天使




 第三天の端の端にあるその場所には、大きな飾り気の無い門がそびえ立っています。女の子の記憶が眠る場所へと続く門です。


 その門の扉の中央には天使が1人立っていました。驚いた表情をしながら悪魔カロンの事をずっと見てきます。そこを退くようにカロンは言いますが、不審がってそこを退きません。


「貴様の様な悪魔がこの場所になんの用だ!」


 天使は手にしていた槍の刃先をカロンに向けます。天使と比べてカロンの体の大きさは10倍近くあったので相手が天使といえどカロンはたじろぎません。


 神様にこの場所を教えて貰った事を強く言うと意外にもあっさりと天使はそこを退きます。その扉は重く分厚い石で出来ていましたが、今のカロンにとっては容易く開く事が出来ました。背中からは天使の負け惜しみの声が聞こえてきます。悪魔がこの先無事で通れるはずがないぞという脅し文句です。


 門を開いた先に広がった光景は、予想に反して美しい光景でした。一面に広がる草原に美しい花々が咲き乱れ、空からは燦然と輝く太陽の光が降り注ぎ、甘い香りのする心地よい風が体を吹き抜けていきます。


 しかし、その心地よさは人間を基準にしたもので悪魔であるカロンは、すぐに気分が悪くなってしまいました。


 力の入らなくなったカロンは、翼を広げる事も困難になり、とぼとぼと歩いて次の門を目指す事にしました。


 時間的に二日ほど歩いたカロンは途方にくれます。その場所で陽が沈む事は無く、夜が来ないのです。夜の暗がりを待ち望んでいたカロンは沈まない太陽にがっかりしてしまいます。


 歩き続けて1ヵ月ほどの時間が経ちました。カロンの体は次の門にやってくる頃には、小さくしぼんで門の前に居たあの小さな天使程になってしまいました。


 二番目の門の前にはまたもや天使がいました。青い輝きを放つ天使の姿は鳥の顔をしていました。


 すっかり小さくなってしまった悪魔カロンに対しその天使は引き返す様に助言します。そんな弱り切った君の力では到底ここを突破する事は出来ないよ。この門を潜るという事は、君の目的は一つなのだろうけど、そんなもの悪魔にとっては何の価値も無いものだよ。それでも君は進むのかい?


 警告をする青く輝く鳥の天使に構わずに、カロンは次の門を開きます。またもや美しい光景がそこに広がっていました。とても大きな湖がそこにありました。


 大海原と言っても過言ではありません。

 遥か遠くの湖の真ん中に空中に浮かぶ門が見えました。カロンは少し躊躇してしまいます。カロンは水が怖かったのです。泳ぐなんて考えられません。


 困ったカロンが辺りを見渡すとすぐ近くには桟橋があり、そこには一隻の木のボートが杭に括りつけられていました。


 泳ぐ以外にはそのボートを使うしか無いので仕方なくカロンはその小さな小船に乗り込みます。


 中にはちゃんとオールが置いてあったので早速カロンは漕ぎ出します。ボートもオールもボロボロで頼りが無くなかなか速度はでませんが、力を振り絞ってカロンは船を漕ぎ続けます。


 しばらくすると、空に雲がかかります。穏やかだった波はさざめきだし、船は大きく揺れてしまいます。その反動でカロンはオールを水面に落としてしまいます。


 慌ててオールを拾おうとした瞬間、カロンはおぞましいものを湖面から発見してしまいます。青く透き通る湖面の深層、湖底近くに大きな蛇にも似た生物達がうようよと蠢いていたのです。体長は恐らくカロンの数十倍はあります。あれに食べられては今のカロンではどうしようもありません。


 急いで2本目のオールを引き上げようとした時、1匹の魚がカロンに食いついてきます。カロンは噛みつかれてしまう寸前でオールで魚を撃退する事に成功しますが、すっかりと一本のオールは使い物にならなくなってしまいます。残ったもう一本のオールで不器用に船を漕ぎ出すカロン。ですがなかなか前に進みません。門のすぐ近くまで辿りつくのに2週間はかかってしまいました。


 あともう少し、そう喜んだのも束の間、突如として嵐がカロンを襲います。荒れ狂う波に成す術無く船は転覆してしまいます。


 ひっくり返ってしまった船にしがみつくカロンですが、魚の大群がカロンに襲い掛かります。横転した船の上に乗っかるカロンですが、次々と魚は船に噛り付いてみるみる船は跡型も無く崩れさってしまいます。


