9、マスター
捕まった空太は、そのままシャリアの表であるバーカウンターまで引き摺られ、その間に背後の人物がバーテンダーのミケという名前だと教えられた。名乗り返してカウンターの内側へ到着する頃には、空太はすっかり抵抗することをやめて、ミケも拘束を解いていた。
促されて空太はカウンターに付いた腰までの高さのスイングドアを押して店に出ると、隅の席に着いてミケと向かい合う。それから腰の水筒を開けて、中身を全て飲み干した。姫菜の剣幕に驚いたりミケの腕に対してもがいたりして、また水分不足だ。帰りはどこか公園にでも寄って水筒に水を補充しよう。
「なぁに? 酒飲みの酒瓶みたいな飲み方するじゃない」
「あ、その。昔から喉渇きやすい体質で」
「あら、そうなの」
言ってからすぐに、ミケはグラスに入った透明な液体をカウンター越しに空太の前に置く。それとバーテンダーの顔を交互に何度か見て、空太は訊ねた。
「これは?」
「水道水よ。うちの商品はタダじゃ出せないもの。こぉんな小さなグラスで一万円とかするわよ。払うなら出すけど?」
「え、いや、無理です。その、いただきます」
慌てて言って、グラスの水も空太は一気に飲み干した。
「お店で騒ぎ起こすなんて、本当ならつまみ出してたところだけど。深美ちゃんのカレだから特別よ」
ウインクしながらミケが片手を伸ばすので、空太はそこに空にしたグラスを乗せた。
「違うわよぅ。水筒出しなさい。水道水で良ければ入れてあげるから」
グラスはグラスで引っ込めて、また水で満たして出しながらミケは言い、空いた片手をくいくいと動かして空太に水筒を渡すよう促す。
「あ、はい。ありがとうございます」
深美の彼氏だというのを否定しようかと思ったけれど、とりあえずはそう思ってもらっていた方が良さそうだったので、空太は素直にミケに従って空の水筒を渡す。
「ま、今回は店長も起きなかったみたいだし、見逃してあげるわよ」
微笑んでミケは水筒に蛇口から水を入れる。その様子を空太は物珍しげに眺めていた。普段は二十四時間、風呂のときもトイレのときも、寝るときでさえも自分の肌身近くに置いて離さないその水筒は、物心ついてから十年以上、自分以外の人に中身を満たしてもらうことは滅多に無かった。それを初対面のミケに何の気兼ねもなしに渡せたことも意外だったし、その水筒を扱いなれたシェーカーのように鮮やかに操るミケの手先を見飽きることもなかった。
軽くすすいで水気を切り、そこに水道水を詰め終えて軽やかに蓋を閉めた水筒を、ミケはグラスの隣に音も立てずに置く。
「ほら。それ飲んだら帰りなさいよ」
「はい……あの」
ずっと気になっていたことがある。空太はそれをミケに訊ねてみようと思い立った。
「なに、どうしたの? 恋の悩みかしら?」
冗談めかして応えるミケに、言葉を選ぼうと頭を巡らせたものの上手く言えず、結局空太はストレートに疑問を口にする。
「ハナスイって何なんですか?」
問われてポカンとした顔をしてから、ミケはクックッと抑え気味の笑いを漏らした。
「教えてください。風宮は、その、関わるなって言うだけだし」
「やぁねえ、一途じゃなぁい」
てのひらでぱたぱたと空太をあおぐようにして軽口を叩いて笑いを収めると、ミケはその手をいかつい顎に当てて思案するようなポーズをとる。真剣な顔で見てくる空太に視線を返して、慎重に回答した。
「ハナスイってのはね、嗜好品なのよ。わかる? お酒や煙草みたいにメジャーなもの以外にも、あんまり知られてないマイナーな嗜好品って、いっぱいあるのよ」
空太が頷くのを見てミケも頷きを返すと、説明を続ける。
「ハナスイも、そういうマイナー嗜好品のひとつだから、やっぱり他のと同じで、特に栄養とかは無いみたいなんだけど、飲んで気持ち良くなるわけ。そういえば中毒性もあったかしら。お酒とかよりずっと弱いから、普通は中毒症状とかが出ることは無いって聞くけどね」
「気持ち良くなるって、その、興奮するみたいな、ですか?」
目を泳がせながら訊ねる空太に、ミケは何かを読み取ったらしい。意味深な笑みを口元に浮かべて答える。
「そんなこと無いわよぅ。どっちかっていうと、ゆったりのんびり、そうね、思考が鈍るみたいな感じかしら。なぁに? 深美ちゃんのハナスイで興奮しちゃったの?」
「ぐう」
突っ込まれて空太は言葉を発せず、顔を逸らして中空を見た。開店前でシャッターも降りているバーの暗がりでも、彼の顔が赤くなっているのが見て取れて、ミケは楽しそうにクスクスと笑う。
「やぁねえ、ノロケちゃって。そんなに深美ちゃんのこと好きなら、そりゃあ興奮もするわよぅ」
からかわれて空太は恥ずかしさを抑えようと、ひとつ深呼吸をする。長く息を吐き出しながら、ふと気付くことがあった。
