美大生人間アンディ・ウォーホル

まくるめ(枕目)

第1話 蔵六の奇病セカンドシーズン 前編

 その日も多摩では、硫酸の雨が降っていた。

 かつて「東洋のシカゴ」と呼ばれ栄えた多摩市の中心街、そこは、いまや廃墟と化している。水をかけられた角砂糖の群れのように、街はいまこの時も熔けつつあった。

 昼だというのに太陽は見えず、黒い雲だけがずっと天をおおっている。ここ半月ほど、硫酸の雨は止むことがない。マッチを擦ったときのような臭気がする。

 中心街の大通りですら、人の気配はない。

 ただひとりの男をのぞいて。

 硫酸の雨の中に彼はたたずんでいる。

 彼は黒いトレンチコートに身を包み、フェドーラ帽をかぶっていた。

 大柄で、骨ばった顔だちをしていたが、その頑健そうな造形のわりには生気のようなものが感じられなかった。肌は灰色がかって見えたし、濡れた長い黒髪は海藻のように光っていた。

 彼は降り注ぐ酸の中にもかかわらず、顔をあげ、鋭い目で空中の一点を凝視していた。人間であれば、目に雨が入るだけでもひどく苦しむというのに。

 男の視線の先には、現代アートがあった。

 その現代アートは、老人の顔のついた巨大な雲の形をしていた。

 雲の表面は沸騰したようにボコボコと泡立ち、ときおり紫電を走らせながら、ガスのようなものを空中に撒き散らしている。老人の顔は、あきらめたような表情に歪んでいる。

 その現代アートの下には、廃材で作られた巨大な立て札があり、そこにはこう書かれていた。


 題:「雲G」


 この雲Gと呼ばれる現代アートが、多摩を滅ぼしたのである。

 この多摩の中心エリアは、巨大な現代アート・インスタレーション「雲G」によって、芸術が支配する領域、すなわち「アート空間」と化していた。



 「にいちゃん。綺麗な顔のにいちゃん。いったい何しにこんなところにきた?」

 声がした。

 ひどく聞き取りづらい声である。

 見ると、廃墟と化したコンビニエンスストアの中に、モヒカンの痩せぎすな男が座っていた。

 「こんなところ、人間がくるところじゃねえよ……あんまり長いことこの雨に当たってちゃいけねえ。死んじまうよ。おまえ死んじまうよ」

 男は手招きする。

 近づいてのぞきこむと、男がそのコンビニの廃墟を住みかにしているらしいことがわかった。彼はダンボールを積み重ねて即席の寝床のようなものを作り、その上にあぐらをかいていた。

 大きな懐中電灯がふたつ置かれていて、男の身体を下から照らしあげていた。

 「この雨に長くあたると……こうなっちまうぜ?」

 男はそう言った。彼の言わんとする事は一目でわかった。その男の全身には、ピンポン球を埋めこんだようなできものがいくつもあったからだ。顔はできものに埋まったようになっていて、もとの顔だちすら定かではない。

 「……おれは蔵六だ」

 男はそう名乗った。蔵六の足はやせ細って、枯れ枝のように変形していた。おそらく、もう歩けないのだろう。

 「雨に当たるなよ、こうなって死んじまうよ」

 そう言いながら、蔵六は自分のできものを掻いた。

 蔵六ができものを掻くと、そのひとつひとつから膿が噴き出した。

 赤い膿、青い膿、黄色い膿、蔵六は色とりどりの液体をできものから噴き出していたのだった。

 「それは……リキテックスか?」

 彼は蔵六に問うた。リキテックスとは、アメリカ製のアクリル絵の具である。

 「そう、そうだよ。リキテックスだよ! おれはこの病気にかかってから、全身のできものからアクリル絵の具が噴き出すようになったんだよ!」

 蔵六の狂気じみた笑いからは、彼がその状況を喜んでいるのか、悲しんでいるのか、判断する事はむずかしかった。

 ただ、一つだけ言えることがある。

 蔵六は、もはや人間ではない。

 「……アーティストか」

 「そうだ! おれはアーティストになったのさ! この奇病とひき替えにな! 苦しみ抜いたすえに、全身から絵の具が噴き出したとき、おれは悟ったんだ! おれは画家なんだ!」