 カロンは力を振り絞って魔法で魚を追い払う事に成功はしましたが体を所々魚にかじられてしまい、体はボロボロになってしまいます。


 疲れて力を使い果たしたカロンは薄れていく意識の中、大きな生物がひしめいている湖底へと沈んでいきます。

 わらわらと魚がカロンを目指して泳いできますが、一匹湖底に潜んでいた大蛇がカロンめがけて泳いできます。

 魚はそれに驚いて慌てて身を翻しますが、カロンは動く事が出来ません。


 カロンはその気配を感じとりましたが、体の自由が効かなくなっていたのでもう運命に身を任せる事にしました。おじいさんとの約束を果たせなかった事だけが彼にとって心残りとなりましたが、もうそんな事は関係ありません。彼はここで蛇に食べられてしまうのですから。


 嵐が過ぎ去り、太陽が雲間から顔を出すと湖は再び静けさを取り戻します。湖面には一匹の大きな竜にも似た蛇が顔を突き出していました。


 その蛇が心配そうに額に乗っかったカロンを見つめています。陽の眩しさに目を覚ますカロン。


 最初は、岸辺に打ち上げられたか、蛇の胃袋の中だと思ったのですが。岸辺は遠すぎて辿りつく事は難しく、蛇のお腹の中にしては妙に明るかったのでカロンは自分が今どこにいるか解りませんでした。


 不思議な事に、カロンは蛇に食べられるどころか、助けて貰っていたのです。


 蛇の頭の上で横になっていたカロンは、自分が今いる場所に気がつき、驚き、再び湖に落ちてしまいました。


 続々と魚がやってきてカロンを襲いますが、蛇はそんなカロンを守るように魚を追い払います。

 呆気にとられるカロン。蛇がなぜ自分の事を助けてくれるのかが解らないからです。話を聞くと蛇の祖先は元々は悪魔だったという事で蛇の間では悪魔は敬うべき存在だとされてきたからです。


 今は神様の命令で大きな蛇達は罪人を喰らう事を任されていますが、祖先である悪魔に対する敬意は代々引き継がれ、その事は例え神様であっても変える事は出来無い事です。


 その蛇は魚達の無礼を謝ると、再び額にカロンを乗っけるとそのまま次の門の前まで運んでくれました。その間にカロンは疲れて眠ってしまいます。夢の中で、カロンは女の子と出会った気がしました。その子はベッドの中、弱り切った体で何かを必死でカロンに伝えようとしていましたが、カロンにはそれが何なのかは解りませんでした。


 蛇に起されて目を覚ますと、門の前まで来ていました。赤い輝きを放つ鳥の顔をした天使がこちらを見下ろしていました。


 一目カロンの事を見ると驚きます。まさかこんな所に悪魔がやってくるなんて考えられないからです。それに侵入者を食べるように湖底に放たれている大蛇がカロンの事を手助けした事に対しても驚きを隠せませんでした。


「やぁ、おおへびくん、今日は珍しいものを引き上げてきたんだね。それは、悪魔かい?」


 嬉しそうに頷く大きな蛇に赤い輝きを放つ天使は何も言えなくなってしまいます。その天使も他の天使同様ボロボロになったカロンに引き返す様に言いましたが、それでもカロンは聞く耳を持ちません。


 ここまで悪魔がやってくるなんて本当に奇跡だよ。あの魚は負の感情の匂いに釣られてやってくる。悪魔が無事で辿りつけるはずはないのだけれど、辿りついてしまっては仕方ないと、次の門を開いてくれました。大蛇は優しくカロンを天使が開けてくれた扉の所まで運んであげます。


 それだけでカロンはなんだか元気が出てきた気がしました。2人にお礼を言うと、門を潜ろうとします。


 ふとカロンは赤く輝く天使に質問します。


「そういえば君達はここの門番なんだろ?

