第6話 優先すべきは価値観である(その2)
マスターが商店街を歩いていると、道のところどころに設置されているスピーカーからクリスマスソングが流れてきた。
(今日はクリスマスイブだ)
去年のクリスマスイブは確かお客さんが多かった。うちに来るお客さんは、彼女がいないのため女の子とクリスマスを祝えない非リア充が多いのだろう。
今年もやはりそうなるのだろうか?店にとっては、儲かるのでいいことなのだが…。
そんなことを考えながら、いつもの喫茶店に入り、例によって『プロフェッショナルの条件』を取り出した。
今日はとある大学生が進路相談に来るはず。
(そう言えば前回会った時も、ここで会った。あれはもう4年半くらい前だなあ)
マスターおよそ4年前のことを思い出した。
1月2日だった。
マスターの店の仕事始めの日である。正月開けておくとわりあいお客さんが来る。
田舎に帰らなかった、独身の常連があまりやることもなく、暇なのでなんとなく来る、というパターンが多い。それと、「他の店が休みで、やっているのがここくらいしかなかったので来た」という初めてのお客さんも毎年のように何人かいる。
その日は、この喫茶店は正月で休みだったので、ファミリーレストランに入った。
スポーツクラブが休みだったので、いつもより早めに1時ごろに入った。
(あいつが来るのは、5時だから、まだけっこう時間がある)
その日もドラッガーの『プロフェッショナルの条件』を開き、まず「Part3 2章 自らの強みを知る」の「仕事の仕方に着目する」という項目を読んだ。
仕事の仕方について初めに知っておくべきことは、自分が読む人間か、それとも聞く人間かということである。
受験勉強でこういう視点を意図的に取り入れて指導している高校は少ないかもしれない。マスター自身の受験の頃も、聞いたことがなかった。が、これはこれでけっこう大事そうだ。予備校で授業を聞くか、予備校にはいかないでそのぶん受験参考書等を使って自習する時間を増やすか、という選択にかかわるところである。
「Part3 3章 時間を管理する」の章では、まず「時間の使い方を記録する」という項目を読んだ。
重要なことは記録することである。記憶によってあとで記録するのではなく、ほぼリアルタイムに記録していくことである。
次に「汝の時間を知れ」という項目を読んだ。
時間は希少な資源である。時間を管理できなければ何も管理できない。そのうえ、時間の分析は、自らの仕事を分析し、その仕事の中で何が本当に重要かを考えるうえでも、体系的かつ容易な方法である。
(受験生にとって一番大切なのはここじゃないかな)
マスターはこの部分にマーカーを引いた。そして、「時間は希少な資源である」という言葉を手帳に書き写した。
裕樹が、そのファミリーレストランに来たのは、マスターが本を閉じて新聞を読み始めしばらくしてからだった。
「やー、すごい久しぶりだなあ」
「はい」
裕樹はマスターの息子で、別れた妻のところにいる。
「お母さんは元気かな?」
「元気です」
「今日俺に会いに来ることは、お母さん知ってる?」
「言ってから来ました。勉強のことはパパに聞くといいんじゃないか?っていう感じだった」
「うーん、そうか。お母さんは、相変わらずM病院の外科の外来受付のところにいるのかな?」
「なんにも言わないけど、異動したら言うはずなのでたぶんそうだと思う」
「うーん。それでどんなことを聞きたいんだ」
「ぼくの場合、学校の試験はよくできて、意外にも今までずっと学年トップクラスなんだけど、2年の後半になって模擬試験を受けるようになると、模試の成績があんまりよくないんですよ」
裕樹の通っている高校は、私立K高校という都内でも有数の進学校なので、校内でトップクラスの成績なら本格的に受験勉強に入り模試を受けてもいい成績がとれそうな気もする。
「そうか。じゃあ、まず学校の勉強はどういうふうにして勉強しているか教えてくれる」
「まあ、別に普通に勉強しているだけだけど。家で一人で勉強することもあるけど、わりあい、ファミリーレストランに行って友だちと教え合いながら勉強することが多いかなあ。友だちに教えるとわりあいよくできるようになる感じがする」
「受験勉強は?」
「受験勉強になると、みんな志望校も違うし、勉強するペースとか使っている参考書や予備校のテキストも違うから、一人で勉強するしかない」
マスターは、「…知っておくべきことは、自分が読む人間か、それとも聞く人間かということである」というドラッガーの言葉を思い出した。
「うーん、それで予備校には行ってる?」
「人の話を聞くよりも、参考書や問題集の答えを読んだ方が勉強しやすいので、予備校には行っていません」
「それはいい判断かもしれない。それと、友だちと一緒に勉強しにくくなった、という話だけど、どうすればいいか、考えてる?」
