四月の魚

あずみ

福渡 慶子


 満開の桜の木の下で、恋敵のあの子は水死体になりました。

 わたしの夫とそして彼女が勤めるホテルから徒歩十五分ほどのところにあるK公園はこの辺りでは有名な桜の名所で、彼女の命日となってしまった四月一日は、平日とはいえ多くの花見客で賑わっていたそうです。

 とは言え、近辺に大学や大きな会社などない、一地方都市の花見ですから、日付が変わる前にぱらぱらと散会し、夜通し騒ごうなんて元気の良いひとたちはほとんど見られません。

 あの子の死亡推定時刻は午前四時半前後。そう聞きましたが、その頃周囲はすっかり静まりかえっていたことでしょう。

 ああ。

 ええ、想像です。わたしはそのときのことを何度も何度も、何度も何度も想像したのです。ですから実際に見るほどに、美しく艶やかに、細部までこまやかに、その絵を思い浮かべることが叶います。

 K公園の翠の池は、水縁の桜並木の振り零したはなびらをひらひらり、と吸い込んで、一面ひろびろとした花筏だったことでしょう。

 あの子は明け方に近い夜闇の中で、うら若き身を仄かな淡紅の絨毯の上へ投げ出します。

 どうしてか。

 いたずらに、か弱き女性を突き落とす者があったのか、はたまた足を滑らせたのか、はたまた世を儚むようななにかがあったのか。それはわかりません。

 かわいそうに。そう思います。

 あんなに若くして、それも有能で美しい女性が、どうして死ななくてはならなかったのか。

 お気の毒に。そう思います。

 ――嘘をつけ、そう言いたげなお顔ですね?

 ええ、嘘かもしれませんね。

 わたしは彼女が死んで呉れて、ほっとしました。嬉しい、と言い換えても良いかもしれません。

 どうしてか。

 説明は不要でしょう。彼女は恋敵。わたしの夫を盗った女です。

 ……盗られたというのは言い過ぎだ?

 籍を抜かれたわけではないだろうと、そうおっしゃいたいのですね。

 なるほど。男のひとの考え方かもしれません。

 わたしと夫は、まだ婚姻関係にある。ええ、それはそうでしょう。

 妻の座を盗まれたと、申してはおりません。

 けれど夫のこころは、あの子に奪われておりました。すべてではなく、一日の内の数時間、一週間の内の数日でも。夫はあの子のことを考え、体に触れ、ときには共に笑いあったのです。

 ただの浮気、と、そうおっしゃるかもしれません。

 しかし、わたしは辛い三角の愛の渦中で、長く苦しみもがいてきました。

 結婚して十年。

 あのひとは家に帰ると、毎日わたしに、愛してる、と言います。

 その言葉が、どれだけ辛かったか。

 嘘なのです。

 わたしへの愛がたとえ嘘ではなくても。あの子をも愛している時点で、それは嘘であるのです。

 愛はふたところに配ってはならないものです。固く貞操をまもるのが結婚。わたしたちは永久に夫婦であると、そう誓い合ったのですから。あのひとの職場であるホテルのチャペルで、十年前に。

 結婚式場の営業のエースとして、あのひとは毎日忙しく、あちらこちらに気を遣って、働いています。

 その夫を、わたしは支えてきたつもりでした。

 それなのに。あの子と。

 あの子の話を、よく夫は夕食のとき、世間話に聞かせて呉れました。凄腕のウェディングプランナーで、美人で、でもまるで男っぽくサバサバしていて、デキるやつなんだと。

 夫は彼女とそういう関係になる前から、同僚として、信頼していたようです。

 結婚式で、はたまたブライダルフェアと呼ばれるイベントで。トラブルがあるたび、華麗にふたりでそれを収拾してきた武勇伝を、よく聞かせて呉れました。

 わたしも楽しくその話を聞いておりました。わたしも結婚前は花屋で働いていたことがあったので、なんとなく雰囲気はわかるのです。彼女は女だてらに、とても仕事のできる、いわゆるキャリアウーマンというやつなのでしょう。

 彼女のこと、随分お気に入りみたいですけど、浮気なんてなさらないでくださいね?

