カモナ-ヘルハウス

甲斐ミサキ

カモナ-ヘルハウス

 余は思ふ。生れ落ちたとき既に、余は此の屋敷に居たのだと。故に此の屋敷の主であるのだと。余に名前など無い。此の屋敷に於ひて余が全てであり、余に分からぬことなどないのであるから。名など余にとつては必要としないものなのだ。此の屋敷はいつからあるのだらふか。心無い輩どもが屋敷のことを猟奇の館などと呼称してゐるのを耳にした憶えがあるのだが、余の創造主は其の名を甚く御氣に召してゐるやふだ。不逞者どもも時として口上とは裏腹に「にゅうかんりゃう」とやらを貢物として余に差出しにくるのである。どんな恐怖に身を任せるかも知らずに。

 輩どもは喜喜として訪れる。切妻屋根の壊れた破風は一切の光明を拒絶し、崩れた天蓋からは明星すら見へぬ。日の目を見ない此の屋敷の番ひが頸骨のやうにきしりと傾ぐ。黴臭き囘廊に微かに響く絹を裂ひたが如き悲鳴が余の耳朶を心地よく擽る。犠牲者が亦一人。博士の仕業であらふ。氏は余の配下であり、亦優秀な同胞でもある。氏も亦創造主によつて形作られぬ。頬こけた髑髏を思はせる顔。黯黯とした其の眼窩からは肝胆凍えさしむる太き針が突き出て獲物を威嚇する。鉤爪の右腕と小刀の左腕。双方を噐用に振り囘し仕事をぢつに樂しんでゐる。フロツクコオトを身に纏い、右腕のフツクで山高帽の鍔をひよいと頸毎持上げるのが御得意だ。おつと、風船が破裂するやうな音が六囘。其れに合はせたかの黄色き悲鳴が迸る。六腕の銃男だ。氏は博士の友人であり、亦余の良き同胞。彼も不逞者どもを叫喚さしむるのが心底愉快に見へる。連中どもの悲鳴は余に付き従ふものにしてみれば何物にも代へ難き喜び、どんな極上の美酒にも優るものなのだ。我等に捧げられるものは人の恐怖。其れを与へるのが余達の生業。そんな余達にも不満は有るのだが創造主には届かないやうだ。

 悲鳴。悲鳴。悲鳴。余達の同胞は力加減を知らぬらしひ。恐怖とは程よい方が好いのだ。余りの恐怖は時として感覺を麻痺させ、其の感情自体が磨耗するからである。さうなると我が玉座に訪れる頃には身を震はせるやうな感覺を失つた連中が事も無げに、時には薄ら哂ひまで浮かべてゐる不敬な奴も居る始末。詰り、余との謁見を拝すまで余り怖がつて貰つても困る。樂しみが無くなるではないか。

 亦悲鳴。是は吸血鬼伯爵殿の手に因るものであるのか、或ひは惡夢街の殺人凶の御仁か。其れとも未だ見まへぬ同胞か。

 いづれも其の腕に鈍りはない鋭才兇手の兵揃い。余もそろそろ自慢の大鎌を研がなくては。此の際、闇に塗れた屋敷の饗主が誰であるのかはつきりさせておかなくてはならぬ。だうも最近不調氣味に思へる。永き年輪が余の身体を侵食してゐるのであらうか。ぬらぬらとした黒光る鎖に拘束された余の背がぎりぎりと軋む。創造主は余に自由を与へてはくれなかつた。余に出来ふることと云へば、粘塊の如き濁つた緋色、血肉色の腕を振るふことと、うじゃじゃけたる乱杭歯を侵入者どもに剥きだす位のことなのだ。往年の姿態はいまや此処にはなく、自慢の鎌を振るふ腕すら儘ならぬ始末。余は切に望む。丗界が此の屋敷のやうに混沌としてゐた頃の、まやかしの昼など存在せず、百鬼が夜行する大禍つ時。余が生れ落ちたあの時代の、余の身体を……。