 蔵六は、息が切れるまで笑い続け、それから思い出したように来訪者を見た。

 「おまえ……名前は?」

 「ない。おれは名前を持たない」

 来訪者は言った。

 「おれはいくつも名前を持つ。そして、その持っている名前のどれも、おれの名ではない。おれに名前はない。おまえに決まった色がないように」

 来訪者を見る蔵六の視線が、敵意に満ちたものに変わっていく。

 蔵六は気づいたのだ。

 「そして、名前がなくても、自分が何者かは知っている……」

 「何者なんだい……?」

 「おれは……」

 蔵六が四つんばいになって、よたよたとダンボールから身を起こす。

 彼の座っていたダンボールには、彼の体液によってロールシャッハじみたカラフルな模様が広がっていた。デカルコマニーと呼ばれる絵画の手法に似ていた。

 「おれは……キュレーターだ」

 キュレーターは、雲Gを指さし、にいと笑った。

 彼の上あごの糸切り歯は、下の歯のきわに触れるほど長かった。

 「キュレーターは壊しに来た、おまえのアートを……」

 「聞いたことがあるぜ……」

 蔵六は、ツイスターのように不自然な姿勢をいくつもとりながら、どうにか壁にもたれて身体を起こした。

 「アーティストと人間に合いの子が生まれると、それはアーティストでも人間でもない存在になる。呪われた忌み子……美大生」

 キュレーターの口の端がわずかに歪んだ。それが笑みなのか、怒りの表情なのかは、誰にも読みとれなかった。

 「美大生なんだな……? そうなんだな?」

 「そうだ」

 「……美大生は、人間の身体にアーティストの魂を持つ。定命の者の肉体と、不死者の魂だ。だがか弱く変化を常とする定命の肉体にとって、アーティストの魂は強烈すぎる……」

 「そうだ」

 「だから美大生の肉体は歪んでいく……絶え間ない苦痛そのもの」

 「そうだ! そうだ!」

 キュレーターは跳んだ。

 それは、常人には到底不可能な高さの跳躍であった。

 「私はアーティストを喰らう。アーティストが人間を喰らうように!」

 キュレーターの身体は、すぐに雲Gと同じ高度に達した。

 陰気だった雲Gの老人の顔が、憤怒の形相へ変わる。

 「美術なしでは生きていけないのだ! 美術を喰らわぬことには、この身体の痛みはひとときも納まることがない!」

 キュレーターはトレンチコートに両手を突っこみ、二丁の拳銃をとりだす。

 「眠りすら得ることはできないのだ!」

 キュレーターは銃を撃つ、ほぼ乱射である。

 銃声が響くたびに、雲Gの肉体が少しづるちぎれ飛んでいく。

 「おおおおおおおおお、くもじいになにをするんじゃああああああ!」

 雲Gの怒りの叫びは、多摩市の全域にこだますほどであった。

 「汚らわしい美大生がッ! 逆に食ってやるッ!」

 雲Gは全身をうねらせ、竜巻のような形に変化する。

 「アートの数は多すぎる……」

 キュレーターは風のおありを受けて空中を翻弄されながらも、迫りくる雲Gに弾丸を撃ち込みつづける。

 「ぐわああああああああああああ!」

 「やめろッ……!」

 蔵六はコンビニから這いだし、雲Gとキュレーターを見上げた。

 「やめなよ。やめてくれよ、おれは……こんなに病んでいるのに……」

 蔵六はパレットナイフをとりだし、それで全身のできものを切り刻み始めた。

 「こんなに病んでいるのにッ!」

 蔵六のできものから吹き出た大量のリキテックスが、からみ合いながら極彩色の帯を作る。それが雲Gに吸い込まれていく。

 雲Gの全身が光りはじめた。雲Gの身体から無数の竜巻が触手のように生える。その姿はさながら大規模なメディアアートのようであった。

 触手の一撃がキュレーターをとらえた。

 「ぐっ!」

 キュレーターの身体ははじき飛ばされ、パルテノン多摩の廃墟にめり込んだ。

 「しょせん定命の身体よ! それでアーティストが殺せるかッ」

 ハカを踊って威嚇する蔵六。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

美大生人間アンディ・ウォーホル まくるめ(枕目) @macrame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る