 なのになんで悪魔の僕を通してくれるんだ?」


 少し考えた後、天使はこう答えます。


「私はね、門を任されているんだ。侵入者を排除しろとは命令されていないからね」


 にこりと笑う天使。カロンはもう一度礼をいいます。そんなカロンを見て天使は不思議に思います。


「君は本当に悪魔かい?」


 頷くカロン。


「もちろん、地上の支配者、悪魔の王様カロンだ!」


 ボロボロで小さい体になったカロンの言葉に威厳はありませんでしたが、力強い意思を感じた天使は、カロンの目的が達せられる事を心の中で願いました。


「しかし、あの方が悪魔に人間の記憶を渡す、そんな事をするとは到底思え無いのだがなぁ」


 その天使の言葉を聞かずにカロンは次の門をくぐり抜けてしまいます。


「そして、もうひとつ言い忘れてたよ。ここまでは汚れた罪人が通り抜ける事を防ぐ為の場所だけれども、ここから先の世界は正真正銘、万が一にでも悪魔が侵入した場合を想定して創られた世界なんだ。まぁ、過去に侵入してきた奴はいないけどね。だから、気を付けてね、悪魔の王、カロンよ。」


 次の門をくぐるとそこは、見渡す限りの青い雪山がそびえ立っていました。その山脈の道沿いに奇怪な形をした教会が立ち、その棟が遥か彼方の宮殿まで続いていました。寒さのあまりカロンは身震いしてしまいます。普段なら魔法の力で平気なはずなのですが、カロンの力はすっかりと弱くなっていました。教会を抜けて辿りついた先の宮殿の中に次の門はあるとそう考えたカロンは大嫌いな教会の門をたたきます。昔、おじいさんの街に住む牧師が言っていた事を思い出します。


 聖書の一節にはこうあります。


 求めよ、そうすれば与えられるであろう。

 捜せ、そうすれば見いだすであろう。

 門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。

 

 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。


 悪魔であるカロンにとって大嫌いなはずの

 聖書の言葉の中でこの一節だけが妙に頭の中に残っていたのです。


 もちろんこれらの言葉は信仰あってのものでしょうが、カロンはその言葉を少なからず嫌いではありませんでした。


「僕は求める!だからよこせ!」


 と自らに気合いを入れて重い扉を開くと、そこは紛れも無い教会でした。悪魔とは無縁の場所です。カロンはもちろん教会が嫌いです。悪魔が悪者にされている話が聞こえてくる建物だからです。茶色い長椅子がいくつも並んでいる部屋の真ん中には赤い絨毯が敷かれた通路があり、それは祭壇へと繋がっていました。


 天井は高く、ドーム型の造りでゴシック様式を思わせます。窓には様々な色を照らしだすステンドグラスで出来ています。


 辺りには妙な静けさが広がっていました。


 十字架に人間が磔にされた像が飾られている祭壇までくると急に近くにあったパイプオルガンから壮大な讃美歌のメロディが溢れだしてきます。もちろん演奏する者は見当たりません。


 その嫌味な演出に苦笑いするしかないカロンです。先に進む為の通路は祭壇の奥にありました。体が痺れる間隔に襲われるカロンでしたが、構わずに足を進めます。


 暗い祭壇の中を進んでいくと、突然通路両脇の壁に備え付けられていた蝋燭に一斉に火が灯ります。薄暗い通路がずっと先まで続いており、その両脇にはなんとも不気味な甲冑が並んでいました。うす暗い所は好きですが、ずらりと並んでいる甲冑に不気味さを覚えたカロンは足早に駆けだします。


 とは言ってもボロボロになったカロンの体ではそんなに速くはありません。


 ガチャリと金属と金属とが犇めき合う音が背後から聞こえてきました。カロンが振り返るとそこには十字架の剣を振りかざした甲冑達が後ろをついて来ていました。


 銀の十字架の剣で突き刺されては一溜りもありません、前を向いて走りだそうとした瞬間、何かが空を切る音がしました。


 その音は目の前に迫っていた鎧から繰り出された剣がカロンの左腕を切り落とした音でした。


 普通の金属の剣で刺された傷はカロンにとって何ともありませんが、銀の十字架をした剣の前では只ではすみません。その激痛にカロンは悲鳴を上げてしまいますが、歯を食いしばり、魔法の力で目の前の鎧を焼き焦がしてしまいます。


 片腕になったカロンは、切り落とされた自らの腕を魔法の力で巨大な斧に変えると群がってくる鎧達を薙ぎ倒しつつ先へと足を進めます。


 その通路は果てしなく延びています。気が遠くなる距離をカロンは鎧のお化けと戦いながら進みます。何度も挫けそうになりましたが、悪魔の王と呼ばれた自らの名に恥じない為にも簡単に終わる訳にはいきませんでした。


