薄氷

相良あざみ

薄氷~うすらい

 薄氷うすらいを踏み割り沈む


  春の手に触れられぬ距離


   ただ思い知る




 雪はまだ溶けなくて、黒く汚れた塊が道路の端へ小さな山を作っている。

 ニュースではいつ桜が開花するかなんて流れているけれど、札幌こっちは二ヶ月近くも先の事だからまだ蕾は緑色だ。


 温かみを帯びる日射しを、未だ冷たい風がどこかへ押し流していく。


 クローゼットの奥に未練たらしく掛けたままのブレザーも、もう二度と袖を通す事がないのだと思うとそのままにしておいてしまおうと言う気になった。




「ハル、東京の大学だっけ。思い切ったね」


 橋の上から、川とその両脇の公園をぼんやりと眺める。

 気付いたとき無意識にそんな言葉を口にしていたのは、きっと、すぐそばにあるのせいだ。

 車通りの多い道路に挟まれた場所だし、いっそエンジン音に囲まれて届かなければ良いと思ったけれど、残念ながらしっかりと届いたらしい。

 ハルはどことなく拗ねたように、ぷすー、と尖らせた唇から空気を吐き出した。


「そう言うレイちゃんは京都でしょ、もっと思い切ってる」

「そうかな」

「そうだよ」


 ハルの下ろしたままの髪――柔らかそうな曲線を描いた焦げ茶色が風になびいて、その表情を一瞬だけ隠した。

 淋しさを湛えたそれが、もっと苦しげであればともう何度思っただろう。

 そしてその度に、それはただの独りよがりなのだと幾度となく実感させられていた。




 私がハルと出会ったのは、高校生になってすぐの頃だ。

 お互いにもっと中が良い友人なんて何人もいたはずなのに、それからの三年間、私達はいつだって一緒で。

 時に笑って、時に怒って、時に泣いて――そんな在り来たりな言葉で表せてしまうような、それでもキラキラした掛け替えのない時間を共有して来た。

 じゃれあいながら、私ら心友っしょ、なんて無邪気に笑っていた。

 それが変わったのはいつだっただろうと、そんな事は、考えるべくもない。




 ――ハルが、泣いたからだ。




 高一の終わり頃に付き合い始めた年上の男性が札幌から函館に転勤になって、そして、その遠さに堪えきれずに別れを告げられたから。

 切っ掛けは、ただそれだけだった。



 いつも無邪気なハルが、泣いた。


 私の胸に顔を埋めて、ぞっとするほど静かに泣いたのだ。



 骨が軋む音が聞こえそうなくらいに抱き締め、柔らかな髪を撫でて。

 ハルがその元彼をどれだけ大好きだったのかを彼女のすぐ側で見てきた私は嫌と言うほどに知っていたから、貰い泣きしそうになって。

 そこまでは、間違いなく友達でいられたのに。




 顔を上げたハルに私は――きっと、一目惚れをした。




 それまで知らなかったハルに出会って、その知らなかったハルに、恋をしたのだ。

 赤く染まった目元から透明な雫が零れ落ち、眉は切なげに寄せられて、薄く開いた唇は淡い紅色に艶めく。

 そんな下手くそな官能小説みたいな言葉じゃなくって、ただ、女の顔をしたハルにびっくりするほど心臓が跳ねて、私は彼女に、落ちた事を知ったのだ。



 ――でも、言えるはずがない。



 私がそばにいてあげるから泣かないでよ、なんて、自分でも認められない感情を誤魔化すよう冗談めかして告げたその言葉に返ってきたのが『レイちゃんがシンユウで良かった』と言う言葉だったから――冗談でも、言えなくなった。

