10、はじめて直接に

 あいつだ。そう気付いたとき、空太の手は自然と腰の水筒に伸びていた。裕斗の写真で見た、深美をつけていたスーツ男を実際に目にして、自分が緊張しているのが分かる。同時にそれは、空太の体質にとっては水分補給を要求することになる。喉が渇いた気がして空太は水筒から直接、ミケに入れてもらった水を飲んだ。

 しばらくはそのまま、深美と姫菜を追う男を追いつつ、空太は繰り返し水筒を開けた。裕斗の写真にはたまたま写りこんだだけで、本当はただ方向の同じ通行人でしかない可能性もあったからだし、いきなり声をかけることを単に躊躇しただけでもあった。けれど男はやはり、ずっと深美や姫菜を目で追っているようでもあり、彼女たちの歩く速さに合わせて追っているようでもあった。それに。

(やべ)

 ついに空太は水筒を空にしてしまった。何かするのであれば、今が最後のチャンスだ。ひとつ大きく深呼吸をして、自分の緊張を抑えてから、空太は早足にスーツ男を目指して歩を進める。あいつが誰なのかだけでも確かめよう。

「あの」

 呼びかけてスーツ男の肩に手を掛ける。びくりと男は驚いた反応を示して慌てて振り向き、空太と目を合わせた。男の目は、真っ赤に血走っていた。

「あ、えと」

 男の異様な目付きに怯んだ空太の腹に衝撃が打ち込まれる。空太が男の肩にかけた手が振りほどかれると同時に、男は空太の胴をもう片手で強烈に殴ってきたのだ。よろめく空太に、男は追撃をかけてくる。

「ぎぇええ!」

 怪鳥の雄叫びのような濁った鋭い叫びとともに、男の蹴りが後ずさる空太に襲いくるのを理解しながらも、空太は腹の衝撃から立ち直れずに、それをそのまま受けることになった。ただ男が誰なのかを訊ねようとしていただけだった空太には、男の攻撃に応じる準備などは全くなく、せめて蹴りの衝撃を受け流そうとアスファルトの上を転がり、それでようやく距離をとった。急いで起き上がり男に対峙すると、向こうも空太を見て攻撃の意志を全身に漲らせながら、ゆらゆらと酔っ払いのような足取りで近付いてくる。

「はぁ、はぁ」

 荒れ果てた呼吸の中から、なんとか身体の痛みを絞り出して、空太は男から目を離さずに、かろうじて手放さずにいたカバンから、深美のくれたハナスイの小瓶を取り出す。水筒はもう空になってしまっているから、あとはこれに頼るしかない。緊張と運動のせいで関節が軋みそうなほどに水分が欲しい。空太は決心して、瓶を封じる金属の蓋をカシャッと回して開けた。それに口をつけるのを見て男はまた、ひと跳びに襲い掛かってくる。


 変な叫び声が聞こえた気がして、深美は後ろを振り返った。隣をあるいている姫菜も合わせて脚を止めて、深美の視線を追って背後に目をやる。そこにはアスファルトを転がる空太の姿があった。

「池野君……」

「待って!」

 深美が彼の名を口にして駆け寄ろうとするのを、姫菜は彼女の腕を両手でしっかりと掴んで引き止める。

「ダメ! 深美ちゃん、行っちゃダメ!」

「離して。助けなきゃ。お願い姫菜ちゃん」

 上体だけで振り向いて、深美は掴まれていない方の手を姫菜の手に添えて頼み込む。姫菜は髪を振り乱すほどに首を横に振って拒絶の意志を示した。

「ヤダ! あんな奴らのところに行かないで!」

「奴ら? 姫菜ちゃん、あの男のこと、知ってるの?」

 聞きとがめて深美が問いかけたところで、姫菜は目を見開いて固まった。遠くを見る彼女の視線を追って深美は向き直り、空太が自分のハナスイが入った小瓶を開けて飲み干すのを見た。全部は多すぎる、という心配が浮かんだ背後から、姫菜の悲鳴じみた叫びが聞こえてくる。

「やめて! 深美ちゃんを無駄にしないで!」

 言っている意味が分からず、また振り向いた深美は、姫菜が涙を溜めた目でふたりの男から移してきた視線と絡まった。何か後悔している。彼女の表情を見て深美は直感的にそう悟り、掴まれた手を引いて姫菜の身体を近付けると、気持ちごと受け止めるつもりで抱きしめた。


