第9話(番外編) 振り飛車が嫌いな男 

                 一

 その日のスナック「おしゃれ猫」には女の子が一人もいなかった。

 もう8時10分くらいで、営業時間に入っているが、あいにくこの日はみんな都合が悪くマスターが1人で営業している。

 女の子で最初に来るのはたぶんルカで、9時半の予定。用事があるから遅れると言っていた。

 そこへ、沢田さんが例によって「大登場」と言いながら入ってきた。もっとも、最近はだいたいそうなのだが、あの手をぶらぶらさせる「カッコいいポーズ」はやらない。

 入ってくるとカウンターの端のほうに座った。

「あいにく、今日は女の子が誰も来ていないんだ」

 と言いつつマスターは、沢田さんのボトルを出し、水割りをつくる。

 その後、二人でなんとなくお客さんの噂話やらプロ野球の話やら時事的な話やらをしていたが、あまり話題もなくなってきて、マスターは言った。

「将棋でもやろうか?」

「いやー、マスター強そうだからなあ」

「でも沢田さんも強そうだ」

「まあ、一局だけやりましょうか」

「将棋盤はあったかな」

 マスターが店の隅っこに置いてある紙袋をごそごそ探してみると、ハロウィンで仮装するためのお面やらクリスマス用のサンタさんの帽子やらに混じって、ほこりだらけの将棋盤と駒があった。

 盤を水で濡らしたタオルでふいてからティッシュペーパーで水気をとり、カウンターに持って来た。

 駒箱をひっくり返して駒を盤の上にあけると、じゃらじゃらと音がした。

(いい音だな)

 沢田さんの口元がほころんだ。

 1局指してみると、沢田さんはマスターには全然歯が立たない。20分くらいすると大差でマスターが勝った。

「マスターは強いなあ。もう一局だけやりましょう」

 と言って指し始めたがまた大差で負けた。

「マスターはどうしてそんなに将棋が強いの?ぼくも、昔けっこう熱中してやったことがあるんだけど」

「そうだな。俺の場合は、学生時代将棋部に入っていたんだ」

「そうか。大学の将棋部にいた人は強いからな」

「将棋部にいたと言ってもいろいろな人がいるけどね。まあ俺の場合、将棋部にいた時に強くなったのは、それは確かにそうなんだけど、一時期すごい変なことがあって、その時に特に急激に強くなった」

「変なことって、どんなこと?」

「話したことなかったっけ」

「うん。たぶん聞いてないと思う」

 マスターは自分の学生時代の体験を語り出した。


                 二

「俺が大学の2回年の10月頃から、将棋部の部室にいくとたいていKという男がいるようになった。

 Kは中肉中背で黒縁のメガネを掛けた真面目そうな男。顔はどちらかと言えば細面で、少し神経質そうにも見えた。

 俺がKと指してみるとだいたい棋力は同じくらい。勝ったり負けたりだったので、Kは、俺の好敵手になった。

 将棋の戦型を大きく二つにわけると、居飛車と振り飛車がある。

 居飛車の方が自分から主導権をとって戦うことが多い本格的な戦型で、振り飛車の方が相手の出方を見ながらうまく相手に対応して戦うことが多い柔軟な戦型だ。と考えるのが一般的だ。

 Kは絶対に振り飛車は指さず、俺はどちらかと言えば振り飛車党だったので、俺とKが指すと、たいてい「Kが居飛車、俺が振り飛車」という戦型になった。

 俺が振り飛車を指すと必ずと言っていいほどKは、「また、振り飛車を指すのか。振り飛車なんか邪道だ。そんな不真面目な戦法は止めた方がいい」と言った。 

 そして、振り飛車が駄目な戦型であることを証明するためなのか、物凄い気合いで真剣に対局に臨んだ。

 一方俺は、振り飛車が居飛車よりも優秀な戦法だと思っていたわけではないのだが、居飛車も振り飛車もそれぞれ優秀な戦法で、どちらを選んだからと言って有利になるわけではないと考えていた。

