第7話 人生をマネジメントする

 マスターは、いつものように、赤いナップサックを背負い商店街を歩いていた。スポーツクラブに行ったらかなり混んでいたので、サウナに入るだけにして出て来た。

 街のところどころ、鯉のぼりの飾りつけがしてある。

 その日は大型連休の前の4月27日。天気がよく、少し暑いかもしれないが快適な気候だ。例年、連休中は最終日以外は店は開けるので、今年もその予定である。今年の連休中や連休前、お客さんはどのくらい来るだろうか。去年はけっこう来ていたような気がするのだが。

 商店街のところどころにあるスピーカーから流れてくる音楽は、よく知らないテンポのいいポップス系の歌謡曲みたいな曲。

 調子のいい曲なので、それに合わせて鼻歌を歌いながら喫茶店に入り席に座った。

 アメリカンコーヒーを注文してふと横を見ると、近くに、若い男性が何かの勉強をするための問題集を机の上に出したまま、眠っているのに気がついた。

 ちょうどその時、店長らしき初老の男性(以下、初老の店長と記す)が、若い男に近づいて行った。初老の店長は、ふだんはまったく笑顔を見せないで淡々と注文をとり、飲み物等を運ぶ影の薄い人なのだが、その時だけは不思議な存在感があった。

 その若者の肩をつっついて、「寝ていられると困っちゃう」と不機嫌そうだがあまり抑揚のない声で言った。

 若者は、起きると初老の店長の方を見て不愉快そうな顔をしたが、何も言わずに勉強を再開し、初老の店長は何も言わずに去っていった。

 マスターは、この若者をここでよく見る。

 この喫茶店は、本や新聞を読んでいる人はたくさんいるが、問題集を解くような受験勉強的な勉強をしている人が珍しいので、印象に残っている。わりあい前からある喫茶店で、他の方針が違う喫茶店とかファミリーレストランでは、高校生とか大学生以上の勉強している人をよく見るが、ここでは彼以外ほとんど見たことがない。値段がよそより高いとか、店の人に注意されるといった理由が考えられるが、とにかくなんとなく勉強しにくい雰囲気なのである。それは、初老の店長の感性とか考え方が反映されているのかもしれない。

 そうするとその若者は空気が読めない少し鈍い男なのだろうか?それとも、この喫茶店が気に入っていて、よそには行きたくないのだろうか。まあ、両方なのかもしれない。

 そんなことを思いつつ、マスターは、例によって『プロフェッショナルの条件』を取り出した。

(この半年くらいで、だいぶ読み直したなあ。結構ためになることも出ていた)

 そう思いながら、ページをめくってみると、まだあんまりキチンと読んでいないページもまだまだかなりあることに気がついた。

 特に「Part5 自己実現への挑戦」というパートはあまり読んでいない。ここを読んでみようと思い、このパートの「1章 人生をマネジメントする」という章を読み始めた。

 最初の項目は「第二の人生をどうするか」という題になっていて、この項目の結論はこういうものだった。


 …30のときに心躍った仕事も、50ともなれば退屈する。したがって、第二の人生を設計することが必要になる。

 

 マスターは現在、スナックを始めて10年くらいで、ちょうど50歳。その間、他の仕事はほとんどしていない。半年くらい焼き鳥屋をやりかけたことがあったが、なかなか難しいので撤退した。

 もともとは、キャバクラ2軒とウェブ制作会社をやっていたので、その頃に比べるとかなり暇で、隠居仕事にやや近い感じもする。実質的に働いているのは、7時頃から11時頃までと、閉店前後の1~2時間くらい。

現在が第2の人生だとすれば、これからまた新しいことを始めたら、それを第3の人生と呼ぶのだろうか。

 現在、確かに生活にゆとりはあるが、「このままでいいのかな」とも思う。のだけれど、今すぐに「これをやりたい」ということがあるわけでもない。

 それと、スナックに関しても今の経営状態が続くかどうかわからない。1人で来る男性の常連客は、相変わらずそれなりに来ているが、団体客が減ってきている。日本の会社が職場の仲間とあまり酒を飲まなくなってきていることと関係がありそうなのだが、もちろん客観的に原因を解明することは難しい。