 そして何より、カロンの心の中にあるおじいさんの約束と、女の子に対する街の人の記憶がカロンに前に進む勇気を与えてくれているようでした。


 カロンが教会の門を開いてから何日経ったかは解りませんが、人間の世界では数年が経過していました。その間におじいさんの体調は悪くなり、余命幾許も無い状態です。寝たきりのおじいさんの傍らにはたくさんの人形やおもちゃが並んでいました。


 しかし、その頃にはおじいさんに対するよくない噂が街の人々に広まってしまい、家族ですら寄りつかなくなってしまいました。近付こうとする子供達も周りの大人達に引きとめられてしまいます。


 それでもおじいさんは悪魔との約束を信じて今日も死ぬまい明日も死ぬまいと気力で毎日を生き続けていました。そしてもうひとつ、おじいさんの心の支えになっている存在があります。立ち並ぶ人形、その中の1つにあの女の子そっくりな人形が座っていました。


 そうです、おじいさんはついに女の子そっくりの人形を完成させていたのでした。その出来栄えは本物の人間の様で、まるで女の子が生前の状態そのままに眠っているかのようでした。それでも女の子そっくりの人形は今日も動きません。


 おじいさんにはもう何も造る体力は残っていません。出来るのは只管悪魔のカロンが戻ってくるのを信じて待つだけです。


 あれから何年経ったでしょうか、とっくの昔にあの悪魔は約束の事なんて忘れてしまい、好き勝手しているのではないかと疑うのが普通です。


 ましてや約束をした相手は悪魔です。人間の敵である悪魔は邪悪な存在です。


 しかし、それでもおじいさんは待ち続けています。そして今日も、遥か彼方にある天の国では、一匹の悪魔が今日も戦い続けています。1人の年老いた人間の為だけに。ボロボロになった体と片腕で襲いくる十字架を携えた鎧のお化けを相手に一歩一歩進みます。


 この悪魔も本来ならとっくに命が尽きているはずでした。


 体中には幾つもの切り傷や刺し傷、そして数本の剣が体に刺さったままになっています。その剣は特別製で聖なる銀で出来た十字架の剣です。


 悪魔が一突きされればその魂は微塵も無く浄化され消滅してしまいます。けれどもどういう訳か悪魔カロンは、その命の炎を絶やす事無く進みます。そうして苦しく絶え間の無い苦痛が続く戦いが数年に渡り、終わりを告げた頃、ようやくカロンは最後の門まで辿りつく事が出来ました。


 数えきれないほどの敵を倒したカロンの道なりには鉄くずの残骸が転がっています。


 千体以上もの鎧のお化けを倒したカロンですが、残念ながらもうカロンには自分の肉体と呼べるものは残っていませんでした。


 かろうじてそこにあるのは、とりついた人形の体と自分の魂、街の人々の女の子に関する記憶だけでした。最後の門が構える宮殿の中には何人ものシスターが祈りを捧げながら跪いていました。ここまで来られたカロンにとって悪魔が最も嫌う神様に対する祈りの言葉などもう怖くはありません。


 祈りならカロンも一度、湖の精霊ニンフに教えて貰い、神様に捧げているからです。


 そんなものなんかにもう負けません。


 最後の門の前に緑色の光を放つ鳥の顔をした天使が現れました。その天使はカロンの満身創痍な、体と呼べるものはもう何も無い状態を目の当たりにすると、もう何も言えなくなってしまいました。カロンが何かを言う前にその天使は扉を開けてくれました。扉の中から光が溢れだしてきます。その眩しさに眩みそうになるカロンですが、広がる光の世界の中についに見つけだします。


 求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。それは祈りを経て神様から教えて貰ったあの光景でした。


黄金の実をその枝に実らせる一本の大きな樹。


 女の子の記憶が眠るその果実は何よりもカロンが欲していたものです。


 カロンの魂そのものが掻き消えてしまいそうな光の中、自らを省みずの最後の扉を潜りぬけ、その木に近付いていきます。近付いてみると最初は気付きませんでしたが、1人の少女が木陰に座っていました。眠る彼女を起さないように悪魔カロンは少女の記憶が眠る果実を探します。木の幹から見上げた木はとてつもない大きさで天にも届きそうな程に枝葉を広げています。それに今更ながら、これではどれが女の子の記憶が眠っている果実かが解りません。