「あまりいい対策はないような気がします」
マスターはドラッガーの言葉をもう一つ思い出した。
…学生に教えるのは自分がする話を自分の耳で聞きたいからだ、そうすることによって初めて書けるようになる…
確か大学教授の例だと思ったが、大学受験生にもあてはまりそうだ。
「まあ、無理に友だちを巻き込むことができないんでそこは難しいところだろうな。空想上のエア友だちみたいなものがいると仮定して、それに対して説明する場面をつくるようにして勉強してみたらどう。要するに、自分がしゃべったことを自分の耳で聞くことが大切なんだろう」
このやりとりを思い出して、マスターは気がついた。
アヤメにエア後輩という話をしたが、約4年前のあの時も似たようなことを言っていたんだ。
あの時はまたなんで、そんなことを考えついたのだろうか?謎だけど、エアギターコンテストというのはかなり前からやっているらしいので、あの時もエアギターコンテストのことをテレビ等で知っていたのかもしれない。
「効果があるかどうかわからないけど、やってみるよ」
「それと、今日は何をやったとか。何ができるようになった、とかいうことは、何かに記録してる?」
「問題集でできなかった問題に○をつけるくらいですね」
「そうすると、前の日のことくらいは思い出すかもしれないけど、一昨日くらいから前にどんなことをやってどの程度できたかということは、あんまりわからないか?」
「そうかもしれない」
「勉強は、まあ、ちゃんと勉強しさえすればもちろんそれなりに成果はあがるけど、やみくもにやるよりは時間や情報をちゃんと管理した方が、成果が上がりやすくなる場合が多い。例えば、問題を解くときはどんな紙にやってる?」
「わら半紙を束で買ったやつを机に置いておいて、それを1枚ずつとってやっている」
「使い終わった紙はどうしてる?」
「1か月くらいとっておいて、その後捨てています」
「それは、どうしてそういうふうにしているんだ?」
「科目別にノートを作ったりするよりは、『あの科目のノートは?』なんてノートを探さないですむし、でかい真っ白い紙がなんとなく好きだからでしょうか?」
「それはそれで、それなり合理的なのかもしれないけど、例えば100枚くらいのぶ厚いノートを買ってそれに全教科やるようにすると、今までどういうふうに勉強したか、それまでの流れがわかりやすい。そういうやり方はどうかな?」
「うーん、やってみないとわからないような気がしますが」
「まあ、これは人によってやり方があるけど、俺が昔家庭教師をしていた子どもは、それでうまくいっていた。家庭教師派遣業者の人から聞いてやり方で、業者の人は『ノート一冊主義』なんて言っていた。普通に前から順番に使うんだけど、勉強する前に日にちを書いて、前の日にやったことを見てから、今日やるべきことの予定を決めて、それを日にちの下あたりに書き出す。暗記物を書きなぐって覚えるのも、数学の計算も、とにかく勉強に関して書くことはすべてそれに書く。勉強が終わったら、できたことはチェックマークをつけ、できなかったことは四角で囲む。そうすると、次の日勉強に入る時、今までの流れを踏まえてその日何をすべきかわかりやすくなる。それと、できるだけ何時から何時まで勉強した、とか、どれにどのくらい時間がかかったとか、おおざっぱでいいから書いておく」
「うーん、そういう方法もありますね。やってみようかな」
「わりあい、時間について記録するのがコツだと思う。時間の管理も、情報の管理も1冊のノートでできる。まあ、情報管理の方は問題集に印をつけたりするのと合わせ技というところなのかな。やってみて合わなかったらまた前のやり方に戻ればいい」
「うーん。そうかなあ」
「おれが若い頃読んだ本に、記録をとらないで物事を進めるのは、ほうきを持って自分の足跡を消しながら砂漠を後ろ向きに歩くようなものだ。という言葉があった。記録する習慣っていうのは、けっこう大事だと思う」
「面白いたとえ話ですね」
裕樹のその時の口調は、「わりあいよさそうなので試してみよう」という感じだった。
今回は、進路相談に来る。
『プロフェッショナルの条件』の内容で、進路決定に関係ありそうなところはどこか考えると、やはり、再三再四繰り返し読んでいる「Part2 2章 自らの強みを知る」になるだろう。この章は、この本の中でも1・2を争う実用性の高いところだとマスターは思う。
読み始めると、特に後半の部分に役に立ちそうな文言があった。
仕事の仕方として、人と組んだほうがよいか、ひとりのほうがよいかも知らなければならない。
これは職業選択を考える上で一つのポイントとなりそうなところだ。
自らをマネジメントするためには、強みや仕事の仕方とともに、自らの価値観を知っておかなければならない。
つまりところ、優先すべきは価値観である。
ここが、一番のポイントなるだろうか?