 が、一方的に振り飛車が駄目な戦法だと考える見方には大反対だったので、Kの考え方を否定するために意地になって振り飛車ばかりを採用し、真剣に指した。

 11月12月と毎日のように部室で指し続け、1月は試験があったので少し控えていたが、2月以降春休み入ると、春休み中にもかかわらず毎日のように部室にやってきて二人で指し続けた。

 俺にとってKは本当に好敵手だった。俺が少しでもいい加減な手を指すとすかさずとがめられる。真剣に考えて自分なりにベストの手を指していても、常にこうこられると一番困るという手を指されたし、時には予想外のうまい手を指されるともあった。Kと対局すると、一手一手少しも油断できないだけに将棋に集中できる。

 ただし、なんとなく不思議な事はあった。俺が部室に行くとほとんど毎回Kはいたのだが、俺はKとは部室以外の場所で一度も会ったことがなかった。また、対局が終わると必ず、俺が先に部室を出た。

 少し変だと思ったこともあったが、たまたま二人の行動パターンがそうなっているのかなと思い、深く考えたことはなかった。

 それと、俺とKが指し始めると他の部員は怪訝な顔つきになり、なんとなく居づらそうにしていて、そのうちだんだんと部室を出ていくことが多かった。

 そうしたことはあったのだが、Kが部室にいることによって俺は飛躍的に将棋が強くなったし、もちろんKの方も強くなった。

 大学将棋の公式戦は個人戦と団体戦がある。

 個人戦は、個人個人が参加するトーナメント戦で優勝するのは一人。決勝に近づくと同じ大学同士で当たることもある。

 団体戦は、各大学7人が出場する総当たり戦。柔道などと違ってすべての試合が同時に行われるので7人戦だったら4勝以上したチームが勝つ。

 俺はその大学の将棋部では棋力が一番高く、団体戦では毎回大将と呼ばれる、普通はその大学で一番強いメンバーが座る一番端の席で指していた。普段自分の大学の部室では同じくらいの棋力の相手がいなかったので、Kが現れて毎日のように指せるようになりとても楽しかった。

 Kは前に言った通り、その前の年の秋頃から部室に顔を出すようになり、それ以前はあまり来ていなかったのでまだ団体戦も個人戦も出たことはなかった。

 4月の初めに俺は、将棋部のその時の部長に、Kは自分と同じくらい強いのだから団体戦に出すべきだと進言した。

 部長は困ったような顔をして、「でも、Kはあんまり公式戦には出たくないんじゃないか」

 と言った。

 俺は、Kから直接それについて聞いたことはなかったが、部長がそう言うのならそうなのかなと思い、それ以上その話はしなかった。

 

 それから約1週間後、俺が自宅にいた時、年配の女性の声で電話がかかってきた。

 半分泣いているような声でKの母親だと名乗り、「実はうちの子がね、昨夜交通事故にあって先ほど病院で息をひきとってしまいました。坂田君がうちの子と将棋部で一番仲が良かったと聞いていたので、真っ先に電話しました。どうかお葬式に出てもらえないでしょうか」

 坂田というのは俺の本名。俺は、無性に悲しくなりそして寂しくなった。

(どうしてこんなことが起こるんだ。あの男に限って、なんであの男に限って今死ななければならないんだ)

 生まれてから今までで、他人とあれだけ真剣に一つのことを共同で突き詰めたことはなかった。こんなことは、もしかしたらこれからもないかもしれない。どうして、そういう相手に限ってこういうことが起こるのだろうか?俺は、そういう運を持って生まれてきたのか?

