第5話 優先すべきは価値観である

 12月のある日、赤いナップサックを背負ったマスターは、午後4時ごろいきつけの喫茶店に入っていった。

 椅子に座るとアメリカンコーヒーを注文し、『プロフェッショナルの条件』をナップサックから出した。

 その日は「Part3 2章 自らの強みを知る」という章を読み始めた。

最近何回か読んだところだが、気になる章なのでもう一回読むことにしたのである。

読んでいくと、気になる文言があった。


 誰でも、自らの強みについてはよくわかっていると思っている。だが、たいていは間違っている。わかっているのはせいぜい弱みである。それさえ間違っていることが多い。


 この文言にはマーカーが引いてあって、もう何回も目にしているのだが、最近この文言を見るたびに十五町さんというお客さんのことが頭に浮かぶ。十五町さんは、東大法学部を出て現在区役所に勤めている人で、彼の生き方を見ていると、どうもこの文言が気になってくる。

 ちょうどその日は、十五町さんという人の誕生日で、店で祝う予定になっている。


 自らをマネジメントするためには強みや仕事の仕方とともに、自らの価値観を知っておかなければならない。


 つまるところ、優先すべきは価値観である。


 知っておくべきことに「強み」「仕事の仕方」「価値観」の3つを挙げていて、その中でも価値観を最優先させるべきだと書いている。

(価値観かあー)

 自分の価値観に完全に一致する仕事につける人はとても少ないような気もするが、確かにある程度は価値観に合ったことをしないとやる気が出ないことは確かだ。

 マスターはそんなことを考えながら、コーヒーを飲んでいた。


 マスターは、近くのケーキ屋さんで十五町さんのためのケーキとろうそくを買い、店に行った。

 今日のメンバーは、ルカとリナとアヤメの3人。全員8時前後に来た。

 8時半頃に、コンコンが店にやってきた。

 コンコンというのは今という苗字の40代半ばくらいの男性で、郵便局のアルバイトで生活している。恰幅がよくて顔が大きく、外見は押し出しがよいが、気の弱そうなか細く高い声を出す真面目そうな人だ。

 例年、年末になると年賀状を売りに店に来る。『おしゃれ猫』でも毎年300人くらいのお客さんに年賀状を出すので、マスターは、年賀状はコンコンから買うことにしている。

「こんにちは。今年も年賀状を買っていただきたいのですが…」

「ああ、もうそんな時期なんだ。去年と同じ300枚でいいかな」

「ありがとうございます。助かります」

 お客さんとして来た時は、女の子相手に変なエロトークを繰り出す面白いおじさんだが、この日だけは、とても礼儀正しい真面目な人である。

「えーと、1枚52円でしょう。そうすると、500枚では2万6千円かな?」

「そうです」

 マスターは財布を取り出し、1万円札2枚と千円札6枚をコンコンに渡し、年賀はがきを受け取った。

「大変だねえ。ノルマがあるんでしょう」

「そうなんですよ」

「何枚くらいなの」

「まあ、アルバイトの場合は3000枚売ればまずまず、そんなに怒られない」

「それじゃあ、うちくらいのところをあと10件くらい見つけないといけないのか」

「そうなんですよ。なかなか苦しいですよ」

 ここで沢田さんが口をはさんだ。

「私は、別の飲み屋で、やっぱり毎年年賀状を何百枚が出している店を知っているので、まだ買ってないか聞いとくよ」

「よろしくお願します」

「じゃあ、明日の夕方までいい」

「そうしてもらえると助かります。早めに売れるところは売らないと、自分で買って金券ショップに持って行く最後の手段を実行するにしても、早くしないと値段が下がってしまう。ですから、早めにわかると本当に助かります」

 コンコンは帰っていった。

「今は郵便局も大変なんだなあ」

 沢田さんが言った。

「うーん。今も金券ショップの話をしていたけど、自分で買って金券ショップに持っていくというのも困った話だな。結局、定価と売却価格の差額は損するわけでしょう」

 マスターも同意した。

 沢田さんは早速携帯を取り出して電話をかけた。

「もしもし、今話をしてよろしいですか?」

「えーと、Kさんでは、年賀はがきを毎年出していると思うんですけど、もう買いましたか?」

「あー、それだったら、私の知り合いで郵便局に勤めている人がいるんですけど、その人から買ってもらえませんか?」

「ありがとうございます。それで何枚くらい買ってもらえますか?」

「わかりました。よろしくお願いします」

 沢田さんは、マスターの方を向いて言った。

「4000枚買ってもらえそうだ」

「ええー。すごい。でもうそでしょう」

「うん。うそです。400枚の間違いです」

「そうだと思った。でも、それでもよかった」

(コンコンは、人柄がよくてみんなから応援してもらえるところや、自分が困っていることを率直に周囲にアピールできるところが強みなんだな)

 マスターは改めて、ひとぞれぞれに強みというのはあるものだと思った。

 マスターは女の子たちに聞いた。

「みんなは年賀状なんか出さないのか?いる人は買ってあげて。人助けだよ、人助け」

 エリコが言った。

「拙者は小学校5年までしか年賀状は出してござらん。近年は、友だちたちに『アケオメ、コトヨロ』というメールを打って、それですませているのでござる」

(なんだか味気ないなあ。そういう時代なのだろうか?)

