また、あした。

たつみ 庵

第1話

 拝啓。

 芒種の候、ご家族様におかれましてはいよいよご清祥のことと心よりお慶び申し上げます。

 お陰さまで私方もつつがなく過ごしております──。


 挨拶の文だけを便箋に書いてペンを置く。堅苦しい文面やスグリの実の柄の便箋がひどく他人行儀で、憂鬱さに気分が沈みそうになる。

 溜め息をつけばその音が部屋中に響いたようで、沈黙がうるさく感じるほどの静寂を自覚する事になった。

 顎を撫でると、じょり、と硬い髭が手のひらに刺さる。そろそろ剃らなくてはなぁ、と眼鏡を持ち上げながら窓から外を見下ろすと、窓ガラスに椅子にもたれかかる自分の姿が写った。ぼさぼさの髪、首元がよれよれの白いシャツ、うだつの上がらなさそうな男が此方をじっと見つめている。

 年をとった。

 ついこの前まで眼鏡もかけていなかったし、髪もさっぱりと短かった。着る必要のなかったブレザーを毎日着て、必死に若作りをしていた。そうする必要がなくなって随分と老け込んだ気がする。


 もう一度ペンをとる。そして再び堅苦しい文字で、堅苦しい文面を改まった便箋に綴っていった。


□□□□


 記憶の引き出しというものがあるのなら、僕はそれがとても大きく多いらしい。そしてどこに何がしまってあるのかすぐに分かるのだ。便利だろう。

 諸君ら世間はそれを天才だというけれど、僕は勉強が得意ではないし、創造的な才能があるわけでもない。残念ながら僕の類稀なる記憶力はその真価を発揮できないまま、こんな草臥れた大人になってしまった。

 だが僕はこの才能ともいえる能力に感謝している。とても辛い記憶ではあるけれど、自分が納得する形でそれを終えられたのはこの能力のお陰なのだ。

 諸君には何のことか分からないだろう。

 では聞いていってくれないか。馬鹿な男の、懺悔ともいえる昔話だ。


 こんな偏屈な僕だが、学生時代にはそれなりに同級生に思いを寄せたり寄せられたり、まあ一般的な青春を過ごしていた。二年生の夏、そう、夏休みに入る前日だった。その同級生とお付き合いというものをする事になったのは。


 特別美人ではなかった。

 ただ笑った時の片えくぼが印象的で、その笑顔が僕は好きだった。あの当時の彼女の笑顔は今でも大切に僕の記憶の引き出しにしまってある。勿論すぐに出せる場所にだ。

 その彼女とは一般的な、学生らしいお付き合いをしていたよ。夏休みには花火を見に行ったり、夏まつりに連れて行かれた事もあった。

 彼女はとても暑がりで、外で待ち合わせするくせにすぐにカフェに入りたがった。ならば最初からカフェで待ち合わせすればいいのに。多分ひとりでカフェに入るのが気恥ずかしかったんだろう。高校生の女の子だ、珍しい事じゃない。

 そんなお付き合いは夏休みが明けてからも続いた。高校二年生の二学期、楽しいイベントの目白押しだ。文化祭、体育祭、修学旅行、クリスマス──どのイベントにも彼女の笑顔の記憶がある。

 確か文化祭では出店をやったんだ。まだ残暑がひどかったから僕のクラスの冷やし中華は飛ぶように売れた。彼女はずっと裏方で錦糸卵を作っていて、何度かつまみ食いをしに行った。笑ってど突かれた。

 二年生の体育祭は昼からにわか雨が降った。一瞬だけの大雨で、でも中止にならなくて、みんな汗か雨か分からないくらいのびしょびしょになって優勝旗を掲げたんだった。

 修学旅行では北海道に行ったんだ。どこを見たとか遊んだとかそんなことよりも、同じ場所に行った筈なのに彼女とお土産交換をしたことが鮮明に思い出せる。センスがないと笑われた。リアルなイクラ丼の柄のタオル、面白いと思ったんだけど彼女には分からなかったらしい。

 クリスマスくらいは頑張ろうと思って、柄にもなくネックレスを準備したのだ。高校生にジュエリーなんて無理だから、イミテーションのピンクの石を。そんなものでも彼女は喜んだ。ハイネックのセーターの首にそれをつけて笑っていた。片えくぼをぺこん、とへこませて。


 語りだせば長くなってしまう。だって僕は全部、本当に全部覚えている。彼女が言った事、した事全てを。きりがないからここまでにするけれど。


 そうして転機が訪れたのは、忘れもしない、三年生に上がってすぐの事だった。

 彼女が待ち合わせに来なくなっていった。最初は二十分、三十分遅れて来ていたんだけれど、ついにすっぽかすようになっていった。家まで会いに行けば、ごめん、と必死に謝ってくれていたのにいつの間にか、そんな約束したっけ、ととぼけるようになっていた。