 このまま、団体客がさらに減っていくようだと、少し商売のやり方を考えるなり、商売を変えるなりした方がいいかもしれない。

 次の項目は「第二の人生を設計する方法」という題になっていて、三つの方法が書いてある。


 第一の方法は、マックス・ブランクのように、文字どおり第二の人生をもつことである。単に組織を変わることであってもよい。


 マックス・ブランクは、40代に業績を挙げた物理学者で、60歳で第一次大戦後のドイツ科学界を再建し、90近くなって第二次大戦後のドイツ科学界の再建に取り組んだ人物として紹介されている。

 マスターの場合は物理的に店を構えている自営業なのでまた、学者さんとは様子が違うかもしれない。商売を変えたり、商売の場所を変えたりするのは、かなりの手間やお金がかかるので、少なくとも当面これはないだろう。とマスターは考えた。


 第二の方法は、パラレル・キャリア(第二の仕事)、すなわち、本業にありながらもう一つ別の世界を持つことである。


(これは、自分に合うかもしれない)

 とマスターは思った。

 一応、ある程度時間に余裕のある本業があるのだから、もう一つなにかをする。それは、できそうだし、やった方が世界が広がっていいかもしれない。

 例として挙がっているのは、ボランティアとして非営利企業で働くことなどだった。


 第三の方法は、ソーシャル・アントプレナー(篤志家)になることである。


 これも、そんな大々的なものでなくて、店の女の子を使ってできるようなことならやれるかもしれない。

 まずは、第二の方法について考えてみよう。と思い、マスターはiPhoneを取り出して、「○○区 ボランティア」で検索してみた。○○区は、店とマスターの自宅のある自治体である。

 すると一番上に「○○ボランティア・区民活動センター」が表示され、ボランティア・区民活動をしたい人の登録を行っていることがわかった。

 時計を見るとまだ4時だ。

(善は急げだ。行ってみるか)

 マスターは、勘定を払い店を出た。


 ボランティアセンターの場所は、iPhoneに出ている地図を見ながら行ったらすぐにわかった。その喫茶店のある駅の隣駅に近く、大通りに面したきれいな9階建ての建物の1階だった。

 正面がガラス張りの天井が高い明るい内装で、受付の前には、各種のイベントなどのパンフレットが20種類くらい置いてある。

 ボランティアの登録をしたことを告げると、髪の毛を7・3に分けた若い真面目そうな男性の係員から用紙を渡され、それに住所・名前等の必要事項を記入するように言われた。

 その係員は伊集院さんという名前だった。記入した紙を提出すると、伊集院さんは、それを見て記入漏れがないか点検し、大丈夫なのを確認すると、パンフレットを一部渡され、1ページ目を開けるように言われた。

 そして、ボランティアの起源とは?等々の説明が始まった。マスターは、係員の説明がパンフレットをただ単に読んでいるだけで退屈なので質問した。

「この説明はどのくらいで終わりますか?」

「すぐに終わります」

「何分くらいで終わりますか?」

「お急ぎですか?」

「何分くらいで終わるんですか?」

「お急ぎでしょうか?」

「どのくらいの時間で終わるのかは、完全には把握していないんですか?」

「急いでいるんですか?」

「急いでいるかという質問に答えてもいいんですが、その前にこちらの質問に答えてください。『どのくらい時間がかかるのかは、正確にはわからない』という答えでもいいですよ」

「急いでおられるんなら、打ち切りましょうか?」

「どのくらい時間がかかるのかはっきりとはわからない、とかそういう答えさえも、どうしても言いたくないのであれば、それでもいいです。まだ時間があるので続けてください」

