11、彼の渇きに彼女の溢れ
ハナスイバー・シャリアは夜明け前にその日の閉店をむかえる。最後の客を送り出し、バーテンダーのミケはシャッターを下ろして厳重に施錠もする。ボトルキープの棚や在庫の並んだ棚に付いている引き扉を閉めて、こちらにも鍵をかけた。あとは洗い物をして食器棚を片付けるくらいだ。シンクの前に立って作業していると、背後から店の奥へ通じる廊下とを仕切る布カーテンが動く音がした。この時間まで残っているのは店長の代白梨子しか居ない。振り向かないままミケは声をかけた。
「なぁに。おやすみの挨拶かしら、梨子お姉ちゃん」
「気持ち悪いこと言うんじゃないよ。店長でいいんだから」
苦々しい気持ちを隠そうともしない梨子の返答があって、それからしばらくシンクに流れる水と食器の音が続いた。言われなくてもミケにも話題は推察できる。開店直前に連れて来られたスーツ姿の男のことだ。四肢が全て折れて、ろれつもあまり回っておらず、目は血走っていた。連れてきた深美や姫菜、それに空太たちを帰してから、梨子は電話をかけたのだった。
「で、上の人は何て言ってました?」
「電話したらすぐ何人か来て、引き取ってったわよ」
「あんら。ずいぶんと手際良い対応ね」
「そ。それにさっき連絡も来たわ。ハナスイ中毒者を見かけたら報告しろってさ」
言ってから舌打ちし、それに加えてため息もついてから、梨子は片手で髪をかきむしりつつ壁に背を預けた。
「あら、じゃああの男、中毒者だったの? 珍しいわね。処刑以外だと初めて見たわ」
洗い物の合間にちらりと梨子を見やったミケだったが、店長の顔は暗がりで表情は分からなかった。代わりのように疲れた声が返ってくる。
「処刑、ねえ。千倍濃縮ハナスイの血管注射でしょ。何度も見たくないわよ、あんなの」
「そうね、アタシも。でも上の人――組織はあの男をどうするつもりかしら」
「知らないわよ。ま、どうせ洗いざらい吐かされて消されるだけでしょうけど」
ふうん、と店長に応じながらミケは洗い終えた皿の水気を拭い始める。順に皿やグラスを食器棚へ並べるために、洗い場と食器棚の間で身体をひねって手を伸ばした。その動きの途中に、店長が寄りかかる壁が視界を過ぎる。
「ミケ」
名を呼ばれて、声で返事はせずにバーテンダーは店長を正面にした姿勢でひと息だけ動きを止め、それから作業を再開する。
「アンタ、なんかあんだろ」
ぶっきらぼうでありながら、ドスを利かせるような低い声音で梨子はミケに、喋れと脅しをかけた。淡々と作業を続けるミケは、それに動じることは無く変わらない安穏とした口調で返事をする。
「あら。さすが店長ね。あの子のことでしょ?」
「ジャンキー野郎の手足が折れてるのを、無理に自滅だって言って上に通してやってんのよ、こっちは。さっさと答えな。あのガキまさか」
「そうみたいよ。深美ちゃんの、そうね、彼氏候補ってところかしら。確か、池野空太とかいう名前の子よ」
「本気で居ると思ってんの。スイマスなんてもの」
「半信半疑ね。都市伝説の類だと思ってたわよ」
そこでミケはひと呼吸おいた。それは単に洗い物の片付けが終わったからというだけだったが、妙に続く言葉はシャリアの店内に重く沈んだ。
「今日、あの中毒男と、深美ちゃんたちカップルを見るまでは、ね」
深美と空太と姫菜、それに中毒男という当事者たち以外に目撃者が居なかったのは幸いだったと言えるだろう。何が起きたのかをひと通り聞いてから、梨子は深美たち三人に厳重に口止めをした。同席して話を聞いていたミケが特に驚いたりする反応を見せなかったので、梨子はバーテンダーが既に空太のことを知っていたのではと思ったのだった。
音高い盛大な舌打ちが梨子の口から連続して漏れ出す。
「報告する? 店長」
「あーあーあー」
ミケの問いかけに梨子は喚いて応じた。明確に返答はしないまま、蹴るように布カーテンをどけて、自室へ向かう。
「もう寝る、もう寝るから! 面倒事ばっかり増えやがって、ちくしょう!」
ヤケになって怒鳴り散らす梨子の声が遠ざかるのを聞きながら、ミケも彼氏と同棲するマンションの部屋へ帰る支度を始めた。当面この話は棚上げになりそうだ。
あれから――深美たちのストーカーを倒してから、空太は避けられているようだった。実際のところ、あのスーツ男がどういう人物で、何が目的だったのかも、空太は詳しく聞かされていない。それを訊ねようにも、学校でも登下校でも、それにシャリアに行ってみても、全く深美に会うことができずにいる。授業中こそ教室内で見かけはするものの、チャイムが鳴ったとたんに、あっという間に深美は姿を消してしまう。
「なあ、嫌われてんのかな俺、やっぱ」
「さあな。なんかあったのか?」
