第2話 人の強みを生かす
クリスマスに近い12月のある日、スナック『おしゃれ猫』のカウンターの上にサンタクロースの人形が10体くらい置いてあり、その中のいくつかは電動でふわふわと左右に揺れている。店の片隅にクリスマス・ツリーが置いてあって電飾がピカピカ光っている。
その日も沢田さんは9時くらいに来た。そして、今日も、「大いに登場」と言いながら変なポーズを始めた。
というのはウソで、それは最近控えている。控えている理由は、自分の姿を鏡で見たかららしい。
クールに「いやあ」という感じで手を上げて挨拶をして席に着くと、自分でデンモクをとってきて熱心に見始めた。
ルカが「何を探しているんですか」と言うと、「いやー、自分が歌いたいわけじゃあないんだけどね」と言いつつデンモクを操作している。
何をみているのだろうとちょっと覗いてみると、一生懸命見ているのは履歴だった。
「AKC47」というアイドルグループの歌が連続してたくさん入っているのを見て、突然にやけだした。
「これは、十五町さんが来たに違いない。ふっふっふっふ」
ルカは首をかしげた。
十五町さんというのは、店に来ると必ずAKCの歌を連続してたくさん歌いだす40歳くらいのお客さん(もちろん男性)だ。確かに、十五町さんが来たことは、デンモクの履歴にAKCの歌がたくさん入っていることからわかるだろうが、それがなんでそんなにうれしいのだろうか。まったく変なお客さんだ。
それを見終わると、沢田さんは、ニヤニヤしながら嘘か本当か知らないが(たぶん嘘)、最近の出来事を話し出した。
「やー、学校の先生をしている友だちの話なんだけど、学校の事務室で、PTAのお母さんたちに出すためにショートケーキを買ってくるように、事務の若い男の子が頼まれたそうだ。それでその男の子はスーパーで消毒液(ショードクエキ)を買ってきたんだ。消毒液を飲んだらPTAのお母さんたちは死んでしまい、新聞に出ること間違いなしだ。はっはっはっはっは。はっはっはっはっは」
沢田さん一人だけの空しい笑い声が店内に響き渡る。
ルカちゃんはあまりのくだらない駄洒落に笑うに笑えず、かと言って、「なんでそんな変な間違いをするの。その男の子はよほど勘が悪い人ね」なんて真面目に話す気にもなれず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
例によって、店が終わってからマスター・ルカ・エリコの3人でシルバー酒場に行き反省会を行った。
ビールで乾杯した後、マスターの問題提起が始まる。
「今日は沢田さんが箸にも棒にもかからない超くだらない駄洒落をいっていたが。ああいうものに対して、どう対処したらいいか?これはなかなか難しいけど味わい深い課題だ。うっしっし」
「味わい深いんですか?そうかもしれませんねえ。ところで、マスター。今日も途中からお出かけしてたけど、どこにいってたの?」
と、ルカが尋ねた。
「それは秘密である。うっしっし」
「また、焼き鳥屋ですか?」
「うん」
「遊びに行かないで落ち着いて店にいた方がいいんじゃないですか?」
「それがそうでもないんだ。遅い時間には俺が店にいる必要があまりなくなる。遅い時間になると、お客さんは酔っぱらってきてるし、疲れてもいるから、思ったとおりのことしか言わないわかりやすい人になってくる。そんなに細かい接客はいらなくなり、普通に飲んでいてもらえばよくなる。だから、俺が現場にいて場面を分析して考えるようなことも少なくなる。俺みたいな怖そうなおっさんがいない方がお客さんはリラックスして飲める」
「確かに言われてみるとそんな感じもありますね」
「なに肯定しているんだ。『マスターはおっかなくない。ハンサムでかっこいいですよ』とか言って否定してくれなくっちゃ。ところで、偉大なる経営学者ドラッカーという人がいるんだけど、ドラッカーは「自分の強みを知る」ということを強調している。俺の強みは、人の言ったこととか行動をよく覚えていて、それを再現したり分析したりするのが好きなところだ。逆に弱みは、外見がけっこういかついので、店にいるとお客さんがリラックスして飲みにくくなるところだ。だから、遅い時間になってお出かけするのは、理にかなった正しい行動なのだ。ところであの『スーパーで消毒液買ってきた。ハハハハ』という駄洒落だけど…」
「話し方がすごい沢田さんに似てる」