 折角ここまで来たのにどれがその子のか解らないとなれば意味はありません。カロンは面倒になって全部食べてしまおうかと思いますが、木の幹に寄り掛かり眠っていた少女が目を覚まします。黄金の輝きを放つ少女はカロンに訪ねます。


「あなたは何?」


 誰?では無く何?と聞かれたのでカロンは

 困ってしまいます。誰かと言わればカロンだと答えられますが、何かと言われれば、それは存在を差します。カロンの存在、それは悪魔としての存在。いえ、そんなの関係ありません。今自分が何より欲しているのは女の子の記憶です。自分は1人の人間との約束を果たす為にここまで来た存在です。


「ある人間の記憶を求める存在だ」


「ふーん、やっぱり記憶がほしいのね?どうみてもあなたは人形か、それとも悪魔なのに?」


 馬鹿にされたような気がしたカロンは少女に言い返そうとしますが、その少女は間髪入れずにカロンの体に自分の手を突き刺しました。すぐさまカロンは少女を引き離そうとしますが、カロンにじっとする様に命令します。少女は目を瞑り、カロンの体の中を探っています。


「なるほど、この人が人形職人のおじいさんね……そして君がおじいさんとあなたが生き返らせようとしている女の子かぁ。街のみんなから好かれていた良い子なのね。なるほどなるほど」


 程なくしてカロンの体から手を抜く少女。慌ててカロンは手を刺された所を確かめます。しかし、痛みも傷跡も見当たりませんでした。人形の体も無事です。


 不思議そうな顔をするカロンに少女が答えます。


「あなたとあなたの中にあるその女の子に関する記憶を覗いたわ。私は生物の記憶を司る神様ネシュモ。その女の子の記憶を探しているのでしょ?」


 戸惑うカロンは頷く他ありません。私が探し出してあげると、悪戯っぽく笑うと大きな樹にしがみついてどんどんと登っていきます。カロンは、今の状況がよく飲みこめないでいました。先程までの命がけの道のりはなんだったのかとそのあっけ無さに力が抜けてしまいます。


 そこで待っているように言われたカロンはおとなしくそこで待つ事にしました。改めて自分の体を見下ろすと、すでにカロンの体はありませんでした。


 魂だけの存在になった体と、

 とりついている人形の体しかありません。

 しかも片方の腕はちぎれています。


 これではもう悪魔の王様を名乗れないなぁと思いましたが、それほど口惜しいものではありませんでした。あの子が生き返るならそれでもいいかと、カロンは思いました。


 しばらくすると木の上から少女の声がしてきます。どうやら見つかったらしく、するすると木の幹をすべって降りてきます。


 降りて来た少女の口には、黄金に輝くサクランボの実が咥えられていました。


「あったわよ、あの子の記憶」


 お礼を言うカロン。その実を手の平で受け止めようとしますが、寸前の所で少女はその実を自らの服の中に隠してしまいました。


 目を丸くするカロンに対してくすくすと笑いだす少女の形をした記憶の女神ネシュモ。


 悪魔カロンは少女を見つめ返す事しか出来ません。笑いながら少女はこう言い放ちます。


「ホントに可笑しいわ。悪魔が人間の記憶をほしがるなんて聞いた事が無い。あげる訳ないじゃない。悪魔なんかに。それより早く帰った方がいいわよ?あなたの慕うおじいさんとやらはもうすぐ死んじゃいそうよ」


 呆然とするカロンを余所にさっきまで開いていた扉が勢いよく閉まります。カロンはその音に反応して振り返ります。その空間にカロンは閉じ込められてしまったのです。


 相変わらず笑っていた少女ですが、その眼は氷の様に冷たく、灼熱の様な憎悪が渦巻いていました。


「悪魔がなんのつもりかは知らないが、今更善行を重ねようとももう遅い、お前は一度おじいさんを裏切っているではないのか?それにそんなちっぽけな体で人間の世界に帰れるなどと思っているのか?私がみすみす悪魔を逃したとあっては記憶の女神の名が泣いてしまうであろう」