 マスターは少し寂しい気持ちになった。

 ルカも似たような答えだった。

「私も、年賀状は10年以上書いていない。エリコと一緒でメールはしている」

 マスターはあきらめ顔でつぶやいた。

「そうか。これじゃあ、郵政公社も焦ってノルマ販売に走るわけだな」

 

 その後9時ごろに、江川さんがそーっと入ってきた。

 江川さんは、いが栗頭の童顔で小さめのメガネを掛けている小柄な人だ。年は40代後半らしいが童顔なので若く見える。女の子たちは、「もっと年齢が若くて少し疲れているのかな」と思っているようだ。今日は、なんとなく楽しそうな顔をしている。

 マスターはいかにも「待ってました」という調子で声をかけた。

「いやー、江川さん。もう給料日は来ただろう。今回もちゃんと借金を返そうと思って律儀にやってきたんでしょう。偉い!」

 江川さんは、4か月前くらいに、2週間ほどずっと毎日来てツケで飲んでいた。あまりしゃべらず、寂しそうで、母親が亡くなったのだと言っていた。

その時は借金を作ったが、その後給料日ごとにきちんと返済を続けている。

「そうなのです」

 江川さんは、自分で自分のいが栗頭をなでさわさわとなでながら言った。そして、財布の中から3万円を取り出した。

「ちょっと待ってね」

 マスターはカウンターの奥にいきノートを取り出してページをめくった。

「あったあった。ここに書いてある。今回3万円はらうと借金はゼロだ。おめでとう。これからは、また、堂々と飲める。今日は飲んでいく?」

「うーん、今日は3万円を取られてしまったのでお金がない。また今度来る」

「そうか。でも借金がなくなってよかったな。待ってるよ」

 江川さんは、飲みたそうな顔をしていたが、帰っていった。

(江川さんも、何かに素晴らしい才能があるというわけでもないが、律儀で真面目なところが強みだな)

 マスターは、江川さんが帰っていくのを見送りながら、そう思った。

 ドラッカーは、強みという言葉をもっと華々しい意味で使っているようだが、強みという言葉は広い意味で使った方が凡人にも役に立つ。

 江川さんは、仕事は警備員で、係長のような立場らしい。以前は、1~2週間に1回くらい来ていたので、またそのくらいのペースで来てくれるかもしれない。


 十五町さんが来たのは、10時ごろだった。

 その時間には十五町さんのことをよく知っている常連のメンバーが4人ほどいたので、十五町さんを含めて5人にはボックス席に座ってもらった。

 大き目のケーキにろうそくを10本ほど立ててテーブルに置き、ろうそくに火をつける。

 カラオケでハッピー・バースデイの音楽が流れ、ルカとリナとアヤメの3人がそれぞれ手にマイクを持って歌い始めた。


 ハッピーバースデイ・トゥー・ユー

 ハッピーバースデイ・トゥー・ユー

 ハッピーバースデイ・ディア十五町さん

 ハッピーバースデイ・トゥー・ユー


「十五町さん」というところが少し字余りだったが、きれいにハモルことができた。

十五町さんがローソクの火を吹き消すと、みんなで拍手した。

「ところで、フィフティーンさんは何歳になった?」

 沢田さんが尋ねた。この店で十五町さんはフィフティーンさんと呼ばれている。

「うーん、実はもう35歳なんですよ」

「35歳じゃあ、まだ若い」

「そうかなー。でももう転職もできにくい年になってきたし、たまにこれでよかったのかなーなんて思うけど、そのたびにたぶんこれでよかったんだなと思う」

「いやー、でも区役所なんて堅実でいいじゃないですか」

「それもそうなんですけどね。確かに満足して働いてます」

「ちなみに、フィフティーンさんの学生時代の友だちなんてみんなどんな仕事をしてます?」

「それがいろいろなんでびっくりする。昔は東大法学部って言うと、中央官庁が圧倒的に多くて、それ以外だと金融・商社という感じだったんだけど、今は多種多様だね。ぼくみたいな地方公務員もいれば、ロースクールに入る人もいる。ロースクールに行っても、司法試験に受かった後、いきなり弁護士になる人が結構いる。昔は裁判官や検事になる人が多くて最初から弁護士になる人は少なかった。それとコンサルタント会社とか外資系の金融機関なんかも、今は増えている」

