白と黒とトマトジュース

タカテン

白と黒とトマトジュース

「白と黒の世界に生きる貴方には、トマトジュースの赤をどうぞ」

 一年前。作品を書き上げている最中、不覚にも疲労で眠ってしまった私。

 目覚めると書きかけの作品には朱墨で花丸が描かれ、その傍にこんなメモが貼られたトマトジュースの紙パックがあった。

 果たして誰の仕業か。

 答えは今も分からない。

 でも、そんな事があって以来、私はトマトジュースが好きになった。


 ☆☆☆☆☆


「これもダメ、と。穂鳥君、今回はこれで終わり?」

 大沢教授が次々とダメ出しするのを、私はただ唇を噛んで見守るしかなかった。

 私は綾瀬穂鳥(あやせ ほとり)。

 S県S大学教育学部の書道研究室に所属する三回生だ。

 今は今年の県展に出そうと思っている作品を、師事する教授に見てもらっている。

 が、結果はご覧の通り。今回もダメの一点張りで、ひとつも出展の許可を貰えなかった。

 どれも結構自信があったのに。一体どこがダメだと言うのだろう?

 教授はとても気さくで、優しい人だけど、毎年県展の作品になると「何かが足りない」と言って、その「何か」を教えてくれない。

 一回生の時は、おかげで出展すら出来なかった。

 二回生の時は、ぎりぎりで許可が出た。結果、作品は銀賞に選ばれた。

 その時は県内の名のある書道家たちも出展する中で、大学生で銀賞なんて素晴らしい快挙だなんて周りから持て囃されたものだ。でも、私は嬉しくないどころか、ショックすら受けていた。あれだけ頑張ったのに銀賞? これまで様々な書道展で金賞を総ナメしてきた私がニ番手扱い? いい恥さらしだ、と思った。

 私は父も母も、さらに言うなら祖父も曽祖父も書道家という、まさに書道一家に生まれた。だから子供の頃から書に触れ、筆を握り、背が伸びて知識が増えるように私の書も成長していった。高校生の時には大手新聞社主催の書道展で、一般の部の金賞も見事に射止めてもいる。

 まさに私の書道家としての道は、順風満帆だった。

 ところが、高校を卒業して書道家になるつもりだった私に、父がこのS大学への進学を強く勧めてきた頃から雲行きが怪しくなった。

 なんでもこの大学のあるS県は、書道界において特殊な書風を有しながらも、それでいて決して小さくない影響力を持っているらしい。父が挙げたS県を代表する書道家たちの名前を聞いて、私はなるほどと思った。どれも唯一無二の、独創性溢れる書道家ばかりだ。

「ここでの四年間は穂鳥にとって、決して無駄にならないだろう」

 そんな父の言葉を信じて、私はこの大学にやってきた。

 でも、私は野心家なのだ。無駄にしないのはもちろんのこと、四年の間に必ずこの地の書風を我が物にして、頂点に登りつめてやろうと思っていた。

 ところが、すでに二年、私は時間を無駄にしている。

 だから今年は何としてでも金賞を取りたいのだけれど、教授は今回も意地悪をしてくるのだ。

 許可が出ないのはまだ分かる。教授だって教え子に金賞を取らせたいだろう。だから確実に金賞が取れるという作品が出来上がるまで、軽々しくOKなんて出せないのは理解できる。

 でも、どこがダメなのか教えてくれないなんて、意地悪もいいところだ。

 県展作品の出展締め切りまで、今日を含めてあと2日。

 もう後がない。


「センセー、今回はかなり頑張ったんですけど、どうでしょー?」

 書道室に響く、いかにも軽薄そうな男の声で、私の意識は焦りの海から浮上した。

 声の主は同じ3回生の岡田慎太郎(おかだ しんたろう)。

 彼も今年の県展作品が、まだ書きあがっていない一人だ。

 でも、彼と一緒にはして欲しくない。金賞に相応しい作品が出来上がらない私に対して、彼は純粋に県展に出せるだけの力量を持っていないだけだからだ。それもそのはず。彼は大学に入ってから、書道を始めた素人さん。人に取り入るのが得意で、教授からも可愛がられているものの、肝心の書道の腕はからきしダメだった。

