応援歌/2
2
夢を見ていた。昔の夢だ。そして惨めな夢だ。夢の中で、僕は立ちすくんでいた。買ったばかりの彫刻刀で机に掘られた罵倒の数々を、僕は黙って見下ろしていた。馬鹿、死ね、学校来るな、近寄るな――それらの言葉が、無機質な文字となって机上を踊っていた。椅子に座ることは出来なかった。掲示板のプリントをとめるために使われていたはずの画鋲が、そこで先端を向けて僕を待ち受けていたから。引き出しの中にはクラス中の使い古した雑巾が詰まっていて、みんなの席には真新しい雑巾が洗濯ばさみで吊るされていた。
あの頃、僕はまだ不器用な小学生で、虐げに対してただ心中で静かに不条理を訴えることしかできなかった。僕は立ち向かわなかったのだ。あの頃の僕は、学校で一言も喋らなかったように思う。
僕が虐げの対象になった理由はわからない。そもそも理由なんてあったのだろうかと、いまでも疑問に思う。あったとしてもそれは、たまたま僕の席が当時ガキ大将で通っていた彼の隣だったからいじめやすかったとか、その程度だったのだろう。
目的のない無邪気ないじめは、卒業を間近にしたある日のホームルームで、先生が注意を促したことであっさりと終わりを告げた。
それ以来、僕は集団の中に入る機会に、とりわけ出会いというものに臆病になっていた。
目を覚ますと、電車の扉が閉じる寸前だった。僕は寝ぼけ眼で周囲の様子を観察し、次の瞬間には眠気が吹き飛んでいた。慌てて降車した。その駅は僕の見慣れた学校の最寄り駅、そこから更に二駅分先の駅だった。
特に理由はなかったものの学校へ向かおうとしていたため、これは失策だった。
あまり降りたことのない駅は、未知という脅威を伴って僕の不安を煽る。僕は見たことのないものが嫌いだった。すぐに反対側のホームへ移動しようと、一緒に降りていた人々に倣って近くにあった階段を上り始めた。階段を上り切ると改札があり、そこでは結構な数の人々が列をなしていた。見れば反対側のホームもちょうど電車が過ぎたようで、同じように人々が上ってこちらへと向かってきている。
どうやら次の電車に乗るまでには、五分程待たなければならないようだった。
往来を見送って、僕が流れに逆らい階段を下りようとすると、
「あれ、おい、ちょっと」
そんな声が聞こえた。それが聞いたことのある声だと思った僕は、足を止めて振り返ってみた。勘違いだとしたら何食わぬ顔でまた歩き出せばいい。
声の主は同じ高校に通うクラスメイト、田島省吾だった。学校の帰りか、制服に身を包んでいて、肩には指定の鞄を提げていた。田島が階段を下りてきた。
「田島、奇遇だね。学校の帰り?」
尋ねると、替えは変なものでも見るような表情を浮かべ、嘆息した。
「そんなわけないだろ」
「どうして?」
「学校帰りだとしたら、僕はどうして学校へ向かうホームに下りてくるんだよ」
「あ……」
なるほど、とつぶやくと、彼は再度嘆息した。
「それに、俺は今日欠席しただろうに」
「そうだったっけ」
階段を登り切って時刻表を確認すると、やはり次の電車は五分後だった。僕たちは二人で空いていたベンチに腰掛けた。
「でも、それならどうして制服を?」
「今日、S大の受験だったんだよ」
それを聞いて、ようやく得心した。S大ならばこの駅が最寄り駅となる。彼は試験を終えて帰宅するところなのだ。そういえば、彼の自宅と僕のそれとは、学校から見て方向が同じだと聞いたことがあった。学校帰りにこの駅によることはない。
受験に制服は必要ないだろうとも思ったが、それは彼の実直さを雄弁に語っていた。
「お前はどうしたんだ? ろくに荷物も持たないで」
「僕は、なんとなく、かな」
「なんだそれ」
あいまいな返答に彼が納得するはずもなく、眉をしかめるばかりだった。まさか家に幽霊のような女の子が出たとはとても言えない。現実主義者で理屈っぽい彼のことだ、一笑に伏してくれるだろう。僕は追及を避けようとして、そんなことより、と前置きして話題を戻した。
