そして彼らは未来を願う

 二階から一階に降りるのは、ほんの一瞬だった。

 庭に降り立ち解放された乙木は、視界に入ったものを見咎めて息を止め。

 愕然と、背後の幽月邸を見上げる。



「ごめん、乙木ちゃん。きっとここは乙木ちゃんにとって、凄く大事な場所なんだろうってことは分かる。

 けど、全ての呪縛を解き放つには、もうこれしかない」



 幽月邸が燃え上がる。

 古びた木造の洋館はあっけなく火柱を立て、炎はあっという間に館全体を飲み込もうとしていた。

 乙木の部屋も、応接間も、シャンデリアが灯らずとも今や昼間のように明るい。元より朽ちかけたような木造の建物である。全てが燃え落ちてしまうのに、そう時間はかからないだろう。


 呆然と為す術なくその有様を見守りながら、乙木はうわ言のように呟いた。


「どうして。……どうして、なの?」

「……言い忘れてたねぇ、乙木ちゃん。乙木ちゃんや深月ちゃんと同じように、俺も魔法遣い、なんだ。……そしてね」


 久路人は苦々しい笑みを浮かべ、抑揚のない声で言った。



「血の魔法を使うような魔法遣いは、



 タイを緩めた襟元から、久路人の首筋がちらりと見える。

 そこにあったのは、まるで首輪のようにぴたりと巻き付いたチョーカー。

 それが何を意味するものなのか、乙木は知らない。だが、彼の言葉と表情とを総合して趣旨を悟り、彼女は何も言えずに押し黙った。


「最終的に、俺たちはこの幽月邸を燃やすように言われてた。俺が今ここにいるのは、全てそう命令されたからだ。俺たちはそれに逆らえない。

 ……けど。機関に行った先でどうなるか分かっていて、それでも今ここで乙木ちゃんに話してるのは、命令だからじゃないよ」


 久路人はその背に赤い翼を背負ったまま。

 乙木へ、まるで独り言のように語りかける。



「まだ、乙木ちゃんには家族がいる。……家族だからって絶対に仲良くしなきゃならないって訳じゃない。けど、深月ちゃんは悪い奴じゃないよ。

 幸せになるのはしばらく難しくても、きっと最後まで不幸せにはなれない。

 乙木ちゃんは、一人じゃない」



 乙木は彼の言葉に黙り込み。

 ただ、燃えさかる幽月邸を見つめた。



+++++



 残された深月と、篠宮の身体をしたその人物は、一対一で対峙していた。

 乙木たちが確かに庭に避難したことを見届け。

 静かに、深月は語りかける。





 ぴくりと、会話の相手は身じろぎする。意外な言葉に、虚を突かれたようであった。

 その反応を見越していたかのように、深月は何食わぬ顔で告げる。


「ここから乙木を連れ出すのを、許してもらえませんか」

『……あら。何故、私だって分かったの? 深月くん』


 鷹揚な口振りで、篠宮……否、十和子は尋ねた。

 そこに、先程までの緊迫感は感じられない。


 がらりと炎で崩れ落ちた壁を横目に、深月は至って冷静に続けた。


「乙木の魔力は『記憶の再現』です。けれど、そうだとしても一つだけ説明できないことがあるんですよ。

 いくら乙木の魔力が強かろうと、


 応接間での夜会に、乙木はいない。

 仮に乙木が応接間に居たとすれば、廊下で母と会話した時のようにもう少し不自然さを感じられたはずだ。

 直前に十和子と交わした会話からしても、まだ乙木はあの日あの時間、部屋にいたと考えるほうが妥当だった。


『見ていない光景すらを再現できる魔女なのかもしれないわよ?』


 どこか可笑しげに十和子は言うが、深月はすぐにかぶりを振った。


「見ていない光景の再現。確かにそれが出来る魔法だってあってもおかしくない。けれど血統を考えると可能性は低いし、何より。

 八年前のあの日、貴女も乙木も見ていないだけは、再現されていなかった。