 最近客の足が減ったと思うのだがどうかね? と、腹の辺りのボタンが弾けそうに肥太った男が、半ば糾弾するかのように詰め寄った。空調が効いているにも拘らず、忙しなく脂の浮いた額にハンカチをやりながら。その男、竹尚は横の暗がりを歩く同伴者、形代に殆ど謂れのない中傷までを含んだ言いがかりをつけていた。時折空いた手で猪首に巻いた安っぽく輝くゴールドチェーンを弄ぶ。この男の相手に形代はうんざりしていたが一応の雇い主に文句を我慢するだけの理性は辛うじて残っていた。

 アトラクションとしてはまるで無意味だ、子供の児戯だと竹尚は指差す。その方向に色褪せた怪物がいた。樹脂を押し固めて形作った見世物。ぎくしゃくと緩慢な動きで目の前の通路をゆく入場者をセンサで感知して一定の範囲内で腕や首を動かし牙を剥き、捕食する肉食獣の爪のような大鎌を振るう。

 今は色褪せても当時の形代にとっては当代一、最高の傑作物だった。

「毎年の様に経常費が削られる。予算が出ないことには新たに製造する事が出来ないのです。それにあの子達は貴男が造らせた物じゃあないですか。九十年代のバブル経済の頃の資本に任せてハリウッド映画を主としたモンスターを我が遊園地にも導入しようと私に話を持ちかけた。映画の中の悪夢を銘打った怪物を造れと」

「ふん。しかし客が来ないのはお前の所為だ。注文どおりにお前は造ったか? 客のニーズに沿わんから誰も見に来んのだ。数字が全てだ。客の入りが右肩下がりに目に見えて落ち込んでいる。どうせならこんな屋敷なんぞ更地にしてジェットコースターみたいな絶叫アトラクションにした方が客の入りも良くなる」竹尚が忌々しそうに館の住人とその製造人を交互に睨み付ける。芋虫の様な指が首に食い込みそうなチェーンを引き千切らんばかりに捻り回している。

 馬鹿馬鹿しいと形代は思った。こんな議論続けるだけ無駄だとも。

「それで、私にどうしろと。屋敷と心中して一緒に辞めろとでも仰りたい?」

 単刀直入に半ば溜め息まじりで竹尚に言う。敗者の溜め息ではない。むしろ詰まらない言いがかりをこうも吐き出すことが出来るのか、との呆れて出た溜め息なのだ。

「あ、辞めてしまえ。それが出来なきゃ首吊って死んでしまえ」唾を吐きかけでもするかのように竹尚が噛みつく(実際、竹尚の体温に感応し、肋骨を剥きだして腕を突き出すゾンヴィーに痰を吐きかけたのだが)。自分の経営手腕は棚置いて売上の減少を筋違いにも形代にぶつける。ホーンテッドハウスに殆ど憎悪に近い感情を抱いているようだ。ひとくさり文句を言うと竹尚は突き出た腹を揺さぶり、さっさと出て行ってしまった。

 両生類以下の粘着質な男め、潰れた牛蛙め。と、こちらもひとくさりの呪詛を吐くと、形代はふうと疲れた溜め息をついた。竹尚が作品に理解を示さないのと同じに、形代にも資本家という人種が理解出来なかった。この遊園地も竹尚の父の代からの仕事だが、あの頃は良かったとつくづく思う。

 確かに恐怖の磨耗は在るのかもしれない。時代の移り変わりに従い恐怖の質も変革を強いられて来ているのかも。自分の感覺は既に時代遅れなのかも、と。しかしこうも思う。瞼を閉じると今も鮮やかに浮かび上がる極彩色の如き……あの頃の、自分が若かった頃の、夜の四辻を曲がるあの感覺。夜半に目覚め、一人で厠へ向かう廊下の向こうにわだかまる深い……深い闇。ねっとりと皮膚に纏わりつくような質量を持ったあの黯黒を。百鬼が夜行する、逢う魔が時。これを肌で知っている者にとって、今の夜の電飾ネオンを知る若い世代こそが恐怖を追い遣っているのだと。 

