芳乃 加寿美
あのひとはわたしを抱く時、結婚指輪を外して、誓約台の上の純白のリングピローに置く。
それが彼なりのけじめ、なのかもしれない。
わたしたちの勤め先のホテルは、ブライダル課でも、なんでだか夜勤が巡ってくる。だからたまたま彼とシフトが一致すれば、暗黙のうちにそれが約束の逢瀬の日だ。
終電組のあと、車組が退勤して行き、オフィスにわたしたちだけになったタイミングで、彼が声をかけてくる。
再来週のブライダルフェアの演出のことで、相談が。
とか、そんなふうに。
ブライダルフェアと呼ばれる、新規顧客獲得のためのイベントの企画は、営業とウェディングプランナーが協力して行うことになっているから。
じゃあ実際に照明なんかを動かしながら、チャペルで。
誰が聞いていてもいなくても、わたしたちはそうやって、仕事を口実に纏う。
日付なんてとっくに変わった真夜中、訪ねてくる新郎新婦やパートナー企業なんていない。
婚礼前日などは突然仕入れミスなんかのトラブルが判明して、宴会課が駆け込んでくることもあるけれど、それ以外の平日に、どうしてうちの課に夜勤が必要なのかは、よくわからない。
しかし理由はさておき、腰を入れて進行表なんかの入り組んだ事務仕事をしたい時には、覚悟が決まってありがたい部分も否めなかった。
日中は打ち合わせや電話対応、諸々の準備で、パソコンに触る暇もないことが多いから。
わたしの仕事はウェディングプランナーだ。
というと、同性の知人には、ジェニファー・ロペス主演の映画で知っていると言われることも多い。幸せなカップルの、一生に一度の挙式・披露宴のプロデュースのお手伝いだ。毎日充実している。やり甲斐があって、忙しいのも苦にならない。
けれどたまにはリフレッシュしたいこともある。
人肌に触れてほっとしたいことも。他人にあられもない姿を曝け出してどきどきしたいことも。異性に甘い言葉をかけられたいことだって。
ある。けれど他業種の男とは、予定が合わない。
無理やり週一あるかないかの休みに合コンをねじこんで、多少いい雰囲気になってメールアドレスを交換しても、メールを送る時間がまず取れない。なんとかデートの約束にこぎつけても、休日に急ぎの打ち合わせが入ることはザラだし、人が足りなくてピンチヒッターで呼ばれることもある。
結果、自然消滅ばかりだ。
昨年スキー場でナンパしてきた大学生とは、奇跡的に続いていたが、三十を超えた自分が、結婚を真剣に考えて交際するべき相手とは到底思えなかった。――それを言えば、あのひととの関係だって、不毛なことこの上ないのだけれど。
知っている。でも、言い方は悪いけれど、彼はちょうど、いい。逢瀬に対する負担が少なくて、互いにずるずると卑怯で、それとは別に、もちろん、わたしは彼のことが嫌いではなくて。
恋心を纏ったところで、自分が清くなどないのは、わかっている。
不倫だ。
罪悪感や虚しさに嘔吐しそうになることもあるし、気晴らしのスポーツのように割り切れる日もあるけれど。大人を決め込むということは、清濁あわせ呑む、ということは、こういうことでしょう。そういう開き直りもあった。
こどもじゃないのだもの。清いままでなんか、いられない。肉欲だって、打算だって、ある。少しくらいのズルをしなくちゃ、なにもないまま、乾いた人生。――いえ充実していますとも。
オフィスの壁にかかっているホワイトボードのスケジュール欄に、ふたりぶんの《外出中》マグネットを貼り付けて。
館外の独立型チャペルに向かい、扉の鍵を閉めて、会社自慢の大きなステンドグラスの下で。
誓いの欠けた指輪から逃れ得た冷たい指が、わたしを愛撫する――。
✟
それでも大概息ができなくなっていることに気付いたのは、
マンションまで帰宅した四月の第一日、深夜、
今年は三月下旬から急にあたたかくなって、桜の開花も例年より少し早くて、
ああ前撮り希望のお客様の予定に狂いが出るかしら、遅咲きの木をカメラマンに探しておいてもらわなきゃ、だとか、《情報》としての処理しかできておらず、
駐車場に車を停め、降りて、顔をあげた時、隣の一軒家の庭に咲いている一本きりの桜木があんまりなまめかしく白く、春夜にはるばる枝を伸ばし切っているのが目に入った瞬間、