「よろしくお願いします。最近、ボランティアの受け入れ先から苦情が来ていることがあります。資格を取るためにボランティア経験が必要な人が、必要な時間数を消化したとたんに辞めてしまう。という問題です。あなたは、資格を取るためにボランティアをするわけじゃないでしょうね」

 どうも詰問しているような口調で嫌だなあ。とマスターは思った。

「違います」

「わかりました。当センターでは、資格を取るためのボランティアはお断りしております」

「でも、資格を取るためだって、1度ボランティアをしてみることで、ボランティアがどういうものかわかり、その時は必要な時間をこなしてそこは辞めたとしても、その後、またどこかでボランティア活動に参加する可能性もあるんじゃないですか?その経験は、無駄にならない場合も結構ありそうだし、そういう人を受け入れていくことでボランティアをする人のすそ野が広がるのではないでしょうか?そういうことは受け入れ団体の人に話したことはありますか?」

「そんなことは特に言いません。受け入れ団体の意向は伝えておくべきだと思い、今お話ししています」

「『そんなことは』なんていう言葉遣いは感心できない。これは、でも伊集院さんに言っても仕方のないことかもしれませんね。私のような考え方も上の人に伝えてみてもらえませんか」

「一応伝えます」

「お願いします」

 伊集院さんは、用紙の記入事項を見ながら言った。

「すみません。ここの趣味の欄に囲碁・将棋と書いてあって、将棋の方に5段と書いてありますが囲碁は何段くらいですか?お年寄りの囲碁や将棋の相手をするボランティアというのがけっこうあるんです」

「最近囲碁はやっていないので囲碁の段はわかりません」

「だいたいでいいです」

「うーん。何段だろう。すみませんがわかりません」

「そうですか、それで、今提出していただいた用紙に書かれたメールアドレスに、毎月募集しているボランティアの一覧を送りますので、もし、これ、というのが決まったら、メールか電話で連絡してください」

「わかりました」

(まあ、思ったことを率直に言い過ぎたのかもしれないが、意外と面倒くさかったなあ)

 ボランティア一個人よりも受け入れ団体の方が力が強いのだろうか。まあ、受け入れ団体の方がその活動をずっとやっていかなければならないが、ボランティアは、嫌ならすぐ辞められるのだから、センターにとっては受け入れ団体の方がむしろ大切な顧客なのかもしれない。ボランティア一個人だって○○区の納税者ではあるのだが、気に入らなければなんにも言わないでボランティアをやらなくなるだけの話である。

 今日の感触では、小さなスナックとはいえ経営者として自分の考えである程度物事を決める習慣のある人が、1ボランティアとして社会参加するというは心理的に難しいことなのかもしれない。意外なことなのか当然のことなのかよくわからないが、そんな感じがする。

 頼まれたことだけをやるのではなく、「ここはもっとこうした方がいい」とか余計なことを言いそうだ。まあ、チームを組んでやることではなく、お年寄りの囲碁や将棋の相手をするくらいだったらそんなに難しくもないかもしれないが。

(自分が中心になってやることの方が向いているかな)

 とマスターは思った。

 お年寄りで、囲碁や将棋をする人が結構いるというのは、わりあい何かのヒントになるのかな。昼間に、夜はいままでどおりスナックをやり、昼間小さな碁会所か将棋クラブを経営してみる、というのはどうだろうか?

 とも思った。


 翌日の1時ごろ、マスターは、前々からその存在は知っていた駅前の碁会所に行った。

 それは、駅前のビルの3階にあり、エレベーターはないので階段を昇って行った。

 「A碁会所」と書いてあるドアを開けて中に入ると、中はがらんとしていて、碁盤が20面くらいあるのにお年寄りが4人いるだけだった。

(まあ、平日だからこんなものなのかな?)