「なあ、どう思う? お前は」

 形代は壁に張りついている恐怖の王を見つめて肩を落とした。

 当代の自慢だった爬虫類の皮膚質を具えた血肉色の怪物は、錆びた大鎌を振り上げることもなく感度センサを仕込んだ黄色い瞳で静かに、彫刻刀で削った様な年輪を刻んだ形代の老いた顔を見下ろしている。主電源が落とされたらしい。非常灯の仄かな灯りの下で懐中時計が閉館時刻を指していた。

 お前こそどうなのだ、と逆に問いかける声が聞こえて来そうであった。

 形代は我が子を慈しむ様に緋色の主の腕に掌を添える。光沢の消えた樹脂肌には無数のひび割れを窺うことが出来る。往年の艶やかに濡れた様な肌は此処には既になく。

 目の錯覚だろうか。館の主の情念か、ひび割れた緋色の樹脂肌から陽炎の様に何かが染み出て薄闇に滲むかに溶け込んでゆく。形代はそれに気付くことが遂になかった。

「私と同じように、共に過ごしたお前達も歳を取ったということか……」

 まあ時代かもしれん。あの頃は良かったなどというのは年寄りの愚痴にしか聞こえんからな。老製造人はもう一度、物言わぬ往年の主を見上げると、館を静かに去った。



 雨が近いのかもしれない。生温い空気が身に纏わりつく。竹尚は顔を顰めた。

 いつでも夏は竹尚を不快にさせる。立っているだけで汗が間断なく噴き出す。竹尚は手にしたポリエチレン缶を足元に置くと、半袖シャツを引き千切るように捲り上げた。額を拭うハンカチは既にぐっしょりと濡れそぼっている。

──火を点けて燃やしちまえば保険金も入り更地も手に入る。なあに証拠を残さずにおけば済むこと。例え残ったとしても支配人が放火したなどと誰も思うまい。

──親父の代からだと一寸甘い顔をしたらこのザマだ。

 竹尚は閉館後のホーンテッドハウスの前に来ていた。アトラクションとは分かっていたが人の気も無く、陽の落ちたこの時間には竹尚の眼に禍禍しいものの様に映る。竹尚は気を取り直すと一層、ポリエチレン缶を持つ手に力を込めた。屋敷へと足を踏み出し、屋敷の柵鍵の位置を手でまさぐる。

 腑に落ちない。清掃人は鍵を確かめたと言ってなかったか? 屋敷とパークを隔てる鉄柵には鍵が掛かっていなく、竹尚は屋敷内にすんなりと侵入することが出来た。

 試みに屋敷の扉を押してみる。こちらも錠前が外れている。まあいいさ。不可解とは思ったが竹尚は、怪物に扮する入場券のモギリ不在の改札口を通り、暗幕を抜けた。

 普段なら恐怖の演出として微かに照明が燈されている屋敷内も、流石に電源が落とされ肺腑すら冒す程の濃密な黯黒に満ちている。ふん、馬鹿馬鹿しい。と自らを鼓舞するよう呟くと、竹尚は懐中電灯のスウィッチを捻った。ほどなく弱弱しい明かりが前方の漆黒を照らす。

 水のようにふっと空気が揺れた。喘ぐような嬌声。ヒトの気配。

 客が未だ残っているのか? 今時のアベックは暗がりと見れば直ぐにくっつきやがる。それに不埒な連中がホテル代惜しさに人気無い建物に不法侵入して……そんな話も小耳に挟んだことがある。ゴシップ雑誌のネタにありそうだ。もしそうなら高い金でも吹っ掛けて脅してやるとするか。そんな考えが竹尚の頭をよぎった。いや、腰抜けな若造を恫喝して、そいつの女を目の前で嬲ってやるのもいい。どんなことでもお好み次第。知らずのうちに唇が狡猾に歪む。どうしてくれよう……。

 音を立てないよう静かに近寄る。無論、いきなり胴間声を張り上げることで闖入者の機先を制してやる為だ。竹尚は電灯を消し門口からそっと覗き込む。だが対の目に飛び込んだそれは、吐き出す筈の呼気を思わず呑み込ませ、声が出そうになるのを堪えさせるものだった。

