読めない本 -Mon amour pour toi-

星成和貴

Mon amour pour toi.

 彼との出会いは物心がつく前。家も近所で、親同士が仲がよく、歳も同じだったため、必然的に一緒に過ごすことが多かった。だから、私の人生にはいつも彼がいた。

 そんな彼を好きになったのはいつだったのだろう?覚えてはいない。気付けば好きになっていた。

 そして、彼が新人賞を受賞し、念願の小説家になった。そんな彼が突然訪ねてきた。

十和とわ、その、これ、読んでくれる?」

 差し出されたのは一冊の本。

「その本、何?」

「俺の書いた小説。その、十和に読んでほしくて」

「うん、分かった。読むね。ありがと」

 以前から何度か彼の書いた小説を読ませてもらっていた。だから、わたしはそれをいつものように受け取った。

「読んだら、感想とかまた聞かせてほしい」

「うん」

「それじゃ、またね」

 それだけで彼は立ち去ってしまった。もっと、彼と話したかったのにな。


 わたしは部屋に戻って早速読み始めた。そこにはわたしと彼の想い出が書かれていた。そのままではなく、多少変えてはあるけれども、それは間違いなく二人の想い出だった。そして、その話の中の彼はわたしのことが好きみたいだった。

 わたしは読み続けた。最後、彼はわたしに告白をした。わたしは返事をしないまま、小説は終わった。

 これ、小説なんだよね?フィクションだよね?それとも、本当に……?だとしたら、返事、した方がいいよね?

 わたしは彼に電話をかけた。

『もしもし』

「その、読んだよ?」

『どうだった?』

「その、あれって、わたしたちのことだよね?」

『うん。その、嫌だった?今度それ発売されるんだけれど……』

「恥ずかしいけど、大丈夫」

『そっか。ありがと』

「うん」

『……』

「……」

 お互いがなにかを言おうとして、それでも言えずに、微妙な沈黙が流れる。しばらくして、彼が先に沈黙を破った。

『その、あれ、俺の気持ちだから。俺、十和のこと、好きだから』

「本当に?」

『うん』

「ありがと。わたしも、好きだよ」

『あり…………』

 言葉の途中で何かがぶつかる音がして電話が切れた。かけ直しても彼は出てくれなかった。


 その夜、わたしは彼が事故で亡くなったと聞いた。信じられなかった。ううん、信じたくなかった。彼もわたしのことが好きだって言ってくれたのに、それなのに、もう逢えないだなんて……。

 机の上を見ると、彼の小説、違う、わたしへのラブレターがあった。

 開いてみる。そこには、彼がいた。どのページにも彼がいた。

 どの彼もわたしに愛を伝えようとしていた。

 視界が歪む。読めない……。彼が、そこにいるのに……。

 逢いたい……。一人にしないでよ……。



 気付いたらわたしは真っ白な空間にいた。左右どころか、上下さえ分からない、ただ真っ白な空間。

「十和」

 彼の声が聞こえた。彼の姿を探そうと思ったら、体が動かないことに気付いた。声も出ない。

 彼がまたどこかに行ってしまいそうで、また失ってしまいそうで、不安になって、涙が溢れそうになった。

「十和、俺の話を聞いてほしい」

 さっきまでは何もなかったはずなのに、目の前に彼がいた。

「死んでしまった今でも俺は君を愛している。でも、もう君の側にいることはできない。君はいつも輝いていた。手が届かない存在だと思っていた。でも、君は俺のことを好きだと言ってくれた。それだけで幸せだったんだ。それ以上の幸せなんてないってほど。でも、もう俺は君を幸せにすることはできない。だから、俺のことは忘れてほしい。そして、君だけでも幸せになってほしい。これが俺の心からの気持ちなんだ。だから、ごめんね。これは俺が持っていくことにするよ。それじゃ、またね。ううん、違うかな、さよなら……」

 彼の手にはあの本があった。


「待って!」

 立ち去ろうとする彼を引き止めようと叫んだ。

 さっきまでの不思議な空間ではなく、そこは自分の部屋だった。

 何で?さっきのは夢?気付いてたら寝てた?なら、彼が死んだのも夢?そう、だよね?だって……。

 そこで気付いた。机に置いてあったはずのあの本がない。慌てて探すけれども、部屋のどこにもなかった。

『これは俺が持っていくことにするよ』

 彼はそう言っていた。なら、あれは夢ではなく、彼がわたしに逢いに来た?それで、持っていったってこと?

『俺のことは忘れてほしい』

 そう彼は言っていたけれど、忘れられるわけがない。忘れるくらいなら、いっそ……。


 わたしはキッチンに行き、包丁を手にした。それを左手首に当てる。力を込め、思いっきり引けば、彼の元に行ける。

 ごめんね、わたし、貴方のいない生活なんて耐えられないよ。だから、今からそっちに行くね。

 力を込める。痛みと共に、彼の言葉が脳裏をよぎった。

『君だけでも幸せになってほしい』

 その瞬間、わたしの手から包丁が落ちていった。

 彼なしでは生きていけない。でも、彼の想いを無下にすることもわたしにはできなかった。



 あれから何十年と月日が流れました。私は最初の一回以降、彼の本を読むことができませんでした。いえ、書店に行けばいつでも手に入れることはできました。けれども、私にはどうしても手に取ることができませんでした。それが、彼の遺志でもあったのですから。

 そして、私は彼の言うとおり、幸せになろうと思いました。必死に生き、幸せを追い続けました。実際のところ、私は幸せだったのかどうかは分かりません。

 それでも、この生に悔いはありません。そう考えれば、私は幸せなのかもしれませんね。それにこうして、病院のベッドの上で安らかに死を迎えられるのですから。



 あの日と同じ、真っ白な空間に私はいました。ただ、あの日とは違い、自分の身体が動くことに気付きました。

 そんな中、遠くに彼がいるような気がしました。私は近付こうと一歩、足を出します。でも、そこで止まってしまいます。

 こんなに年取ってしまいましたし、彼はきっと、気付いてはくれないですよね。

 私は踵を返し、その場を立ち去ることにしました。

「十和」

 彼の声が私を呼びます。振り向けません。あの頃みたいに私は若くないのですから。彼の隣には相応しくない、そう思ってしまいました。

「誰ですか、それは?」

 だから、私は他人の振りをしました。これで、いいんです。

「どんな姿になっても君のことは分かるよ。十和、だろ?」

 嬉しさで涙が溢れ出た。

 振り向く。気付いたら、わたしの体はあの頃の、若い頃の姿になっていた。彼は驚いたような表情をしていた。

「あの頃のままだ。十和、君は幸せな人生を送れた?」

「分からない。でも、今は幸せだよ」

「今は?それって、どういうこと?」

「だって……」

 彼の目を見て、わたしは自分の想いを、ずっと伝えたかった言葉を言った。涙はまだ止まらないけれども、それでも、できる限り最高の笑顔で。


「わたしが生涯でただ一人愛した貴方にまたこうして会えたんだから」

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読めない本 -Mon amour pour toi- 星成和貴 @Hoshinari

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