサンドイッチ屋なのだが、場所代の高い土地柄の例に違わず、〈地獄火ヘルファイア〉の息が掛かっていた。


――美味しければ、なんだっていいじゃない。


肉を美味しく焙れるのなら、天のかまどの火も地獄の業火も大差ないと、アナイスは軽く舌なめずりしながら思っていた。


「モチのロン。でも、『腹が減っては戦は出来ぬ』。第一、運転するのはわたくしなのよ、アイラ。わたくしに燃料フュールがなければ、仕事は運ばない」


「よく言う。杖突いて、そんな動きにくそうな身体して――そもそもあんなに朝飯を食べただろう? その細い図体のいったいどこに消えてしまうと言うんだ、食べ物は」


そう言って、アイラ・ドレイクは自分の逞しい肉体と、アナイスのポキリと折れてしまいそうな華奢な姿を見比べた。まったく、どこからどこまでも対照的な二人だった。


「まあまあ、アイラ。わたくしはね、近々また王都を離れて、リムニの排ガスや煤に塗れた古巣や、プルトンの労働者の気化した汗水が充満する空間に身を投じることになるのよ。その前に、ほんの少しばかり美味しいもの食べて、優雅な気分を満喫するひと時があっても、罰は当たらないと思うの――あなたもよ、アイラ。セントザヴィエのじめじめとした沼地じゃ、碌なものを食べていないのでしょう――ほら」


店主からローストビーフのサンドイッチを二つ受け取ったアナイスは、コツコツと石畳を鳴らしながら車の方へ戻ってきて手渡した。


見かけによらず小食なドレイク大尉は、それを丁寧に紙に包むと、


「これは私の昼飯だ。後で頂くとするよ」


「そう? 出来立てが美味しいのに」


そう言ってサンドイッチに被りつこうとするアナイスの尻を、大尉は軽く小突いた。


「ブランチは後だ、アナイス。さっさと車に乗り込んで、定位置まで向かおう。待ち時間にでも、摘んでいればいいさ」


「ハァイ」


アナイスは不承不承のていだったが、大人しく自分の黒塗りの火翔石動力の車に乗り込むと、その柳のような指先でしっかりとハンドルを握った。


「では、兵糧も仕入れたし、聖戦へと向かうとしましょうか――レッツらゴー!」


すると車の後部から銀色の粉塵が勢いよく排出され、子供たちが蜘蛛の子を散らしたかのように逃げ出して行く。鉄の車体はゆっくりと宙を舞い、見る見るうちに高度を上げて行く。



目指すは北。


天辺にヘリアの王国旗を掲げる、あの厳めしくも美しい司法の城――〈ミノス・ホール〉の方角へと、鉄の天馬は駆けて行った。



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地獄火連盟《ヘルズ・バンクエット》 岩橋のり輔 @nor_iwahashi

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