 私にも馴れ馴れしく、下の名前で呼んでくる岡田君。でも、お生憎な事に私は彼にも、彼が生み出す作品にも全く興味がない。今も彼が創作書道だと言い張る、ひたすら筆を走らせただけで文字なんてひとつもない落書きが並べられているけれど、私は到底真面目に観るつもりにはなれなかった。

 にもかかわらず、その中の一枚を前にして、教授は興味深そうに目を細める。

「ふむ、これは何をイメージしたの?」

「さすがセンセー、お目が高い。見てください、この作品の爽やかな筆使いの中にある力強さ、そして想像力を刺激する墨のかすれ具合。どこからどう見ても香川真司です!」

「んー、香川真司というよりも、本田圭佑を想像するけどねぇ、僕は」

「いやいや、センセー。本田ならこうっスよ」

 岡田君は教授から筆をかっさらうと、朱墨で作品に三角形を書いた。

「わはは、やるねー、慎太郎君。でも、分かってると思うけどボツね」

「大丈夫ッス。これは単なる前座っすよ。本命はこちら、サッカー日本代表と言えば、やはりこの人。世界のザキオカこと岡崎……」

 頭が痛い。

 私はやる気を失って書道室を出ると、頭を冷やすために散歩へと出かけた。


 いかにも田舎の大学らしい、結構な広さを誇る長閑なキャンパスを歩きながら、生協で買い求めたお馴染みのトマトジュースを飲んだ。

 突き刺したストローを吸い込むと、口の中に独特の風味が広がる。子供の頃は苦手な味だったが、今はもう大人になったからだろうか、意外とイケると思う。ただ赤色なだけで血とはまったく違うものだとは分かっているけれども、なんとなく、新しい血液が体内に投入されたようなリフレッシュした気分になれるのもポイントが高い。

 トマトジュースを飲むようになったきっかけは、昨年の今頃、同じように県展に出す作品に苦労していた時の事だ。

 居眠りした私の傍らにそっと置かれていたトマトジュース。

 そして作品に朱墨で描かれた花丸。

 最初は書きかけの作品に落書きされたと腹が立ったけれど、途中で居眠りしてしまった作品なんてろくなものじゃない。でも、そんな作品に、どこかの誰かが花丸をくれた。花丸なんてずっと小さい頃、それこそ書道を始めた時以来で懐かしかった。

 さらにそんな私にどうぞとメモが貼り付けられていたトマトジュースは、存外に私の気分を晴れやかにしてくれた。酸味が心地よく、苦味が気持ちを引き締めた。

 俄かに創作意欲が涌いた私は、その想いを筆に託して作品を書き上げた。

 それが昨年、銀賞をいただいたものだった。


 小一時間ばかり散歩して書道室に戻ると、みんな帰宅した後だった。

 夕暮れに赤く染まる書道室は、それでもいつもと変わらない墨の匂いを漂わせていて、私に早くこちらの世界へ来いと手招きする。

 抵抗する術を持たない私は、気が付けば畳み一畳分の和紙に筆を走らせていた。

 書道はよく気合の芸術だと言われる。

 絵画などと違って一度書いたらカバーする手立てがなく、決して後戻り出来ない緊張が最後の一文字まで続く。一本の線、緩急の流れ、わずかな空間、刹那の息遣い、ありとあらゆるところに神経を集中して書き上げなければ、作品に魂は宿らないのだ。

 私は子供の頃から数え切れないほどの文字を書いているから、それそのものは頭ではなく腕が覚えている。

 だから、あとはいかにテクニックを駆使して、絶妙なかすれや滲みの余韻、余白の美しさを作品に配置していくかにかかっているのだ。

 私は題材に選んだ七言絶句の漢詩を、ただ黙々と書き続ける。

 いつしか日が暮れ、夜の帳が書道室を覆う。

 見回りの警備員のおじいさんが、わざわざ電気をつけてくれた。

 もちろんお礼を言うつもりだったけれど、作品の途中だったから無視をせざるを得なかった。

 それでもおじいさんは「ほどほどにしなされやー」と、労わりの言葉を残して去っていく。その気持ちがありがたかった。ちょっと筆が軽やかに紙面をとらえた。

 

「うわっ!! なんじゃあ、こりゃ!」

 岡田君の驚いた声で我に返った。

 時計を見ると、もうすでに深夜の二時を過ぎている。かれこれ8時間ぐらい、夢中に筆を走らせた計算だ。おかげで書道室のいたるところに、私の書き上げた作品が並べられていた。さすがにこれは岡田君が驚くのも無理がない。