 そう思って入っていくと、体格がよくて白髪でニコニコしているおじいさんから声をかけられた。その人がこの碁会所の席主らしい。

「いらっしゃいませ。初めてですか?」

「そうですね。ここがあるのは知っていたのですが、入ったのは初めてです」

「棋力はどのくらいですか?」

「最近打っていないのでわかりません。前の打っていた頃は3段くらいだったと思います」

「それじゃあ、私でよければ1局うちませんか?」

 1局打ってみた。その人はかなり強いようなので、4子局という、あらかじめマスターが盤の上に石を4つ置いてから戦いを始めるハンデ戦で打った。相撲で言えば手を使わないくらいのハンデだろうか。

 手加減して打ってくれたのかもしれないが、けっこういい勝負のような感じもした。でも終わってみるとかなり負けていた。

「たぶん3段くらいかもしれません。平日の昼間はあまり人がいませんが、平日でも8時くらいからとか、土日などはいい勝負の人がいると思います」

「そですか。やはり平日の昼はあまり人がいないんですね」

「見ての通りです」

「最近、碁会所とか将棋クラブの景気はどうですか?」

「将棋クラブは本当にどんどんなくなっている。碁会所は将棋クラブよりは多少ましかもしれないけど、でも減少傾向ですね。うちも長い目で見ると、お客さんは減っています。やっぱりネットで打つ人が増えているのと、コンピューターゲームなどが流行っているぶん、リアルで対戦する囲碁や将棋はすたれてきている」

「そうですか。なんだか寂しい話ですね」

「うちは、まあまあ、今まで長年来てくださっているお客さんが、定年退職後暇になってわりあいよく来てくれるのでなんとかやってます。これから碁会所を始めようという人はあまりいないと思うけど、始めたら失敗するでしょうね」

(そんなもんなんだなあ)

 マスターは、自分で将棋クラブか碁会所をやるのは、時代の流れに逆行していてかなり難しそうだ、と思った。


 碁会所を出ると、例によっていつもの喫茶店に行った。

 その日も、前の日にいた若者が問題集とノートを広げて勉強していた。

 それ以外は、一人で来ていて新聞か週刊誌を読んでいる男性客とか3~4人で来ているおばあさんのグループなどがいた。3~4割くらいの入りであまり流行っている感じではない。

 マスターは、席に座ると例によって『プロフェッショナルの条件』をナップザックから取り出して読み始めた。

 昨日も読んだPart5の1章「人生をマネジメントする」の「第二の人生を設計する方法」をもう一度読んでみた。


 第二の人生、パラレル・キャリア、篤志家としての仕事をもつことは、社会においてリーダー的な役割を果たし、敬意を払われ、成功の機会をもつということである。


(確かにそうなんだろうな)

 確かにそうだと思うが、それでは何をするかというと、なかなかいい考えが浮かばない。


 労働寿命の伸長が明らかになった三〇年前、私を含め多くの者が、ますます多くの定年退職者がボランティアとして非営利組織で働くようになると予測した。そうはならなかった。四〇歳、あるいはそれ以前にボランティアの経験をしたことのない人たちが、六〇歳になってボランティアをすることはむずかしかった。


(これはこれで若い頃からやらないと難しいのかな)

 マスターは、現在ちょうど50歳。これまでボランティアの経験はないので、これから始めるのは、不可能ではないにしてもけっこう大変なのだろうか。内容によりけりかもしれないし、実際にやってみたわけでもなく区のボランティアセンターに登録しに行った印象だけだけど、でもなんとなく大変そうな感じがする。

 マスターは、その後もしばらく本を読んでいたが、「まだ、時間がかかるんでしょうか?」と初老の店長が抑揚のない声で若者に声をかけているのに、気がついた。

「この席に誰か座るんですか?」

 若者が不思議そうに尋ねた。

「そうでもないんですが、あんまり長い時間いられると、他のお客さんが座れなくて迷惑しちゃう」

「でも、店はまだわりあいすいていて、座る場所はたくさん空いているから、まだ大丈夫じゃないですか?」

 初老の店長は、それには答えないで表情一つ変えず去っていった。

 若者は、少し不愉快そうな顔をしていた。やはり、相手から話しかけてきたのに、こちらが質問するとそれに何も答えないで去っていく、という流れが愉快ではないのであろう。

(なんで、あの若者だけ初老に店長にああやって言われるのかな?)

