隻腕の守護神

織田崇滉

隻腕の守護神




   0.




 幼い頃、女の子がパンを恵んでくれたことがあった。


「お腹すいてるんでしょ? これあげる!」


 石畳の路面、煉瓦造りの街並みが続く、港町の雑踏。


 人々が大航海に思いを馳せ、海原へと駆り出す時代。巨万の富を得た成功者に対し、時代の波に乗れなかった貧困層の格差が目に見えるようになった。


 ボロマントを羽織って路上に座していた男子へ、その少女は慈悲をたまわれた。


 男子とは対照的に、身なりの良いドレスを着飾っている。


 その手はパンを差し出しているが、もう片方の手は、親とおぼしき貴婦人に引っ張られていた。


「まぁ、何とみすぼらしい。物乞いに関わるんじゃありません。こっちにまで貧民の穢れが移ってしまうわ!」


「でも、お母様――」


「早く来なさい!」


「あっ――」


 強く手を引かれた拍子に、少女はパンを落としてしまった。


 それは運良く男子の膝元へ転がり込み、それっきり相手にされなくなる。


「……どうも」


 男子はぶっきらぼうにパンをかじった。


 まだ柔らかくて甘い、焼きたての味だった。







   1.




「いつまで寝てやがる! 起きろ小僧!」


 男子――いや、もう青年と言って良い年齢だ――は、胴間声にどやされて、意識を覚醒させた。


(また、昔の夢を見てしまった)


 夢。


 彼がまだ路頭に迷い、乞食だった頃の、唯一の想い出。


 あのパンで飢えをしのげたから、青年は生き延びた。


 そして今、ここに居ることが出来る。


「早く起きろ小僧。そんな体たらくだから、てめぇは半人前なんだよ、このグズ」


「すみません」


 青年は寝床から這い上がった。


 寝床と言っても茣蓙ござを敷いただけの、粗末な掘っ立て小屋である。


 服装は黒衣。丈夫な麻で出来ているが、動きやすい。


 青年を起こしに来た胴間声の主も、同じ服を着ていた。


 ここでは、これが一張羅だ。


 闇に紛れるための――暗殺者アサシンの正装。


「師匠、おはようございます」


「挨拶なんざどうでもいい。てめぇ、起きるの遅すぎ。俺が敵だったら三回死んでるぜ」


「そんな大袈裟な――」


「――これで四回目だ」


 一閃。


 師匠の姿が視界から消えたかと思うと、左脇の死角から剣の白刃が、青年に肉迫していた。


 首筋にぴたりとあてがわれて、青年は二の句が継げなくなる。


「てめぇは確か、生きることに貪欲だったんだっけか? 昔は盗みも殺しも平気でやってたんだろ? そんなてめぇを見込んで、俺が飼ってやってんだよ。いい加減自覚を持て。気ぃ抜いてんじゃねぇ」


「……すみません」


「俺の見込み違いだったら、てめぇなんざ、容赦なくからな?」


「はい」


「ったく……てめぇを見てると、昔の俺を思い出して嫌になるんだっつうの」


 ふと、師匠の眼差しから怒気が消える。


 ほんの一瞬だったし、何を青年と重ねているのかは測りかねたけれども。そもそも一人前の殺し屋が、過去を振り返って感傷に浸るなんて真似、するはずがない。そんなのは半人前の青年だけだ、多分。