「そんなことに感心している場合ではない。それで、あの駄洒落に対してどのように対処したらいいか。これは店にとって重要な課題だ」
「拙者にいい考えがある。そこは、やはりお客さんの気持ちを最優先に考え、大笑いするべきなのだ」
「いい考えだ。よし、試しにやってみろ。『消毒液を買ってきた。ハハハハ』」
「ウワハハハ。ウワハハハ。消毒液。ショートケーキの代わりに消毒液。おなかが痛いでござる。ウワハハハ。ウヒヒヒヒ。ウキョキョキョキョ。ウシシシシ。イシシシシ。なんで消毒液。なんで消毒液なのか。ウシシシシ。ぐるじい。ぐるじい。笑い死にする。うひゃひゃひゃひゃ」
「なかなかいいリアクションだ。スナックでの接客はこうでなくてはならない。よし、ルカもやってみろ」
「消毒液。消毒液。面白い。ウハハハハ。おなかが痛い。なんで消毒液。うひゃひゃひゃひゃ。うしししし…」
「うーん。どうもエリコに比べると迫力不足だな。ルカの強みはこういうところではないようだ。それじゃあ、逆にこちらがお客様に面白い話をする練習をしよう。それじゃあ、今度はルカから」
「今、すぐ笑い話をするんですか」
「そう」
「えーと、なにか思いつくかな。そーだ。プロ野球選手のイチローが犬を飼っているらしいんだけどどういう犬かわかりますか?」
「拙者はわからないが、なにかのダジャレを思いつくとわかりそうな気がするでござる」
「イチローと言えば…。大リーガー・好打者・安打製造機・内野安打、うーん犬には関係なさそうだけど。何かな?」
「そうじゃなくて守備の方ですよ」
「守備?なんだろう」
「イチローは肩が強いからキョウケン、狂っている犬です」
マスターとエリコは少し笑った。
「多少は笑ってもらえたかな。それじゃこういうのはどう?すごい足が速くて絶対に追い抜くことができない犬がいるのだそうです。それはどんな犬かしら」
突然エリコが笑い出した。
「ふっふっふっふっふ。そんな問題は簡単でござる。オイヌケナイ(お犬毛ない)。毛がないつるつるの犬でござろう」
それを聞いてマスターもにやりとした。
「正解。うーん、それじゃあ次だ。犬が人間とか他の犬に触るときは何回触る」
「いひひひひ…」
「あれ、マスターもうわかった?」
「もうだいたい傾向がわかったから、そりゃーわかる。でもどうして犬に関することばかりなんだ」
「それは、犬好きだからよ。それで答えは」
「うしししし。下らないけど面白いなあ。答えは1回だろう。ワンタッチって言うからな」
「正解。それじゃあ…」
「なんだか止まらなくなってきたな。俺にもちょっと言わせてくれ。昔、美空ひばりという歌手がいたんだけど、その人が良く食べていたラーメンを知っているか」
「わかりそうでござる。ダジャレだから、ラーメンのラの字に注目すればわかりそうでござる。味噌ラーメンでござるか」
「そう。当たり前すぎて簡単にわかってしまったな。それじゃあ、ラの字と関係ないのにしよう。ラーメンで有名な場所でみんなそこに行くと『ここに来たかったのですよ』って喜ぶ場所は」
「来たかった、でござるか。それは喜多方でしょう」
「エリコはよくわかるな。と言っても見え見えのダジャレだったけど。まあ、今日はこのくらいにしとこう。ルカは犬に関係あるダジャレだけはよく知っているなあ。エリコはダジャレに対するリアクションがなかなかいい。二人の強みはわかったから、今後はそれを生かしていこう」
マスターはにやけながら、焼酎の水割りを飲み干した。
次の日、マスターは例によって『プロフェッショナルの条件』を赤い小型リュックサックに入れて家を出た。
腕時計を見ると2時10分頃。
(今日も、スポーツクラブに行ってから喫茶店に行こう)
マスターは、スポーツマンで昔はスキーの選手だったが、最近はあまりスキーにはいかなくなり、自宅近くのスポーツクラブ(正式にはフィットネスクラブ)に毎日のように通っている。一回おきに水泳かウェイトトレーニングをしていて、特にウェイトリフティングが得意。ベンチプレスだと100キロくらいは上げられる。
その日は、ウェイトトレーニングをする日。ベンチプレスをしてみると105キロ上げることができたし、他のトレーニングも一通りしてみてからサウナに入った。
サウナで昨日の反省会のやりとりを想い出した。
(昨日、ルカは犬に関するダジャレばかりいろいろと知っていたなあ。人がしゃべったお笑いのリアクションはエリコの方がいい。それに人が言ったダジャレもすぐわかる。人それぞれに強みはあるんだな)