 ヒトデナシ……。

 其処に存在するのは、幽かな明かりに舞っているのは……。

 透き通る漆黒の麗人。豪奢なドレスを身に纏った貴婦人が其処には存在した。人間ではない。精巧に模られた等身大の人形だ。その口元で何かが蠢いている。髑髏を思わす顎を打ち鳴らし神樂を貪るかの如き声をそれは立てていた。あれは、あれは確か形代が『博士』と呼んでいた恐怖映画の人形ではなかったか? 五十センチ程の丈をした人形が時折痙攣をするかのようにびくびくと身体を揺さぶり、その都度震えるフロックコートから突き出た鉤爪から機械油が滴る。

 髑髏の顎からきしきしと漏れる淫らがましい音。身を齧られながら喜んでいる様に見える。

 異形の風景。いや、この屋敷にこれほど相応しい風景も在るまいか。

 一体何が……。竹尚は自失の中にいた。しかし、しかしだ、あの見慣れない女マネキンなんぞ俺は造らせたか? イキモノの様に蠢く怪物を形代が造ったとでもいうのか?

 

 からん。

 

 異形の光景に目を奪われ思わず竹尚は懐中電灯を床に落としてしまった。硬質の接触音がにわかに広がり、衝撃で懐中電灯のスウィッチが入る。

 し……まった……。声に為らない呟きとどちらが早かったか。

 刹那、眩い光線が辺りを支配し、そして直ぐに全てが元の漆黒に吸い込まれる。

 その数瞬。

 仄闇を人型に切り取ったかの様な麗人が振り向いた。その口には怪しの血に塗れ、呪縛するかに竹尚を視線に絡め取ると艶やかな毒花の如き笑みを零し、

 すうと薄闇に溶け込んだ。

 

 からん。


 その音で魅入られたかに立ち尽くしていた竹尚は、ふっと我に返った。何かが爪先に当たり、手探りで拾い上げる。最前の懐中電灯だ。何度スウィッチを捻っても燈ることなく、どうやら最期の煌きを放って事切れたようだった。

 こう暗くては代わりの明かりが要る。仕方なく竹尚は尻ポケットから火種に取っておいたマッチ箱を取り出した。が、どれも湿気を含み使い物にならない。「この畜生めっ!」竹尚は罵り声をあげると、見えない誰かの首を締め上げるかに箱を握り潰した。つきたくもない溜め息をつく。いや、喉奥から獣じみた唸り声が漏れ出たの方がより正しいだろう。

 無駄だと思いつつ目を凝らしてみるが、鼻先にもたげた掌さえ判別のつかない、自らをも包み込む黯黒に先程の気配など微塵も感じ取る由もなかった。

──今のは何だったんだ? 俺は熱で浮かされでもしたのか。

 竹尚はこの屋敷内にどんな怪物が造り置かれているのかを知っている。先程見たモノは記憶の抽斗には無かった。まるで、まるで性質の悪い悪夢を切り取ったような。

──とにかく計画は中止だ。見つかる前に屋敷から出なくては。でも見つかるとは誰に?

 頭では分かっていた。早く此処を抜けなくてはと。しかし……。

 焦れば焦るほど身体が言うことを聞かない。

 竹尚の胴元を透明な蛇が締め付けるかの様に、もしくは水中にいるような錯覚を催させる程に、漆黒は尚も色濃く、手を伸ばせば掴めるほど固体と化した闇。

 足元に置いた筈のポリエチレン缶すら分からない。爪先で探っても、それは虚しく空を掻くだけ。元からその場に存在しなかった物のように。

──落ち着け。俺はどうすれば此処から出られるか道筋を知っている。何のことはない。夜が明ける前にまた取りにくればいい。証拠品など。取り敢えず出ることが先決だ。

 記憶を辿れ。確か此処には『パペットマスター』の自動人形があった。その右手の通路の脇には『エルム街の悪夢』のフレディ・クルーガーが長い鉄爪を音高く鳴らしていた。そしてその横道を左に抜ければ非常口が暗幕の後ろに在ったはず。そうだ非常口を目指せ……。