「師匠、今何か言いました?」


「何でもねぇよ」


 師匠はぷいっとそっぽを向いてしまう。


 いつもこうだ。青年の心の垣根には容赦なく踏み込んで来るくせ、自分のこととなると突っぱねてしまう。


 だが、毎朝起こしに来てくれたり、弟子として育てたりしてくれていることを考えると、意外と世話焼きな一面も垣間見える。


 非情な暗殺者なのに、青年は奇妙な情を、信頼を、師匠に抱いても居る。


「よし――そんじゃ、朝の用件を伝えとく。今夜、アサシンギルドから仕事の依頼を持って来てやる」


「仕事ですか。俺に?」


 だから、今日も世話を焼かれた。


 斡旋だ。


「いつまでも半人前で飯が食えると思うなよ? 初仕事だ――


 殺し。


 青年に、ようやくお鉢が回って来た。


 暗殺者として、初めての一歩を踏み出す契機。


 パンの味を噛みしめるという、ただそれだけのために、彼は何でもやって来た。受動的な物乞いではなく、能動的な泥棒や、強盗を繰り返すようになった。


 師匠に拾われたときのことは、今でも覚えている。


 あのとき、青年は民家へ押し入り、皆殺しにして、屋内にあったパンをむさぼっていた。そこで師匠と鉢合わせた。たまたま師匠の標的が、その家の主人だったのだ。


 運命的な邂逅を果たした青年は、そのまま師匠に連れて来られ、暗殺者の訓練を受けるようになった。


 身寄りのない彼が、素質を見込まれて得た、初めての家族だった。


「いいか、半人前。てめぇが仕事をこなしゃ、晴れて一人前だ。だが、しくじったら居場所はねぇと思え。そんときゃ俺が、てめぇを処分する。俺に恥かかせんじゃねぇぞ?」


「――はい」


 青年は身支度を整え、武器を研いだ。


 弧を描く、反りの入った短剣。


 懐中に忍ばせ、すれ違いざま刺殺するのに最も適した得物だ。


 これを数本、体のあちこちに仕込んでおく。いつでも取り出して、戦えるように。一本が壊れても、二本目、三本目を繰り出せるように。







「――依頼が来たぞ」


 夜の帳が降りた頃、書状を抱えて戻って来た師匠が、青年に投げて寄越した。


 小屋の裏庭で稽古に励んでいた青年は、師匠の不意打ちを警戒しつつ、それを受け取る。


 木の皮を乾かして作られた安物の書状には、薄いインクでこう書かれていた。


『港町最大の貿易商、ブルタニユ家の跡取り娘を殺せ』







   2.




 青年には、上流階級の小難しい世界は判らないが、その名前は聞いたことがある。


 ブルタニユ家と言えば、この港町で幅を利かせる大富豪だ。


 何隻もの大型船を所有しており、港に出入りする流通の五割以上を独占している。


 話を聞くと、現当主の直系に当たる継承者が女子しか居ないらしい。跡取りと言えば嫡男が当たり前な風潮の中、やむを得ず長女が、次代の当主として担ぎ出されたそうだ。


 となれば当然、面白くないのは親類縁者たちだ。


 深窓の箱入り娘に跡目が務まるわけがない、と難癖を付ける。遠縁だとしても男性を継承者にすべきだと訴えて来る。何かと内部で争いが絶えないらしい。


「――そこで、この依頼が来たわけだ」背中を叩いて送り出す師匠。「目障りな跡取り娘を、殺す。依頼主がブルタニユ家の関係者らしくてな。今夜の屋敷周りの警備は手薄にしてくれるそうだ。てめぇは散歩でもするように、ひょいっと立ち入って、娘の首をかっさばいて来りゃあ良い。半人前にもこなせる、楽な仕事じゃねぇか。な?」


「依頼主は、標的の親戚なんですか?」


「関係者、としか聞いてねぇな。いいか、俺たちは暗殺者だ。金さえ積まれりゃ受諾する、素姓も理由も聞かねぇ。それがギルドのルールだ」


 そう言われてしまうと、青年は反論できない。


 いずれにせよ、難易度の低い仕事を持ち帰ってくれた師匠の親心には感謝した。


 これをこなせば、青年も一人前だ。


 自分で食い扶持を稼ぎ、独り立ちできる。


(自分の金で、パンを買って、生きて行ける)


 自分の労働で買ったパンは、果たして美味だろうか?


 あのとき味わったパンの旨さを、再び体験できるだろうか――。







「ここが、ブルタニユ家か」


 月のない夜。


 曇に覆われた、新月の宵。


 闇に溶け込んだ青年は、黒装束を潮風にたなびかせて、海辺に建てられた目的の屋敷へ立ち入った。


 塀を飛び越え、中庭へ降り立つ。


 なるほど、警備がない。


 手薄なんてものではない。あからさまに無防備である。


 これでは、青年以外の本物の泥棒も招きかねないな……なんて思っていると、本当に何名かの泥棒と出くわしたので、準備運動も兼ねて喉笛を掻き切ってやった。


(よし。大丈夫。落ち着いて殺せた。体調も万全だ。初仕事は簡単にこなせる)