 でも、素直に謝らないのが、私の悪いクセだ。私の口から出たのは、謝罪から程遠い言葉だった。

「岡田君、どうしたの、こんな時間に?」

 そんなの訊かなくても分かる。彼だってまだ出展の許可を貰えていないのだ。

 でも、だからこそ彼が答えるであろう内容に私は苛立ちを覚えていた。

「いや、締め切り明日だろ? だから最後のあがきをしようと思って」

「そう。でも、悪いけど今は私が使ってるの。どこか別のところでやってくれる?」

「使ってるって……。こんなに広い書道室なんだ、確かに今は穂鳥の作品でいっぱいだけど、ちょっと退けてくれたら俺が書くスペースぐらいあるだろ?」

 呆れたような口調で彼が抗議する。

 当たり前だ、と思う。これは単に私がわがままを言っているだけ。彼の言い分はもっともだ。

 でも、止められない。

 岡田君には悪いと思うけれど、暴走気味の感情はもはや私の手綱を離れてしまっていた。

「分からない人ね。ここにいて欲しくないって言ってるの、私は!」

 あー、言ってしまった……。

 イライラとした口調に反して、心は結構冷静に自分が今何をやらかしているかを理解している。

 いい歳して子供みたいで、みっともない。

 だけど、それもこれもすべては良い作品を書き上げるためだ。

 私は今年、金賞を取る! 絶対に取る! 取ってみせる!

 だからそのためにも、今はひとりで集中しなくちゃいけないんだ。

 もちろん、だからと言って、私一人で書道室を独占するのが許されない事ぐらい分かってはいるのだけれど……。

「はぁ、しょうがねぇなぁ。じゃあ、あんまり無理すんなよ」

 だけど、岡田君はすんなりと引き下がってくれた。

 私の熱意を分かってくれたのかもしれないし、あるいは単純に私のヒステリにつきあいたくなかったのかもしれない。

 でも、本当に助かる。彼が私みたいに書道に全てを賭けているような人だったら、間違いなく大喧嘩になっていたはずだ。

 彼の書道への情熱が、こんなもので本当に助かったとその時は思った。


 でも、一時間後、私は自分の考えが間違っていたことを知る。


「おーい、そろそろ、頭冷えたかー、穂鳥?」

 今度は声をかけられなくても、深夜の廊下に響く足音で、岡田君が戻ってきた事に気付いていた。

「岡田君、帰ったんじゃなかったの?」

 でも、私はそんな素振りを見せずに「何しに来たの?」とばかりに言ってみせる。

 本当に素直じゃない。

 正直に言うと、彼とのやりとりがあってから、集中力が霧散してどうにも作品が書けないでいた。

 ずっと集中して書いていたから、その反動が来た事もある。

 でも、最大の理由は私がつまらない自分のわがままで彼を追い出してしまったという負い目が、あたかも心に墨が広がるように黒い影を落とし、ことごとく集中力を奪い去ってしまっていたのだ。

 先ほどのやり取りを、私はふたりの書道への想いを押し比べた結果、自分が勝ったんだと思っていた。

 でも、冷静になってみると、そんなものじゃないと気付いた。

 あれは単に私が子供で、岡田君が大人なだけだったのだ。

 子供な私のわがままに、大人な岡田君が合わせてくれただけの事。

 本当は自分も書きたいだろうに、我慢して私を立ててくれただけの事。

 申し訳ない事をしてしまったという反省の気持ちと、自分の未熟なところを見せてしまったという恥ずかしい気持ちで心がひどくざわめいていた。

 だから今、彼がこうして戻ってきてくれた事に内心ホッとしている。

 ……素直じゃない私は、おくびもそんな様子を見せないけれど。

「帰って作品が書けたらいいんだけどね。そうも行かないから、とりあえず穂鳥の気持ちが落ち着くまでそこらへんをブラブラしてきた。ほれ、お土産」

 そう言って彼は私にコンビニの袋を投げて寄越してきた。慌てて受け取ると、中には紙パックのトマトジュース。

 しかも私がいつも飲んでいる、一年前、眠っている私の傍らにあったものと同じ銘柄だ……。

「え、これって?」

「それ飲んで、ちょっと休憩しろって。その間に俺が書くからさ」

 私の質問に答えることなく、彼は創作の準備に取り掛かる。

 本当はどうしてこの銘柄を買ってきたのか、問いただしたかった。私がよくトマトジュースを飲んでいるのは、同じ研究室の仲間なのだから見掛けていてもおかしくはない。でも、缶ではなく紙パックの、さらにいつも飲んでいる銘柄を買ってきたのは単なる偶然だろうか。

