第3話 仕事の学び方

 マスターはいつものように、7時半に店に着き、ルカと協力して電気をつけたり掃除をしたりして8時に店を開けた。

 その日は8時15分頃に新人の面接の予定が入っていたが、その時間になっても現れない。

 でも、8時20分頃に来た。やや遅刻だが、せっかく来たので面接をすることにして、店の片隅で向かい合って座った。

 背が低く貧乳で、顔はブスというほどでもないが美人とは言えない。笑うと八重歯が見えて可愛いが、額が狭く目が小さくて、どうも頭がよさそうな感じがしないのである。話し方もゆっくりであまり気が利きそうではなく、とろくて不器用そうな雰囲気。あまり取り柄のなさそうな女の子である。

 でもこういう女の子は、うちの店に来るあんまりいけてない中高年の男性には好かれることが多いので、雇った方がいいかもしれない。雰囲気だけでなく、本当にとろくて不器用だったら他の女の子とうまくいかなくなるかもしれないが、そこは実際に何日か働いてもらわないとわからない。

 まず履歴書を出してもらった。

 手書きで少し字が汚いが読めることは読める。

 名前は北里アヤメ。店ではアヤメという本名をそのまま使うことにした。

 出身大学は名門のお嬢さん学校A女子大。どうもこの娘がA女子大とはイメージに合わないが、銀座の高級クラブなどではなく、スナックの面接くらいで嘘をつく人はごく稀だと思うので、たぶん本当なのだろう。一応、試験的に店に入ってもらうことにした。

「こういう仕事は始めてかな?」

「はい」

「それじゃあ、まあ、今日は短い時間だけど見よう見まねで水割りを作ったりお客さんと話したりしてみよう」

「はい」

「それと、これは、個人個人の感性の問題で今俺が言っても仕方がないことかもしれないけど、でも一応頭に入れておいてもらった方が、なんとなくうまくいく場合もないとは言えないので、ここで言っておく。この店に来るお客さんは、仕事もうまく行っていて家庭も円満で幸せな人生を送っているという人はめったにいない。どこか残念なところのある変な人が、100%全員とは言い切れないかもしれないけど、でもほとんどだ。働いている女の子も、昼間の仕事がうまくいっていて、いい彼氏もいる。という人はたぶんいない。一言で言えば、どうにもいけていない残念な人が集まって、日々おかしなことを繰り広げているのがうちの店だ。そういう場所が楽しい。と思える人でないと長続きしない。ここは、リア充の人の方がかえって浮いてしまうという変な場所だ。異世界と言ってもいいかもしれない」

「イセカイって…?」

「異なる世界と書いて異世界。普通じゃない世界、という意味だ。でも、残念な人ばかりなのに、いや残念な人たちだからこそ、他人のことを応援しよう、人と一緒に助け合って生きて行こう、という心の温かい人が多い。そのことに気がつく前に辞めてしまう女の子がいるのがとても残念だ」

 と言ってマスターは涙目でアヤメを見た。

 アヤメは思わず「まじ、キモイ」と言いそうになったがぐっとこらえ、思いとどまり、複雑な表情を浮かべながら「わかりました」と答えた。

 その日アヤメは、カウンターの内側に入り、先輩のやっているのを見よう見まねで水割りを作ったり、お客さんと話をしたりして、10時くらいに帰った。

 

 その2週間くらい後。

 マスターが目を覚ますと、10時少し過ぎだった。

 昨日は店が終わったのが2時。それから反省会も行わずにまっすぐ家に帰ったので、寝るのが早かった。だから、マスターにしては比較的早めに目が覚めたのだろう。

 何気なくテレビをつけたら、「世界エア・ギター選手権」の様子が映し出された。

 次々に出てくる人たちはみな、手に何も持っていないにもかかわらず、さも熱狂的にギターを弾いているような激しい動きをしている。国を代表して出ているらしく、みんななかなか熱心だし、リアリティがある。

 黒人も白人も黄色人種もいる。日本人らしき人も出ている。長髪の人もいればスキンヘッドの人もいれば金髪もいるし、黒髪の人もいる。女性は少なく、ひげ面のおじさんが多い。

 みんな大真面目に演奏している。と言うのだろうか。演じていると言った方がいいのかもしれない。

(楽しそうだなあ)

 どこかで見たことがあるような気がするが、たぶん以前見たのもテレビだろう。

 と思いながら、マスターはテレビを消してから身支度をして、近くのファミリーレストランにモーニングサービスを食べに行くことにした。

 

 その後、いつものようにスポーツクラブに行ってから喫茶店に行った。

 これまたいつものように『プロフェッショナルの条件』を取り出した時、さっき見た「エア・ギター選手権」の映像を思い出した。

(なんで、ここであれを思い出すのかな?)