 手応えを確信しつつ、青年は屋敷の窓を破って、中へ侵入した。


 間取りもすでに、師匠から教わっている。書状にも略図が書かれていた。


 やはり依頼主が、ブルタニユ家の縁者なのだろう。


 目障りな跡取り娘を亡き者にして、縁者が乗っ取る算段に違いない。


 教わった通りに最上階へ登り、ひときわ大きな扉の部屋へ忍び込めば、思った通り、標的の娘が眠る寝室だった。


 瀟洒な天蓋付きのベッドである。


 薄絹のカーテンに覆われた向こう側で、すーすーと寝息を立てているのが聞こえる。


 室内の床には、柔らかな絨毯が敷き詰められており、足音を立てずに接近できた。


 ちょろい仕事だ。


 青年はゆっくりと歩み寄る。


 壁や棚には、高そうな絵画や彫刻が飾られているが、そんなものに興味はない。


 まっすぐにベッドへ向かい、カーテンを手で引いた。


「……遅かったですね」


「なっ――」


 青年は、咄嗟に飛び退いた。


 一定の間合いを確保する。


 ベッドには、娘が座っていた。


 すーすーと落ち着いた呼吸を立てているが、上半身を起こし、青年の接近を歓迎するかのような姿勢だった。


 長い金髪で、小さな顔で、白い肌が透けそうな美少女だった。寝巻きのネグリジェをしどけなく着崩した無垢な少女は、青年の姿を眺めすがめつ、ゆっくりと口角を上げて、えくぼを刻んだ。


 姿を見られてしまったと、青年は焦った。顔にこそ出さないが、心臓が飛び出るかと思った。


 いや、それだけではない。


 もっと他に、衝撃的な事実がある。


 この娘には――


(そうだ。この顔は――)


 忘れもしない、あのときの路上。


 青年がまだ、物乞いだったときの記憶。


 


 ――女はほんの数年で見違えるほど美しく成長すると言うが、その面影は残るものだ。決して消えやしない。


 あのとき、男子の命を繋いでくれた女神が、目の前に君臨していた。


 尤も、少女が青年を覚えているとは思えないが。


「貴様、俺の気配を勘付いていたのか?」


「いいえ」かぶりを振る少女。「今宵、殺し屋が来ることは。なぜなら、私を殺すよう依頼したのは、私自身ですから」


「――お前が!?」


 青年は目をしばたたかせた。


 自分を殺すよう、自分で依頼した?


 頭がおかしいのか?


「どういう――ことだ?」


「私は、ブルタニユ家の操り人形と化しました。家督相続に持ち上げられ、生活の自由はなくなり、跡を継いだ暁には、貴族との政略結婚も決まっています。そのくせ、反対派の親戚からは圧力をかけられ、策謀を練られて妨害工作の雨あられ……もう、疲れてしまったんです」


「疲れた? 意味が判らない」右袖みぎそでに仕込んだ短剣を握る青年。「死にたいなら、一人で勝手に死ねばいいじゃないか。なぜ暗殺者を雇った? しかも、屋敷の警備にまで手を回す念の入りようと来た」


「何者かに殺された方が、事件として大騒ぎになります。当然、疑いは親類縁者に及ぶでしょう。ブルタニユ家は疑心暗鬼に陥り、お家騒動に発展しますわ。この腐りきった富豪の家を崩壊させる序曲となるのです。そのための布石は、方々に打ってあります。暗殺を依頼する書状を親戚宅に偽造しておいたり、私を疎んじるような証言を残させたり。それが、私のささやかな抵抗であり、復讐です」


 疲れた、とのたまう少女は、儚げに微笑んだ。


 あいにく月明かりさえない暗がりの深淵では、その薔薇のごとき笑顔を鑑賞する手段は稀少だったが。


「なぜ俺に事情を話す?  黙っていれば、今頃はもう殺し終えていたのに」


「私の意図をお伝えしたかったのです。しっかりとお家騒動になるよう、明らかな他殺だと判る凄惨な死にざまを、演出して欲しいので」


「……そんなことのために」


「そんなこと? 私は真剣です」


 駄目だ。上流階級の考えていることは理解できない。


 やがて、青年は溜息をこぼした。


 右袖の短剣から手を離し、臨戦態勢を解いて、娘に背を向けた。


「下らない」


「なぜです?」


「そうやって、悲劇のヒロインぶっているつもりか? 自分で自分を殺す依頼なんて、つまらないこともあったもんだ。俺は生きるために他者を殺すが、自殺の手伝いまでやる気はない。それは己の生きる権利を放棄する、最も下卑た行為だ。這ってでも、あがいてでも、生き延びようと戦うべきだ。戦いから逃げる奴を、俺は軽蔑する」