 だけど、そんな私の疑問もどこ吹く風とばかりに準備を行う岡田君を見ていると、また私の嫌な部分が出てきそうになった。

 なにするの、邪魔しないで。

 そう言いたい気持ちを我慢するために、私はトマトジュースを一口啜る。

 いつもより少しすっぱかった。


「じゃあ、いっちょやりますかっ!」

 気合の乗った声をあげると、岡田君は大量の墨汁が入ったバケツから、彼の足ぐらいある太くて大きな筆を掴みあげて、叩き付ける様に穂先を紙面にぶつける。私とは全然違う、まるで何かのスポーツのようなコレが彼の書道だった。

 ダイナミックに動く筆。飛び散り、垂れ流れ、滲み出す墨。それでいて所々にまるで猫が柱に作るひっかきキズのようなかすれが生じている。まるで文字にはなっていないけれど、この白と黒の世界は確かに書道ではあると思う。

「よーし、いい感じ」

 あっという間に一枚完成したようだった。満足そうに筆をバケツに置くと、間髪おかず二枚目に取り掛かる。

 創作書道に決まった法則などない。一枚目と比べて極端に線が増えているところもあれば、直線が曲線になっていたり、一枚目にはない空白があったりする。

「うーん、これはイマイチ」

 書き上げておいて、岡田君は頭を捻っている。申し訳ないけれど、私にはその差がどこにあるのかさっぱり分からない。おそらくは彼が思い描いたイメージを上手く表現出来なかったからイマイチなのではないだろうか。

 トマトジュースをちびちび飲んでいる間に、彼は一気に五枚の作品を書き上げた。それまでぼんやりと彼の創作を眺めていた私は、少し気になって彼に訊いてみることにした。

「ねぇ、これって何をイメージしているの?」

「お、気になる? これはね、ニューヨークをイメージしてみました!」

 わ、わかんないー。

 よくぞ訊いてくれましたと岡田君は胸を張って答えたけれど、まったく私には理解できなかった。さらに彼は、これはロンドン、これは博多、これはリオデジャネイロと説明をしてくれるが、一体どこをどうすればそうなるのか。改めて彼の見ている書道と、私が慣れ親しんだ書道の違いを再認識させられた。

