応援歌/了

3


「大学、不安か?」


そう兄に尋ねられたのは、引越しの荷物を家に運び入れ終わって、昼食を摂っているときのことだった。僕はすぐには答えを返さず、コンビニ弁当を適当に箸でつつき、その中から卵焼きを選んで口に入れ、嚥下してからようやく返答した。


「どうしてわかるの?」


正直に白状すると、兄はやっぱりなと笑いながら言った。


「それはほら、兄貴だからな」

「ふうん……。一から始めなきゃいけないっていうのが、ちょっとね」


昨日田島から気楽だろうと言われた際に返答に窮したのは、つまりそういうことだった。

過去のいじめが原因で、僕は出会いというものにひどく臆病になっていた。中学、高校とどうにかうまくやってこられたが、次もうまくできるという確信がどうしても持てない。


「何とかなるだろうよ」


不安が顔に出ていたようで、兄は不自然に思えるほど軽薄にそう言った。たいした問題じゃないと、兄は続けた。


「どうしてそう自信をもって言えるのさ」

「それはほら、兄貴だからな」


拗ねたような表情になって尋ねた僕に、兄は先と同じ言葉でもって簡潔に答えた。

兄はカップラーメンのスープを一気に飲み干して、少しむせ返って、何度か咳をした後で問いを重ねた。


「お前、ほかに何か悩んでないか?」

「ほかに?」


内心どきりとした。昨夜の女の子の笑顔と声が蘇る。兄ならば、僕の話を馬鹿にすることなく、僕の気が済むまで聞いてくれるのだろう。もしかしたら精神科医を紹介したり、信じてもいない怪しげな霊能者を呼んできてくれるかもしれない。


誰よりも頼りになる存在が兄だった。

だけど、僕は首を横に振っていた。


「ううん、別に何もないよ」

「隠してないか?」


さすが、鋭い。僕は言い方を変えた。


「悩んでいたとして、でもそれは、僕が解決しなくちゃいけないことだから」


まっすぐに兄の目を見つめて言うと、しばし兄は呆然としたように僕を見つめて、それから豪快に笑った。


「そうか。それならいい」


それだけ言って、手近な段ボールをカッターで切り開くのだった。


4


僕は彼女を待っていた。時刻は深夜〇時五十九分。両親は寝静まって、この家で起きているのは僕だけだった。蛍光灯はつけたままで、部屋中のものが明るく照らされている。彼女が現れれば、即座にわかるだろう。


僕は彼女を待たねばならなかった。

それは僕の決意であり、僕のためであり、何より彼女のためだった。


彼女は僕にずっと呼びかけていたのだと思う。僕はそれにまだ答えていない。今夜、僕は彼女に別れを告げる。この関係は、よくない。


壁掛け時計が午前一時を示した。同時、眼前には既に彼女がいる。まるで現れるまでの数コマのフィルムを切り取ってしまったかのように、唐突に。

だけれども、僕は驚かない。

彼女が現れることは予想していたことだし、僕は彼女の顔を昔から知っていたのだから。いまや僕は、彼女の奇怪な行動から、彼女が何者であるのかを確信していた。


彼女は昨日と変わらず満面の笑みを浮かべている。


僕も彼女に微笑みかけた。


「ごめんね、僕が弱かったから、君が苦しむことになったんだ」


彼女の表情に、初めて変化が訪れる。張り付いていた笑みは砕け散り、その奥から驚愕と動揺が現れた。目を見開き、こちらを凝視している。特に、僕の口元のあたりを。


彼女は待っているのだろう、僕の紡ぐ言葉を。


「もう、無理に笑わなくていいから。僕は、大丈夫だから」


僕は一歩を歩み寄った。狭い部屋だ、一歩前に進むだけで、僕と彼女の距離はほとんどゼロにまで縮まった。彼女は硬直したまま動かない。まるで、先日、夕陽を浴びた彼女を見た僕のように。


僕は彼女をそっと抱きしめた。彼女は、おずおずと、躊躇するように、ゆっくりと僕の背中に手を回した。


そしてとうとう、彼女は泣き出した。初めて会った時のような、声を押し殺すような泣き方ではない。声をあげて泣きじゃくり始めた。


それから、


こう、


叫んだのだ。


「どうして私を殺したの!」


その言葉は、僕の心の奥底を深く抉った。僕の頬を、彼女のそれと同じ涙が伝う。それから強く抱きしめ、ひたすらに彼女に謝り続けた。僕が弱かったせいで、彼女は死を選んだのだ。

涙でにじんだ視界にはっきりと見えるのは、床を染める血だまり。

その真っ赤な血液がどこから流れているのかなど、確認するまでもなかった。

背中に感じる、流れ出る熱い液体。


それは僕を抱きしめる彼女の手首から流れ出ていた。


「ごめんね、僕が、弱かったから……」


5


四月。高校を卒業して一か月が経った。それは同時に、消えてしまったあの女の子と別れて三か月が経過したことを意味する。彼女はずっと笑いかけて、応援してくれていた。苦しみに耐えながら、それでも必死に笑顔を浮かべて。


その応援に応えようと思う。


僕は、否、私からの応援に僕が応えるのでは気が引ける。


チェック柄のスカートと肩をくすぐる黒髪が、春風になびいた。


あの応援で自分を省みて、強くなれたと、少なくとも勇気を得たと思う。


もう僕である必要はない。

私は大学の門をくぐりぬけた。


<了>

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