スポーツクラブを出るといつものKという喫茶店に向かった。
なかなかのんびりとした日中の過ごし方だ。
マスターの若い時は、ウェブ制作会社とキャバクラ2軒を経営していて、目まぐるしい生活を送っていたが、40前後に、すべての事業から手を引いた。儲かっている状況で手を引いたのでわりあいお金は残った。
その後知り合いからスナックを買い取り、今はスナックのマスターしかやっていない。現在はちょうど50歳である。今ののんびりした生活が、少し物足りないような感じもしつつそれなりに気に入っている。最初は道楽のようなつもりでやっていたスナック経営だが、今は大まじめに経営している。趣味は、スキーやスポーツクラブ通いと読書。それと庭のついた一軒家に住んでいて家庭菜園もやっている。離婚して現在は一人暮らし。
なかなか恵まれた生活をしているのだが、それにしては目つきが鋭く精悍な顔つきをしている。生まれつきなのかなんなのかよくわからない。
いつものKという喫茶店に入り、例によって大きな丸テーブルの席に座った。
コーヒーを注文してのんびりしていると、「読む人間」「書く人間」に関して考えるポイントが頭に浮かんできた。やはり、こないだ手帳に文を書き写した効果が現れたのだろうか。
現在「おしゃれ猫」には連絡ノートのようなものはない。連絡事項はすべて口頭か電話かメール。電話やメールは「明日人が足りないから来られたら来て」とかその程度のことで、内容のあることはすべて店にいる時か終わった後の反省会の時に口頭で行う。そしてシフト表もない。マスタ―の頭の中にはあるが、紙の表はない。
このやり方は、今までの習慣でなんとなくやっていることなのだが、考える余地はあるかもしれない。
沢田さんのやっている本屋は、シフト表も連絡ノートも両方ある、と言っていた。
朝10時から夜の1時まで3交代制なので、シフト表は絶対いるだろうが、連絡ノートもあるそうだ。リサイクル書店なので、「何々という本はたくさんあるので買い取り価格を下げよう」とかそういうことがよく書いてあるらしい。
うちに連絡ノートがあったら、「誰々は最近悪酔いしやすいので、水割りを薄く作るように」などといったことを書くのだろうか。本の買い取り価格に比べると、数字では表せない判断がなかなか微妙なことが多いので、やはり自分が判断してタイミングのいいところで口頭で伝えた方がいいような気がする。が、うまく書きあらわせるような工夫すれば、書いた方がもっとわかりやすくなるのかもしれない。まあ、一長一短があるので併用するのがいいのかもしれない。
シフト表はどうだろうか?これもあった方が便利かもしれない。
視覚的に誰がどういうふうに入っているかわかれば、「この日は人が少ないから、私が入ってもいい」「この日は多いから、こっちにずれてもいい」とか思う人もいるかもしれない。
うちくらいの規模の店でも、シフト表があるところもあるらしい。
そんなことを考えながら、マスターは『プロフェッショナルの条件』を取り出して読み始めた。
この本を読むと、どういうわけだか気持ちが落ち着くのは、どうしてなのだろうか?とマスターは少し不思議に思う。
文体なのだろうか?文体は、そんなに極端にくせがあるわけではないがいわゆる翻訳調。まあ、本当に翻訳文なのだから当然と言えば当然だが。子供の頃、学校の夏休みの宿題などで大江健三郎の翻訳調の小説やヨーロッパの小説の翻訳を読んだから、なんとなく懐かしいのだろうか。
内容だろうか?著者の言いたいことは、なかなか前向きなことが多い。それと、具体例では欧米の歴史的に有名な人のことが中心で、モーツァルトやヴェルディなどクラシックの作曲家の名前が目につく。そう言えば子どもの頃ピアノを習っていたことがあったっけ。
なにが一番大きな原因かわからないが、とにかく、読むと落ち着ける本であることは確かだ。
(昨日は、女の子たちに「強み」について言ったので、それについて書いてあるところを読んでみよう)
マスターは、「強みは何か」という項目を読み始めた。
誰でも、自らの強みについてはよくわかっていると思っている。だがたいていは間違っている。わかっているのはせいぜい弱みである。それさえ間違っていることが多い。
うーん。そんなものなのだろうか。なかなか難しいところだが、確かにそうかもしれない。それではどうすればいいのだろうか?