「……変な人。暗殺者が、生きることの大切さを説教するなんて」


「黙れ。大体お前は、偽の証拠を親戚に仕込むくらい頭が切れるんだろう? だったら、その力でのし上がれ。這い上がれ。成り上がってみせろ。疲れたなんて甘ったれるな。自分が勝って、生き残れ」


「……あなたは、一体」


「うるさい。俺は、。俺は生きるぞ。もともと、お前に救われた命なんだ」


「え?」


「俺は生きる。そして、お前が生きている限り、お前の活躍を見守ってやる」


 青年は部屋の窓を破って、外へ脱出した。


 せっかくの初仕事、それもこんなに簡単な内容を、彼は反故にしてしまった。


(俺はもう、師匠のもとには帰れないな)


 屋敷の敷地を抜け出して、月のない夜空を見上げる。


 街頭を避け、 路地裏の暗がりをさまよう青年だったが――。


「――しくじったみてぇだな、小僧?」


「!」


 ――いつの間に背後を取られたのだろう。


 青年の背中へ問いかけて来た師匠の声は、明らかに殺気がこもっていた。







   3.




「師匠、いつの間に」


「てめぇ、血の匂いはすれども、女の血じゃねぇな。まさか失敗したとは言わせねぇぞ?」


「すみません、師匠。だが、俺はあの娘だけは殺せないんです」


「意味が判んねぇよ。依頼の未達は、暗殺者の名折れだ。失敗は許されねぇ――どうやらてめぇは、とんだ見込み違いだったわけだ。処分せにゃならねぇか――」


「俺を殺すんですか、師匠?」


「最初にそう言っただろうが。馬鹿な真似しやがって」


「死ぬのは俺も困ります」向き直る青年。「俺は生きる。生きるために何でもして来た。いくら師匠でも、殺されるわけにはいきません。許してくれませんか?」


「都合のいいことほざいてんじゃねぇぞ! これ以上俺を失望させんなクソが。てめぇは最後の最後まで、出来損ないの半人前かよ」


「師匠――」


「てめぇは俺に似てたから、目ぇかけてやってたってのによぉ」


 ふと、師匠の顔付きが和らぐ。


 殺気じみた鬼の形相ではなく、ときどき見せてくれた、世話焼きの優しい眼差しがあった。


「てめぇは俺の生き写しだ。貧民層出身で、糊口をしのぐために何でもやった。自然と人を殺すことも覚えた。そこを偶然、暗殺者に誘われた。俺もそうやって命を繋いで来たんだ」


「……そうだったんですか」


 冷徹な師匠が、青年を手塩にかけて育てた理由。


 冷血な師匠が、青年に手厚く接してくれた理由。


 この世界で生きて行くには、師匠と同じ道をたどらなければいけない。しかし、青年は背いてしまった。今までの温情も慈悲も、何もかも裏切ってしまった。


「なんで俺に出来たことが、てめぇに出来ねぇんだよ!」


 それは、親心だ。


 師から弟子へ、親から子へ、連綿と受け継がれるべき生き様なのだ。


「いいか、一回だ、もう一回だけ言うぞ。今ならまだ目ぇつぶってやる、引き返せ。屋敷へ戻って、殺して来い」


 師匠はそう言うと、目頭を手でこすった。


 暗くてまともに視認できないが、双眸から何かを流している。


 赤黒い何か。


(――血涙?)


 青年は目を見張った。


 どうする? どうすれば良い?


 額に脂汗が幾筋も流れた。眉間にしわを寄せ、歯を食いしばり、拳を握って、足を震わせた。


 躊躇する。逡巡する。狼狽する。


 娘と師匠の両天秤が、頭の中で揺れ動く。


 でも。


 けれども――。


「すみません、出来ません」


「クソッタレがぁ!」


 師匠の手許で、鞘走りする抜剣の音が聞こえた。


 粛清の時間だ。


(戦わなければいけない。師匠に勝って、生き延びなければいけない)


 青年も腹をくくるしかない。


 迷いを捨てないといけない。


 途端に、師匠の姿が消えた。


 毎度おなじみの手だ。


 師匠は人の死角を突くのがうまい。気配だって消せる。


 今まで、青年は逆立ちしても勝てなかった。師匠は凄腕の暗殺者だ。実力には雲泥の差がある。青年に勝てる見込みなんて、あるわけがなかった。


 ――普通の場合なら。


(左脇の、斜め後ろ!)


