第62話 形態記憶鋼板

 日常品や衣料品に“形態記憶”機能が埋め込まれ始めた最初の事例はブラジャーではないだろうか? 衣料品に関しては、少なくともワイシャツの殆どは形態記憶シャツと言っても構わないと思う。その道の専門家ではないので、間違っていたら、申し訳ありません。

 一時期には、形態記憶歯ブラシなんかも売られていた。羽先が中々しおれないので耐久性にすこぶる優れていたのだが、いつしか店頭から姿を消してしまった。商品としては極めて優れた製品だと感心していたのだが、恐らく、売上げ減少に直面したメーカーが絶版としたのだろう。


 さて、今回は、そんな形態記憶機能を具備した鋼板の話である。

 読者の中には、車庫の塀で自家用車の後部や側面を凹ませたり、細い道の脇に立つガードレールなんかに接触してボディーを傷付けたりした経験をお持ちの方が少なからず居ると思う。特に新車の場合、凹んだボディーを指でさすり、後悔の念でボディー以上に心を凹ます事になる。

 勿論、読者の時代には黎明期であった自動の車庫入れ機能や障害物を察知すると自動でブレーキが作動する衝突回避機能は、私の時代に販売されている乗用車には標準装備となっている。

――だったら、車体に疵なんて付かないんじゃない?

 ご尤も。だから、形態記憶鋼板をボディーに使用した乗用車は、日本を始め、先進諸国では販売されなかった。開発当初に投入された販売地域は、オーストラリアやアフリカ諸国であった。

 人口密度だけでなく、国土面積に比べて保有車輌数の少ない地域では、車輌同士の衝突事故は殆ど発生しない。

 車庫だって、日本の狭い車庫とは違い、広々とした駐車スペースである。車庫入れ技術が稚拙ちせつだろうが、全く問題は無い。

――そんな国土で走行する乗用車として、色々な機能を具備した車輌を買うだろうか?

 その機能分だけ、車体価格は高くなっている。当たり前だ。精密機器が組み込まれているのだから。消費者としては、余計な機能を取り去った安い車輌を購入したいはずだ。

 でも、1人の人間としては、イザと言う事態に備えて、別の手段を確保しておきたい。それが消費者心理である。そう言う消費者の心に訴えようと、形態記憶鋼板を使用した乗用車は販売され始めた。

 車体価格に占める鉄素材のコストなんて数パーセントに過ぎない。材料費が多少増えたって、車輌保険に入るよりは遥かに安上がりである。

――でも、本当にイザって言う事態が発生するのかなあ・・・・・・?

 読者の疑問はご尤も。でも、冷静に考えてみて欲しい。オーストラリアならば、道路に跳び出たカンガルーが走行中の車輌に飛び込んでくる。アフリカなら、流石にアフリカ象は無かったが、それ以外の様々な野獣がつかってくる。乗用車を見慣れていない彼らは、平気で道路に侵入してくる。

 不測の獣害に備えた対策として、形態記憶鋼板は密かに消費者の支持を得たのだった。

 形態記憶鋼板は、生卵を垂らせば目玉焼きになる位の高温に熱せられると、工場出荷時の形状に戻る。

 アフリカならば、夜間にインパラと衝突して出来た窪みは、翌日の昼過ぎには元に戻っている。

 オーストラリアの場合、接触事故が冬場に発生していれば、大陸内部に広がるグレートビクトリア砂漠なんかの砂漠地帯の辺縁部にまでドライブに出掛けるか、諦めて夏を待つ。

 鹿との接触事故に遭遇したカナダ人は得てして、夏のバカンスにアメリカのフロリダなんかに出掛けるようだ。家族は砂浜で肌を焼き、自家用車は駐車場でボディーを日光にさらす。


 ところが、辺境地で地道に販売台数を伸ばした形態記憶鋼板の乗用車だったが、先進国でも売れ始めたのだ。

――何故? 衝突事故や接触事故とは無縁なんじゃないの?

 おっしゃる通り。

 でも、商機とは何処に転がっているのか、分からないものなのです。

 読者の抱く疑問の答えは、地球温暖化に伴う異常気象である。

――へっ?

 戸惑っている事だと思う。らしても仕方無いので、具体的に言おう。ひょうなのだ。

 私の時代では、夏の盛りといえども、雹が降る。それも突然だ。ゴルフボール位の大きさの雹が降る。時にはソフトボール位の大きさの雹も降る。当然ながら、乗用車のボディーは凸凹になる。

 空から降って来る物体に対して、衝突回避機能は全く役に立たない。センサーは上を向いていない。車輌保険だって、気象現象に関する免責を契約書に謳っている。

 つまり、ドライバーは無防備な状態に放置されるのだ。だから、衝突回避機能を備えていたとしても、形態記憶鋼板をボディーに採用した乗用車が売れ始めたのだ。


 く考えてみると、乗用車のボディーが凸凹になるならば、住宅の屋根だって凸凹になっているはずだ。

 確かに瓦屋根は少なくなったが、軽量化の効果に優れた化粧スレートに地位を奪われた面が多大に有り、瓦屋根の衰退した原因を雹に求めるのは無理が有る。

 その化粧スレートの弱点は強度的に弱い事であった。セメントと合成繊維を混ぜ合わせた化粧スレートは、雹の与える衝撃に耐えきれず、雨漏りを頻発させる事になった。

 だから、化粧スレートに比べると材料費が嵩むが、厚目のバルガリウム鋼板などの金属屋根が普及している。

 乗用車のボディーを凸凹にするくらいだから、ガルバリウム鋼板だって凸凹になる。でも、金属屋根に形態記憶鋼板が普及する事は無かった。

 いつの時代になっても、やっぱり消費者は、見えない処に金を掛けないものである。

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未来の暮らし~ショート・ショート~ 時織拓未 @showfun

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