応援歌

【セント】ral_island

応援歌/1

1


僕がその日に過ごした時間は、日常と呼ぶに何ら差し支えない程度の、何でもない時間だった。朝、目覚ましに叩き起こされ、制服に着替えてから朝食を摂り、「いってきます」と家を出て、電車に三十分ほど揺られて高校へ向かった。

既に志望校合格の決まっていた僕にとっては退屈極まりない授業を受け、学食で昼食を摂り、午後の授業では睡魔に身をゆだね、傾いた日を背にして帰路についた。


間違いなく日常と呼べる時間だった。


そしてそれは、玄関の扉をくぐり、続けて二階にある自室の扉を開けた瞬間に終わりを告げた。


ふと、あたりに静寂が満ちていることを自覚する。奇妙なほどに静かだ。隣家の犬の鳴き声も、鳥の囀りも、人の声も聞こえてこない。その代わりとでもいうように、視界に映るものがやけに鮮明だった。使い慣れた勉強机、寝慣れたベッド、使い古された本棚とクローゼット、真新しいカレンダー、午後四時五十分を示す時計。

それらに刻まれた小さな傷や、薄く積もった埃にいたるまではっきりと見て取れた。


そしてそれらと同じく鮮明に映るのは、部屋の中央に立っている、一人の女の子。


息を呑む。足元でどすんという音。視線を転ずると、僕の手はいつの間にか震えていて、鞄を取り落としていた。足はすくみ、そこから退くことも進むこともできない。不思議なほど素直に、体が、硬直していた。


視線を部屋の中央へと戻す。錆付いたブリキ人形の如く、その動きは緩慢でぎこちない。

眼前には先と変わらず女の子が立っている。一度視界に入り込むと、もう外すことはできなかった。静寂を破るような何かがない限り、このまま自由を奪われ続けるのだろうという根拠のない推測を、僕は疑おうともしなかった。


否が応にも、女の子の細部までもが網膜に焼き付けられる。茶のコートに包まれる身体は小さく、年の頃は十に届くかどうか、まだ小学生なのだろう。飾り気はなく、背中まで伸ばした黒髪以外に、これといって特筆すべき特徴はない。

両手で顔を覆っている彼女の相貌は知れない。ただ耳に痛いほどの静寂の中、かすかに彼女の口元からは嗚咽が漏れていた。泣いている。だけど、どうして。


僕に妹はいない。来客の予定もない。では予定外の来客かと思い、言下に否定する。

違う。背筋に悪寒が走る。気づいたのだ。彼女に合うような小さな靴など、玄関にはなかったことに。小さな足を包む真っ白い靴下は、とても地べたを進んできたようには見えない。どうやってここまで、否、それよりも、なぜ彼女は声を殺して泣いているのだろう。


君は誰、との問いかけは、しかし大気を揺らすことなく霧散した。咽喉がからからに乾いていて、声を出すことができなかった。僕にできたのは、ただじっと彼女に視線を据えることと、ただ呆けたように口を開くこと。それから耳を澄ませることだけだった。


すると彼女が嗚咽に交じって、かすかに言葉を漏らしていることに気付いた。小さくか細い声を聞き逃すまいと傾注すると、その声がはっきりと聴きとれた。


苦しい、苦しい、助けて、たすけて、タスケテ。


瞬間的に耳を塞ぎたい衝動に駆られる。けれど僕の両腕は動かない。沈黙。目を見開く。全身が総毛だつ。女の子は何かに突き動かされるようにして、淡々と二つの単語だけを繰り返していた。


僕の思考を、一つの衝動が占拠する。逃げ出したい。いますぐに。ここから。

ここは間違いなく僕の部屋で、たった一つの例外を除けば、何ら異常はないというのに。その例外の圧倒的なまでの存在感が針のように、僕をこの部屋にがっちりと縫い止めていた。


咽喉の渇きは増すばかりで、空気を取り込むのさえ痛みを伴ってきた。このまま呼吸が止まるのではないかと危惧し始めたその時、壁掛け時計の長針が十二を示した。

同時、どこからか時報が流れ始めた。折しもそれで、耳が痛くなるほどの静寂は決壊した。


僕はすぅと大きく息を吸い、恐怖から目を背けたい一心で、


「君は、誰?」


そう、誰何を問うた。するとそれを契機とするように、女の子の嗚咽がぴたりとやんだ。繰り返されていた単語もまた同様に。まるで声など幻聴だったのだと錯覚させられるほどに、突然静止した。


女の子は僕の問いに答えるような仕草を見せた。

彼女は、ゆっくりと、顔を覆っていた手を、広げたのだ。

初めて露わになった顔は、しかし窓から差し込む夕日が逆光となってよく見えなかった。だから僕は目を細めて、女の子の顔をはっきりと見た。


果たして、その幼い顔は、満面の笑みを浮かべていた。


「うわあ!」


打てば鳴るように、その顔を見た瞬間、僕は叫びを上げていた。縫い止められた恐怖の針をがむしゃらに引き抜き、背を向けて脱兎のごとく駆け出した。例え一秒でも、これ以上部屋にいたくなかった。一階へ続く階段を、ほとんど滑り落ちるようにして駆け降りる。振り返ってあの笑みを見てしまえば、僕は今度こそ動けなくなってしまうに違いない。


適当に靴を履き、玄関の扉を思い切り開け放つ。鍵もかけずに家から飛び出した僕は、真っ先に死角となる路地へ入り込んだ。

女の子が笑いながら窓からこちらを見下ろしているのではないかと気が気でなかった。


とにかく家から離れるよう努めた。足先は自然と駅に向かっていた。僕は電車に乗ってどこへ行こうというのだろう。もう夕陽は沈もうとしていて、これから夜の帳が落ちるというのに。


結局、僕は電車の座席に座るまで足を休めようとはしなかった。周囲に視線を配ると小学生の女の子が立っていてどきりとしたが、部屋にいた彼女とは別人だった。

まもなくして扉は閉じられ、電車はゆっくりと加速を始めた。

車内に脅威がないことを確かめると、僕はようやく安堵の息をついた。


気持ちが落ち着いて初めて、滝のような汗をかいていることと、息が切れていることを自覚した。よほど夢中になって走っていたのだろう。向かいに座っていた乗客が、怪訝な表情を僕に向けていた。


気恥ずかしさを感じると同時、嬉しさも感じていた。乗客の冷たい視線が、かえって日常に戻ってきたという実感を与えてくれた。張りつめていた緊張の糸はほぐれ、倦怠感が全身を包み、不謹慎にも、それは僕の瞼をそっと閉じさせた。抗いがたいまどろみの中で拳を開いてみると、中からぐしゃぐしゃになった切符が現れた。


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