2

 フッ──と、蝋燭ろうそくの火がついえたような、型にはまらぬ柔らかい彼女の気配がいで、次に双眼を開いた時には、体はそのままでも覚醒したのは全くの別人だった──。


 纏う雰囲気は研ぎ上がった刃のように様変わりし、彼女は童顔に馴染まぬ鋭い眼つきで緩く結んでいた髪を豪快に解き、高い位置で結い直した。


「どうあってもやるんだな」


 俺が口を開くと、〝その人〟は人差し指でそれを阻んだ。


「巻き込んでしまって……」

「娘が合意してんだ。仕方ねーよ」


 けど、と……あやめさんはスキニーパンツのポケットからタバコの箱を出し、指でトントンと振動を加え飛び出た一本を口に咥える。


「五……いや、六割ってところだな。悪いが全力は出せない。知ってのとおり娘の体を媒介にしてんだ、あのバカタレ(袴田)を見捨てる気もないが、あたしも可愛い一人娘の命みすみす危険に晒せるほど、毒親でもないんでね」

「ええ、もちろんです」

「それともう一つ。あたしが退けと言ったら必ず撤退することだ。君もわかってるだろうが……この先に陣取ってるのは、コンビニにフラフラやってくる奴らがヌルいと思えるほどやべえ怪異だ。これほど濃い残穢ざんえを学校中に撒き散らして……間違いなく相当数の人間を不幸に落としてる。ここまで怪異として肥太った奴は、本来プロが数十人で取り囲んではらうのがセオリーなんだよ」


 それを、このハンパなメンツでどうにかしようって? 自殺行為もいいとこだろうよ。と、すごむあやめさんの言葉は的を得すぎて否定する気も起きなかった。


「ミスったら怪我じゃすまねえぞ」

「袴田さんを救うにはどうしても“彼女”の力が必要なんです。肉体を持つ自分たちではには渡れません。彼と繋がりのある、“彼女”でなければ」


 怪異に堕ちた死者を正気に戻すなど現実的な話じゃないのはわかっている。一度挑めばつか、たれるか、そして、勝算は限りなく低いということも。


 わかっている、わかっているのだ。しかし、それでも。


「死なせたくありません……!」


 こちらを見つめ、鼻で笑ったあやめさんはライターでタバコに火を灯し、わーったわーったと煙を吐いた。


「さっき言ったように、引き際を見誤るな。それが協力条件だ」

「感謝します」

「決まりだな」


 互いに最終確認を交わし、耳障りな悲鳴を漏らす扉を押しのけ開け放つ。


 空に近いはずの屋上から月も星も見えないのは、雲が覆っているからではなかった。

 それほどまでに空気がよどみ、目眩めまいを誘うような負の瘴気しょうきが立ち込めている。


 扉に撒かれた鎖、南京錠に加えて、扉の外側と屋上を囲う金網付近には、『立ち入り禁止』と印字されたおびただしい数のバリケードが配置されていた。


 たとえ生徒の立ち入りを防止するためであったとしても学校の屋上に施すには、物々ものものしさが拭えぬ光景だった。


 だが、そうまでしてでも、この場所に人を寄せ付けたくなかったのだろう。


 確かに、足先から寒気を覚えるこの瘴気の濃さ──ここまでして当然だったと思えた。





〝〝ア、……ァア゛、──せ……ン、ぱ、イ──〟〟




 深呼吸する間もない。

 その瞬間は、すぐに訪れた。


 扉の隙間から樹海のそれと似た“畏怖いふを植え付けるような気配”が漏れ出ていたが、踏み込んだ先は、その比ではない──。


 身構えていたのに全身を怖気おぞけが駆け抜けた。


「おいおい、ひでえもんだな……、これほどとは」


 前方から前触れなく襲いくる、衝撃波のような黒くけがれた暴風を受け、俺は吐き気を覚え思わず膝をつきそうになり。


 平井さんはいっそう顔つきを厳しくし臨戦態勢に移る。


 おどろおどろしい叫びと共に眼前に姿を現した存在に、遅れを取らぬように。


「ハッ、早速おいでなすった」

「日向、さん──」


 彼女を深く知る者ならば、目を背けずにいられなかっただろう。


〝〝せ、ッ……ん、ン、──ぱイ──〟〟


 そうでなくても、あの写真の中でほがらかに笑っていた人と信じたくなくなるほど──それは、それは酷い、酷すぎる有り様だった……。


〝〝あ、ア゛──〟〟


 底の見えない穢れを纏ったその姿──もはや人の形を取り繕っただけの呪いそのものと思えた。


〝〝あ、ア゛──あ゛あぁ──いニ、きき、ギて……くく──れれれレた……ン、デス──ネぇ……エ……〟〟


 吊り上がる口角、カタカタと震わせた全身から涙のような赤色が絶えず滴る。


〝〝せ、せセ、せん、セン、ぱい……、アイ、ぁ、あ゛──あい、タ──カ──ぁぁあ゛アアアアアアアアア〟〟


 さらに不協和音の混じった声でわらい、生ある者全て生かして帰さんと息の詰まるプレッシャーを容赦なく脳天に浴びせてくる。


 けして甘く見積もっていたわけではない。


 袴田さんとすれ違い、七年前にこの場所で怪異に喰われ、今やその一部と化した彼女にどれだけのことができるか、覚悟はしていたがこうして対峙しただけでわかってしまう。


 自分の企てがどれほど無謀か。


 だが、




 ──いかないで──




 それでも。

 微かに感じる。



 ──私を、ひとりにしないで──




 誰に受け止められることもない、無機物のように言葉を並べることしかできぬ彼女の、奈落の底で息づく本当の叫びを。


 ──ごめんなさい、許してください──


 ──私、先輩に謝りたい──


 ──もう一度……先輩に……先輩に──



 それを感じとれただけで充分だった。


「日向さん、あなたをもう一度、袴田さんに会わせて差し上げます」


 だからどうか力を貸してください。


 あの人を、死の淵から呼び戻すためにも、あなたの力が必要なんです。


 躊躇することはなにもない。

 スウと大きく息を吸い、立てた木刀を両手で持ち目を閉じる。


「ヤグラ……」


 鯉口こいくちを切り、さやつばを強く打ち合わせる。


「──おいで」


 背後に響く、金属と鎧の音。

 意思は全て伝わっていると、けして喋らぬ鎧武者の守護霊が力強く肩を掴む。 


「さあ、気張っていこうか」


 奮い立たせるあやめさんの声に頷き、俺は木刀を鞘から抜き出し、踏み込んだ。





 ── 第18.5話 金打 ──


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コンビニで夜勤バイトを始めまして。 天野 アタル @amano326

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