 ……幽月邸が貴方のいた八年前の光景を再現し続けることができたのは、館の主であった貴方もまた乙木の魔法に手を貸していたからだ」


 満足そうに、十和子は微笑む。

 それは、無言の肯定である。


『分かるでしょう。全ての人間が望んで、この幽月邸は夢を見た。私も、篠宮と乙木との、永遠の幸福を望んだの』

「十和子さん。乙木を、解放してください」

『安心しなさいな。言ったでしょう、尊重したいのは乙木の意志。

 ……本意じゃない。本意じゃないけど、ぎりっぎり合格よ』


 少し悔しそうに、十和子は認めた。


『乙木の行先について少しでも誤魔化そうとしたなら、自分の身を優先させるようであれば、何が何でも抗っていたけどね。素直に貴方は言ってくれたから』

「……端から俺は、行く場所が幸せなところだなんて一言も言ってませんよ。

 乙木に手をかけた時も。あれは俺を試していたんですか」

『当たり前でしょう。いくら先行きが不安でも、可愛い愛娘を殺すものですか。子の幸せを願わない親がどこにいるの』

「俺たちのクソ親父」

『……悪かったわ。物事には例外もあるね』


 遠くから、どこかの柱が崩れる音がする。この部屋のカーテンとシーツはとうに燃え落ちていた。もう長くは保たない。

 柔らかい表情を浮かべていた十和子は、不意に真顔になる。


『一つだけ、約束して』


 篠宮の目で、十和子は射抜くような眼差しを向けた。

 何故か深月には、二人から同時に言われたような心持ちがした。



『乙木を、必ず幸せにして』

「できません」



 即答した深月は、十和子が何事かを言い連ねる前に、重ねて続けた。


「今は、まだ」

『……今、は』

「必ず、なんて保証はできません。自分自身をどうにも出来ない人間に、人を引き受ける資格はない。出来る見込みのない約束は、できません。……けれど」


 あの深い瞳で、せめてもの罪滅ぼしとばかりに。

 深月は、十和子を真っ直ぐ見返した。


「その時が来たら。俺の力の及ぶ範囲で、できるだけ日の当たる世界に連れて行きたいとは思っています」

『……ホントに、変わらないわねぇ』


 十和子は、堪え切れずに苦笑する。


『でも、貴方だったら。乙木はきっと大丈夫ね』

「止めてください。俺は、何の約束もできない。力の無い、ただの無能な人間です」

『だから、預けられるのよ』


 深月の横を通り過ぎざま、彼女はぽんと彼の肩に手を置いた。



『……乙木を、よろしく頼むわ』



 そうして。十和子は、すっと姿を消した。

 残されたのは、深月と篠宮。


「さて。……私のことは、どうされますか?」


 深月の肩に手を置いたままで、篠宮が問う。その口ぶりからして、何が起こっていたのか、彼は全てを理解していたようであった。


「……シュレディンガーの猫は、大変便利な概念です」


 ぼそりと深月は呟いた。


「きっと。篠宮さんは、幽月邸と一緒に。俺は跡地で何も見つけることは出来なかった。

 そういうことでどうですか」

「……ご想像にお任せしますよ。深月様。貴方は、以前より優しくお強くなられた。

 どうか、お嬢様もろとも、お元気で」


 そのまま、篠宮は炎に包まれた廊下へ去っていく。深月は、振り返らない。いや、振り返ってはいけなかった。


 既に、幽月邸の夢は終焉を迎えた。

 閉ざされた箱は、開けてはならない。




 深月は自分も脱出するべく、久路人たちの飛び去った壁際まで歩み寄った。既に炎は部屋を覆い尽くしている。タイムリミットまで間もなくだ。


 その時。

 廊下から、誰かの話し声が聞こえた。


 篠宮だろうか、と思うが、声が違う。やや甲高いその声に妙な聞き覚えと胸騒ぎがして、思わず深月は振り返る。

 ドアの向こう、炎に飲まれる廊下に居たのは、幼い少年だった。

 