 もちろんKは、あの若さでこの世をさらなければならなかったのだから俺よりももっと悲惨なのだが…。

 と、俺はその時思った。

 その時の気持ちは、小さい頃に母と一緒にどこかに出かけて、人ごみの中ではぐれて迷子になった時の気持ちに似ていたかもしれない。心に穴があいたような気持になり途方に暮れてしまった。

 俺は、Kと過ごした半年あまりでずいぶん将棋が強くなったと思う。

 やはりKが「振り飛車は邪道だ」という自分とは異なる信念を持っていたのがよかったのだろう。人間、考えの異なる者と対話を重ね切磋琢磨することが大切なのだというのは、知識としては知っていたが、実際に身を持って体験したのはこの時が初めてだった。その後も、これほどの体験はなかったような気がする。

 今、女の子たちと店のことについて話し合うことはあるが、立場が違うのでなかなか対等な立場で対話をすることは難しい。あまりに意見が異なると、こちらが興味をもってよく話し合おうとしても向こうが辞めていったりする。

 後で俺はドラッカーの著作『プロフェッショナルの条件』の中にこの時の体験の意義を説明しているフレーズを見つける。


 成果をあげるには、教科書のいうような意見の一致ではなく、意見の不一致を生み出さなければならない。


 俺は家で1週間くらい布団をかぶって寝ていたい気持ちだったけど、とりあえずお通夜には出席することにした。 

 喪服を持っていなかったので、銀行で5万円くらいお金をおろし紳士服の店で一番安い喪服を買い、下宿に戻って着替えてから通夜に出席した。


 お葬式の様子は異常に整然としていた。

 それは神のような力を持つ誰かによって支配されていたかのような不思議な光景だった。

 お坊さんの上げるお経は、声の調子が完全に一定で、まったくつかえたり間を置いたりすることがない。

 参加している者全員が真っ黒な喪服を着てじっと正座しているのは当然と言えば当然だが、小さな子どもがいてぐずったり泣き出したりすることもないし、正座しているのがつらくなって足腰をもぞもぞ動かす者もいない。涙を流す者いなければ眠そうな顔をしている者もいない。全員が同じように無表情に前方を見つめ、まったく同じタイミングで手を合わせたり頭を下げたりしている。

 普段から徹底的に訓練されている軍隊のような様子で、一糸乱れぬ行動とはこういうことを言うのだろうと思った。


 次の日の朝、自分のアパートで目をさました。

 起きてみると、シャツとパンツだけで寝ていたことに気がつく。

 時間は8時を回ったあたりで、今から急いで家を出れば大学の2限の授業に間に合うと思い、急いで洋服を着てから鞄の中のものを確認した。

 ふと、昨日買った喪服をどこに置いたかな、と思って探したがどこにもなかった。

 まあ、それなりに高いものなので無意識のうちにどこかに大事にしまい込んだのかな。と思い、授業に遅れると困るので今は探さないことにしてアパートを出た。

 2限の授業が終わり昼休みになると、昨日銀行からいくらおろしたか調べるために、銀行に行って通帳をATMで記帳した。その頃は、印鑑はさすがに家に置いてあったが、通帳は持ち歩いてできるだけまめに記帳した。無駄遣いをしたらすぐにわかるようにとそうしていた。

 記帳してみると昨日お金はおろしていない。そうすると、あの喪服はどうやって買ったのだろうか。不思議だ。アパートには1万円以上のお金は置かないことにしていたし、お金がなかったら買えない。

 朝喪服がなかったことから考えるともしかしたら最初から買っていないのか?でもそうするとお葬式の時は確かちゃんと喪服を着ていたように思うので、それも変だ。

 不思議に思ったが、そればかり考えていてもしょうがないので銀行を出て学校に戻り、部室の顔を出した。

 確かにいつもKがいるべき場所にKはいない。

(ああ、やはりKはこの世にはもういないんだな)