 マスターは、首をかしげた。

 一人で長居している点では、自分もその若者も同じなのだが、どうしてあの若者だけ言われるのだろうか?

 あの初老の店長には、自分のような中年のおっさんがのんびりと本を読んでいるのは気にならないが、若者が真面目に一生懸命勉強しているのは気に入らないのだろうか?

 学校教育などの価値観とは一味違う価値観で、独特の味があっていいような感じもする。どんよりとした陰気な雰囲気の人だが、けっこうおもしろい感性の持ち主だ。と思う。

 でも、今の時代に合うだろうか?

 マスターは、そんなことを思いつつ、若者が真剣に勉強している姿を眺めていた。 


 次の日もマスターは、赤いナップサックに『プロフェッショナルの条件』を入れて、いつもの喫茶店に入ろうとした。

 入口のところに張り紙がしてあるのに気がついた。


 居眠りをしている人がいたらつっついて起こします。

 2時間以上勉強している人は店長が怒鳴り上げて追い出します。

 ご理解をお願いいたします。

             店長敬白


 B4版の紙にゴシック体で打ってある。

 当然のことながら、これは店側が貼ったのではなく、誰かのいたずらだろう。それにしても「怒鳴り上げて」とは穏やかではない。事実とは異なっている可能性が高そうだ。もしかしたら、自分のいない時に、初老の店長が怒鳴るような場面があったのかもしれないが、たぶん違うような気がする。

 やはり、あの若者が腹を立ててこんなものを作ってきて貼ったのだろうか?

 それとも、他にも似たような目にあった人がいてその人が貼ったのだろうか?

 でも、マスターはこの喫茶店には2日に1回くらいは来ていて、居眠りや勉強をしていて注意された人を他に知らない。やはり、あの若者かもしれない。それにしても、わざわざ張り紙を作ってきて貼るとは暇な人だなあ。

 と思いながら、マスターは中へ入っていった。

 張り紙のことは教えてあげようかとも思ったが、どうも初老の店長を初めとしてなんとなく暗い感じの店員が多く、教えてあげて感謝されそうな感じがしないので、黙っていることにした。どうせ自分が言わなくても店員が気づくか、他の誰かが言うだろう。

 喫茶店の中には、例の勉強する若者の姿はなかった。

 ということは、やはりあの若者が怪しいのだろうか?どうにも大人げない行動をとる人だ。暴走老人という言葉があるが、若者にだって変な人はいる。行動力がある若者だとも言えるのだろうか?でも、方向性がかなり変だ。今ふうに言えば「行動力あり過ぎ」といったところか?

 確かに、一方的に自分の言いたいことを言い質問されると黙って去っていく人に対して、こうしたことをしたくなる気持ちもわかるような気がするが、普通の人だったら、ただ単に別の店に行くとか、知り合いに「あの喫茶店の店長は変な奴だ」なんて悪口を言ったりするだけだろう。

 と思いながら、マスターは本を出して読み始めた。

 2~3ページ読んだところで、マスターは、大きな声で話したり笑ったりしている団体客がいることに気がついた。

 おじいさん、おばあさんばかりの10人くらいの集団だ。

 「中学の同級生がどうのこうの」「俺は○○中だった」とか「××ちゃんはまだ元気だ」等々の会話が聞こえてくる。

 マスターがこの喫茶店に来始めた10年くらい前には、こうした団体客は多かったが、最近はだんだん減っているような気がする。団体客は減っているという傾向は、「おしゃれ猫」と似ているのかもしれない。

 マスターは前の日に、初老の店長のことを面白い感性の持ち主だと思った。でも、それは少し買いかぶった見方で、頭が固いと言った方がいいのかもしれない。今までの経営方法があまり通用しなくなって売り上げが下がってきたので、少し焦っているのかもしれない。そのへんは何とも言えないと思う。