「そうかー。でも、地方公務員って、東大法学部にしてはわりあい地味な方じゃないですか?」

「わりあい、じゃなくて一番地味だよ。これ以上地味なとこに行く人はいないんじゃないかな。まあ、作家を目指してニートかフリーターになる人はいるけど、ちゃんと就職する人の中では一番底辺だと思う。僕の場合は、あんまり他の仕事ができるような気がしなかったんだ。中央官庁に行って政治家たちと丁々発止やるのは自信がないし、弁護士だって弁舌は必要だし、外資系は語学力に自信がないし。銀行の調査部とかシンクタンクなんかでちゃんとした論文やレポートを書くのも自信がないし。まあ、ペーパーテストだけは妙にできるんで、地方公務員だったら、公務員試験に受かりさえすれば、凡人でもなんとかなると思ったんだ」

 それを聞いてマスターは複雑な気持ちになった。こんなに、自分の能力が低いということをテキパキと要領よく説明できる人も珍しい。

 この人は、強みではなく弱みがうまく把握できている、ということのだろうか?強みの「ペーパーテストができる」というのは明らかだけど、弱みがうまく把握できることによって、自分の能力ではやっていけないところにいかないで済んでいるのだろうか?

 表面的に見れば確かにそうだが、どうもあんまり釈然としない。ドラッガーがこの話を聞いたらどう思うだろうか?

 マスターはドラッガーの言葉をいくつか思い出した。


 誰でも、自らの強みについてはよくわかっていると思っている。だが、たいていは間違っている。


 「ペーパーテストに強い」というのは確かに間違っていないが、把握の仕方はかなりアバウトだ。

 東大法学部の学生は、すごく頭がいいか、すごく要領がいいかのどちらかだという話を聞いたことがあるが、十五町さんの場合はどっちなのだろうか?


 わかっているのはせいぜい弱みである。それさえ間違っていることが多い。


 東大法学部を出ている人が自分のことを凡人と考えるというのは、学歴にとらわれない立派な自己把握なのだろうか?それとも、まだ本当の自分の強みに気がついていないだろうか?

 十五町さんは、あれもできない、これもできないといろいろ言っていた。本当にあんなふうにいろいろなことがすべてできないとも思えないが、本人は大まじめで話していた。

 なんだかもったいない話のような気がする。


 つまるところ、優先すべきは価値観である。


 強みよりも価値観を重視して考えた方がいいのだろうか?

 十五町さんを見ていると、満足して仕事に打ち込んでいる様子なので、価値観にあった生き方をしているということは言えるのかもしれない。

 十五町さんはデンモクを手に取りながら言った。

「ところで、今日は誕生日なので。AKCの歌じゃなくて、特別にキチガイの歌を歌ってもいいかな?」

「まあ、誕生日なんだから特別に許す」

「よし、ルカちゃんの許しが出た」

 十五町さん入れたのは、大昔のジャニーズのアイドルグループ「フォーリーブス」の『地球は一つ』という歌。

 軽快なイントロが流れ、十五町さんは歌い出した。


 キチガイになれば

 キチガイに戻る

 キチガイになれば

 キチガイに戻るよ

 まあるいキチガイはみんなのものさ

 みんなのキチガイはみんなのものなのさー


 当然、もはやこの店の名物ともいえる、エリコの激しいリアクションが始まる。

「ウワッハッハッハ、ウッシッシッシ。なんで…、なんでキチガイになってからまたキチガイに戻るのか?すごい変だけど面白い。ウッキョッキョッキョッキョ。イッシッシッシッシ。なんでなのか?なんでキチガイがみんなのもんでマルイのか?面白いいいいいー。イッヒッヒッヒッヒ。おなかが痛いいいいー。クルジイー。ムハハハハーーーーーー」

 歌い終わるとエリコは激しく手をたたいた。他の女の子たちも手をたたいたが、そのたたき方は、「仕事なので仕方ない」という感じのやる気のなさそうなたたき方だった。

 他のお客さんで手をたたく者は一人もいなかった。が、十五町さんはなぜか満足げである。エリコのリアクションに満足しているのだろうか?

 この歌を聞いてマスターは考えた。やはり十五町さんは十五町さんなりの相当強情なこだわりにもとづいて現在のような職業を選んだのではないか?他人の心の中はわからないが、十五町さんの場合、「自分は出世したくない」という確固たる価値観が心の中にあるような感じがする。

 やはり価値観を優先することは大切なのだろう。価値観という言葉は少し硬い表現なので、「こだわり」と言ってもいいかもしれない。

 この店に来る人で、「仕事も順調に出世していて家庭も円満でうまくいっている」という人はほとんどいない。でも、自分の価値観を大切にしている人は多いと思う。

 マスターはそんなことを考えながらタバコ吸い、十五町さんがおいしそうにケーキを食べている様子を眺めていた。

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