第8話

「物が男性か女性か中性か。それで冠詞の形が変わるんです」

「どうして?」

魔術師ナーベは苛立って聞く。

「そもそも物に性別があるなんておかしいでしょ?生き物じゃあるまいし、家や家具に性別があるの?」

「王国語はそういうものなんです」

ホーマは辛抱強く言い聞かせる。場所はホーマの部屋であり、ナーベは椅子に座ってホーマから王国語の授業を受けていた。ギャリーが去った後、ホーマは一瞬記憶があいまいになった。おそらくは魅了の魔法を使われたのだろうと彼は推測している。自分が紙の内容を誰かに話していないか。そして、その情報を悪用するつもりがないか。この2つを確かめたのだろう。魅了とは隠し事がある場合には恐ろしい魔法だ。しかし、潔白を証明するには都合がいい。悪用する意志がなかったおかげか、ナーベも命まで取る気はないようで、ホーマが例の紙束を返した後、一つの提案をした。魔術師ナーベに王国語を教えることだった。給金も出すらしい。そう言う彼女の顔は引きつっており、どうみても自分から望んで提案しているわけではなさそうだったが、その裏に何があるのかを彼は考えないことにした。この仕事の依頼を拒否したらどうなるのか。それも考えないことにした。

「そもそもこの冠詞というのは何のためにあるの?必要ないでしょ?」

「チビらも同じことを聞いたことがありますけど、そういう決まりとしか言えません」

「どういう基準で物の性別が決まるの?見分け方は?」

ナーベはさらに聞く。

「見分け方はほとんどないですね。女性が使うものでも男性名詞だったりしますし、やっぱり覚えるしかありません」

ホーマは子供達に教えるよりずっと丁寧にナーベに教える。彼女の短気っぷりは4人の孤児達を遥かに凌駕するからだ。

「廃止しなさい」

ナーベは憤然として言った。

「それは国王に言ってもらわないと」

ホーマは苦笑して言った。この人なら本当にそうするかもしれないと彼は思う。ナーベの第一印象は冷酷な女だったが、しばらく話してみるとそう悪い人間ではないと彼は思う。いや、これっぽっちも温かみはないし、傲慢ここに極まれりという態度や物言いはある。他の人間を虫のようにしか思っていない。

(そういえば王族は平民を動物のように思っていて、裸を見られても気にしないって話があったな)

美姫という二つ名のとおり、本当にどこかの大国の姫君なのかもしれないと彼は思う。そうでないとここまで傲慢な性格の説明がつかない。

(いや、傲慢とはいえないかもしれないぞ)

ホーマのような貧乏人でも馬車を乗り降りする豪商の娘や貴族の令嬢を遠くから見ることはあった。確かに美しく輝いていたが、それは高価な宝石や衣装のおかげであって、ナーベのように質素なローブで身を包めばただの市民に紛れてしまうだろう。その身だけで光り輝き、最高位冒険者としての実力と実績もあるのなら傲慢は傲慢でなくなる。

「国王に言えばいいのね。わかった」

「ほ、本気で言うつもりですか?」

ホーマは焦った。自分のせいで王国に波乱が起きるかもしれない。

「ノミの作った決まりにどうして従う必要があるの?」

ここまで言えるならもはや褒めるしかないと彼は思った。

「いや……すごいですね。ナーベさんは」

「は?」

「国王をノミ呼ばわりするなんて俺にはできません」

「国王じゃなくてあなたたち全員のことよ」

住む世界が違うと彼は思い知る。ギャリーも自分も国王も変わりはない。圧倒的強者から見ればそうかもしれない。

(変わりはない?)

ホーマの中に疑問が生まれた。アダマンタイト級冒険者に比べれば大半の衛兵やゴロツキなど市民よりほんの少し強い程度のものだ。では、自分が彼らを恐れたり、ギャリーに金を払ってきたのはなぜだろう。

(そういえば本当にギャリー達が来なくなったな)

あれだけ脅されたら無理もないかと彼は思った。ギャリーと縁が切れたので子供達を守る別の手段が必要になる。誰に頼むべきかを彼は考えていた。

(頼む?どうして誰かに任せるんだ?)