 マスターは本を読むにしてはうるさいので、棚からスポーツ新聞を持って来て読んでいたが、もう少し静かな場所で本を読もうと思って、別の喫茶店に行くことにした。


 マスターが次の入ったのは、チェーン展開しているDという店だった。Dは、店の大きさはKと同じくらいで、線で区切ってある細長い机の席と、二人用のかなり小さな丸いテーブルの席が半々くらい。細長い机には、一人一つずつ電源が使えるようになっている。

 料金は、コーヒー一杯、Kが400円台、Dは200円台でDの方が圧倒的に安い。

 マスターがなぜ、いつもDではなくKに行くかと言うと、音楽がKの方がマスター好みの80年代~90年代の洋楽がかかっていることと、Kの方が5種類くらいの新聞が無料で読めるように棚に置いてあるからである。新聞のことの方が大きいかもしれない。

 客は、一人で来ている人が圧倒的に多く、Dによく来ていた若者のような勉強をしている人も多い。電源が無料で使えるのでパソコンを持って来て仕事をしている人もけっこういる。

 同じ喫茶店でもKとは風景がかなり異なる。Kの方が、1人で来る人はぼんやりと新聞を読んでいたり、2・3人で来ておしゃべりをしているような人が多い。

 Kの方が昔ながらの喫茶店という感じで、Dは有料自習室のような雰囲気である。

 少なくともその日に限って言うと、見かけ上はDの方が圧倒的に繁盛している感じがする。Kの方は4割くらいしか客が入っていなかったが、Dは8割がた入っている。それに、Dの方が半分くらいは線で区切ってある細長い机で、お客さん一人にとられるスペースはDの方が狭そうだ。

 でも、客単価はKの方が高いだろうし、もしかしたらお客さんの滞在時間はDの方が長いかもしれない。だから、最終的な損益がどうなっているかはわからないが、どちらかと言えばDの方が時代の流れを意識して、一人で勉強や仕事をしにくる人を意識した経営をしている。

 それでは、スナックはどうか?スナックも団体客よりも個人客を中心に考えた方がいい時代になってきたのだろうか?

 マスターは、そんなことを考えながら、ナップサックから『プロフェッショナルの条件』を取り出した。「Part5 自己実現への挑戦」のパートを全部読んでなかったので、前回読んだところの続きを読んでいった。

 このパートの「3章 何によって覚えられたいか」の終わりの方に気になることが書いてあった。


 私が一三歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、「何によって覚えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。「今答えられるとは思わない。でも、五〇歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」

 

 マスターは現在五〇歳だけど、「残念ながら、この質問には答えられない」と思った。

 でも、ドラッカーが一三歳のときには平均寿命は今よりは短かったので、五〇歳という年齢にはこだわらないことにして、とりあえず「六〇までにはこの質問に答えられるようになろう」と考えることにした。

 裕樹は、プロ試験に受かって将棋指しになれれば、将棋一筋で生きていくだろう。五〇にもなれば、こうした質問にも答えられるような人間になっているかもしれない。なんだか自分の息子がうらやましいような気がしてきた。

 ところで、あのKで勉強していた若者はどうだろうか?別にあの若者ことをちゃんと知っているわけでもないからわからないが、ああいう時期も人生に必要なのかもしれない。マスター自身にもああいう時期はあったような気がする。ああいう若者は、意外と50くらいになったら立派な人物になるような気がする。


 その後マスターは、喫茶店Kの入り口で、あの変な張り紙を3回ほど見た。文言もだいたい同じだった。そして、Kで勉強している例の若者を見ることはなくなった。

 やはり、犯人はあの勉強していた若者なのかもしれない。それにしても暇な若者だ。なんの勉強をしていたのだろうか。年恰好からして、大卒で入った会社が合わなくて退職し、資格試験の勉強をしている。という感じだったが、なんで料金も高めで勉強することが歓迎されないあの喫茶店を選んだのだろうか。

 張り紙が貼られるごとにお客さんの人数は、少しずつ減っていったような気がするが、もちろん、正確に人数を数えて統計をとっているわけではない。気のせいだろうか?