先日、十五町さんについて考えた時にも、この言葉がポイントになった。考えることは似ているが、ただし、あの時は、すでに決まった進路を歩んでいて、たぶん価値観も定まっている人がどんな人なのか考えるだけだった。今回は、進路について考えている最中の若者と話をするのだから、気楽ではない。
最高のキャリアは、あらかじめ計画して手にできるものではない。自らの強み、仕事の仕方、価値観を知り、機会をつかむよう用意した者だけが手にできる。
「強み」「仕事の仕方」「価値観」が進路決定を考える上での3大要素で「強み」が最優先。言っていることはとても明快である。
今日の相談もこの枠組みで考えていけば、なんとか整理できるかもしれない。十五町さんについて考えた時と枠組みは同じだが、もちろん人によって枠組みの中身は違う。
マスターは手帳と0.4ミリのボールペンを取り出して、文言を書き写すことにした。
つまりところ、優先すべきは価値観である。
これにした。「つまるところ」と書いてあるのだから、ここが一番ドラッガーの言いたいことなのだろう。とてもわかりやすい書き方だ。
(価値観優先ということだと、答えはもう決まっているような気もするが…)
でも、よく話し込んでいけばいろいろな考え方が出てくるかもしれない。
マスターは、本を閉じてあくびをした。それから、カップに半分くらい残っていたアメリカンコーヒーを飲みほして店を出た。
「マスターにお客様でござるよ。もしかして息子さんでござるか?」
8時半頃、店のドアの外に立っていた、エリコが中に入って来て言った。
「ああ、来たか」
マスターは外に出て行った。マスターに似て精悍な顔つき、マスターよりも10センチくらい背が高い若者がいた。
「久しぶりだなあ。少し背がのびたかな?」
「高3の時、3センチくらいだけど確かに伸びた」
「いつ以来かな」
「前に大学受験のことを相談しに来て以来だと思う」
二人でファミリーレストランに入って座り、マスターは言った。
「今日俺に会いに来ることは、お母さん知ってる?」
「4年くらい前に来た時もそれを聞かれました…」
「そうかもしれないなあ」
「一応言ってから来ました」
「それでお母さんはなんか言ってた?」
「特に言ってなかったけど、少し不機嫌だったような気がします」
「そうか…。まあ、進路を決める大切な時期だから俺から変なことを言われないか警戒しているのかな?」
「そんな雰囲気もありました」
「お母さんは、まだ相変わらずM病院の外科の外来受付のところにいるのかな?」
「それも約4年前に聞かれました」
「そうか…」
「今は、検査室で血液を採る係になったそうです」
「そうか…。1日中注射針で血液を採っているのかな?」
「たぶんそうだと思います」
「なんか飽きそうな仕事だなあ」
「でも、外科外来よりは、患者さんから文句を言われたりすることが少なくなって、働きやすくなったと言っています」
「それはそうかもしれない。元気なんだろう?」
「元気です」
「それはそうと、受験勉強は、あの時言ったやり方ではやってみた?」
「ノートの使い方とエア友だちですか?」
「うん」
「ノートは、あれから100枚あるノートを買ってそれを使うようになり、確かに学習状況が管理しやすくなりました。エア友だちの方は、いたりいなかったりだったけど、難しい問題とか覚えにくいことが出てくると現れるようになりました。確かにエア友だちに話しながら勉強すると頭の中が整理できました」
「そうか。じゃあ、俺のいったことも多少は役に立ったんだな」
「そうですね。確かに、1冊のノートになんでも書くようにしたら、今の自分がどんな状況にあるのかわかりやすくなりました。計算違いでつまずいたところとか、なかなか覚えられなくて何回も書きなぐった様子とか、自分のやったことを生々しく振り返ることができたので、よかったと思います」
「それはよかった」
「あと、4年前にお父さんが言っていた砂漠をほうきで掃きながら後ろ向きに歩くたとえ話だけど、あれは『不安でたまらない人たちへ』という医学の本に出てましたよ」
「裕樹も将棋だけじゃなくて医学にも興味があってそういう本を読むのか?」
「相変わらずお父さんは口が悪いですね。でも、確かに大学生が自分で興味を持って読む本にしてはかなり渋い本だと思います。授業の夏休みの宿題で、読んでレポートを書かされたんです。お父さんも読んだんじゃないですか?」
「あー、そう言えばそうだ。医学概論の鬼龍院先生か?」