「あ、分かんない? うーん、やっぱりいつもしかめっ面な穂鳥には理解出来ないかぁ」

 岡田君がおかしそうに嗤ったように見えた。

 そう……見えて……しまった。


「ちょっと、それどういう意味よ?」

 私は思わず突っかかる。

 まだまだ子供な私は、分かってはいるのだけれど、からかわれていると思うと突っかからずにはいられない。

 ごめん、岡田君。

 また大人な対応で、私を上手くあしらってあげて。

「穂鳥ってさ、俺なんかと比べ物にならないぐらい上手いのに、筆を持つと目が全然笑ってないの。真剣そのもので、余裕がないっつーか」

 なのに、今度は岡田君もまったく引かなかった。

 それどころか他人に立ち入ってもらいたくない場所にずかずかと入り込んでくる。

「そんなの当たり前でしょ。私のはね、あんたのいい加減なのと違ってちょっとでも失敗したら、それまで何十文字書いていても全部ダメになるの。失敗が許されないの!」

「失敗が許されないって、それって穂鳥がそう思い込んでるだけじゃないの?」

「はぁ? なにそれ、意味わかんない」

 さっきまでの穏やかな空気が一変して、ぴりぴりとした緊張感がふたりを包み込んだ。

 嫌だ。

 こんなのは嫌だ。

 私は心の片隅で泣きそうになる。

 でも、そんな気持ちとは裏腹に、私の目は岡田君を貫かんばかりに鋭くなるばかりで、吐き出される言葉の悉くが彼を蜂の巣にしようと攻撃性を増していった。

 これは本当の私じゃない、と思う。

 だけど、今の私の姿そのものだった。

 こうなっては止められない。どこか適当なところで止まるのを祈るしかない。

「なぁ、穂鳥。失敗って、そんなにダメか?」

「当然じゃない。失敗して良い事なんて何もないでしょ?」

「でもさ、俺たち、人間だぜ。機械じゃないんだ。失敗ぐらいするだろ?」

「そういう話じゃない。実生活の中での失敗と、作品の失敗を一緒にしないで!」

「そうか? それって一緒じゃねーのか?」

 岡田君はバケツに入っていた筆を持ち上げると、紙にべちゃりと叩きつけた。

 筆の鼓動を感じさせない、起筆としては最悪だ。

「多分これは失敗。ここで諦めるのも一つの手。でも、俺はあがく!」

 弾力のない穂先を動かしながら、次第に力を溜めていく。

 そして十分に力が溜まったところで、岡田君は刹那の勢いで筆を白い紙面に跳躍させた。美しい曲線と自然なかすれが驚くほど奇麗に決まった。

「失敗しても、それを取り戻せばいいのは、書も人生も一緒だと俺は思うけど」

 私の方を振り返ってニカっと笑う。

 なるほど、岡田君の言いたい事はよく分かった。

 だけど、それでは私が長年築き上げてきた理を崩す事はできない。

 私は岡田君の攻撃に耐え切った事を自覚した。わずかに異物の混じった安堵感が心を満たしていく。

「でも、私の書は貴方のとは違う。貴方のは確かに失敗も、成功を際立たせる一つの要素として成立しているかもしれない。けれど、私の書では失敗は失敗。それ以上でもそれ以下でもないの」

 そう、私が追い求めてきたのは、非の打ち所の無い完璧な美だった。一文字一文字が美しいのは勿論の事、用筆による墨のかすれや、文字の大小による白黒のバランスまでも全て計算し尽くして生まれる完璧な美こそ、私は追い求めてきた。

 八十点でも、九十点でもない。百点満点にしか私は興味が無い。

 点数配分が決まっていないような岡田君の創作書道とは全く違う世界に、私の書は生きている……。

 ざわめいていた心が少しずつ落ち着いてきた。

 しかめっ面だ、余裕がないだと嫌な事を言われたけれど、最終的にはふたりの書道が違う世界で生きているが故の相違だ。攻撃的で未熟な自分の性格はなんとかしなくてはと思ったけれど、私の書に取り組む姿勢は間違ってはいない。

 私はトマトジュースの、最後の一滴を飲み干した。

 いつもならここでリフレッシュできているはずだけれど、今日はそこまでの気分が訪れる状況ではなかった。

 それでも私は書かなきゃいけない。筆を握ろうとした時だった。


「逃げるなよ、穂鳥」

 岡田君がぼそりと呟いた。


「お前、自分の書、自分の書って。それって今の自分の書道に逃げてるだけじゃないのか? なんで、そこから出て行こうって思わない? どうして自分の可能性にそんなに自信がないんだよ?」

 ぴきっと、心のどこかにヒビが入った。

「岡田君、私のことをよく知らないのに、勝手なことを言わないでくれる?」

 それでも冷静に、冷たく言い放つ私がいる。

「私の書は、私がこれまで十何年かけて築き上げてきたもの。いわば、私自身。それを否定されるということは、私自身の生き方が否定される事と一緒よ。それを分かってて言ってる?」

 多分、私は今まで以上に厳しい眼差しを岡田君に向けている。

「……ごめん」

 彼の口からこぼれる謝罪の言葉。でも、言葉とは裏腹に、彼の目が今回は一歩も引かないと語っている。

「でも」

 ほら、やっぱり踏み込んでくるんだ。

 もう、うんざり。いいかげんにしてよ。私は作品を完成させなきゃいけないの。あんたの子供じみた話に付き合っているヒマなんてないのよ。

 そう言ってやりたい自分がいた。

 だけど、私は何故かそんな自分を必死に抑える。何故だろう。これまでの自分を否定されるのは勿論嫌なんだけれど、同時に心に穿たれた小さな穴がその殻を打ち破るのを見てみたかった。