なにかをすることを決めたならば、何を期待するかただちに書きとめておく。九か月後、1年後に、その期待と実際の結果を照合する。私自身、これを五〇年続けている。そのたびに驚かされている。これを行うならば、誰もが同じように驚かされる。
こうして二、三年のうちに自らの強みが明らかになる。自らについて知りうることのうち、この強みこそもっとも重要である。
「期待と実際の結果を照合する」というのが、「強み」を知るために必要なことがわかった。いわゆるフィードバック分析というものだろう。
そのためには「何かをすることを決める」必要があり、「何を期待するか」ということを思いつかないといけない。今は、「それなりにお客さんが来て売り上げが上がればいいや」という考えでなんとなく日々を送っていて、「何かをすることを決める」ということがなかなか難しい。
でも、今みたいになんとなくスナックを一軒だけやっているよりも、もう少し何かをしたい。ような気もする。どんなことをすればいいのだろうか?あるいは、スナック以外をやるのではなく、スナック経営を今までとは一味違うやり方でやってみる。新しいやり方や視点を取り入れる。というのがいいのかもしれないが。
まあ、そこはまた後で考えることにして、先を読もう。それで、「強み」が明らかになったら、その後は何をするのだろうか。
…明らかになった強みに集中することである。成果を生み出すものに集中することである。
…努力しても並にしかなれない分野に無駄な時間を使わないことである。強みに集中すべきである。無能を並みの水準にするには、一流を超一流にするよりも、はるかに多くのエネルギーを必要とする。
ここは、日本の学校教育とかなり違う。特に受験勉強では、「得意科目をさらに伸ばしても101点以上は絶対にとれないのだから、まずは苦手科目を克服せよ」とか「90点を100点にするよりも50点を60点にする方がやさしい」ということがよく言われていて、定説のようになっている。
マスターは、今日読んだところを振り返ってみた。
(何を手帳に書き写そうか…)
少し迷ったが、例によって手帳と0.4ミリのポールペンを取り出し「強みに集中すべきである」という短い文言を書き写した。
マスターが文房具屋で大学ノートを買ってから店に行くと、すでにルカが店を開けて電気をつけ、掃除機をかけていた。
マスターは店の隅にある椅子に座ると、ノートの表紙に「シフト表兼連絡ノート」と書き、最初のページに今月は10月なので10月と書いてから、その下に「今月のメンバー」と書いて適当に線を引き日にちを書いて、日にちごとに店に入れる人の名前を書けるようにした。
これだけで、なんだか今までよりもうまく行きそうな感じがしてくるから不思議である。
次に考えたのは、日にちごとに自由に記述できる欄を設けるかどうかだ。くだらないことばかり書かれると嫌だけど、あればあったでわりあい役に立つようなこともありそうで、少し迷った。が、後で廃止することもできるし、やってみることにした。
例によって、挨拶の練習をした後、マスターは言った。
「ルカ、今日、沢田さんは来そうかな」
「まあ、昨日来たけど、最近金・土と連続して来ることもあるから来る可能性もある。でも、どちらかと言えば来ない可能性が高いかも。です」
「うーんそうだな。俺もそう思う。いやー、昨日の反省を聞いていて思ったんだけど、最近の沢田さんは、くだらない駄ジャレを言うことが多いんで、エリコがつくようにするといいと思うんだ。エリコはお笑いのリアクションが得意だからね」
「それはいい考えだと思います」
「それと、十五町さんは最近元気がないから、ルカが何か面白いことを言って励ました方がいいんじゃないかな。まあ、店の状況次第だけど…。できるだけそうすることにしよう」
9時くらいになってもお客さんは2人しかいない。女の子は、ルカ・エリコ・リナともう一人新人の女の子。
リナとルカは駅前にビラを配ることにして、マスターは、常連のお客さんたちにメールした。
美女が4人。店のなかはガラガラ。早く来て助けて!