 青年は、自分の隙がそこにあることを自覚している。


 過去に何度も、そこを狙われたから知っている。だから今も、師匠がそこを攻めて来ることは予測していた。


 無論、予知しただけで勝てるとは思っていない。師匠の出方が判明しても、その神業に体が付いて行かない。


 ――が。


(腕の一本くらいはくれてやる)


 師匠と戦闘したら、無傷で済むわけがない。


 だから青年は、すでに覚悟を決めていた。


 ――肉を切らせて骨を断つ覚悟。


 師匠からの斬撃を、何とか紙一重でかわす。


 急所への鋭い刺突は、どうにかよけた。


 青年は左腕を伸ばし、師匠を捕まえようとする。もちろん、そんなもので本当に捉えられるとは思っていない。


 師匠は鼻で笑うと、青年の左腕を、ものも言わずに一刀両断した。


 ただの一振りで、音もなく。


 血飛沫が舞い踊る。


 青年は激痛で慟哭したくなるが、歯を食いしばってこらえた。


 ここまでは計算のうちだ。師匠が腕を削ぎ、体勢を整えるまでの、わずかな予備動作、隙、空白、残心。――青年は、そこを突く。そこに全てを賭ける。


 最初からこれが狙いだったので、行動も速い。この瞬間だけは、師匠の反応速度を上回った。


 ――師匠の心臓へ、青年の短剣が刺し込まれる。


 彼の右袖みぎそでに仕込んでおいた短剣だった。


「がはっ」


 師匠はのけぞり、横向きに倒れた。


 鮮血を路上へぶちまけながら、浅い呼吸を繰り返していたが、やがてそれも弱くなる。


 最後に、蚊の鳴くような声量で、ぽつりと呟いた。


「何だよ――じゃねぇか――」


「……お世話に……なりました」


 深々と頭を下げる。


 師匠がそれを認識できたかは、判らない。


 すでに息は止まっていた。


 ――勝った。


 ただ、その事実だけが残る。


(俺は、生き延びた……ぞ……)


 青年は虚ろな面相で、そう噛みしめた。


 勝つには勝ったが、意識が朦朧とする。こっちも満身創痍だ。切断された左腕の断面を布で縛り、よろめきつつ歩き出す。


 だが、出血が止まらない。傷がでか過ぎる。


(さて……どこへ行こう)


 行くあてがない。


 血もない。


 体力もない。


 痛みで感覚が鈍化している。


 それでも、歩かなければいけない。


「……血が足りないな……だが、俺は生きなきゃいけない……あの娘に、見栄を張ってしまったから……絶対に、生きて……あの娘の行く末を、見……守……る……ん……」


 言葉が途切れる。


 青年は無言で、路地の影へ姿を消した。


 寄るべのない、暗闇の深淵へ。







   4.




 やがて。


 富豪の娘は、頭目を引き継いだ。


 ブルタニユ家の貿易商としては、初の女性実業家が誕生した格好だ。


 それまでは、女子供に当主が務まるものかと馬鹿にされて来たが、彼女はとてつもない勤勉家で、頭もよく切れた。見る間に業績を上げ、並み居る競合名家を跳ね除けて、ブルタニユ家にさらなる繁栄をもたらした。


 と同時に、親類縁者へは平等に要職と地位をもてなし、反逆の芽を摘むことも怠らなかった。


 先見の明と機転の良さを活かし、良好かつ盤石な経営体制を築いたという。


 さらには貧困層への寄付を始め、雇用と住まいを提供し、貧富の差を根絶する奉仕活動にも尽力した。


 ――無論、そこまでの道のりは険しかった。


 取引に旅立てば命を狙われ、家に戻れば権謀術数。毒殺、謀殺、事故、何でもござれ。


 だが、不思議なことに、彼女はまるで何者かに守護されるかのごとく、無傷で万難を乗り越えるのだ。


 この理由について、のちに本人がこう語っている。



「どうしようもない身の危険や、窮地に陥ったとき、どこからともなく守護神が現れて、私を助けて下さるんです。顔も名前も存じませんけど、報酬にパンを一つだけ要求して来る、隻腕の守護神が」








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

隻腕の守護神 織田崇滉 @takao

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