 そう言うと夫は屈託なく笑ったものでした。

 ばぁか。女として見てるんじゃねえよ。あれは背中を預けられる戦友みたいなもんだ。

 夫の言うことだからと、素直に鵜呑みにしたわけではありません。

 言い方、雰囲気、女の勘と言えば刑事さんは笑われるかもしれませんが―― 

 とにかく、そう話している頃、夫とあの子は、いわゆる男女の関係ではなかったように思います。

 変わったのは二年前の、そう、今と同じ時期――春。

 とわたしは思っているのですが、その辺りはあくまでわたしの推測に過ぎません。直接夫に訊いてください。

 とにかく夫はわたしを裏切り、彼女と体の関係を結んだのだと、そうわたしは思っています。ぱったりと、食卓で彼女の話をすることがなくなりました。けれど水を向ければ、相変わらず仲良くしているようなのです。ああ、これは、と思いました。

 確認ですか? もちろん、しようとしました。冗談めいてカマをかけてみたことも――。

 浮気なんて、していない。そう夫は言いました。

 嘘。

 夫婦の中で、初めて明確な嘘がつかれた瞬間でした。

 それからは地獄の日々です。

 世界にただひとり、そう信じて結ばれた相手、最愛のパートナーが、最も安らげるはずの家の中で嘘をつくのですから。

 嘘は悪。そう言われて育ちましたし、わたしは彼になんの嘘もついてきませんでした。

 ひとつの嘘は、すべての信頼関係を崩すものでした。

 毎日夫がわたしに言う、愛してる、の言葉すら、信じられなくなりました。

 愛してるの数だけ、嫌いになるのです。嘘つき――この、嘘つきが。

 夫はホテルの仕事ですから、夜勤もあります。

 まさか夜勤に行かないで呉れとは言えませんから――夫が帰らない夜、わたしはひとりきりの寝室で、眠れぬ夜を過ごしました。

 ええと、それで――なんの話でしたっけ。

 自白しろ?

 なんのことですか、刑事さん。

 わたしはすべて、それこそ、嘘をつかずにお話しているつもりです。

 嘘がひとを傷つけることを、二年間、膾切りにされるように、この身で体感してきたのですから。

 ……わたしの犯した罪のお話ですね。

 ええ、正直にお話している通りです。

 あのひと愛用のライター――わたしが結婚前にプレゼントした――が現場で見つかった。

 それで、あなた方は、夫が彼女を池に突き落とした犯人だと、誤認してしまった。

 ええ、それは、申し訳なく思っています。

 ひとつなら、許されると思ったのです。

 エイプリルフール、だったものですから。

 これまでついたことのない嘘ですが、ひとつだけ、つかせていただいたのです。

 あの日、夫は彼女とK公園で密会などしていません。

 あのライターは、事件の報道後、わたしが故意に現場に落としに行ったものです。

 嘘は罪。

 わたしはますます深い闇に包まれるのを感じましたが、けれど光も見えておりました。

 警察に疑われた夫が、わたしにすべてを打ち明けて呉れたら。

 彼女と浮気したのはほんとうのことだけれど、けれど殺したわけではない、と泣きついて呉れたら。

 嘘を撤回して呉れたら。

 わたしは夫の、妻に、戻れる気がしたのです。再びふたり、安心してあの家で暮らせるようになると。

 くだらない理由だとお思いでしょうが。

 だから夫が、あの若い男性を―― 

 あの子の彼氏さんを殺してしまうなんて、思いもしないことでした。

 彼氏さんは、夫があの子を殺したのだと決めつけたのでしょうね。

 言い争い、揉み合い、夫は彼をホテルの非常階段から突き落としてしまった。

 夫は、今度こそほんものの殺人犯。

 わたしは、なんでしょう……。少なくとも、捜査の妨害をしてしまった、その罰を受けるのでしょうね。ええ、そのつもりです。

 夫は刑務所に入るのでしょうか? ……ええ、どうなったって、待ちます。だって、わたしはあのひとの妻ですもの。

 嘘の日は終わりました。わたしは事実しかお話いたしません。

 わたしはあの子を池に落としてなどいませんし、夫もあの日あの時間、家で寝ていました。

 夫の浮気の確証を得たかったわたしが、朝の散歩のついで、ライターを落としに行った、それだけの。

 ことでひとり、死ななくていいひとが死んでしまった。

 嘘は、やはり、罪深い。

 どうして彼女が死んだのか? 知りません。興味もありません。

 ふらりと夜歩きの隙間、ふいに飛び込みたくなったのかもしれませんし、桜に見惚れて足を踏み外したのか、小金を狙った不審者の仕業か。

 大事なのは、わたしにとっては、恋敵が死んだということ。

 オフィリアのように花に囲まれ、或いは淡紅の鱗をまとった人魚姫のように。

 美しい死。


 《四月の魚ポワソン・ダブリル》の顛末。ああ、嘘をついて良い日なんて、やはりあるべきではありません。




***

【第41回フリーワンライお題使用】

(https://twitter.com/freedom_1write)

桜の木の下で / 三角のアイ(アイは変換自由) / プレゼント / 愛してるの数だけ嫌いになるの / 闇の中の光 


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