 私はハルの、親友で、心友なんだ。

 そんな当たり前のことが、心臓を鎖で縛られたみたいに重くする。

 今まさにハルを抱き締めているのに、限りなく透明で、薄くて、それなのに破れないヴェールが私達を隔てているのだと気付いた。

 気付いてしまった。



 絶対に、この女の顔をしたハルには、触れられないのだと。




 少し離れたところにあるテレビ塔の、デジタル表示が着実にその数字を重ねていく。

 止まってしまえば良いのにと、そんなことを考えてもただ虚しさが募るだけだった。

 車は信号に進んだり止まったりを繰り返しながら目的地へ進んでいくし、テレビ塔のデジタル表示は気付かない内に時を刻んでいく。


 きっと知らない内にハルはまた恋をして、私はその惚気話を呆れた風な顔をして聞くのだ。


「ねぇ、ハル、知ってる」

「なぁに」

「京都から東京までって、新幹線に乗れば二、三時間で着いちゃうんだって」


 はぁ、すごいねぇ新幹線、なんて、呑気な声でハルが呟く。

 やっともうすぐ青森から函館まで新幹線が繋がるのだ、乗る機会なんて今までに一度もなかった私達には未知の存在だ。

 東京―京都間よりも札幌―函館間の方が距離は短いはずなのに、敷かれたレールに走るのはJRしかないその道のりでは四時間以上掛かってしまう。


 もし、万が一。

 私達が生まれるのがずっとあとのことで、函館から札幌までも新幹線で繋がっていたなら。



 ハルは、失恋しなかっただろうか。


 私は、恋に落ちなかったのだろうか。



 そんなもの、なんて虚しいだろう。



 ハルが身体を反転させて、橋の石で出来た欄干に寄りかかる。


「じゃあ、淋しくなったら会いに行けちゃうかな」


 一瞬の淋しさを滲ませて、そして、楽しげに笑む。

 私はその言葉に目を瞬いて、彼女と同じように欄干へ寄りかかった。




 ――きっと、きっと、ハルが淋しい時は飛んでいくよ。ううん、淋しくさせないように、会いに行くから。




 そんな言葉が喉まで出掛かって、けれど、声にならないまま白い息になって解けた。

 精一杯意地悪そうな笑顔を作って、ハルに視線を向ける。


「どうかなぁ、新幹線、高いしね」

「うわぁ、レイちゃん意地悪ー、そこはうんって言おうよ」

「出来ない事は言わない主義だから」

「ひっどーい」


 二人して、からからと笑う。

 橋を渡って市の中心部へ向かう人がちょっとびっくりしたように振り返って、慌てて声を潜める。

 けれどそのタイミングが二人同時で、おかしくなってまた笑った。


「よぅし、もうなかなか会えなくなるからね、今日は優しいレイちゃんが手を繋いであげよう」

「きゃーレイちゃん優しーい」


 笑ったせいか、冷たい風のせいか、ほんのりと頬を染めたハルの手が差し出した手に重なる。

 そんな少しの事に心臓は跳ねて、それなのに、彼女の気安い態度に目頭の奥が痛んだ。


「そんで、プリ撮ろう。思い出にね」


 プリントシールはあまり好きじゃないと公言していたのに私がそう言ったことに、ハルは目を丸くする。


 知らないだろう。


 知るはずもない。



 私がプリントシールを好きになれない理由が、ハルが心友だとラクガキしたがるからだなんて。



「やったぁっ、レイちゃん大好きっ」

「はいはい」


 友達だからこそ、忌憚なく言える。

 勘違いする要素などひとつもないその言葉に、泣き出さないようにするのが精一杯でツレナく返す。

 そんな私の反応に慣れっこなハルは、ご機嫌な様子で手を引いて歩き出した。


「どうしよう、どこが良いかな。近いところかな、多いところかな、ねぇレイちゃんどうしよう」

「落ち着きなよ、プリ機は逃げないって」

「そうだけどーっ」


 ハルの柔らかな髪が風に靡く。


 私はそれを眺めて、そして、触れられずにいるヴェール越しの春の温もりを静かに思った。

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薄氷 相良あざみ @AZM-sgr

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