 たかが人形だ、人工物だと分かっていても竹尚に向けられた沢山の物言わぬ視線を意識せずにはどうしてもいられなかった。そしてそのことが訳の分からない焦燥感を呼び込む。ブラウン管から這い出てくる黒髪の女が足にまとわりついてくる。

 窒息しそうな闇を掻き分けるように、何かに追われるかのように竹尚は先を急いだ。

──こんな思いさせやがって。時代遅れの廃物置き場め。出られたら誓ってこの手でぶち壊してやる!

 罵った後、そもそも『出られたら』と前提に考え巡らせている己の弱気に竹尚は怖気を覚えた。莫迦な。出られるに決まっている。閉塞したこの空間は……この屋敷は竹尚の心臓を容赦なく痛いぐらいに鷲掴む。子供の頃に帰ったようだ。竹尚の心臓が早鐘の如く収縮する。自分の耳に鼓動だけが響く。

 灯りが見えた。仄薄く緑に発光する常夜灯の明かり。思わず駆け寄り、通路を覆い隠す暗幕を勢い良く撥ね除けた。ステンレスの扉が目の前にある。その向こうにまたヒトの気配がした。何がいようと構うものか。現実だ。俺は狂っちゃあいない。竹尚は自らを鼓舞し、思い切って扉を開け放った。

 こじんまりとした部屋が目の前にあった。机と椅子、ほんの数秒前に誰かが此処に存在したと思える程、濃厚な気配が染みついていた。

 こんな所に部屋などあったか? それとも単に思い違いか。竹尚は心の中で問答を繰り返し、頼りげない脳裏の図面と照らしあわそうとする。……俺はこんな部屋など施工させたか?

 ふと異質の臭いが鼻をつき、部屋の隅に目をやる。竹尚は大きく目を見開いた。そこには先刻見失った筈の竹尚のポリエチレン缶が置かれていた。一角から灯油の臭いが零れている。

 何故こんなところにある? 竹尚は缶に手を遣ろうとし、その時、缶に黄ばんだ紙切れが張り付いているのに気付いた。文字がのたくった紙切れというより、或いは何か得体の知れない獣皮のように思えてくる。目を通すと竹尚は折れんばかりに歯軋りを立て、それをぐしゃりと捻り潰した。

「やうこそ、余の屋敷へ。歓迎する。ひねくれものには心地が良いだらふ?

 追伸・火の始末にはくれぐれも十分に注意を……」

 たった一行ばかりの文章であったが、竹尚を逆上させるにはそれで十二分に過ぎる程だった。

──全ては形代が仕組んだことか。俺に言われたことを恨んでのことに違いない。ふん。丁度いい。そういう心積もりならば屋敷と一緒に引導を渡してやるぞ。地獄を見せてやる!

 自らの常軌を逸した行動理念には何の疑問も持たず、ただ、怒りをその場にいない形代に向けて鼻息を荒げる。元来、竹尚はそういう男だった。そして勢いに任せて猪突、通路へと身体を乗り出した。


 闇の粒子と共に鼻を刺す臭いが竹尚を出迎えた。黴臭いヘドロの臭い。魚の腐臭、糞尿の臭気、獣の臭い。硫黄臭。そのほか竹尚には分別することの出来ない、ただ不快感のみを強要する名状しがたい臭いが綯交ぜになって竹尚に這い寄り、そして吹きつける。

──何だこの臭いは? それに……。

 竹尚は改めて周りを意識した。周囲に沢山の気配が満ちている。獣の息遣い。刃と刃が擦れ合う音。呻き声と絡み合う淫声。ぴちゃぴちゃ舌を舐める音。鰭が水面を打つ音。そして近づく無数の足音……。