 不気味な少女の笑顔にカロンの魂は凍り尽きそうでした。今まで対峙した悪魔や人間とは比べ物にならないほどの狂気を感じました。それでもカロンは、おじいさんとの約束を守る事を諦めないと少女にきっぱり言い切ります。


 笑う事を止めない少女は更にこう付けくわえます。


「この記憶を持ち帰ってどうするつもりだ?」


「女の子を生き返らせるんだ」


「そんな事は自然の摂理に反している。

 出来てはいけない事だ」


「それでも僕はおじいさんと約束したんだ」


「馬鹿な悪魔だ。もしもだ、朽ちない体と少女の魂と記憶とをお前の魔力で繋ぎ合わせたとしてそれで何が残る?」


「残る?僕はただ今度こそ約束を守りたい、ただそれだけだ」


「老い先短い人間をわざわざ地獄へ連れて行く手招きをする事が正しいと、そうお前は言うのか?」


 門を潜る前の地獄で出会ったあの光輝く老人が言っていた事を思い出します。


「あの人間は、今のままなら孫が死んでしまった傷を埋める為に孫そっくりの人形を造った。ただそれだけの事だ。それがもし、ここでお前がその孫の記憶を持ち帰って女の子を生き返らせたとする。そうしたらどうなる?そうしたら最後、あのおじいさんは死後の世界で永遠と苦痛に悶えながら苦しむ事になるぞ?お前もここに来る途中で見かけたであろう、黒い霧のかかるあの灼熱の炎が踊る地を」


 その光景を思い出したカロンは身震いします。そして自分の性で地獄に連れて行かれてしまうかも知れない状況に罪悪感を抱きます。


「やめておけ、あの人間はそのまま死なせてやるのが最善だ」


 諭すように語りかけてくる少女の言葉に

 うなだれるカロン。


 それは初めて味わう絶望という感情でした。悪魔でも絶望するのだなぁと感心する少女は更に追い打ちをかけるようにカロンの心を追い詰めます。


「もう1つ言うとね、その女の子は本当に生き返りたいと思っているのかな?」


 悪魔カロンはこれまでおじいさんと女の子が再び出会う事しか考えていませんでした。


「考えてもみなさいよ、一度死んだ人間が再び人間の世界で暮らせると思うの?ましてや人形の体を持つ人間などもはや人とは呼べない。お前と同じ悪魔か化け物だよ。どちらにしても、私はお前をここから出す気は無い。お前達悪魔がしてきた過ち、今更許される訳が無いだろう!絶望しろ!悪魔!」


 カロンが無理矢理ここまでやってきた事は結局のところ自分の都合でした。おじいさんの約束を守るというエゴの為にその孫やおじいさん自身まで不幸にしてしまう事をカロンは考えてもみませんでした。


 それに女の子に関する記憶は今、カロンの体内にあります。


 あの街にいる人間は誰1人として彼女の事を覚えている人はいません。母親でさえもう覚えてはいません。こんな不幸な事があるのでしょうか。そんな事、絶対に女の子は望んでいないはずです。そうしたのは紛れも無い自分自身でした。


 カロンは今までの事を思い返します。


 悲しみに暮れるおじいさんの前に姿を現したあの夜。女の子の手にしていた小さな人形。なかなか自分が悪魔だと信じないおじいさんに提案した約束。女の子に関する記憶を街中歩き回って集めた事。女の子の朽ちた肉体。守られ無かった約束。


 いいえ違います。まだ約束は終わっていません。おじさんは今もカロンとの約束を信じて待っているのです。


 カロンは顔を上げます。


 ふと自分の体の中に何かの違和感を感じます。それまで約束を守る事ばかり考えていたカロンはその囁きに気付けないでいました。


 それはカロンのとりついた人形から聞こえてくるようでした。その人形は誰にも聞こえないような声で囁き続けていたのです。


「会いたいな、もう一度おじいさんに会いたいよ。そしていっぱいお人形つくってくれてありがとうって言いたいの」


 その声を聞いたカロンは確信します。その声は紛れも無い女の子の気持ちです。女の子の強い気持ちがこの人形には込められていたのです。いえ、もしかしたら女の子の強い気持ちが悪魔カロンを呼び寄せたのかも知れません。なぜ自分はおじいさんの目の前に現れた?


 なぜ人形にとり憑いていた?