「穂鳥がどれだけ自分の書にプライドを持っているのかは分かっているつもりだ。でもさ、それが結局お前を狭い籠に閉じ込める原因になっているように、俺には思えるんだ」

「それはあなたがそう思うだけ。私は私の持っている全てを注いで、常に最高の作品を書き上げようとしているし、成長していきたいって向上心だってある」

「成長していきたいって、一体どのように?」

「私の書の完成度を上げていくことよ。常にベストを尽くし、その時その時の最高傑作を作り上げていく。そうすることで私はもっともっと成長できる!」

「完成度を上げていくって、どうやって?」

「そんなの決まってるじゃない。自分が思い描く最高傑作のイメージに近づけていくことよ!」

「それだ!」

 岡田君は突然、嬉しそうに私を指差して宣言した。

「イメージに近づける! それに穂鳥は固執しすぎなんだよ!」

「……どういう意味よ?」

「穂鳥はなまじっか書道が出来るから忘れてるんだよ。書道ってさ、人がイメージして支配できるような、そんな甘っちょろいものじゃないぜ。むしろ書が人をイメージして、作品に映し出すんだよ」

 書が人をイメージする? 咄嗟に意味が分からなかった。

「穂鳥の書は確かに上手いし、見事だ。でも、そこから見えてくる穂鳥の姿は、なんだかとても窮屈そうに見えるんだよ。自分を押し殺して、失敗を恐れて、しかめっ面で、そして寂しそうな穂鳥の姿しか見えてこないんだよ、俺には」

「………………」

 ホント、岡田君には申し訳ないのだけれど。

 彼の言葉を聞いて「なんでそんなクサい事を真顔で言えるかなぁ?」と思ってしまった。

 だって、そうでしょう?

 他人の作品を観る時には「ああ、ここは上手いな」「ここはもう少し擦れを効かした方がいいな」「うん、やっぱり私のほうが上手い」と考えるのが普通だと思う(最後のは私だけかもしれないけど)。

 なのに、この人ときたら私の作品に私の姿を視ていたとか言うんだもの。

 しかも、それを本人に。さらに直接。

 今まで作品を上手いとか、素晴らしいとか多くの人に言われ続けてきたけれど、私の姿を作品に透かして感想を言ってきたのは岡田君が初めてだった。


「……結局、岡田君は私にどうして欲しいの?」


 岡田慎太郎。書道初心者なのに、何故か書道研究室に入ってきた変わり者。

 普通の書は全然ヘタ。お話にならない。そのあたりの小学生のほうがまだマシ。

 だからと言うわけでもないけれど、もっぱら創作書道というものが専門。ちなみに私から見て、何がいいんだか分からない作品ばかり書いてる。

 これまでの付き合いから持っている岡田君への知識は、こんなもんだ。

 そこに今日、新たに「おひとよし」ってのが加わった。


「俺はただ、穂鳥に笑って書いて欲しいだけ」


 それなのに、岡田君は私のことを結構知っている。

 書に愛され、プライドが高く、完全主義者な私。

 でも、それは長年積み重ねた殻に過ぎなくて。

 本当の私はきっと……。

 名誉欲やしがらみに縛られて。

 失敗して嘲笑されるのを恐れて。

 気が付けば笑顔なんて忘れて。

 そしてふと見渡せば、誰も私の傍には寄ってこなくなっていて。

 書にさえ愛されていればいいんだとひとり泣いていたんだ。

 きっと、彼は私の作品に、そんな姿をしっかりと観ている。

 観てくれていたんだ。

 だけど、なら、私はもっと……。


「ちょっと筆借りる」

 私は無理矢理、岡田君から彼の巨大筆を借り受ける。思った以上に重い。いつもは筆を支配しているのに、これでは逆に筆に私が支配されてしまいそうだ。

 でも、それが面白いと思った。

「私、創作は初めてだから」

 私は全身の力を振り絞って筆を走らせる。初めての経験に、久々に心が躍る。いつもと同じ一畳ほどの和紙に、今まで書いたことがない巨大な線をいくつも走らせた。

「すげぇ、穂鳥のくせにヘタクソだー」

「うっさい。だまれー。イメージしたモチーフがヘタクソなんだから仕方ないじゃん」

「何をイメージしたんだよ?」

「岡田君!」

 ひでぇと言いながら、岡田君が笑った。

 私も笑った。

 書道をしてこんなに上手くいかなかったのは本当に久しぶりだった。

 そしてこんなに笑ったのも、本当に久しぶりだった。

 私は書き上げたばかりの作品を眺めてみる。

 うん、見事にヘタクソだ。

 テクニックも何もあったものじゃなくて、円を描いた曲線の中央、わずかに残った白い浮島が徐々に黒へ染まっていく。いつもの私なら、この浮島を残すように滲みを調整するはずだ。