なんで「助けて」なのかよくわからないが、なんとなく感じは出ている。よし、これで送信しよう。
マスターは常連のお客さん30人くらいにこのメールを一括送信した。
その結果…。このメールによって来たと思われるお客さんは2人しかいなかった。でも、「2人しか」という表現がいいかどうかはわからない。2人くればいい方かもしれない。
この日、店を閉めたのは2時で、来たお客さんは全部で8人。女の子の時給を考えると、大損というほどでもないがやや赤字である。
(まあ、こんなこともある)
その日は女の子たちとの反省会も開かず、マスターは苦笑いしながら店を後にした。
次の週の金曜日。
いつものように8時に開店することができた。開店作業を手伝ってくれたのは、リナ。
9時前には、お客さんが5人くらいになり、まあまあの出足だ。
9時過ぎたあたりで氷屋さんが来たので、お金を払った。いつもの若い兄ちゃんだった。
ただし、次に来たのが、招かれざる客だった。
それは制服を着た警官。たぶん20代だろう。若くて長身ですっきりとした顔立ちの男性で、「こんにちは」と言って入って来て、店内の様子を見渡した。別に女の子がお客さんの隣に座ったり、ダンスを踊ったりしていなかったので、何か言われることはないはず。事実、何も言わなかった。
続いて「許可書を見せてください」と言った。
深夜酒類提供営業許可証は、店の奥の引き出しの中にあるはず。
マスターは、そこを探したがない。「そうか」とマスターは心の中でつぶやいた。
(書類は、休憩室の棚にあるファイルの中にまとめて置くことにしたんだ)
マスターは休憩室に行き、棚を見たらファイルがあった。たぶんこの中にあるはずだと思って、探したら許可証が出てきた。
許可証を見せると、警官はあっさり帰っていった。
マスターはほっとした。
別にやましいことがあるわけではないが、なんとなく緊張する。
9時過ぎに沢田さんが来た。
最近、「大登場お―」と言って変なポーズをすることをしなくなった。
打ち合わせ通り、エリコがついた。つくといっても、隣に座るわけではなく、カウンターで前に立つだけだが。
沢田さんは、いつものようにデンモクを見始めた。たぶん、履歴を見て誰が来たのか考えているのだろう。AKCの歌が続けて入っているページがなかったのだろうか。
「最近、十五町さん来た?」と尋ねた。
エリカは「こないだ来たけどAKCの歌はあまり歌わなかった」と答えた。
「珍しいねえ」
「たまに、そういう日もあるんだよ」
「でも、最近はそういう日が続いてない」
「そう言えばそんな気もする」
「ところで…」
さあ、このあたりで最近沢田さんが得意としているダジャレが出るか?マスターは耳をすました。が期待外れだった。
「…十五町さんは、歌自体は歌っている?」
「AKC以外の歌だったら歌ってる」
「そうかあ、歌自体は歌うか。でも十五町さんがAKCを歌わないっていうのは、なんだか元気がないような感じがするなあ」
「そうねえ。そう言えば、こないだ、8年間応援していた松牛綾子が卒業するって、嘆いていた」
「そうかあ。すごい応援していたからなあ。それはショックだろう」
「そうかもね」
その時、ドアが開き十五町さんが入ってきた。
女の子たちは「いらっしゃいませ」と唱和する。十五町さんもカウンターの席に座った。
座っても何も言わずなにやら暗い雰囲気だ。
ルカが前に立ち、酒をつくったり、乾きものを出したりした。
十五町さんは、乾きものをもくもくと食べている。
「十五町さん。こないだ友だちから聞いた話なんだけど…」ルカが話し始めた。
「どんな話。」
「…犬に酒を飲ませるとどうなるか知ってる」
「人間と同じように酔っぱらうのかな?」
「正解。それで、よく酒を飲んで酔っぱらう犬はどんな種類の犬が多いでしょうか?」
「えー、なんだろう。真面目な問題?」
「まあ、真面目というより頓智ものかなあ」
「うーん。わからないなあ」
「酔う犬だからヨウケン。西洋の犬の洋犬ですわよ」
「あー、そうか。おやじみたいなダジャレだけど面白いねえ」
こんな調子で会話が進み、十五町さんは帰り際に言った。
「ルカちゃんありがとう。ぼくが松牛綾子の引退にショックを受けているところを、いろいろなくだらないけど面白いおやじふうのダジャレを言ってくれたんだね。本当はあんなバカバカしい話をしたくないのに、僕のために一生懸命無理して言ってくれたんだね。本当にありがとう。少し元気が出てきた」