 何故かその事はカロン自身思い出せません。朧げに浮かんできた光景は、何故か自分が1オロボスという賃金で死者の魂達を運ぶ渡し舟の操者として働いていました。


冥界の憎悪ステュクス悲嘆アケローンの渡し守。神に仕える従者であり、エレボスニュクスの息子では無かったのか?


そして彼は人形造形師のおクレイス=エルデさんの孫娘ファブリカ=エルデを運んでいる途中だった?


川を渡る最中、紅髪の少女がカロンに手を差し出し、何かを訴えています。


そしてそのまま二人は……川へと身を投げました。その契約やくそくを果たす為に少女は何を差し出し、悪魔は何を得たのでしょうか?


その記憶が朧げなのは死者の渡り守としての責務を放棄したからなのかも知れません。


 カロンが声を上げて笑います。


 その笑い声は空間を超えて、門を守る天使達にも聞こえていました。突如として笑いだしたカロンに怯えた表情をする女神ネシュモ。


「あの孫娘……悪魔を使うとは恐れ入ったよ……人間の方がよっぽど怖いと思わないか?女神様。それにな……生憎、絶望っていうのは悪魔の大好物なんだよ!」


 カロンを真っ黒な炎が包みこみ、再び肉体が形造られていきます。女神ネシュモは、信じられないといった表情でカロンを見つめています。切り落とされたはずのカロンの左腕は更に大きく変化し再生し、怯える少女をすっぽりと握りしめてしまいます。


「自らの絶望を糧にしたの?!」


 驚きながらもネシュモはカロンに訪ねます。笑いながらそうだと答えるカロンに、少女は信じられないというような顔をします。


「お前に残されているのは魂だけだ。それを糧にするという事は……お前は消えて無くなってしまう。自分で自分を殺すということだぞ!解っているのか!それは、それはまるで……」


 カロンは今の自分の状態では命が長くは持たないという事を知っていました。おじいさんとの約束を守る為なら命すらいらない。そうカロンは最初に誓っていました。


 体を掴まれているネシュモは、その大きな手から抜け出そうともがきますがなかなか抜け出す事が出来ません。そうこうしているうちに、カロンが通ってきた門が一斉に開き、全ての空間は繋がってしまいました。

 何が起きたかのか状況を飲みこめないネシュモに門の前に居た緑色の光を放つ天使が報告します。


「女神ネシュモ様、指示通り全ての門を開門させました!」


 その天使がカロンに微笑むと女神ネシュモは怒り狂い、暴れ出してしまいました。小さな女の子とは思えない力でカロンの手は少しずつ広げられていきます。とそこに扉が開かれた事によって妖精達の歌が妖精達の祈りと供に流れこんできました。


 ♪ 悪魔の王様どこにいる? ここにいない

  星を超えたその先に 天使が住まうあの夜空に今

  あぁ この歌が聞こえたのなら

  早く 早く 帰って来て

  おじいさんがあぶないよ


  僕等の英雄悪魔のカロン、何があっても帰って来て

  あなたの事をみんな待ってます

  おじいさんと女の子も

  あなたの事を待ってます


  早く 早く 帰って来て

  届け届け僕等の歌


  1人で頑張る寂いしい悪魔に届け

  小さな体の悪魔カロン

  君は1人じゃないんだよ

 

  だから届け僕等の歌と魔法の力 ♪



 その歌を聞いたカロンは更に元気になります。体の大きさはどんどんと大きくなり、門を潜る前よりも大きくなってしまいます。驚きの表情のまま固まってしまう女神ネシュモ

です。悪魔がそこまで慕われているなんて聞いた事がありません。


 これでは自分が悪者のようだと観念してネシュモは大人しくなります。


 自分の事を好きにしろとカロンに女神は言い放ちますが、カロンは彼女を静かに降ろすと、手を丁寧に差し出しました。 

 

「あの女の子のだけでいいんです。記憶の実を分けて貰えませんか?記憶の女神ネシュモ様」


 そう丁寧に頼まれたネシュモはすっかり断る気力を無くしてしまいました。服の中に隠していた記憶の実をカロンに差し出します。


「私の事は殺さないの?」


 カロンは微笑みます。


「ここへは約束を果たしにきただけですから」


 その微笑みは、残り限られた命が放つ最後の輝きを湛えてどこか儚げでしたが、とても優しげです。女神ネシュモは目の前にいるのが本当に悪魔かどうか疑問に思いました。そんな風に微笑む悪魔を彼女は視た事が無かったからです。カロンは女の子の記憶の実を口の中に入れると最後の力を振り絞り大きく翼を広げました。不思議な事に人間の世界まで続く道沿いに光輝く虹の橋が架かっていました。