「試験、どうだった?」
「ああ、多分大丈夫かな。まあ、滑り止めだし」
「そう。受かるといいね」
「お前はいいよな。ずいぶん前に合格決まったから、気楽だろ」
田島のその言葉に、僕は口をつぐんだ。まあねと言って愛想笑いでもすればそれで良かったのだろう。だけど僕にはそれができなかった。
彼は僕が顔をうつむけたことに気付かず、その視線は変わらず線路を向いていた。すると沈黙を嫌ったのか、ホームに電車が来るとのアナウンスが流れ、間もなくして電車は姿を現した。停止する際の、車輪とレールの摩擦による騒音で、僕の応えはかき消され、結局田島の耳には届かなかった。
「……そうでもないよ」
僕と田島は腰を上げて電車へと乗り込んだ。少し混雑していて、座ることは出来なかった。仕方なく、乗り込んだ扉とは逆の、閉じられた扉の方へ体を預けることにした。人をかき分けて奥へと進んでいく。
と、その時だった。小窓を通して、反対側のホームに視線が注がれたのは。瞠目する。ホームに、あの女の子が立っていたのだ。僕の部屋で泣いていた、あの女の子だ。なぜここに。僕を、ここまで、追いかけてきたのか。
その推論を裏付けるように、彼女はまっすぐに僕を見つめていた。その口元に、満面の笑みを浮かべて。
彼女は僕を確認すると、突然走り出した。
向かう先は階段だ。恐ろしい考えが脳裏をよぎる。彼女は僕を追いつめるために、こちらのホームへと移動を始めたのかもしれない。
鼓動が跳ね上がる。動揺から、がちがちと歯がかち合う。背筋が冷たくなっていくのを感じながら、一刻も早く電車が発車するように心底から願った。
数秒後、願いを聞き届けたかのように空気の抜ける音とともに扉が閉まり、電車は発車した。
ホームが見えなくなる直前、階段を駆け下りる、白い靴下が見えた。
結局、田島に別れを告げて僕が降車した駅は、家の最寄り駅だった。家を飛び出してから一時間以上が経過した今なら親が帰ってきているはずだからだ。ほとんどの生徒が下校した学校よりも、親のいる家の方が安全だと思った。
すっかり日は沈んでいたが、周囲はそれほど暗くなかった。皮肉なほどに月が明るく綺麗だったからだ。それでも僕は、なるべく街頭や人通りの多い通りを選んで家路についた。
帰宅するなり、母親に怒鳴られた。それはそうだろう、玄関の鍵も閉めずに外出してしまったのだから。叱咤を苦痛に思いながらも、人がいることに安心を覚えていた。
十分間に及ぶ説教を聞き終えると、僕は二階への階段を上がり、自室の前に立った。扉は開けっ放しになっているものの、暗くて中の様子は窺えない。
いる――気配は、感じ、られない。
生唾を飲み込む。手の平には嫌な汗をかいていた。一度目を固く閉じて、決意とともに開いた。手を伸ばして、蛍光灯のスイッチを押した。数回の点灯を重ね、蛍光灯が白く輝き、部屋中を照らし出した。
広がっていたのは見慣れた日常。僕を恐怖に陥れた彼女の姿はない。安堵とともに全身が弛緩し、僕はぺたりとその場に座り込んだ。
そしてそれから数時間という短い間ながら、僕は日常を取り戻したのだ。制服から私服に着替え、夕飯を食べて、テレビを見て、泥のように思い疲労を風呂で洗い流した。
寝間着を着て自室に戻り、ベッドに潜り込む。暖房はつけているものの、この時期はやはり寝間着一枚では肌寒い。布団の中から手を伸ばし、棚の上の携帯電話を拾った。メール受信を知らせるメッセージが表示されている。送信者を確認するとそれは僕の兄で、内容は読み上げるまでもなかった。
「明日か……」
明日は兄が引越しをする火で、引越し先が学校の近所なものだから、手伝いを頼まれていた。メールは明日の待ち合わせ時間と場所とを指定するものだった。