心臓のあたりが濡れた霧でじっとりと湿らされたような気がして、
ほのぼのと薄ら紅い、どこか官能的な疲労感に脳の中がじゅくりと冒されて、
泣きたい気持ちとここちよい解放感に、ああもうだめかもしれない、と思いながら、もう一度車に乗り込んだ。
桜が咲いてる。
きれいに咲いてる。
わたしは春も、桜も、昔からとても大好きだった。
無意識のようにバッグを探り、感覚の弱い指先でスマートフォンの画面をたどった。
パスワードはあのひとの誕生日。……深い意味なんてない。打ち込む手に、ときめきもない。
苦くて後ろめたい気持ちを、利己的な防御反応のような感情で塗り潰す。
……わたしは悪くない。ないことはないけれど。
奥さんを裏切っているのは彼だ。思いやらなければならない義務があるのも。わたしは会ったことのない他人のことを思って自分の寂しさを我慢できるような、優しい人間じゃない。
当たり障りのない壁紙に浮かび上がるデジタル時計は、3:12を示している。
大安の土曜日を週末に控え、今日は昼食を食べる間もなかった。ゾロ目の覚えやすさもあってか、四月四日挙式は大人気で、宴会場は一年前から予約が殺到してぎちぎちに埋まっている。
……だから無理に挙げてもらわなくたって、早めにキャンセルさえしてくれたら、次の予約が入ったのに。
そう、ぼやいてしまうのは、その日挙式の担当客の中に、年に一組か二組現れるかどうかの《少々アレなお客様》がある所為だ。今日忙しかったのも、大半は彼らの対応のためだった。
とにかく難癖をつける。一度決めたことを、あとで悩み始める。この日までに決めて欲しい、とお願いしたことでも、平気で無視する。そのくせ、後日「なんとかしてくれ」とゴネる。
わたしも大概ベテランだから、そういう客をうまく操縦してこそ、というところはある。最終的に金を落としさえしてくれれば、お客様だ。しかし彼らは挙式一週間前入金の契約を反故にし、三日前の今日まで、「四月四日の《四》は《死》と同じ発音だ。縁起が悪いんじゃないか、やっぱりやめたい」「騙された、金返せ」「せめて安くしろ。サービスしろ。花屋で買う花はこんな何十万もしない、ボッタクリだ」と粘り続けた。最終的には持って来た現金を出したが、当日少しでも不手際があれば、これ幸いと値下げを要求してくるだろう。
正直、疲れた。
それの新郎側が《
わたしの目はLINEの画面上をぼんやりと泳いでいる。既読のまま放置されている、三日前のメッセージ。仕方ない。繁忙期、忙しいのはあのひとも同じだ。画面の向こう側の君は、奥さんと同じ寝室で休んでいるのかしら。それは、ええ、正しいことね。
そしてわたしにメッセージを送る行動は過ちであり、罪なのだ。
✟
ここらで一番有名な花見処と言えばK公園だ。むかしの城跡だという。大きな池に橋がかかり、夏場はキャンプ場としても使われるらしくて炊事場なんかも敷設している。
わたしはすっからかんの駐車場に車を入れて、徒歩で一番大きな広場に向かった。
広大な公園のそこここで、ソメイヨシノや山桜が咲き誇っている。
ぼわり、と、闇にパステルでぼかしを入れたような花群の、息苦しいほどあまい息吹。
白い春。
静謐さと、幻想的な景色とが、現実感を奪う。帰る家のない不審者に、襲われたりしないか、だとか、そんなことを恐れる余地もなく、ぼんやりと頭上を見上げ、わたしは歩いた。
誰もいない広場の芝生に、じかに座る。
きれい、だ。
言葉もない。
白く発光するような桜の小手毬に目はずっと釘付けで、胸の中には、さまざまな気持ちが去来していたけれど、おおむね、ぼうっとしているのだった。
お花見が。
したかった。
忙しくてずっとそれどころじゃなかった。
お花見なんて、どのくらいぶりだろう。
新卒で今の会社に就職してからというもの、休日返上でがむしゃらに働いてきた。
早朝から深夜までオフィスに入りびたりで、お花見に向かうひとたちを見かける機会もなかった。テレビだってほとんど見れない。
でも、きっと、世の中には、いるのだ。
当たり前に、お花見、できる人間が。
友達と。家族と。恋人と。
そういうひとたちと、自分はなにが違ったのだろう。