一方、沢田さんもルカに刺激を受けて、話し始めた。
「向こうでルカがいろいろ犬の話をしているけど、実は私も猫の話だったら知ってる」
「エコ?」
「エコじゃなくて猫。今わざと間違えなかった?」
「そんなことないわよ。ただの聞き間違え」
「そうかなー。まあいいや。猫が驚いた時、なんて言って驚くか知ってる?」
「知らない。ヒントは?」
「英語で猫のことなんて言う?」
「キャット」
「そう正解。猫が驚く時はキャッと言って驚くんだ」
突然エリコがはじけた。
「ウワハハハ。ウワハハハ。キャッと驚く。キャッと驚く。おなかが痛い―。ウワハハハ。ウヒヒヒヒ。ウキョキョキョキョ。ウシシシシ。イシシシシ。なんでキャッ驚くのか。なんでキャッ驚くのかァ―。そうか英語でキャットだからなのか。ウシシシシ。ぐるじい。ぐるじい。笑い死にする。うひゃひゃひゃひゃ」
つられて、沢田さんも愉快そうに笑いだした。
(うーん、これは大成功だ)
沢田さんたちと十五町さんたちのやりとりを聞いていたマスターは、にやけていた。
(それぞれの女の子の強みを生かすことができた。意外にもスナックでドラッガーの教えを生かすことができた)
マスターは、店の中がうまくいっているので、上着を着て、ズボンのポッケに財布があるのを確認し、店を後にした。
次の週の金曜日。マスターは、例によってスポーツクラブで運動をした後、いつものKという喫茶店に入った。
例によって大きな丸いテーブルの席に座り、460円のブレンドコーヒーを注文した。460円は、この地域の喫茶店ではやや高め値段設定かもしれない。喫茶店やファミリーレストランなどでもう少し安い別の店もあるのだが、なんとなくこの店に来る。
別にそのくらいのことを倹約する必要もないし、新聞が置いてありかかっている音楽が洋楽の好きな曲の場合が多いので、この店に足が向かうのである。
席につくと今日も、『プロフェッショナルの条件』をテーブルの上に出した。
どこを読もうか考えるために目次を見ると「人の強みを生かす」という章が目についたので、この章を読むことにした。
最近は、「強み」ということについて考えることが多い。
この章の最初の項目は「強み重視の人事」。そこから読み始めた。
成果をあげるためには、人の強みを生かさなければならない。弱みを気にしすぎてはならない。
一行目にこう書いてある。確かのその通りだと思う。
こないだやった、ルカが十五町さんにつき、エリコが沢田さんいつくというやり方は、強みを生かしたやり方の一つではないだろうか。
少し読んでいくと、こういう文言もあった。
成果を上げるためには、強みを中心に据えて異動を行い、昇進させなければならない。
まあ、うちの店は本当に小さくて、組織とは言えないような人間集団なので、異動とか昇進と言っても、「どの女の子に何曜日に来てもらうか」「週何回来てもらうか」「どのお客さんについてもらうか」「カウンターの中にいるかボックス席につくか」くらいしかない。
が、もちろんそれこそが大切であることは確かだ。
この項目は、手を変え品を変えて「強みを生かす」ということを強調して書いてあった。
次に「組織の利点」という項目があった。
「組織の利点」なのだから、強みを生かす組織のあり方が書いてあるのだろうか?
読んでみると、前半の部分で基本的な認識が書いてある。
…われわれはひとりでは、強みだけをもつわけにはいかない。強みとともに、弱みがついている。…
確かにそうだ。それではどうすればいいのだろうか?
…われわれは、そのような弱みを仕事や成果とは関係のない個人的な欠点にしてしまえるような組織をつくらなければならない。強みだけを意味のあるものとするような組織を構築しなければならない。
前に読んだ「強みは何か」という項目は、自分で自分をマネジメントするために必要なことが書いてあったけど、今回読んだところは、組織をどう運営するか、ということが書いてある。同じ強みに関する項目でも視点が違うのだけれど、強みを最重視している点ではぶれていない。
と思いながら、マスターは例によって手帳と0.4ミリのボールペンを取り出した。
(どれを書き写そうか?)