『……端的に言って、最低だよ』




 深月は目を見開く。

 言葉を失い、彼の身体は完全に固まる。顔を焦がそうとする炎の熱すらも薄れ、反対に全身がすっと冷たくなるようだった。


 と。


「深月ちゃん! もう限度、これ! 早く!!」


 すぐ側で、久路人の悲鳴に近い叫び声が聞こえる。業を煮やして深月を迎えに来た久路人が、焦りきった表情で深月へ手を伸ばしていた。



「成る程。これは、……きつい」



 久路人に聞こえない音量でそう言い残すと。

 廊下に映る八年前の記憶に背を向け、深月は館を後にした。



+++++



 深月が出てきたのは、ほとんど洋館が崩れ落ちる寸前だった。

 久路人に抱えられ憔悴した様子で降り立った深月に、乙木は何事か話しかけようとしばらく逡巡する。一分あまりの時間が経ってから、彼女はようやく思い切ったように告げた。


「あのね。……ありがとう、お兄ちゃん」


 思いも寄らなかったのか、乙木の言葉に深月は困惑した表情で顔を上げる。


「……俺みたいなのはね。端的に言って、最低って言うんだよ」

「でも、私たちを解放してくれたでしょう」


 解放、と自嘲気味に口の中で呟いてから、ため息混じりに深月は言った。


「これから行くところも。……牢獄、みたいなもんだよ」

「それでも、お兄ちゃんがいるもの」

「……たとえ、また俺に記憶を消されたとしても?」


 彼の発言に、乙木は息を呑む。

 深月の魔法は、『記憶の消去』。

 そして今までに深月から聞いた家に纏わる事情を鑑みて、これから起こるだろうことを乙木は悟った。

 背後から見守っていた久路人は、おずおずと深月に尋ねる。


「深月ちゃん。なんとなーく聞き覚えがあるんだけど。もしかして、さっきの家に関する事情の話を俺の前でするの、初めてじゃない?」

「……久路人さんの前でしたのは。初めてじゃない、ね」

「じゃあ俺も。今回の件は、忘れないといけないんだね」


 せっかく乙木ちゃんとも仲良くなれたのになぁ、と久路人はぼやいた。

 彼を直視することが出来ず、深月は俯く。


「ごめん。……何度目か、分からないけど。ほとほと嫌に、なる」

「だって、こればっかりはしょうがないじゃん。俺たちがナワ付きのうちはさ。

 その代わり、後でラーメン奢ってね」

「……どうせもうすぐ忘れるくせに」

「そうだった」


 からからと笑い、取るに足らないことのように久路人は言う。

 屈託ない彼の表情につられ、深月も少しだけ頬を緩めた。



「乙木。俺は、最低な奴だよ。……これまで話したことに嘘偽りも誇張も何もないんだ。もし、本気で逃げたいのなら、逃げてくれて構わない」

「逃げないよ。だって、お兄ちゃんがいるもの」


 それでもなお乙木はきっぱり言った。


「記憶を亡くしても。きっとまた、お兄ちゃんは私を見つけてくれる」

「親子二代で買いかぶらないでくれ。俺は、」


 乙木から目を逸し。

 深月は、右手で顔を覆った。



「……八年経った今でも、まだ断言することが出来ないんだ」



 彼の言葉に、乙木は困ったように首を傾げる。


「ええと。流石にずっと勉強してなかったから、難しいことは分からないし、言えないけどね。

 もし忘れたとしてもお兄ちゃんの近くにいられるのは変わらないし、会えなくてもお兄ちゃんは私のこと覚えててくれるし、記憶がなくても全部がなくなるわけじゃないから、その、……あのねあのね、つまりは」