放課後になり、裕斗にボヤく空太だったが、気のない返事があるばかりだ。けれど友人のその返しに、口に含んだ深美の小さな鼻の感触が甦って、空太は回答にしばらくの間を要した。机に顔を伏せて、思い出しニヤニヤを裕斗に見せないようにする。そんな空太の様子を興味無さそうに眺めてから、裕斗はふと思い出して告げた。
「ああそうだ、空太。呼ばれてたぞ、おミズの先輩に」
言いながら裕斗は胸の盛り上がりを両手で表現する。少しだけ顔を上げて、それを見て理解すると空太は表情を戻して立ち上がった。
「立佳先輩な。それとおミズじゃなくてミズドウだから」
呼ばれてるとすれば部室だろう。早々に裕斗に別れを告げて、空太は足を向ける。
飲料部の部室へ向かいながら空太は、カバンの中の小瓶を確かめる。深美からもらったその小瓶は、いちどは空になったが、そのあと内緒だと言って深美が半分ほどハナスイを補充してくれていた。あの日の帰り道、全く空太と会話してくれなくなった深美が、別れ際に急に言い出して、半ば奪うように空太の手からとった小瓶に、空太には背を向けて直接ハナスイを入れてくれた。そのあとの、内緒だからね、以来、深美の声を聞いていなかった。
「はあー」
ため息をついて、悲しいような寂しいような気持ちを吐き出してから、部室のパーティションから顔を出すと、そこには以前も見たようなメイドさんが居た。それもふたり。
「えっと、立佳先輩? か、風宮?」
戸惑いがちに声をかけると、前と同じメイド服が振り向いて巨乳を揺らし、もうひとりの、前よりもリボンが増えたメイド服は背を向けたままビクリと震えて固まった。
「えへへー。来たね池野くん。どうよどうよ?」
いつもよりも上機嫌な立佳がスキップするようにして近付いてくる。
「あ、はい。似合ってますよ。とっても」
「ふふーん」
楽しげに一回転して見せてから立佳は、固まったままのもうひとりに小走りに駆け寄ってその肩を掴むと、強引に空太へと振り向かせた。
「じゃーん! リボン増量で、さらに可愛くなったでしょ! どう、どう?」
「せ、先輩っ。池野君は今日は来ないって言ったじゃないですかっ」
前回のように座り込んで隠れたりはしなかったが、両手で顔を覆って隠したまま、深美は隣の立佳に囁くように抗議する。動揺のせいか、その囁き声は空太にも十分に聞こえるほどには音が立っていたけれど。
「えへへ。ごめんね」
深美を片手で拝むようにして、軽くそう謝ってから、立佳は彼女の背を押すようにして空太へとリボン増量メイドを見せつける。
「ほらほら池野くん。感想は?」
「や、その、えっと」
何と言えばいいのか、言葉を探すうちに空太は、顔が赤くなってくるのが自分でも分かった。なかなか空太の感想が出てこないことを悟った立佳は、ふむ、とひとつ口にしてから、軽やかに部室から出てゆく。宿題を残して。
「じゃあ今日は、わたしがお茶を淹れてあげよう。その間にちゃんと感想を言っておくように。いいかな池野くん?」
「は、はい」
重大な使命を受けるような厳粛さで空太は返事をした。そこにひとつ笑顔を置いて立佳は去ってしまう。
「あ、あの、その。風宮、さ」
「いい! 言わなくていいから!」
マスクと両手を挟んでくぐもっていたけれど、はっきりと久しぶりの深美の声が空太に届けられた。そのことになんだか安堵して、空太は少し気持ちに余裕ができた。
「や、その、風宮、俺のこと嫌いになったかな、って。ほら、あれから全然、話してくれないし」
顔を覆った手ごと、俯きがちに深美は大きく首を横に振る。その勢いの良さで、髪が深美の頭の周りを元気に跳ね回り、それから言い訳をするように控えめな声を出した。
「だ、だって。その。あんなこと……すっごく恥ずかしかったんだから」
「ああ。あれは今思い出しても」
「思い出さないでいいから! 忘れて!」
言いかけた空太を遮って深美は、こっそり警告するような囁きの叫び声で要請する。
「うん」
忘れることは絶対に無理そうだとは思いつつも、空太は頷いて、立ちすくむ深美に近付いた。さっきよりも近くで深美の格好を眺める。
「すっげえ可愛いな、風宮」
そんなこと言うつもりも無かったのに、空太の口からは自然と言葉が漏れてしまい、間髪入れずに返事代わりの深美の蹴りが、見事なまでに空太のふくらはぎに打ち込まれた。
戻ってきた立佳が、蹴られた足を抱えてうずくまる空太と拗ねてしまった深美を見て、なぜか笑いが止まらなくなったり、それから文化祭で水だけ出すメイド喫茶をやろうと提案したり、なんだかんだと賑やかに後輩ふたりを翻弄し、帰りはまた先にひとりで行ってしまって、気まずいながらも空太と深美は前よりも少し近付いて帰路を歩いていたり。
ハナスイを巡る彼らの物語は、まだ始まったばかりである。
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