 でも、今はそれがとても些細な事のように思えた。

 もちろん、技術は大事だ。その考えに変化は無い。

 だけど、今はもっと大切なものを感じていた。

「いやー、ヘタクソだけど、こういう穂鳥の作品も好きだわ、俺」

 気付けば岡田君も私の横に立っていた。

 彼は気付いてくれているだろうか、この作品にこめられた私の気持ちを。

 今までのように見透かしてくれているのだろうか?

 私はそっと岡田君の横顔を覗き見る。

 そこにはただ嬉しそうに笑う、彼の笑顔があった。

「よーし、見てなさいよ」

 私は借りていた筆を岡田君に返すと、いつもの自分の筆に持ち替えて自分の作品に取り掛かった。これまでと比べて筆が軽く感じる。自分でも驚くぐらい大胆に、私は今感じている喜びを表現していった。

「お、なんかいい感じだね」

 岡田君もそんな私を見て、また創作を始める。

 こうしてその日の朝方、私たちはようやく県展に出品する作品を完成させたのだった。


 ☆☆☆☆☆


「今年も銀賞だったのに、去年みたいに悔しがらないんだね?」

 県展の表彰式当日、式場の廊下で手持ち無沙汰に立ち尽くす私に、大沢教授はそんな言葉をかけてくれた。

「去年の私、そんなに悔しがってましたっけ?」

「うん、周りが『学生なのに銀賞とは凄い快挙だ』って褒め称えているのに、穂鳥さんは終始ぶすっとしててね。私不機嫌なんですオーラが酷かったよ」

 あはは。それは面目ありませんと私は謝った。

「でも、来年は必ず金賞取る自信ありますから。それに今年は仕方がありません」

「そうだね、あれには僕もびっくりしたよ。慎太郎君には本当に参った」

「ですね」

 私は笑って、金賞に輝いた岡田君の作品を思い出していた。

  

 あの日の朝、私は会心の一枚を書き上げた。

 今までの私には到底辿り着けなかった境地。決して完璧ではないが、私自身がそれまで完璧だと思っていたものが馬鹿らしく見えるぐらい、私自身をありのままに表現した作品が完成した。

 でも、同時に彼もまた、奇跡の一枚を生み出していた。

 その作品から受けた衝撃に、私は疲れて眠る彼の傍らでずっと立ち尽くしていた。

「これは……穂鳥君を書いたんだね?」

 気が付けば大沢教授が私の後ろに立っていて、一緒に彼の作品を見下ろしていた。

 一時限の講義の準備に、いつもより早く出勤してきたらしい。

「分かるんですか?」

「うん。彼の作品はこれまでずっと見てきたからね……ああ、そうだ、穂鳥君。君はこれに夢中で気付かなかったみたいだけど、さっき作品を見せてもらったよ。ようやく君に足りなかった何かを見つけたようだね」

 私は照れて、岡田君の作品に視線を戻した。

「そしてそんな穂鳥君の姿を、慎太郎君は書いたんだろうね。君の生き生きとした笑顔を信じられないくらい鮮烈にイメージさせるよ、これは」

 教授が信じられないとばかりに感嘆の声をあげる。

 そんな時だった。岡田君のはっきりした寝言が聞こえてきたのは。

「!!」

 私は一瞬にして赤面した。

 寝言だとしても、なんて事を言うんだ、この人は。

 というか、そんな大切な事を寝言で言うなんて何考えてんの?

 嬉しいやら、恥ずかしいやら、恨めしいやら。ごちゃまぜな感情が体の中で爆発しそうになる。

「ははは、まぁ、それぐらいの気持ちがないとこれは書けないなぁ」

 教授は笑いつつ、私におめでとさんと声をかけて準備室へと入っていく。

 呆けて立ち尽くす私の足元で、岡田君が幸せそうに笑っていた。

 どうやら夢の中で、良い返事が貰えたようだ。

 それはきっと正夢になるよと心の中で思いながら、私は岡田君の背中を蹴り飛ばしてやった。


「あ、穂鳥~」

 大沢教授と別れて、再び式場の廊下にひとりでいると、ようやく今日の主役がやってきた。いつものラフな格好とは違い、今日は全身スーツでビシっと決めている。

 が、

「どどど、どうしよう。俺、昨日緊張しすぎて一睡も出来なかった」

 堂々としているどころか、いつもの軽薄なノリまで影を潜め、岡田君は可哀想なぐらいに緊張していた。

「情けないわねぇ。しゃっきとしなさいよ、しゃっきと」

「そうは言うけど、俺、こんなの初めてだし。もう足が震えて震えて」

 見ると確かに足がぶるぶると震えている。あんたは生まれたての子馬か?