やはり、結論は大切である。
強みだけを意味のあるものとするような組織を構築しなければならない。
この部分を丁寧に書き写してから、会計をすませ、店を出た。
今日の女の子は、ルミ・リナ・エリコ
9時ごろには、お客さんは6人くらいになり、出足はまあまあだ。
すでに氷屋さんの集金は来た。まだおまわりさんは来ていないが、さすがに今日は来ないかもしれない。だいたいおまわりさんが来るのは、普通年に1~2回くらい。目をつけられなければたまにしか来ない。
10時過ぎに、山岡さんが入ってきた。山岡さんは、長身でメガネをかけ、カマキリのような顔をしている。40代くらいに見えるが還暦を過ぎているらしい。
どういうわけか沢田さんのことを嫌っていて、前に来たときも、沢田さんがいるのを発見すると、トイレに行くときに後ろを通るたびに頭をこづいていた。沢田さんは、別に平気な顔をしてにやけていたが、内心どう思っていたかわからない。
この店のカウンターはL字型になっていて、沢田さんは長い方の直線の奥の端に座っていた。
長い方の直線のもう片方の端がたまたま空いていたので、これ幸いと、リナは、山岡さんをそこに案内した。これならば、山岡さんは沢田さんの顔を見ないで済む。
(確かにリナは、ちょっとしたところでよく気が回るなあ)
マスターは、感心した。
山岡さんは上着を着たまま案内された席に座り、近くにエリコが立っていろいろ話をしていた。なかなか機嫌がよく、トイレの行き帰りに沢田さん頭をこづいたりしなかった。
沢田さんの顔が見えないところに座ってもらったのがよかったのだろう。
山岡さんは「最近は酒飲みがカッコ悪くなったよな。エリコちゃんも酒を飲んだ時にカッコよく振る舞える男と付き合わった方がいい」なんてなんとなく上から目線のトークをしていたが、エリコはおとなしくうなずいていた。
来てから1時間くらい経つと、山岡さんはだんだんとそわそわし始めた。上着のポケットに手をいれたり出したりしている。
(前にもあんなことがあったなあ。その時は何を始めたんだっけ)
マスターは思い出そうとした。
山岡さんは、ポケットに手をいれたり出したりする謎の動作を続けている。
(なんだっけなあ)
山岡さんはポケットの中にあるものをいじっている様子である。
(ああ、そうだった)
マスターが思い出したその時。山岡さんはポケットから携帯電話を取り出した。
(前もそうだったなあ)
山岡さんは携帯を右手に持ち、素知らぬ顔をして天井の方を見上げながらエリコのスカートの斜め下に携帯電話を差し出した。
マスターが「コラー、ヤマオカ―」と叫ぶと慌てて手をひっこめた。
その時の山岡さんは、謝るわけでもなければ苦笑いするわけでもなく、まったく平気な表情をしていて、何事もなかったかのようにポケットに携帯をしまった。
こういう厚顔な人は、スナックに来るような酔っ払いにしては意外と珍しいかもしれない。とマスターは思った。
その日、店は2時に終わり、例によって反省会を開いた。場所はいつものようにシルバー酒場で、参加したのはマスターとエリコとリナ。リナは、次の日昼間のアルバイトがないので珍しく参加し、ルカは疲れ気味なので帰った。
ビールで乾杯し、焼き鳥を食べながら話をした。
「今日は、山岡さんは機嫌がよかったけど、怪しからん行動もあったな―。カッコいい酒飲みっていうのは盗撮をする人なのかなあ。変だなあ」
マスターが言うと、エリコとリナはクスクスと笑った。
「ああいう場合にマスターがいなかったら、拙者はどうすればいいのでござろうか」
「キャー、痴漢―っ。て叫んでやったら」
「本当にそれでいいのでござるか」
「山岡さんだったら、そのくらいのことは平気だ。別になんとも思わないで、次また来る。でも、今日は沢田さんの頭をこづいたりしなかったな」
「カウンターで、沢田さんの顔が見えないところに座ってもらったんで、それがよかったのでしょうか」
「そうだ。リナのやり方でよかった。そういうところはよく気がつくな」
「うーん。カウンターの中にいると店の中がよく見えて面白い」
「面白いと思えるところも、一つの強みだ。リナはなるべくカウンターの中にいてもらおうか」
「拙者もそれがいいと思うのでござる」
エリコも同意した。
次の週の金曜日にも沢田さんが9時ごろに来た。結構機嫌がよくて、カラオケで歌を歌っていた。
この店では、カラオケを歌いたい時には1枚200円で5枚綴り千円のカラオケチケットを買い、1曲歌うごとに1枚消費するようになっている。カラオケチケットは、略してカラチケと言う場合が多い。前は、酔っ払いの男のイラストが一枚ずつ書いてあって、上から順にだんだんと顔が崩れていくデザインだったが、今はもう少しスマートなものになっている。
沢田さんは、洋楽や昔のポップスを歌うこともあるが、その日は演歌を中心に歌っていた。
沢田さんがカウンターに座っていて、エリコが、カウンターの外に立ち、水割りを作ったりカラオケチケットを回収したりしていた。