 もう終わりかも知れない。

 諸君もそう思ったろ、僕もそう思った。とぼけられた彼女の家からの帰り、僕は人目も憚らず涙を流した。だって僕はまだ彼女が大好きだったから。

 でもそうじゃなかった。終わりなんて、誰も与えてくれなかった。自分で選ばなくてはいけなかったその終わりを選べたのが、つい最近だった。それが最大の僕の懺悔さ。


 彼女は、忘れていたんだ。本当に。

 僕との約束だけじゃない、高校二年生の夏休みが始まる日を起点に、彼女が過ごしてきた全ての記憶を徐々に失っていっていたんだ。

 楽しかったイベント全ての記憶も、日を追うごとにぽつぽつと穴を開けるように失っていった。

 ただ唯一僕の救いだったのは、僕と彼女の関係を彼女は忘れていなかった事だ。ただ彼女の中では僕と彼女のお付き合いはたった一日だったけれど。

 彼女が僕との思い出を忘れてしまっていた事は辛かったけれど、彼女の顔を見ていたら些細な事に思えた。だって彼女が僕を見て笑うから。片えくぼをぺこん、とへこませて、皆とは違う僕だけの笑顔で。

 それがあったから、僕は今までよりこれからを見れていたんだ。


 それを失うかも知れない日がやってきたのは、三年生の一学期の期末テストが終わった次の日だった。三年生は期末テストが終わったら終業式まで学校が昼までだったので、病院に検査入院した彼女を昼から見舞いに行ったんだ。

 医者が彼女のベッドの側に立っていた。沈痛な顔付きで、でも確かな口調で彼女に告げていた。彼女は両手で顔を覆っていた。彼女の父親と母親も、肩を震わせて医者の話を聞いていた。

 僕も聞いてしまった。医者の話を。途方もない、治療の話を。

 催眠療法、とかいうんだけれど、彼女の場合は凄く特別だった。今まで積み重ねた記憶が大き過ぎて、治療の邪魔だったらしい。


 だから。彼女の記憶が明日を迎える為に。

 今までの記憶を全部消すんだって。


 信じられなかった。ファンタジーの世界じゃないんだから、目の前で笑う彼女の記憶がなくなるなんて思わないだろう。だってまだ僕は信じていたんだ。いつか、彼女が全てを思い出してくれる事を。

 彼女は泣いていた。忘れたくない、失くしたくない、って。僕だって一緒だ、忘れて欲しくなかった。二人で手をとって泣いたよ。彼女は覚えていない楽しかった記憶を辿りながら、思い出話にもならない話をしながら。

 そして、全ては彼女に委ねられた。

 彼女が記憶を手放す覚悟が出来た時に、治療を始めるんだと。


 今なら分かる、もう大人だから。あの時僕が彼女にかけるべき言葉は、

『もう一度出会って、仲良くなって、そして恋をしよう』

だったんだ。それが本当に起こるか分からなくても、不確かな明日を誓うべきだった。

 でも、僕も彼女もまだ子供だった。

 自分の才能ともいえる能力で彼女との明日を作り上げられると思ってしまった。不確かな明日よりも、今ここにある今日に縋ってしまったんだ。

 僕と彼女は誓った。

 今でも鮮明に、一言一句間違えずに覚えているよ、当たり前だろう。


「ねえ、私に教えてね。忘れてしまった事を全部。君なら出来るでしょう」

「ああ、僕になら出来るよ。一言一句間違えずに、君との今日をやり直してあげる」


 明日ではなく、今日を誓ったんだ。

 子供の僕だから、明日を変えられると思っていたんだ。


 勿論難しい事じゃなかった。僕は本当に本当に、全部を覚えていたから。

 日曜日だろうが長期休みだろうが、毎日紺のブレザーを着て学校帰りみたいな顔して彼女を見舞った。持っていくものは自分の為のオレンジジュースのペットボトルと見舞いの品の彼女が好きなチョコレート菓子。

 それを飲みながら話すんだ、

「テスト結果、明後日出るんだって。僕物理やべえよ」

「そうなんだ。もう受験だもんね、みんな成績上がってるんだろうな」

「心配いらないでしょ、君は。必死に勉強した僕よりもずっと成績いいんだから。いつ勉強してるんだよ」

「え、授業中?」

「出たよ、優等生発言」

って。毎日寸分違わず。

 勿論平均以下だった物理の結果も分かっているし、みんなが志望校を決めて成績が上がっている事も知っているけれど、それはおくびにも出さない。毎日同じオレンジジュースに飽きてきても、期間限定だったチョコレート菓子が売っていなくなっても、どうにか頑張って同じ毎日を作ってきたんだ。