「そう」
「じゃあ、鬼龍院先生は4半世紀にわたって毎年夏休みに同じの宿題を出しているのかな?」
「ずっとかどうかはわからないけど、少なくともお父さんの時と自分の時はそうですよね」
「俺が授業を受けた時は、まだ30歳前半くらいだったけど、なんとも言えない不思議な天然記念人物のような人だったなあ。医学部の先生じゃなくて文学部哲学科の先生みたいだった」
「今は50代のようですが、やはり天然記念人物みたいな感じですよ。だいたい外見からして趣があり、フランシスコ・ザビエルみたいに髭をはやし後頭部が禿げています」
「うーん、それは時代の流れを感じるなあ。俺の学生時代はまだ禿げていなかった。それで相談というのは、進路のことか?」
「そうなんです」
マスターと裕樹はコーヒーを少し飲んだ。
「でも、だいたい、自分でもう答えはでているんじゃかいか?」
「そうかもしれません」
「やっぱり将棋指しになりたいのか?」
「そうですねえ」
裕樹に将棋を教えたのは、マスターで、4歳から6歳位の頃に教えた。その頃のマスターは、キャバクラ2軒とウェブ制作会社を経営していたが、わりあい仕事を任せられる社員がいて、家にいる時間があった。確かに将棋は頭の訓練にいいのだが、それで生活しているプロが存在しない算数パズルかなにかの方が、こうした進路の悩みはなかったかもしれない。でも、マスター自身将棋が好きなので、やはり好きなことを教えた方がうまくいくという面はありそうだ。
裕樹は、マスターに教わった後、インターネットや町の将棋クラブで指したりして腕を磨き、小学生将棋名人戦や中学選手権・高校選手権でも優勝した。勉強でもK大医学部に現役で合格。大学生になってからも学生名人戦や一般のアマチュアの大会でも優勝することで、プロ棋士と対戦する機会を得て、プロとの勝率も7割を超えている。
「まあ、今からでもプロ棋士になろうと思えばなれるかもしれないけど、なんでもっと早くプロをめざそうと思わなかったんだ」
「うーん。母がいい顔をしないというのもあって決断するのがのびのびになっていたような気がします。それと、頭が悪くて勉強ができないから将棋の道に進むと思われるのがしゃくだ。というのもあったかもしれません」
「そうか。まあ、年をとってから決断するのもそれはそれで意味があるのかな」
「お父さんは、なんで医学部に入ったのに、水商売を始めたんですか?」
「うーん。俺の場合は、もともと医者になろうという考えがあったわけじゃなくて、大学受験では、とりあえず入るのが難しいところに挑戦してやろう。という感じだったな。大学生になって、いろいろアルバイトをしたりいろんな人に会う中で、やっぱり自分で商売をしたい。という気持ちになったんだ。鬼龍院先生の授業の影響もある。あの先生の話をを聞いていたら、医者ももちろんとても立派な仕事だけど、もっと自分を見つめて、自分のやりたいことをやろう、という気持ちになった」
「ぼくも鬼龍院先生の授業を聞いて、将棋指しになろうと考えた面もあります」
「ああいう先生が大学1年の医学概論の授業を長年持っているというのも、面白いなあ」
「ちょっと変ですね。わりとあの先生の授業を聞いて、医者になるのを辞めた人がいるという話を聞きます」
「ふーん。俺の時もそうだった。最近は医者にならないでどんな仕事に就く人がいるのかな?」
「聞いた話だと、親がやっている会社を継ぐとか、予備校の数学の先生になるとか、地方議員に立候補する、といった人がいるそうです」
「そうか。でも、まあ、ああいう人が1年の医学概論を教えているというのも、悪いことじゃない。『なんとなくお金が儲かりそうだから医者になる』という安易な考えの人を減らす役割をしていると思うよ。それで、お母さんはなんて言っている」
「将棋は趣味にしてお医者さんになれば、将棋の強いお医者さんということで尊敬されるんじゃないか?というようなことです」
「まあ、普通のおばさんが言いそうなことだなあ。他に何か言っていた?」
「基礎医学の方に進んで大学教授になる。医者になるんじゃなくて研究者・教育者になる方法もある。といっていた」
「それは、なかなかいい意見じゃないかな。よく見てると思う。裕樹は、人と対話するよりは、大学の授業みたいな演説スタイルで話す方が得意じゃないかな?それと、目の前の患者を治すより、自分で決めたテーマがあって、それを研究していく方が向いてそうだ」