ババババーン・リーリーラララー、ババババーン・リーリーララー、チャランランリーララーラー、という渋いテナー・サックスやギターなどの音が響く。これは「噂の男」という沢田さんの得意な曲のイントロである。
エリコがマイクを沢田さんに渡し、カラチケをとろうとした時、カウンターの中にいたリナが言った。
「あー、それさっきルカちゃんが曲を入れた時に一枚とっていたから大丈夫」
エリコは「すみません」と言って手をひっこめた。
(そういうところを、リナはよく見ている)
マスターは思った。やはり、カウンターの中にリナがいるといろいろとうまく回る。
「街のうーうーうーうー噂あああにいい―」と沢田さんが、うねりのあるひと昔前に人気があった後山清という歌手のモノマネみたいな歌いかたで唄い出すと、他のお客さんは「また始まったな」という感じで苦笑いをしていた。
その後、10時ごろ、山岡さんがドアのところに姿を現した。相変わらず長身でカマキリのような顔をしていて、少し顔色が悪い。店の中に2・3歩足を踏み入れた。が、沢田さんが、カウンターの入り口に近い方に座っていたので、山岡さんにもその姿が見えたらしい。
山岡さんは、黙ってUターンをして外に出ていき、戻ってこなかった。
(まあ、仕方ない)
それにしても、人の好き嫌いというのはどうしようもないものだなあ。こればかりはあきらめるしかないな。とマスターは、思った。
その後、河合さんが来た。
河合さんは、たぶん40代前半くらいの離婚経験者。ニューミュージックを歌うのが得意な、毎回一人で来るお客さん。声量があり歌がうまいが、トークがやや偏っていて毎回同じような話題を話す。今日も一人で来てカウンターの沢田さんから少し離れたところに座った。
基本的にカウンターに座るのは、一人で来る男性が圧倒的に多い。過去、中高年の女性の一人で来る人がいたが、あまり歓迎されず自然と来なくなった。それはそれで仕方がないのだと、マスターは思う。
その少し後、今度は初めてのお客さんが来た。20代後半くらいの若いイケメンの男性である。沢田さんの隣が開いているのでそこに座ってもらった。
沢田さんとイケメンさんがなんとなくいろいろと話を始めた。
イケメンさんは、ニューヨークに留学していたという話を始めた。
沢田さんは「ニューヨークで何を勉強したんですか?」と聞くとイケメンさんは「英語」と答えた。
その時、すかさず河合さんが「ニューヨークにフランス語を勉強しに行くわけがあるかあー」と突っ込みをいれた。
「まあ、でも、ニューヨークだったらジュリアード音楽学院でピアノや作曲を勉強するとか、ニューヨーク大学で国際法を勉強するとか、いろいろあるんじゃないですか?」
と沢田さんが冷静に言ったら、河合さんは何も言わずつまらなそうにそっぽを向いた。
どうも嫌な雰囲気になってきた。
しばらくすると河合さんは、いつもよく言う離婚や独身の話を始めた。
「中年になっても全然結婚したことがない人は変態だけど、1回結婚したけど離婚して別れて独身になった人は普通の人だよな」
と大きな声で言って沢田さんの方をジットリとした涙目で見つめた。
沢田さんは、本当はどうなのか知らないが、このスナックでは1回も結婚したことがなく独身だと言っている。本当にそうなのか、このスナックで沢田さんがよく話をする人は1回も結婚したことがない人が多いので、気を使ってそう言っているのかは、不明である。
沢田さんは、少しムッとした表情になったが、その瞬間、リナがデンモクを差し出して「何か歌いますか?」と言ってニッコリとほほ笑んだ。
沢田さんはスイッチが切り替わり「うーん、まあ、ぼくは1回も結婚したことがないから変態だ。うっちっち」と言ってにやけた。
そして、ポケットからメモ帳を取り出し、胸に刺さっていたボールペンを使って何か書き始めた。
河合さんが「何を書いてるんだ」というと「いやー、大したことじゃない。ぼく変態だって書いたんですよ」と言ってにやけた。
河合さんは不愉快そうだったが、それ以上なにも言わなかった。
次の日、マスターが7時半頃出勤すると誰も来ていなかったので、自分で鍵を開け電気をつけた。
(やっぱりリナがカウンターの中にいるとうまく行くなあ)
と思いながら、例のシフト表兼連絡ノートを開いた。
昨日の欄にはリナが書いたメモがある。
山岡さん、沢田さんの姿を見て帰る。対策は難しい。
河合さん、沢田さんに突っ込んだが、こちらでうまく話しかけたのでトラブルにならず。
(リナ)
まあ、そんなところだな。お客さん同士の人間関係をうまく調整するのはかなり難しい。一瞬のうちに展開が決まってしまう。確かに昨日のリナは、うまくやっていたなあ。
リナにカウンターの中にいてもらうのも、この店なりの強みを生かす人事だと言えるのだろう。
マスターは一人でうなずきながらノートを閉じた。
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