ああ、きれい。もっと早く、こうやって来ていればよかった。誰もいない。ぼっちだからって、人目を気にする必要はなかった。邪魔な酔っ払いもいない。特等席だらけだ。
でも、家に帰って、眠れるのはせいぜい一時間半か。肌荒れもだが、明日の頭の回転が心配だ。ミスは許されない。どんなちいさなミスであっても。一生に一度のお式(笑)なんだもの。
ああ、茶化すようなことを。
どうして言うの。本心じゃない、冗談でしかない。
憧れの職業だった。必死に就活して掴んだ内定だった。やり甲斐に溢れていた。新郎新婦のことを思って、毎日こころを砕いて働いていた。そのつもりだった。
でもボランティアじゃない。会社的には、利益率の高い付属品を売りたいところもある。それがうまく売れない社員には、叱責だって飛ぶ。従業員なのだから。仕方ない。
高額な商品を選んでもらえるよう、その気にさせるトークに磨きをかけるのは、営業努力。無理強いなんて絶対しない。でも結果的に、最終見積もりを見たお客様が真っ青になるのは日常茶飯事。こんな筈じゃなかったと喚く。――サギ、と言う。《来てくれたひとへの感謝の表し》だとか《縁起の良い門出》を、お金で買おうと決めたのは君らなのにね。
ああ、なにしてるんだ、わたし。ばかじゃないの。帰って少しでも寝ないと。
明日は早鞍様、またなにか言ってくるだろうか。今日のようなアポなし訪問はもう勘弁して欲しいけれど、でも多分また来るような気がする。わたしの勘がそう言っている。
きれいなものを見て、ゆっくり、きれいだね、って。
ほんの少しの時間、思う自由さえないの。
ざぁっと、風に乗って、ピンク色のはなびらが目の前に散る。
ああこれ。まるで、十年前、新卒の自分からの、手紙みたい。
希望に燃え、理想高く、幸せを信じていた、二十二の自分からの――清らかな、頃の、視線。
あの頃思い描いた十年後の自分は、こんな、だっただろうか?
ああ、爪が欠けてる。もうむり、直す時間なんて、どこにも……ああ、ゆっくり、時間を気にせずねむりたい――
気付いた時には、橋の上から、池を見下ろしていた。
何十分、あまやかな風に吹かれていたのか、わからない。
わたしがしんだら。
お客様は、担当プランナーが死ぬなんて縁起が悪い、って言うかしら。
あのひとは泣く、かしら。それすら罪と言うかしら。
いいえ。いいえ。同僚なのだから、それくらい許されろ。
橋の上に乗せた手が、ざらり、とした手触りを覚える。
一瞬。多分、きっと。一瞬だけのこと。いたくない。こわくない。これ以上生きるほどには。
体を乗り出す。池には木から振り落とされたたくさんの花が浮かび、ふんわり寄せ集まって、一面桜色だ。
――うけとめて、くれるだろうか。
落下に強く抵抗した冷たい水は、痛みとなって、全身を貫く。
藻のような。
ほそくてかるい感触が顔や手の表面を滑る。体重を預けられるようなものはなにもない。
藻のような。
味が、口と鼻に詰め込まれて、ぢくぢくと痛む。もがもがと不恰好に口が、酸素を求める。くるしい。いや。
重たくたゆたう、水、を吸ったスプリングコートが水底に垂れる。はやく。
はやく繋いでしまって。逃げられない深く。抵抗しようもなく。息継げない其処へ。
はやく連れて行って。
がふり、と吐くんだか呑むんだかわからない、くるしさが肺を埋める。
きれいな、あじなんて、どこにも、しなくて、
清濁あわせ呑むという、その味は、
やはり、濁なのだと、
思い知りながら、がぼり、がぼりと、水を呑みくだす。
知っておいて欲しかった、けど、ねえ、君。
わたしは誰かに、殺されるわけじゃ、ないから。
仕事がつらいわけでも、
なにかを深く、気に病んだ、わけでも、なくて。
ただ――
隣家の桜がきれいだった、から。
それだけの、こと。
さあ、
華麗に濁を泳ぎ渡れないなら、
この体いっぱい、呑み干しましょうか。
***
【第40回フリーワンライお題使用】
(https://twitter.com/freedom_1write)
白い春 / 10年前の手紙 / 画面の向こう側の君 / 欠けた指輪 / 冷たい指
四月の魚 あずみ @azumi
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