 マスター自身は、別にあんな張り紙あってもなくても同じように店に入るが、初めて来た人や久しぶりに来た人は、あれを見て「なんとなく変な店なので他に行こう」と思う人もいるかもしれない。

 結局その張り紙は、最初に見た時と合わせると都合4回見たが、その後を見ることはなくなった。

 もし、あんな張り紙を貼る行為を長期間にわたって続けられる人がいたら、それこそかなり一つのことにこだわり続ける偏執的な人物だろう。

 張り紙を見なくなって、お客さんの人数も元に戻ったような気がした。が、それは、あくまでもマスターのなんとなくの感じである。正確に統計をとっているわけではない。

 

 その後、ある日の夜の11時ごろ。「おしゃれ猫」では沢田さんがエリコと話をしていた。

「最近、新しい印刷機を買ったんで、何か印刷して面白いものはないかと思い、こんなものを印刷して来たんだ」

 そういって沢田さんは、鞄から何かを取り出してエリコに見せた。

 それは何か文字が印刷してある紙だった。

「これを店の外に貼ってもいい?」

 二枚あった。一枚目に書いてある文字…。


 この店ではキチガイの歌を歌う人は一人しかいません。


 二枚目…。


 カッコいいポーズをするお客さんがいる店、おしゃれ猫。


 エリコは、それを見ていつものリアクションを始めた。

「わはははは。ダメに決まっているのでござる。こんなものは貼ってはいかん。いっしっしっしっし。キチガイの歌…。キチガイの歌。一人しかいない。それは自分のことを言っているのでござるか。うきょっきょっきょっきょ。ぐるじい―っ。しかも…。しかも…。しかも…。かっこいいポーズ。本当にカッコいいと思っているのでござるかあああーーー。ぐるじいでござる。うっきょっきょっきょっきょーーーー」


 一方マスターは、その張り紙を見てだんだん気になることが頭の中で膨らんできて、ついに沢田さんに質問をした。

「沢田さん…。あのー、大した質問じゃないけど、駅前にKという喫茶店があるのを知ってる?」

「うん。あるのは知ってるけど、ずっと前に2・3回しかいったことがない。あの喫茶店がどうかしたの?」

「いやあ、実はあの喫茶店にも、張り紙が貼られるようになったんだ」

「そう。お店の人が貼ったんじゃなくて?」

「いや、店の人が貼るにしては変な内容なんだ」

「キチガイとかカッコいいポーズとか、そんなことが書いてあるんですか?」

「うーん、そうではない」

 マスターは、もう一度その紙を見た。そして、喫茶店に貼られていた張り紙とはかなり傾向が違うことに気がついた。

 まず、書体が違う。Kに貼られたものはゴチックだったように記憶しているが、これは草書体。

 それと内容が違う。Kに貼ってあったやつは、店側のことを問題にしていたが、これは自分のことについて書いてある。

 それに形式が違う。Kの方は「3行くらい書いてから店長敬白」という形だったが、これは1行だけだ。同じ人がこれだけ違うことを思いつく場合というのは、あるかもしれないけど珍しいことだと思う。

 それから、目的も違う。あの若者の方は客観的に見れば嫌がらせが目的で、本当に店の前に貼ってあった。だが、沢田さんは、女の子や他のお客さんに見せてネタにしようという考えで、本当に貼るのが目的ではなさそうだ。

 でも、張り紙を作ろう、という発想は、あまり浮かびにくいから、やはり同一人物の可能性もあるのだろうか?

 しかし、喫茶店Kで沢田さんを見たことは一度もないし、あの若者は、張り紙が貼られる前はあんなによく来ていたのに、貼られるようになってから一度も見ていない。やはり犯人はあの若者なのだろうか。他の可能性は考えにくいような気がする。

 それ以上考えても確実な答えがわかるわけではないと思い、マスターは考えるのを打ち切ることにした。

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