 天を仰いでシャリアの小瓶を空にした空太の、がら空きになった胴へと男の体当たりが突き刺さる。深美のハナスイの最後の一滴を飲み込みながら、空太は男と一体になって再びアスファルトの上に転がった。

 ガンッと頭を殴られるような衝撃が空太に走る。実際に地面に頭を打ち付けたかもしれないが、それ以上に自分の体内から首を通って響いてきた。それが自分の心臓が生み出した脈拍であり、激しくなった鼓動が全身の活動リズムを高速に駆り立てていることに気付いたとき、もう空太の身体は空中にあった。

「寄ゴせぇっハナずイぃぃっ!」

 遥か足の下でスーツ男が奇声を発するのが聞こえる。ただほんの少し、男の体重をまともに真上に受け止めるのを避けようとして、手足を駆使しただけのはずだった。それが空太を建物の二階ほどの高さまで跳ね上がらせている。自由落下しながら空太は素早く周囲の状況を見て取ることができた。短い数瞬で深美が姫菜を抱きとめていることと、スーツ男がそちらにまだ向かっていないこと、それに他に人の気配が無いことを知覚して、危なげなく着地する。

「これが、ハナスイマスターの力、なのか」

 くらくらするくらいに、全身の血の巡りが速い。どんどん酸素を取り込むべく呼吸は激しいけれど、疲労感は全く無い。

 ちくりとした感触が片手にあって、見てみるとシャリアの小瓶を封じていた金属の蓋を握っていた指先が少しだけ切れていた。それも空太が見ている前で、あっさりと治癒される。意外とは思わなかった。今の空太にとっては当たり前のことだと感じられて、さして気にもせずにもう片手の中にあった空の小瓶に、金属の蓋をかぶせる。もう中身は無いが、深美のくれたそれを捨てる気にはならなかった。

 またスーツ男が意味の分からない声を発しながら突進してくる。今度はそれを受けず、空太は力加減を考えながら、ごく僅かだけ脇へステップを踏んで避けるようなつもりで軽く跳躍した。それだけだったが、自分の目でも起きたことを追いきれないほど移動してしまい、目標を見失ったスーツ男はキョロキョロと周囲を見回す。その男の視線が、深美と姫菜のふたりを捉えた頃、ようやく空太も自分が跳びすぎたことを認知した。

「やべっ」

 呟いて、女子ふたりに向かって駆け出すスーツ男に追いすがろうと片脚を踏み出した空太は、そこで目眩に襲われて視界が暗転する。なんとか転倒は避けて踏み止まったが、目に映る景色は明るいはずの箇所が暗かったり、その逆に暗いはずの箇所が明るかったりして、形は分かるけれど上下や方向の感覚が惑わされてしまっている。

「なにが……」

 なにが起きているのか、それを自分に問いかけるも答えなどあるわけもない。ぐちゃぐちゃに色を変えながら明滅する視界の中で、なんとかスーツ男の姿を見つけ出し、とにかくそこへ向かって地を蹴り、自分の身体を投げ飛ばすように突っ込ませた。

 ヒューヒューと身体の内と外の両方から音がする。たった一歩ではあるが空気の厚みを感じるほどの速度に達した空太が、風を切って耳から鼓膜に至る、外からの音。もうひとつは、彼の喉元にあって体内に響く呼吸音だった。

(のどがかわいた)

 普段から使い慣れたフレーズが、反射的に脳裏を過ぎる。それが何を意味しているのかを思い出すよりも先に、肉が肉を打つ湿った鈍い音が轟いた。スーツ男が衝撃で手足をあらぬ方向へ骨折しながら地に伏し、肩から当たった空太は鎖骨を折ってその上に折り重なる。なおも喚いて這いずろうとする男を押さえつけるような形で、空太はそのまま動けなくなった。ひどく身体がだるい。全身の骨がギシギシ軋む。喉が渇いて仕方ない。その代償として、ハナスイがもたらしていた力の最後の残りで、空太の鎖骨は治癒された。