 まあ、あんまりつながりはないのかもしれないが、何か関係があるのなら、そのうちわかるだろう。特に悪い予感はしないので、考えないことにした。

 今日も「第2章 自らの強みを知る」を読むことにした。最近この章を読むと何かと役に立つことが多いので何回か読んではいるのだけれども、もう一度読むことにした。

 章の初めから順番に読んでいって、「仕事の仕方に着目する」のところを読んでいる時、気になる文言があった。


 かつて一流の大学教授について調べたとき、かなりの人たちが、学生に教えるのは自分がする話を自分の耳で聞きたいからだ、そうすることによって初めて書けるようになると答えていた。


 人に教えないと自分が学ぶことができない。という話は時々聞くけど、ここにも出てきた。これも何かに役に立ちそうだが、今すぐに何かの役に立つのだろうか?

 マスターは、さしあたって今のところ役に立つかどうかわからないが、一応頭の片隅に置いておくことにして、手帳に書き写す文言を考えた。

今回は少し省略して書くことにした。


学生に教えるのは自分がする話を自分の耳で聞きたいからだ


 他人に話すことによって、自分が話すことを自分の耳で聞くことができる。それが仕事などを覚えていくうえで大切だというのは、確かによくありそうなことだ。とマスターは思ったので、この文言にしたのである。


 その日のメンバーは、ルカ・エリコ・アヤメの3人だった。女の子の人数が少なかったがお客さんがけっこう来たので忙しく、マスターもお出かけしないでずっと店にいた。

 アヤメは、遅刻してきてマスターに怒られた。

「何度言ったらわかるんだ。君のせいでみんな迷惑してるんだ」

 マスターは怒る時は真剣だし、すごい迫力だ。アヤメは泣きそうな顔になって謝った。

「すみません」

「もう、こんなことばかりだとクビにするよ」


 9時くらいになると、沢田さんが入ってきた。白いコートを脱いで椅子の後ろにかけようとした時、カウンターの外側に立っていたアヤメが「コートお預かりしましょうか?」と言うと、一瞬沢田さんが嫌そうな顔をした。

カウンターの内側にいたリナはそれを見て、すかさず「預からないでも大丈夫でしょう」と言い、アヤメはジャンパーを預かるのをあきらめた。

 こういうところは、リナがよく気がつく。

 沢田さんは、どういうわけだか上着類を預かられるのを嫌がる。ポケットに大事なものが入っているのか、寒くなったらすぐに着られるようにしたいのか、なんなのかよくわからないが、とにかく嫌らしい。


 その後アヤメは、カラオケのチケットを同じ曲で2回とろうとしてリナに注意されたり、麦焼酎と芋焼酎の瓶を間違えてマスターに怒られたりした。

アヤメが店に来たのは、この日で5回目。どうも覚えが遅い。

 でも、アヤメがいると機嫌がいい中高年の男性は今日も何人か来ていた。

 「まあ、お客さんの中にはアヤメちゃんのファンがけっこういるから、失敗にめげないでがんばろう」

 沢田さんはそう言って励ましていた。


 店が終わったのは2時半だった。

 反省会には、ルカは疲れているので帰り、アヤメとエリコが来た。

 ビールで乾杯した後、マスターはアヤメに聞いた。

「アヤメは名門女子大を出ているけど、よく入れたなあ。受験時代はどういう感じで勉強したんだ?」

 よく入れたなあ、とは失礼な言い方だ。俺も少し酔っぱらっているかな。とマスターは思ったが、アヤメは平然としている。

(こういうにぶいところがこの娘の強みなのかもしれない)

 本当はにぶいのではなくポーカーフェイスなのかもしれないが、いずれにせよ打たれ強いので水商売には向いている。

「そうですねえ。確かに、自分でもよく入れた、不思議だな、と思います。推薦ではなく一般入試を受けて入りました。S女子大の過去問をよく見て、特に世界史は出そうなところがわかっていたので、そこを集中的に勉強しました」