 カロンにはそれが誰によって造られたのかという事は考え無くても解りました。カロンは小さくお礼を呟くと飛び立ちます。


 その場に取り残されたネシュモはしばらく何も考えられずに不思議と涙が溢れ、その場に座り込んでしまいます。


 そこに門の前に居た天使が傍までやってきます。


「ネシュモ様、覚悟は出来ております。

 何なりと処分を言渡し下さい。全ての責任は私にあります」


 涙を拭い首を振る女神ネシュモはそれを否定します。


「悪魔を取り逃がしたのは私の責任だ。

 それにお前達は、門を守るのが仕事だろう?

 見てみろ、門は傷ひとつ無いじゃないか」


 と笑いました。天使が微笑みながらこう答えます。


「そうですね、悪魔がここに侵入し、記憶の実を持ち帰った。ただそれだけの事です」


 そうだねと頷くネシュモ。


「それに、あの記憶は元々あの女の子のものだ。私達のものじゃ無いよ。あの子が自分で生きた証なんだよ」


 2人はしばらくその場で座り込み、人間の世界まで続く虹の橋を眺めていました。


「なんて綺麗なの。

 それにあの悪魔が最後に得た力は、絶望からなんかじゃないよね」


 と1人言のように呟くとそれを聞いた天使も同じ様に答えました。


「あれは絶望なんかではありません。紛れも無い希望の力です。姿こそ違えどそんな事が出来るなんてまるで……まるで私達のようではないですか」


 カロンが大きな翼で羽ばたき続けると空気は震え世界は振動します。それはまさしくこの世の王が彼である事の証のように星は胎動します。


 力を取り戻したカロンにとって帰り道はそう長い距離ではありません。それに“妖精達”が架けてくれたこの虹の橋を渡っていけば人間界へはあっと言う間です。


 教会の屋根をその羽ばたきで吹き飛ばし、一気に駆け抜けます。


 大きな湖が広がる世界を抜けると、湖面はカロンの熱で蒸発し、あの魚達は骨だけになってしまいました。湖底に居た大蛇や扉の近くに居た天使やあの助けてくれた大蛇は無事です。そしてどこまでも広がる花畑を抜け、最初の門を潜るとあの小さな天使が震えながらこちらをみています。


 地獄を、天国を超えて宇宙へ飛び出したカロンは再び光の速さを超えて羽ばたきます。最後の力を燃やして輝くカロンはまるで流星のようでした。虹を伝い、青く光輝く流星はとても幻想的です。


 綺麗な月が輝く夜、流星がある街に流れ落ちました。


 その日、その街に住む人形職人のおじいさんは息を引き取ったと言われています。


 不思議な事に、星が流れ落ちたその日を境に、おじいさんの人形達はその中のひとつを残して消えていました。


 おじいさんの腕の中には、あのちっぽけで粗末な何故か片腕の無い人形一体が優しくその手に握られていました。


 1人寂しく亡くなったはずのおじいさんですがその表情はどこか安らかだったといいます。


 妖精達の間では生者の記憶が眠る大きな木が世界のどこかにあると言われています。


 今夜も星の瞬きが優しく私達を見つめてくれています。大きな木の下に佇むある少女の眼差しと供に。


 その少女は呟きます。


「それはまるで……自己犠牲を伴う愛そのものじゃないか。小悪魔カロン」


 今日も心地の良い穏やかな風に乗って妖精達の歌がどこからか聞こえてきます。


 ♪ 僕等の英雄カロンはどこ行った?

  カロン カロン 小悪魔カロン

  彼はもういない?


  いいや 彼は生きているよ

  人形の体を持った女の子の記憶の中に


  彼女と供に永遠に


  それはおじいさんと悪魔が交わした

約束の奇跡


  なら女の子はどこにいった?

  それは誰も知らない

  解っているのは

  どこかでみんなと幸せに暮らしてる

  ただそれだけは妖精達が知っている ♪


 END  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Dolls & Demons 氷ロ雪 @azl7878

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