 改めて寂しさが込み上げてきた。

「昨日はKのお葬式に出たんだけど、異常に静かで整然としたお葬式だった」

 部室に来ていた部長に言うと、部長は怪訝な顔をした。

「昨日の飲み会で坂田は、つぶれてしまったんで俺が送っていったんだけど、覚えてないかな」

「えー、俺は昨日の夜はKのお葬式にいったんだけど」

「そもそもKって誰だ」

「いつもここで一緒に指してるやつだよ。こないだ部長に、団体戦に出したらいいんじゃないかって言ったでしょう」

「ああ、あの時は坂田の様子が変で、面倒だから適当に調子を合わせていたけど、そんな奴はいない。坂田はこの半年くらい、いつも目に見えない相手に話しかけながら一人で居飛車対振り飛車の戦型を研究していた。鬼気迫る様子なんで、坂田がいるとみんな部室に居づらくなって外に行ってしまうことなどもままあった」

(そうだったのか)

 俺は、初めて客観的事実を知ることができた。

 Kなんていう人間は初めからいなかったのだ。

 俺は再び言い知れようのない寂しさを感じた。

 どうりで銀行のお金が減っていなかったし、喪服が家になかったわけだ。

 あの葬式は俺の心の中だけで起きたことだったのである。だからあんな現実離れした整然とした葬式だったのだ。

 俺は『星の王子さま』という童話を思い出した。

 そして、自分にとって必要な人間を心の中に作り出してしまうのは、飛行機乗りのようなロマンあふれる仕事をしている人間でなくてもあることなのだな、と思った。 

 でも、あの童話の主人公の体験はせいぜい1日か2日くらいだけど、俺の場合は約半年にわたるのだから、俺の方がよっぽど重症だ。もっともそのおかげで将棋は強くなったのだが。

「今日の坂田は、約半年ぶりに普通の顔つきに戻った。俺は、坂田に時期部長になってもらいたかったんで、よかったと思う」

 確かに、現実に存在しない人間とつき合っているような人が次の部長では困るだろう。部長の言っていることは正しい。

 その後学生将棋の公式戦で指してみると確かに相当強くなっていた。

 春の個人戦では学生名人戦予選の関東大会で優勝し、全国大会でも優勝。また、団体戦でも大将で出て7連勝だった。

 でも、俺は客観的事実を知ってしまったせいでKが自分の心の中からいなくなったことが無性に寂しかった」


                      三

 沢田さんは、マスターの話を時折うなずきながら聞いていた。

 話が終わると少し黙っていたが、ぽつりとつぶやいた。

「ぼくも若い時にそういう体験をしてみたかったな」

「まあ、今になってみるといい経験だけど、周りも気をつかったみたいだし、俺もそういう状態から抜ける時にかなり寂しい思いをした。あんまり人に勧められるようなことじゃない。もっとも最初から意識してやるのはいいと思う」

「そうかもしれない。でも最初から意識してやっていたら、深い体験にはならないんじゃないかな」

「まあ、それもそうだけど、実用的ではある。こないだアヤメが仕事を覚えられない時にエア後輩を作るように言ったし、息子の大学受験の時にもエア友だちを作ってその人に説明しながら勉強するように言った。その時は、どうして自分がそんなことを言い出すのか不思議だった。もちろんドラッガーの本に『他人に教える時に最も自分が学ぶ』みたいなことが書いてあったのだけけど、そのルーツは大学時代のあの体験なんだな。と最近気がついた。そんなふうに自分の考えることを精神史ふうにたどったりするとは、俺も年をとったんだな。と思う。いいことなんだか悪いことなんだかよくわからない」

「でもそういうことを考えるというのは、余裕があるっていうことじゃないですか?」

「そうかな」

 沢田さんは、いい話を聞いたと思ったものの、「どういうふうにいいと思ったか」を言うことはできなかった。

 マスターが口を開いた。

「将棋はいい。言葉による議論だと、話が平行線をたどったり、ここから先は実証的なデータがないからわかりませんね。ということで終わったりするけど、将棋は、一局一局勝ち負けがあって区切りがつくのがいい」

「それは確かにそうだ」

 マスターも沢田さんもしばらく黙ったまま将棋盤と駒を見つめていた。

 思いついたようにマスターが駒を2・3個ずつとって丁寧に駒箱に入れ始めたので、沢田さんも同じことを始めた。

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もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら tsutsumi @tsutsumiryoujirou

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