「そうですか?うーん、そうかもしれない。でも、将棋のプロ棋士になって、一局一局勝負という形で結果が出る方が好きなのですが…」
「そうか…。役に立つかどうかわからないけど、ドラッカーさんの言っていることを手掛かりに考えてみようか?」
「ドラッカーって、前にも言っていた学者ですか?」
「うん。経営学者なんだけどね。ドラッカーは、こうしたことを考える時に強み・仕事の仕方・価値観の3つを考えることを薦めている」
「強みというのは、才能とか適正みたいなことですか?」
「そうだね」
「仕事の仕方というのはまあ、仕事のやり方とか進め方のことだと思うんですが…」
「そう。例えば、人と組んだ方がうまく仕事ができるか、一人でやった方がいいか、とか、安定した状況と緊張や不安のある状況とどちらが力を発揮できるか。とかそういったことだ」
「価値観というのは、自分の好みとか、こだわりとか、やりたいこととか、そういうことですか?」
「そうだね。それで、その3つを軸に考えてもらいたいんだけど…」
「強みという点では、将棋も医学も同じくらいでしょうか?将棋の方が全国優勝したりしているのでやや上かもしれませんが。医学の方も、でも、K大医学部で普通くらいの成績はとっているので、医者になること自体はできそうです。それで、世の中にどの程度貢献できるかわかりませんが。仕事の仕方ですけど、これはまだ、ちょっとわからない。医者の仕事は、開業医だったら基本的に一人ですが、大病院の外科だったらチームで動かなければならない。それに、さっき言ったような基礎医学の方に進んで研究者になるとまた、かなり様子が違う。将棋の方は研究会もあるけど、基本的には一人でできるけど一人でやらないといけない。将棋の方が選択肢が狭いかもしれません。ぼくはどちらかと言えばチームではなく一人でやることに向いているような気がします。サッカーとかラグビーみたいに本格的にチームを組んで何かをやった経験がなく、チームで動くことには自信がありません。価値観になると、やはり、将棋の世界の方が勝ち負けがはっきりしているし、基本的に自分の頭で考えることで勝負できるので、将棋の方が合ってると思います」
「うーん。ドラッカーも言っているけど、価値観を優先させるしかないと思う。やっぱり最初から答えは決まっていたんだな。」
「そうかもしれません。結局、自分でも答えが決まっているのに、人から背中を押してもらいたいのかもしれない。なので、あまりいい相談の仕方ではないかもしれません」
「いやー、でも、世の中の相談事というのはそれが普通だよ」
予想通りの展開になったと思い苦笑いしながら、マスターはコーヒーを飲んでから腕時計を見た。
10時になっている。店の様子も少し気になるので、店に戻ることにして、裕樹とは、店の外で別れた。
店では、予想通り、常連たちがけっこう来ている。
エリコは、マスターが帰ってきたのを見つけて聞いた。
「さっきの若者は、マスターの息子なのでござるか」
「そう」
「なかなかイケメンでござった。今何をしている人なのでござるか」
「医学部の大学生」
「それは素敵なのでござる。拙者に紹介してもらいたいのでござる」
「イラン人の次は医学部の学生か。ずいぶんと違いがあるなあ」
「でも両方イケメンでござる」
「そうかなー。でも、医者にはならないで将棋指しになると言っているよ」
「将棋って、日本に昔からある、王と飛車とか角とかが盤の上を動くゲームのことでござるか?将棋で遊ぶのが職業になるのでござるか?」
「遊ぶでもいいけど普通将棋は『指す』と言うんだよ。まあ、収入を得る仕組みとしてはゴルフとかテニスのプロみたいなものかな。これはこれで。職業として成立しているんだ」
「初めて知ったでござる」
若い女の子から「素敵」なんて言われる仕事を捨てて。職業として成立していることも知られていない仕事に就こうとしているのだから、不思議な話だ。でも、それは本人の価値観なのだから、それでいいのだろう。
裕樹と十五町さんは似ているのかもしれない。二人とも自分なりの価値観を持っている。十五町さんの価値観が「自分は出世したくない」だとすると裕樹の場合は「俺は女の子にもてたくて生きているわけではない」といったところか?
マスターはそう思いながら、クリスマスイブなのに一人でスナックにやってくる男たちが楽しそうに飲んでいる様子をぼんやりと眺めていた。
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