 何度か姫菜の背を撫でて、彼女がすすり泣き始めるのを胸元で感じてから、深美は姫菜の肩を掴んで腕の分の距離を置いてその泣き顔を覗き込んだ。

「ねえ姫菜ちゃん。何か知ってるの?」

 ふたつ、みっつ、と繰り返し姫菜は頷く。

「教えて」

 幼子を諭すように、優しく深美が言うと、姫菜は涙を拭いながら答えてくれた。

「あの人、前に、助けると思って、って言うから、少しだけあげたの」

「ハナスイを?」

 深美の確認に、はっきりとひとつ姫菜は頷きを返す。

「でも、それからもしつこく言ってきて、断ったら今度はシャリアから出てくる人の後をつけるようになったみたいで」

「なんでハナスイあげたの?」

 普段の姫菜を知っている深美からすれば、スイ子であることに誇りや自負の強い彼女にとって、見知らぬ他人にハナスイをあげることなど、するはずないと思う。

「だって……何度も言ってくるし、あたしだけが頼りだって言うし、誰かのためになるならいいかなって」

 言いながら姫菜は後悔の涙をまた零した。今度は深美がそれを彼女の頬から拭い取ってやる。

「ありがと深美ちゃん。でも、あたしのハナスイは無駄だったんだ。あんな奴にあげたばっかりに、こんな……」

「それで、わたしにも、池野君にあげたこと、良くないって言ったのね」

 納得とともに深美が口にした言葉に、姫菜は同意の頷きを返す。それからまた、ごめんね、と深美にだけ聞こえる声で呟いた。

「いいよ。でも、あたし、行かなくちゃ」

 ふたりの男が争う音が途切れたことに深美は気付いていた。姫菜に言いながら横目で確かめると、重なって倒れた空太と男がいて、男だけがもがいている。

「でも、深美ちゃん」

 なおも引きとめようとする姫菜だったが、深美の腕を掴むその手は、もう簡単に振りほどけそうなほどに弱まっていた。それに彼女の涙を拭った手を添えて、深美はもういちど繰り返す。

「お願い、姫菜ちゃん。あたし、行かなくちゃならないの」

 それを聞いて、頷くというよりも俯きを深くするようにしながら、姫菜は指を深美から離した。まだ筒状に腕の周りに残る姫菜の掌から抜き取るようにして、深美は自分を解放すると、ありがと、とひと言おいて、空太の元へと駆け出す。


 自分の身体の下でもがく男の動きを利用して、空太はなんとか寝返りをうつことに成功して仰向けになった。すっかり夕方になった空からの光は、明滅の落ち着いた視界に優しく差し込んでくる。

「池野君」

 スーツ男から遠い方に回り込んで、空太を呼ぶ深美の声がした。目玉だけ動かして、それにもギシリという音を聞きながら、前髪とマスクで隠された彼女の顔を空太は見つけることができた。風宮、と呼び返そうとしたが、言葉は音にならなかった。

 空太の上に屈んだ深美は、ティッシュを取り出して空太の鼻の下を拭う。ハナスイを飲んだ直後か、そのあとスーツ男にアスファルトに叩きつけられた拍子にか、いつの間にか空太の流していた鼻血が、すっかり乾いてそこにこびり付いていたからだ。ハナスイマスターの回復力で、早々に出血は止まったらしく、血痕は顎までも届いてはいなかった。

「大丈夫?」

「のま……せて」

 深美の問いに、精一杯の力を振り絞って空太は声を押し出す。彼女が小さく頷きながら彼の頭を持ち上げて顔を近づけてくれるのに合わせて、震える片手を持ち上げた。その手を彼は、そっと白い布に掛ける。

 それは彼女の濡れたふたつの穴を覆っている、たった一枚のものだ。空太は一度しかそれを見たことがないけれど、いつでもありありと思い描ける。

「は、恥ずかしいよ、やっぱり……」

 彼女が鼻にかかった声で囁くのへ、微笑みを返そうとして彼は表情筋を動かすことにさえ失敗した。その分の集中力は彼女の素顔を露わにすることに注ぎ込んでいた。

「だいじょ……ぶ」

 秘密にするって約束したじゃないか。だから大丈夫だ、と彼は応えて彼女と同じような囁き声を発し、そっと彼女の白い布に手をかけ、それをずり下ろす。つい、と彼女と布の間に、細く透明な糸が伸びて、小さく息をのむ音が彼に聞こえてきた。

 いい? と目で問いかけた彼に、彼女は真っ赤に染めた頬でこくりと頷き、あとは彼に全て委ねると心に決めて、ぎゅっと目を閉じる。それからゆっくりと身を屈めて彼の口元へと自分の鼻を近づけてゆく。

 じゃあ、と囁いたつもりだったが、彼のその言葉はどこにも現れはしなかった。ただ彼は、彼女の濡れたふたつの穴に、そっと口をつけて、自らの渇きを癒してくれるだけの僅かな量を、そこから吸い取った。

 やっぱり風宮は美味しいな。そうしみじみと感じながら、空太は好物を惜しむようにゆっくりとそれを喉へと飲み込んだ。

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