 両の拳を握り、勢い込んで乙木は言う。




「端的に言って、それだけで乙木は嬉しいの!」




 そう、シンプルに告げ、彼女はにこやかに笑った。



+++++



 ――八年前。


 初めて訪れた山の中の洋館。

 こっそり応接間を抜け出したところで声を掛けられ、深月はびくりと身体を震わせた。


『どうされたのです?』

『……なんでも、ない』

『深月様、ですね。乙木お嬢様に何か御用ですか? お会いする時間は、もう少し先だったはずですが』

『……乙木に。会っちゃいけないって、言って』

『何故です? お嬢様は深月様とお会いするのを大変楽しみにしておりますよ』

『俺に会ったら、よくないんだよ。俺と、関わっちゃいけないんだ』

『……それは、直接言ってあげてください』

『なんでっ……!』

『お会いすれば分かりますよ。

 そしてきっと、深月様の進言は無意味だと分かるはずです』


 そうして、篠宮は悪戯めいた笑みを浮かべた。



***



 最初で最後の一度きり。

 そうであればいいと、この時の彼は願っていた。


『なんで会っちゃ駄目なの? もっと、お兄ちゃんと会いたいのに』

『俺に会っても、なにもいいことなんてないよ』

『どうして? お兄ちゃんのこと、好きなのに』

『そんなことない。俺なんて、……端的に言って、最低だよ』

『あのねあのね、じゃあね』


 何故か目を輝かせて、乙木は断言する。



『乙木が最高にしてあげる!』



***



 出来もしない、約束はしない。

 叶いもしない、夢は願わない。


 しかし深月はこの時。自分自身で分不相応だと思いながら、一つだけ自分に課した制約を破った。



『いつか。……また、会いに来るよ』



 果たして。

 八年後に、その約束は確かに叶えられた。



+++++



 ゴールデンウィークもとうに過ぎ、じりりと汗ばむ気候となった5月の半ば過ぎ。

 早々と半袖になった久路人は、部室で携帯電話をいじりながら、ふと思い出したように声を上げた。


「そういえば、深月ちゃん聞いた?」

「何を」

「噂になってた山の洋館。幽月邸だっけ? 

 あれ、火事で燃えちゃったんだってさぁ。その割に、森に延焼はしなかったみたいだけど」


 奇跡的だよねぇ、と漏らす久路人の言葉に、深月は読んでいた本から顔を上げる。


「へぇ。そうなんだ」

「クラスの連中と夏休みに肝試しやろうって話してたんだけどねー。まあ、こうあっさり燃えるくらいだと、どうせ何もなかったんだろうけどさ」


 諸々ぼやく久路人の台詞を聞き流しながら、深月は壁に掛けてある時計を見上げる。

 時刻は間もなく、午後五時。


「……久路人さん。ところで、ラーメン食べ行く? 奢るよ」

「マジで!? どういう風の吹き回し、深月ちゃん!?」

「ちょっと。親の手伝いしてバイト代が入ったからさ」


 本に栞を挟んで閉じ、深月は立ち上がる。後ろからは浮足立ちながらも腕組みした久路人が、どの店にするかを真剣に悩んでいた。



 部室棟から出ると、まだ沈みきらない太陽が地平線付近を赤く染めていた。気がつかない間に、随分と日が長くなったようだ。

 麓にあるこの学園からは、顔を上げればすぐ近くへ緑に覆われた山を見渡せる。しかし幽月邸は勿論、燃え落ちた跡地すらも平地のこの場所からは見ることは叶わなかった。


 彼はこの学園に通う一学生。の影路深月、だ。



「……今はまだ最低のままでも、いつかまた」



 そこで深月は言葉を止める。


 果たせない約束はしない主義だった。

 けれども。先日に思うところがあって主意替えをし。


 願うことぐらいは、許すことにしていた。



「……いつかまた、再会を願うよ」



 何か言った、と後ろから久路人が聞き返す。

 何でもない、と答えて、深月は行き先を決めろと彼をせっついた。



 当分の間。おそらくは、変わることのない日常が続く。

 一人っ子の深月に存在しないはずの妹は、彼の前に決して姿を現すことはなかった。



 今は、まだ。






(端的に言って最低です:完)

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端的に言って最低です 佐久良 明兎 @akito39

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