 テケリ・リ! テケリ・リ! 怪鳥の叫びが鼓膜を突き破らんと木霊する。

 形代に違いない。竹尚はそう自分に言い聞かせた。でなければ在りえない。説明がつかない。竹尚は闇の中ということすら忘れ固く目を瞑る。

──何も聞こえない。何も見えない……。

 下卑た太鼓の音が轟き、気が狂いそうな程単調なに魔的なフルートの音色が絡む。踊子のステップ。

 竹尚を包み込む雑然とした気配を殊更無視して、竹尚は記憶にある道を脳裏に思い描き、それに沿って着実に歩を進めた。太った身体にべっとりと張りつく木綿のシャツは竹尚の汗と様々な臭気とを吸い込んで、容赦なく体力を奪い去っていく。

 どれくらい歩いただろう。竹尚の息は完全に上がっていた。その間にも竹尚は肩に喰らいついたゾンヴィの頭を殴り飛ばし、きいきいと呻く巨大ゴキブリを踏み潰した。

 確かに見覚えがあるもの達ばかりだ。『ブレインデッド』のゾンヴィに『MIB』のゴキブリ型エイリアン、造形として完成された、ギーガーの黒光りするエイリアンに『ハウリング』の狼男に『チャイルドプレイ』の殺人人形、チャッキー。それらはどれもこれも形代に命じて製造させた覚えがあった。

 火花を散らす切り裂き音が背後で蠢く。見覚えのあるホッケーマスク……。

 『遊星からの物体X』の名状しがたい不定形生物、地底人アンダーテイカー達……。水を浴びギズモから増殖するグレムリン。エクソシストに歯向かうがごとく逆さ四つ足で歩く少女。巨大なジョーズが顎を大きく開け……。額に札を貼り槍衾のように両手を突き出すキョンシーの群れ。名状しがたい臭気を放つバタリアンの汚穢な

 銀幕に潜む亡霊達、モンスターと言う名の悪夢。

 悪夢に棲まう住人達は劇中に何をした? 登場人物に何をした? 彼らは何をした?

 どんな仕組みだか知る由もないが、捕まれば只では済まない。その結末だけは確実に予測がついた。仮初めの生を受けたにせよ、理由はどうあれ屋敷の住人に捕らわれることだけは絶対に避けねばならない。ここまでに受けた決して少なくない生傷がそれを如実に物語っていた。

──覚めるものならこんな夢早く覚めればいいものを。

 竹尚の顔は今や涙や鼻汁、そして己の血で塗れていた。半開きの唇からは止め処なく唾液が零れてシャツに染みを作っている。意識の何処かでしくりと感じたのは、崩壊の兆しか。

「──だうした、余の歓待は気に喰はぬのか」

 竹尚を見咎めるように声が轟いた。それを意識する余裕が竹尚には既に無かった。

「──だうした、余に仇為す外道が。余になにやうかあつて此処に来たのだらう」

 その声は前方の闇から瘴気の様に吹きつけて来るようだった。

 何用?

 ……目的?

 一瞬すうと竹尚の意識が冷える。

 そして入れ代わりにふつふつと怒りが沸いてきた。

「何用だと? 形代ぉっ! 貴様の屋敷だ。貴様の屋敷さえ無くなれば俺は……」

──俺はこんな地獄を見ないで済んだのに……。

「──其れは筋違いと云ふものだ。愚かなる外道め。形代とは余を創造したまふた主の名也。そして余達に魂を吹き込んだ神にも優る名」

 聲が竹尚を嘲笑う。それに同調して辺り一面に千匹の蟇蛙を放つが如き嘲りの響きが轟き渡った。

 その聲に形代の幻影が重なる……。

 何かが竹尚の中でぷつりと音をたてて千切れた。

 竹尚は前方に明かりが一対灯っているのを見据え駆け出した。その目からは常軌を逸する狂乱の光が間断なく零れていた。殺してやるぞ。殺してやる。殺してやる。殺して……殺……し。 

「──ふはははは。余を飽く迄も形代と呼ぶのなら余の姿を目にも見るがよい!」

 仄闇にその姿が浮かび上がる。その姿には竹尚は見覚えはあった。しかし。

 記憶にあるのはぎくしゃくと動く樹脂の腕は酷くひび割れ、緋色の原型を留めていない。時代遅れの色褪せた怪物。黄色に光る感応センサが否が応にも物悲しさを増していた。そんな代物……。