 そして4時12分、空になったペットボトルをゴミ箱に放り込んで席を立つ。

「また、あした。」

そう言って、病室のドアを閉める。名残惜しく閉まる瞬間まで手を振りあいながら。


 やがて。

 ブレザーを着る必要がなくなって。

 僕も昼以降に予定を入れざるを得なくなって。

 僕だけが、大人になっていった。


 髭が濃くなって、目が悪くなって、本当ならスーツを着なきゃいけない年になっても、僕は毎日昼になれば紺のブレザーを着て病院に行っていた。

 無茶だと思うだろう。でもそれだけが、僕と彼女を繋ぐ唯一の事だったんだ。毎日している事だからこそやめる時なんて考えられなくて。

 明日を変える筈だったのに、ずっとずっと今日を足踏みしていたんだ。


 その日も、同じ事の繰り返しをする、筈だった。

 僕はいつものオレンジジュースを片手に彼女のベッドの側の丸椅子に座って、彼女にチョコレート菓子を手渡した。いつもと同じように、ありがとうと言いながら彼女が手を出すと思って。

 でも彼女は手を出さなかった。

 怪訝そうに、僕の顔をじっと見ていた。

「どうしたの」

 そう尋ねたら、彼女は安心したように小さく笑って、言ったんだ。


「びっくりしたの。なんだか君じゃないように見えて」


 はっとした。毎日毎日、記憶を頼りに同じ事を繰り返して彼女に今日を作ってきた。何回、今日を繰り返したんだろう。

 慌てて病室の鏡を見て、唖然とした。

 何日も何日も着たせいで薄くなった紺のブレザー。どれだけ綺麗にしても隠しきれない青い髭の剃りあと。髪型も、高校生の頃とは少し違って見えるかも知れない。


 毎日毎日寸分違わず繰り返してきた今日は、そのたびにほんの僅かずつ姿を変えていたんだ。


 緊張の糸が切れたみたいだった。もう僕は彼女に今日をつくってあげられなくなったと突きつけられたようだった。

 僕らは子供だった。でも僕だけが、大人になってしまった。

 明日を変えられるなんて夢物語を誓えなくなってしまった。

「どうしたの」

 彼女が僕の顔を覗き込む。安心させるように片えくぼをへこませて。

 いつの間にかその表情も女性のものになっていた。

 もう彼女を縛り付けてはいけない、そう言われたみたいだった。僕と彼女の幼い約束が、僕と彼女の明日を奪っていたんだ。

 僕らは未だ高校二年生の夏休み初日にいたままだった。


「ねえ、泣いているの」

 そう言われて初めて泣いていると自覚した。それは僕が、彼女に本当の明日をあげる覚悟を決めた証だった。


 ──ねえ、私に教えてね。忘れてしまった事を全部。君なら出来るでしょう。

 ──ああ、僕になら出来るよ。一言一句間違えずに、君との今日をやり直してあげる。


 僕はその日、初めてその約束を破った。

 そしてそれが、最後の日になったんだ。僕も彼女も、新しい本当の明日を歩き始めた。その道はもう一緒ではなかったんだけれど。


 ねえ、最低だろう。どうしてあの時、言ってあげられなかったのか今でも悔やむんだ。

『もう一度出会って、仲良くなって、そして恋をしよう』って。

 そうすれば、今でも僕と彼女は一緒に笑っていたかも知れない。彼女は今よりももっとたくさんの昨日があった筈だ。

 それを奪ったのは僕だったんだよ。結局僕は、彼女に今日も明日も、昨日もあげられなかったんだ。

 いや、慰めなんていらないよ。これは僕が一生背負っていかなくちゃならない、罪なんだから。


□□□□


「ねえ、お母さん。私宛の手紙なんだけど誰からかな」

 彼女がひらひらと指先で遊びながら持ってきたのは、一通の封筒だった。差出人の名前はない。薄い紅色の封筒は畏まっていてとても他人行儀だ。

 彼女はびりびりと小さな音を立てて、封筒を破いた。中から一枚便箋が出てくる。スグリの実の挿絵の便箋はこれまた他人行儀だ。

「誰からかしら。えーっと」


 ──拝啓。

 芒種の候、ご家族様におかれましては、いよいよご清祥のことと心よりお慶び申し上げます。

 お陰さまで私方もつつがなく過ごしております──。


「えらく畏まった手紙ね」

 そう言って彼女はその手紙の先を指先で辿る。小難しい言葉が並んでいて、そうしないと読みこぼしてしまいそうだった。

 でもそうして読んでいても当たり障りのない文面が続くばかりで、差出人は分からない。

 指先を滑らせ、末文まで読んだときだった。

「あら?」

 彼女は声をあげた。

 他人行儀な手紙の最後に綴られていたのは、飾り気のない子供みたいな一文。


 ──君に昨日をつくってあげたい。

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