七つ年上の兄は、なんでも転勤でこちらに来ることになったらしい。まだ入社して三年だというのに、兄は各地を転々としていた。今回の引っ越しにしても、直線距離にして四百キロ以上の大移動である。
転勤続きであることを僕は憂慮したが、兄は誰よりも平気な顔をして僕に笑いかけた。兄は僕にとっての目標だった。
そんな彼も物心つくまでは病弱で内向的だったという。それを矯正したのが両親だった。「男児は強くあらねばならぬ」という狂信的で古典的な教育を施したのだ。結果として、それは功を奏したかたちとなる。兄は強く自分に厳しい人となり、いつしか病に伏せることも少なくなっていた。そして僕は、物心ついたころから兄の強さに憧れていた。
そんな兄の頼みを断るわけにはいかなかった。別段早い時間に待ち合わせたわけでもないけれど、僕は早めに寝ることにした。今日この部屋であった非日常のことを、なるべく考えないようにしたかった。
やがて、洗い流しきれなかった疲労が、睡魔に転じた。
物音がして、目が覚めた。部屋の中は暗い。就寝の際は部屋を真っ暗にするのが、僕の習慣だった。だけどその習慣は、今晩ばかりは悔やまれた。
たとえ視界に映るのが闇一色でも、慣れ親しんだ部屋の間取りは手に取るようにわかる。
物音は机の脇から聞こえてきていた。
びりびりと、紙を破るような音が断続的に聞こえていた。一枚の紙を半分に破り、その紙片をまた半分に破り、それをひたすら繰り返す。その光景が、音を聞くだけで僕の脳裏に鮮明に映しだされた。
問題なのは、誰がそれをしているのかということだった。
人の気配。
まだ子供であることをうかがわせる小さな体躯が、机の脇に隠れるようにしてうずくまっている。それが誰なのか、僕には容易に想像がついた。
夕方の、彼女だ。
駅から僕を追いかけて、再びここにたどり着いたのか。
物音に混じって聞こえるのは、繰り返されるあの二つの単語だった。
苦しい、苦しい、タスケテ、助けて、たすけて
時間を見ると、深夜一時を示していた。そのとき僕は、無性に泣きたくなった。この時間は、親の寝静まる時間だ。つまり物音を立てても、親には決して気づかれない時間。彼女はその時刻に物音と言葉を紡ぎはじめ、結果、僕を起こした。
多分、彼女は僕が起きたことにまだ気が付いていない。
僕はゆっくりと身を起こした。
夕方に初めて彼女を見たときには微動だにしなかった四肢は、不自由なく動いた。
布団が捲られる音で、僕が起きたことに気付いたのだろう。暗中の女の子は髪を破る手を止めた。同時に声も聞こえなくなる。一瞬にして訪れた静寂は、やはり声と音が幻聴だったのではないかと僕に思わせた。
いまおそらく彼女は満面の笑みを浮かべているのだろう。こちらをまっすぐに凝視して、一切の苦痛をうかがわせることのない完璧な笑みを。
僕は彼女がいるであろう方向へ、小さく声をあげた。
「笑わなくていいよ……」
「やだ」
はっきりとした拒絶の声。これまでのような小さな声でなく、よく響く声で、彼女はそう明言した。彼女は続ける。恐らく、笑みを張り付かせたまま。
「笑うから。笑うから笑うから」
「どうして……」
その疑問に応える声はなかった。そしてその晩、音と声は聞こえなくなったものの、彼女の気配は一晩中続いていた。僕は眠れるわけもなく、彼女をどうすれば良いのだろうかと、一向に解を導けない問題に、頭を悩ませていた。
翌朝。あれから一睡もできなかった僕は眠い目をこすりながらベッドから起き上がった。もう十分に明るくなっていて、はっきりと部屋中を見渡せた。だけどどこにも彼女の姿はなく、確かにいたという証拠であるはずの紙片も、どこにも見当たらなかった。
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