 しかし、しかし今はどうだ。てらてらと艶やかに爬虫類の肌を思わせるその肌は血肉色に輝き、額からは一対の捻じれた大角が天に突き出て往年の姿を思わす。何よりも膂力に満ちた腕に構えられた大鎌が今にも血を啜らんとばかりに、竹尚という獲物を捕らえ寒々と輝きを放っている。

「……そんな」

「──余を汚し、余の創造主に仇なしたこと不敬罪に当たる。余が直々に判決を下さう」

 此の男有罪か其れとも否や。

 竹尚は必死に逃げようとするが腰が砕けて思うように動けない。

 此の男有罪か其れとも否や。

「──だうした、汝が咎の仔よ、余達の贄となるか」

 辺りにひしめく異形の気配。ハリウッドの亡霊、造られた住人達。

 その聲が唱和した。

 有罪! 有罪! 有罪!

 悪夢のさざめきが黯黒に滔滔と流れる。

 有罪! 有罪! 有罪!

──ヤグサハ! 審判は下った。

 緋色の聲が屋敷中、高らかに響きわたり、饗宴の始まりを厳かに告げた。歓声と重なる。

 竹尚は失禁したのか黒い染みが床に広がっていく。

 ざわり。とまた瘴気が揺らぐ。

 竹尚を取り囲む気配の輪が圧迫するように一層小さくなっていく。

 ざわり。

「……ひ……」

 緋色の怪物を拘束していた唯一の縛鎖が、甲高い非難の叫びを上げ弾け跳んだ。刃先から鈍い輝きを放つ大鎌が高らかと頭上に振り上げられ……。  

 


「形代さんほどの怪物製造人を下野させようだなんて、ここのオーナも太っ腹というか、見る目が無いですね。見ましたよ、最新作。猟奇に満ち溢れてますよね。どうやって造られたのかしらん。しかし、ハリー・ハウゼン以来、これだけのもの造れる人間、ハリウッドにもそうはいませんよ。とみにコンピュータグラフィックスに流れがちな昨今の風潮をみれば。貴男を私達は歓迎します」

 形代は映画製作会社の人間と逢っていたが、どうも褒められるような覚えはなかった。近頃は金銭上の都合で制作自体とんとご無沙汰だったのだ。

──はて最新作? 首を傾げながらも曖昧な笑みを浮べて形代はホーンテッドハウスの暗幕をくぐり抜ける。異形の人形達が形代達をセンサで感知して、ぎくしゃくとモーションを起こす。どれもハリウッド映画に登場する極上の悪夢達であり、またいずれも愛すべき形代の我が仔達である。

「ああ、これこれ。最高ですよね。迫真の一作。形代さんも気に入ってるんじゃないですか」

 緋色の主の傍らにもう一つ。それを見て声を上げそうになった。

 まさか。形代は声を呑み込む。真に恐怖を感じるのはこういう時かも知れない。

 芋虫のように四肢を分断された身体が形代の足元で蠢いている。でっぷりと突き出た腹からは湯気の立ちそうな赤黒い臓腑が剥き出しになり、緋色の怪物の腕に絡みついていた。ゆっくりと蠕動運動を繰り返している。切断された脂肪にまみれた傷口からは新たな触腕じみた手足の萌芽が見られた。幾つもの眼球が瞬きをしており。外宇宙から来訪したといわれても信じてしまうかの造形だった。形代の手にかかればお手の物であろう。

 作り物でない活きたオブジェ。それが白濁した瞳で形代を縋るかに恐れるかに見つめる。引き攣った断末魔が口元にこびり付いている。

 その首元で見覚えある金の鎖が揺れ動き……。

「あれ、どこかで見たことがあるような。何の映画が出典なのです?」ヘッドハンターが首を傾げる。

 形代の恐怖が伝染するのにそう時間は掛かることがなかった。

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