「もう、しょうがないなぁ。これでも飲んで気合入れなさい」

 私は手提げ鞄から愛用のトマトジュースの紙パックを取り出す。

「トマトジュースかぁ。苦手なんだよね、俺」

「それはダメね。私たちにとってトマトジュースは必要なものよ?」

「なんで?」

「なんでも。いいから飲みなさいって。しゃっきとするから」

 苦いとか、酸味が好きになれないとか。ぶつくさ言いながらも岡田君は飲み始める。

「ああ、口の中が独特の風味で……あ、でも、足の震え、止まったかも?」

「でしょ? トマトジュースは凄いんだから」

 私はえへんと胸を張る。

「トマトジュースって言えば、スーパーに三つお買い得パックってあるだろ?」

「私がいつも買ってるヤツね。あれ、生協でも置いてくれたらいいのに」

「生協とスーパーを一緒にするなよ。まぁ、それはともかく、以前、俺も買った事があるんだけど、ひとつ飲んだだけで飽きちゃてさ」

 飽きる? 私は信じられないという表情で彼を見た。ところがそれに続く彼の言葉に、私はもっと驚かされた。

「で、仕方がないから、残りをどうしようかなぁと思って、ふと閃いたんだ。……墨汁に混ぜて使ってみたら、エキセントリックな作品が出来るんじゃないかなぁーって」

「あんたはアホかー!」

 思わず私は彼の脳天にチョップをかます。

 なんたる書道への冒涜! なんというトマトジュースの無駄使い! 謝れ、書道とトマトジュースと、そしてそのふたつを愛してやまない私に謝れ!

 でも、そんな私の気持ちも知らずに笑いながら彼は話を続ける。

「で、最後のひとつはどうしたかと言うと……」

「お静かに願えますか?」 

 彼の話を遮るように係の人が断りを入れると、授賞式が始まりますので中にお入りくださいと声をかけられた。

 うわ、恥かしい。

 それもこれもこいつが悪いと私は岡田君を睨みつける。

 にも関わらず、彼はケラケラと笑っていた。どうやら足の震えは完全に止まったらしい。

 はぁ、と私は思わず微笑みながら溜息をついた。 


 授賞式はつつがなく執り行われていった。

 絵画、彫刻、俳句、そのほか色々な受賞作品の発表と表彰、そして受賞者から喜びの言葉が紡がれる。私も今回は自分の殻を破ることが出来た事と、関係者への感謝、さらには来年への決意などを簡単にスピーチした。

 私の次は岡田君の番。

 さっきまでの緊張がウソのように、堂々としたスピーチだった。

 ここぞという時はしっかり決める、うん、悔しいけどポイントが高い。

 そして、最後に彼はこう締めくくった。

「素人の僕に書道の魅力を教えてくれた大沢教授、さらに僕が書道を始めるきっかけになった素敵な仲間、それから白と黒の世界に生きる僕たちに活力を与えてくれるトマトジュースに感謝します。ありがとうございました!」

 会場の人たちは、意味が分からずにぽかんとしている。

 私だってそうだ。

 書道をはじめるきっかけ?

 それに「白と黒の世界に生きる」ってフレーズは……。

 しばし頭を働かせた後、ある答えに辿り着いた私は驚きながら拍手をする。

 そうか、さっき言いかけてた最後のひとつって。

 なんだかまたひとつ大きな借りが出来たような気がしたけれど、それは例のトマトジュース墨汁の件でちゃらにする事にしよう。

 私の拍手がきっかけになって、会場全体からも拍手が起きた。

 拍手はいつまでも鳴り止まない。

 それはまるで私たちを祝福してくれているようだった。


 おわり

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白と黒とトマトジュース タカテン @takaten

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