「その、俺、気を失ってたんです。風宮のを飲んだとき、それが風宮のだって知らなかったし、あと、それまでクラスに居たときと違ってたから、最初は風宮だって気付かなかったし」
要領を得ない説明に、ミケはしばらく首を傾げながら聞いていたが、ほどなく理解して真面目な顔になった。
「じゃあ、アンタ、ホントにただハナスイ飲んだだけで興奮したわけね? トロンとした気持ちになったりはしてないってことね?」
「はい」
空太が頷くと、ミケは大げさにため息をついた。それからカウンターに肘をついて身を乗り出し、空太の顔を真っ直ぐに見つめてくる。
「アンタ、昔から喉渇きやすいとか言ってたわね」
「は、はい。そういう体質で」
気圧されながらも応える空太に、ミケは重ねて確認する。
「本当でしょうね。嘘だったら承知しないわよ」
「ほ、本当ですよ。なんで嘘なんかつく必要が」
「いいわ。教えてあげる」
空太の言葉を遮って、ミケは宣言すると身を引き、カウンター奥の壁に背を預けて腕組みをする。暗がりに隠れた顔のうちで、かろうじて見える口元で話し始めた。
「アタシも噂でしか聞いたことなかったわ。アンタの歳じゃ知らないかもしれないけど、酔拳っていう映画があるのよ。お酒を飲めば飲むほど強くなるっていうヤツね。ま、あれはフィクションなんだけど、でも他にも嗜好品の中には、似たような作用があるものが存在するわけ。で、ハナスイもそうなんじゃないかって話なんだけど」
そこで言葉を切って、ミケは空太の理解が追いつくのを待った。ひと呼吸おいて考えをまとめた空太は、訊ねてみる。
「じゃあ、さっきの中毒っていう話なんですか?」
ミケは静かに首を横に振った。
「違うわ。中毒は、継続的にそれを摂取しないと我慢できなくなるものよ。嗜好品によって体に起こる、通常じゃない変化は、中毒とは全く別で、摂取したときだけ急激に超人的能力を得るらしいわ」
空太が小さく頷いて了解を表すのを見てから、ミケは一拍置いた話を再開する。
「ま、アタシも別に専門家じゃないし、そこまで詳しく仕組みは知らないんだけど、そういう状態になる人のことを、映画の酔拳の英題ドランケン・マスターになぞらえて、なんとかマスターって呼ぶの。ハナスイだったら、ハナスイ・マスターね」
「はなすい、ますたあ」
反射的に鸚鵡返しに呟いた空太は、それが自分のことだと気付くまで数瞬を要した。
「え、もしかして俺がそうだって言うんですか?」
「そう。ま、アタシたちの間じゃ、略してスイマスとか言うこともあるけど」
ミケが素っ気無くそう言ったあとに、ふたりの間には沈黙が横たわった。急にそんなことを言われても、と戸惑う空太の一方で、ミケは店長に相談した方がいいかも、と思案していた。そこに店の奥から小さな物音がして、扉の閉まるような音のあとに、ふたりの女子の会話する声が小さく聞こえてくる。空太とミケが会話していたら気付かなかっただろうそれは、深美と姫菜の会話する声だった。
壁から身体を起こしたミケは、目で空太にどうするか訊ねた。空太の顔と、店の奥への廊下を目隠しする布カーテンとを順に見て、深美は帰るようだけど、空太はどうするのかと、片手の親指で肩越しに廊下を指す仕草とともに問うた。
空太は手の中に置いていたグラスを、一気に飲み干すと、
「あの、水とか、ありがとうございました」
と言い置いてカウンターの中に入り、ミケの脇を通り抜けると、ふたりの女子の後を追っていった。残ったミケは、空になったグラスを流しに放り込むと、今日の開店準備をするべく動き始める。姫菜の控え室の前には、今日の分の彼女のハナスイが置いてあるはずだ。姫菜が不機嫌なときはいつだってそうだ。それから店長を起こして。
ため息をついてミケは、やっぱりスイマスのことは報告しとかないとダメかしら、と呟いた。ミケ自身、半信半疑なところもあるし、若いふたりをあまりハナスイ業界に深入りさせたくないという気持ちもあった。
勢いで深美と姫菜を追ってシャリアを飛び出した空太だったが、また姫菜に見つかって騒ぎになるといけないと思い、距離をおいてふたりを追うことにした。
(これじゃまるで、ストーカーみたいだな)
まるでも何も、そのものではあるのだけれど、目的は深美でも姫菜でもなく、裕斗の写真に写っていたスーツ男が、いったい誰なのか確かめることだ。深美は関わるなと言うけれど、彼女と知り合いとかではないらしいスーツ男が、何度も彼女を追っているようなのは、どう考えても怪しいし、この話については頑なになってしまう深美のことが心配でならなかった。
(あ)
シャリアを出てほどなくして、深美たちと空太との間に、写真でみた男が姿を現した。
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