「うーん。まあ、それも大事だけど、例えば、書いて覚えたとか、人に話しながら覚えた、とかそういったところはどうだった」

「はい、高校時代は茶道部に入っていましたが、後輩が勉強を教えてくれって聞いてくることがよくあって、それで、後輩に教えているうちに自分ができるようになりました」

「そうか…。確かに今のアヤメはうちの店では一番後に入ったから、仕事を教えるような相手がいない…」

(そうか。そういうことだったのか)

 この時、マスターの頭の中で、テレビで見た「エア・ギター選手権」の映像とドラッガーの「…自分がする話を自分の耳で聞きたいからだ」という言葉が結びついた。

「…それじゃあ、エア後輩というのを作ったらどうかな?」

「エア後輩?」

「うん。本当はギターなんか持ってないのに、ギターがあるかのように振る舞うエアギターというパーフォーマンスを知ってる?」

「ああ、テレビで見たことがあります」

「それと同じように、後輩がいるつもりになって、見えない後輩に教えるつもりで小声で独り言を言いながら仕事を覚えたらどうだろう?誰かに教えながらだとよく覚えるなんだったらそれが一番いいと思う」

「はあ。そう言えば、私は一人っ子で、特に妹や弟がいないのが寂しくて、小学校の頃はそんな感じのことをしていました。でも母から気持ち悪いから止めなさいと言われてやらなくなりました。目的を持ってそんなことをしたことはないけど、でも言われてみるとうまくいきそうな気がするのでやってみます」


 アヤメは4畳半と台所のアパートに一人暮らしで、今のところ昼のアルバイトはコンビニの店員が週に4回。スナックも週に4回。

 次の日は、夜の仕事だけなのでのんびりと寝ていて、アヤメが目を覚ましたのはもう12時だった。

起きるとすぐ昨日マスターから言われたことを思い出した。

(エア後輩かあ。…、やってみようかな。とりあえず名前を考えよう)

 寝っ転がったまま考えた。少し迷ったが自分の名前をとってアヤ助にすることにした。

(年齢と性別は…。15歳の男の子がいい)

 これは、自然に頭に浮かんだ。

(当然、女の子みたいな可愛い顔をした美少年なのだ)

 これもあまり迷わず、頭に浮かんだ。

 その後、自分でラーメンを作って食べてから、ゲームを始めた。


 マスターはいつものように、スポーツクラブに行ってから喫茶店に行った。

 そして、例によって『プロフェッショナルの条件』を取り出して、「Part3 第2章 自らの強みを知る」の章を読み始めた。最近再三再四読んでいるところなのだが、まだ仕事に生かしていない部分があるような気がする。


 順番に読んで言って「人と組むか、ひとりでやるか」という項目に入った。


 仕事の仕方としては、人と組んだ方がよいか、ひとりの方がよいかも知らなければならない。


 これは、水商売で言えば、スナックとキャバクラの違いかもしれない。スナックはある程度チームプレーが必要だが、キャバクラは個人個人が独立して売り上げを競っている


 もう一つ知っておくべき重要なことがある。仕事の環境として、緊張感や不安があったほうが仕事ができるか、安定した環境のほうが仕事ができるかである。


(こんなことも書いてあったのか。これは新しい発見だ)

 昨日はアヤメに怒って「そんなミスばかりしているとクビだ」みたいなことを言ったら、その後ミスしまくりだった。

 アヤメは、緊張感や不安感がない安定した環境のほうが仕事ができるタイプなのかもしれない。

 しばらくは怒らないで、「当分はクビにならないから安心して働きなさい」くらいのことは言ってみようか。

 マスターは、そんなことを考えた。

 

 アヤメは、夢中になってゲームをやっていたが、ふと時計を見て、もう夕方の6時になっていることに気がついた。

「アヤ助よ、早めに出ることにしよう。渋山駅が改装工事で乗り継ぎに時間がかかるようになったし、遅刻しないように早めの行動が大切だ」

 素早く外出の支度をして、6時15分には家を出ることができた。

(確かにアヤ助がいるとうまくいく)