「ナーベさん」

「は?」

「変なことを聞きますけど、俺が他の人に報酬を払って身を守ってもらうように頼むのはおかしいと思いますか?」

「当たり前でしょう」

ナーベは世界の基本法則のように言った。

「コメツキムシがひれ伏すべきなのは私達だけよ。それ以外にひれ伏してどうするの?」

ホーマは相手の言いたいことを考える。頼るなら真の強者に頼り、そこらの自称強者に頼るなということだろうか。

「ナーベさんにひれ伏したら助けてもらえます?」

「助けるわけないでしょ」

彼女は一度だけため息をつき、虫の屍骸を見るように、つまりいつもどおりの目でホーマを見た。

「あなた、自分がひれ伏すことや差し出す物に価値があると思ってるでしょう?なんの価値も意味もないのよ」

この言葉はホーマに衝撃をもたらした。強者の前に跪いて財産を差し出し、慈悲を願うしか弱者にできることはない。そう思っていた。だが、それは何の意味もないとナーベは言った。

がどれだけ機嫌を取ろうが、報酬を払おうが、価値も意味もないの。ゲジゲジが足にまとわりついてくるのと同じで不快だわ」

下級市民がすり寄る姿はそういう風に映るのかとホーマは思った。しかし、それを認めるしかなかった。自分達が払える報酬など僅かであるし、ひれ伏すだけならタダだ。それで強者にどんな保護を期待していたのだろう。本当の危機が訪れたときにギャリーが命がけで守ってくれると思ったのだろうか。

「ちょっと?これって何の話?」

ナーベがキレかかっている。まずいと彼は思った。

「あ、すみません」

ホーマは深々と頭を下げる。

「それで、冠詞とかいうもの以外は?他は同じなんでしょう?」

「いいえ、動詞の形も主語の種類によって変わります。多いと40通りくらいありますね」

「は?」

ナーベは自分の耳を疑ったらしい。

「大丈夫です。動詞は語幹さえ覚えればだいたいの意味は……」

ホーマは王国語の授業を進めながらも、これまで続けてきた自分の生き方を考え直し始めた。

王国語の授業は何度か続き、そして、終わりの時が来た。


「これが授業料?」

渡された謝礼を見てホーマは寒気がした。それほどの金額だった。

「俺は今から殺されるんですか?」

「殺すならお金を渡さないでしょう?」

ナメクジ程度の知能もないの、とナーベは付け加えた。

「言うまでもないけれど、口止め料でも手切れ金でもあるわ。誰にも今日のことを言わないこと。約束を破ったらどうなるかはわかる?」

「はい、わかります。ただ、手切れ金ってことはもう会うことはないってことですか?」

ホーマは残念そうに言った。

「会う理由がないでしょう?」

「そう……ですか?」

ホーマは美姫が住まう王城の壁に梯子をかけてみた。

「会いに来たら殺す」

「あ、はい。わかりました」

城の窓から火炎瓶が降ってきた。文字を教えている間にホーマの中で芽生えていた何かが消えてゆく。馬鹿げた夢だった。

「じゃあね」

「あ、待ってください」

ホーマは持っていた小冊子を渡した。

「これは?」

「王国語の文字一覧と文法の仕組みを書いてます。俺は学者じゃないからあちこち不完全だろうし、ナーベさんの国の文字がわからないから辞書にもなりませんが、良かったら使ってください」

ナーベは受け取った冊子を見た。表情は変わらない。再びホーマの目を見る。

「そう。ありがとう」

彼女はそう言うと転移の呪文を唱え、その姿は消えた。名残を惜しむ時間などなかった。剣の達人に斬られた相手がしばらくそれに気づかないように、ホーマは少し経ってから別れが終わったことに気づいた。周囲を静かな時間が流れる中、彼は手に持っている金を見る。

「これまで消えないよな?」

これで金も消えたら、自分が見たのは全て夢だったと信じるだろう。ジャラジャラと音を鳴らし、重さを確かめる。消えないらしい。これだけ金があれば数年は暮らしてゆける。

(いや、それじゃだめだ)

ホーマは思う。まずは戦い方を習おう。引退した冒険者の中には個人道場を開いている者がいる。金さえ払えば自分が留守の間だけ子供達を任せられる者もいる。戦い方を覚えたら子供達にも教えよう。4人の子供達の誰かに武術か魔術の才能があるかも確かめたほうがいいだろう。自分に武の才能が全くなければ商人組合に金を払って職人に弟子入りする道もあるが、それは確かめてから考えればいいことだ。武術剣術がいくらかものになりそうなら冒険者の道も考えよう。冒険者。その頂点に君臨し、さきほどまでそこにいた女性の顔を彼は思い浮かべる。

「ナーベさん、か」

呟きは部屋にかき消え、再び静寂が戻る。それを破るものがあった。子供達の喧騒だ。帰ってきたらしい。彼は世にも美しい夢を頭から消し去り、現実を歩き出した。

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ナーベラルの王国語学習帳 M.M.M @MHK

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