 途中渋山駅で乗り継ぎをする時、無性にサーティートゥーのアイスクリームが食べたくなったが、アヤ助に話しかけた。

「アヤ助よ。アイスクリームなんて食べていて遅刻したら大変だ。ここは我慢しよう」

 ここでも、アイスクリームを食べないで乗り切ることができた。

 スナックのあるG駅でおりた。

8時までには少し時間があるので、立ち食いそばを食べてから行き8時ちょっと前に店に着いた。

 店に入ってマスターに挨拶をすると「今日は、ちゃんと時間通りに来たな。ちゃんとエア後輩は作ったか?」と聞かれた。

「はい、15歳の男の子です。とっても可愛いんですよ」

「そうかあ。なんだか怪しいなあ。お客さんの前であんまりでれでれするなよ」

「はい」

「まあ、アヤメは入ったばかりなのでまだ仕事ができなくても仕方がない。しばらくは様子を見る。そんなにすぐにはクビにならないから、エア後輩作戦を採用し、落ち着いて働くようにしよう」

「はい。わかりました」


 アヤメは、お客さんが来始めても、小声で独り言を言いながら仕事をしていた。もっとも、アヤメにとっては、それは独り言ではない。エア後輩に話しかけているのである。

 芋焼酎のボトルを取ってくるように言われるとアヤメは、アヤ助に話しかけた。

「アヤ助よ。芋焼酎と麦焼酎は違うのだ。注意するのだぞ」

 とつぶやきながら芋焼酎のボトルを探し、間違えないですんだ。

 カラオケを歌う人がいると、「アヤ助よ。さっきすでにカラチケはもらっているから間違ってとらないように注意しろ」とエア後輩に話しかけ、同じ歌で2回カラチケをとることはなくなった。

 10時ごろ沢田さんが来た。

 アヤメは「アヤ助よ、沢田さんのコートを預かろうとするのはNGだ。ゆめゆめ忘れてはいかん」とつぶやき、コートを預かろうとするのを思いとどまった。

 お客さんからは、「何を一人でぶつぶつ言ってるの」と時々聞かれた。

 そのたびに、「仕事を覚えやすくなるようにエア後輩というのをつくり、後輩に教えるつもりで話しながら仕事を覚えていくとうまくいくんです」と正直に答えた。

「ふーん。そうなのか」

「その後輩の名前はアヤ助って言うんです。女性にしてもおかしくない可愛い15歳の男の子で、とっても素直な後輩なんですよ」

 それを聞くと少し引く人が多かったが、なんとなく「そんなこともあるのかなあ」という感じでみんな妙に納得した。一生懸命やっているのが伝わっているからなのだろうか、それ以上突っ込む人はいなかった。

 この日は、先生と呼ばれている70歳くらいのおじいさんが来ていた。

 先生とアヤメは、昭和30~40年代の歌謡曲の話をしていたが、不思議なことになかなか話が合う。

 先生が聞いた。

「あんでアヤメちゃんはそんなに古い歌を知っているの?」

「うーん、私はおばあちゃん子で、時々おばあちゃんと一緒にカラオケに行ったり旅行をしたりするからだと思う」

「ふーん。珍しいね」

「珍しいかな」

「アヤメちゃんは、『3つの事実』っていう歌を知ってる?」

「あー、知ってる。ちあきナオコの歌でしょう」

「そう。歌える?」

「歌ってみようか?」

 デンモクを持って来て、ちあきナオコのところを見たら確かにその歌はあった。

 順番が来てアヤメは歌い始めた。


 …例えばあなたが恋っを、恋をしたなあーらー

 3つの事実を聞いって、聞いてほしいいーのー

 1つ人より力持ちいー

 2つふるさと後にしてー

 3つ未来の大物だー…


 歌い終わると先生を初めとしてみんなが拍手喝采。

 そして、例によってエリコのリアクションも快調だ。

「なんで…、なんでお願いではなく事実なのか、面白いー。面白いでござる。うっしっしっしっし。わっはっはっはっは、いっしっしっしっし。うっきょっっきょっきょ…」

 アヤメちゃんは店の大スターになっていた。


(アヤメが使えるめどがたってよかった)

 と思うとマスターは気が緩み、近くの焼き鳥屋にお出かけして、ハイペースで酒を飲んだ。

(アヤメみたいな子も一人くらいいた方がいい)

 たまに、残念系のキャラクターで中高年の男性に人気がある女の子が入ってくるが、今まではわりあい続かないことが多かった。実務的な仕事ができなくて他の女の子とうまくいかない場合が多いからだと思う。

 いくら強みを生かすと言ってもまったく実務ができなかったらしょうがない。今回の場合は最低限のことはできるようになりそうなので、うまくいくかもしれない。

 いい気分になっていたら携帯電話が鳴った。

「今お客さんが二人しかいなくて、その二人も帰りそうなんで、そろそろ閉めますか」

 リナからだった。

 時計を見ると午前2時。

「そうしようか。今帰る」

 マスターが店に戻るとすでにお客さんはいなかった。

 今日は、反省会はしないで、戸締りをして帰ることにした。

 

 マスターの自宅は少し遠いが歩いて帰れる場所にある。

 帰り道、マスターはいい気分で歌を歌いながら歩いていた。


 もしもし、カメよ、カメさんよ

 世界のうちでお前ほど歩みののろい、ものはない

 どうしてそんなにのろいのか


 その時、後ろから追いついてきた自転車がマスターの横で止まった。

 黒っぽい服を着て、帽子をかぶっている。

 よく見るとそれは警察官だった。若そうな背の高い男だ。

「こんばんは」

 マスターは挨拶をした。

「こんばんは、悪いけどちょっとナップサックの中を見せてくれますか」

 別に絶対見せなければいけないという規則があるわけでもないが、逆らうとややこしいことになりそうなので、おとなしく赤いナップサックを背中からおろして、中身を見せた。

 警察官は「刃物はないかな?」などと言いながら懐中電灯で中を照らしていたが、中には、本とタオルとタバコしか入っていない。

 本は最近よく持ち歩いている『プロフェッショナルの条件』。これが懐中電灯で照らされた時にマスターは、「あっ、この本はなかなかいい本です。公務員の方も読んでみると役に立つかもしれません」と言った。

 警察官はそれには答えなかったが、ただし、この本があるのを見て、わりあい真面目そうな人だ、と判断したかもしれない。赤いナップザックが怪しくてビジネス書が真面目そうだというのも、なんだか表面的な物の見方で感心しないが、他に判断する材料がないのだろう。

「大丈夫そうだな。このへんに住んでいるのか?」

「そうです」

「仕事は?」

 正直に「スナック経営」と答えると「法令を守ってちゃんとやっているか?」などと突っ込まれそうでうっとうしいので、「会社員です」と答えた。

 警察官は、マスターの身なり・風体を見て、やや怪訝そうな顔をしたが、それ以上は突っ込まず、「気をつけて帰ってください。それと、あまり大きな声で歌を歌うと近所迷惑なので気をつけてください」と言って去っていった。

 

 次の日マスターが出勤してきて、店のノートを見ると、こんなことが書いてあった。


 アヤメちゃんは、一人でぶつぶつ言うようになって仕事ができるようになった。

                               (リナ)


 「一人でぶつぶつ」という表現はあんまり感心できないが、確かにその通りだ。

と、マスターは思った。

 確かに、アヤ助とかいう怪しい変な名前のエア後輩とともに仕事をするようしたら、アヤメは失敗が急激に減って、生き生きと仕事をするようになった。

 もっとも、エア後輩作戦以外に不安や緊張を和らげるように声をかけることもした。

 エア後輩作戦の方が、「小学校の頃にやり残したことをする」というとても深い本質的な感じがするやり方だ。でも、「不安と緊張なのか、安心なのか」という選択も、もちろんドラッガーが言っていることで、大切なことなのだろう。

 どちらのおかげかはわからない。両方かもしれない。そこは正確にはわからないが、とにかく、こんなちょっとしたことでうまくいくようになるとは意外だ。

(本当に物事の習び方は人それぞれなんだなあ。スナックのマスターという仕事は、これはこれでなかなか奥が深い)

 でも、昨日はたまたまアヤメみたいな女の子が好きな中高年お客さんが多かったが、うちの店は若いお客さんも多いし、アヤメだけが絶大な人気を誇っているわけではない。仕事ができるようになったと言っても、完全なる残念系だったのが、多少普通になった程度で、ルカやリナに比べればかなり差がある。

 そこは、有頂天にならないように多少は引き締めた方がいいかもしれない。でも、それは不安や緊張を与え過ぎない範囲でやるべきだ。

(それにしても…)

 今日のアヤメのエア後輩に話しかけながらの変な仕事ぶりは、面白がられたり共感を呼んだり同情されたりして立派な売り物になっていて、改めてスナックというのは不思議な商売だと思う。

 人間的・心理的な弱点が売り物になる仕事というのは、現代の日本社会では珍しいのではないか。昔の私小説作家が似ているかもしれないが、今の日本で他にあるだろうか?

 マスターは、タバコを吸いノートに書いてある文字を見つめつつ、首をかしげながら考え込んでいた。

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