PART 3 「Racecourse.」

「Racecourse.」

 それが「競馬場」という意味であることに気付くまでに、おれは数秒の時間を要した。フランス人は英語を話したがらないとばかり思っていたからだ。そもそも、それならばもっと早く英語を使ってほしかった。おれがいちいちGoogleで日本語をフランス語に翻訳するのに消費していた時間を返してほしい。

 

 ソフィアには、新橋にある日本語がペラペラな外国人が経営する居酒屋で出会った。バカンスで二週間、日本を訪れているという。最初にその名前を聞いたとき、おれが昔付き合っていた、上智を「ソフィア」と言わないだけで不機嫌になる頭のおかしい上智出身のロシア語専攻の女のことを思い出して頭が痛くなったが、おれと一緒に飲んでいたTOEIC940点のナカジマがソフィアと意気投合し、おれまでメールアドレス(フランス人はLINEをやっていないらしい)を交換するはめになったのだった。だいたい、いま考えれば、あのときもソフィアは英語を使っていたじゃないか。そして、ヨーロッパの人間がタコを食わないというのは嘘だ。


 なぜ競馬場なのか、とおれが聞くと、きのうドミトリーで見たテレビで、日本で活躍するフランス人の騎手が取り上げられていたらしい。クリストフ・ルメールという騎手だという。おれがこの前セールで買ったユニクロの服のデザイナーと同じ名前だが、Googleで検索すると、同姓同名の別人だった。

 競馬にも詳しいナカジマが、競馬なら土日にやっているよと言うと、ソフィアは、わたしは月曜のフライトで帰るのでちょうどいい、日曜にみんなで行かない、と言った。この流れで断るのも悪いし、ナカジマも行くというから、おれは

「OK.」

 と返した。こういうとき、スタンプで済ませられないのは不便だ。


 昼過ぎに府中本町の駅に着くと、そこにはナカジマはおらず、ソフィアだけが立っていた。おれは洋モノには興味がないが、客観的に見れば、ソフィアはかなりの美人で、おまけに背がおれよりも高い。こんな女が競馬場にいれば、きっとオヤジたちの視線を釘付けにするだろう。日本人なら気後れするような柄のワンピースを堂々と着こなすソフィアに見とれていると、ナカジマから「すまん!」というLINEとともに、土下座するクマのスタンプが送られてきた。


 おれは競馬がよくわからないし、そもそもソフィアと大して打ち解けてもいない。それにTOEIC600点台のおれでは満足に会話もできない。これなら家で寝ていたほうがましだったが、さすがのおれも、明日故郷に帰るブロンドの美女を置いて武蔵野線に乗り込むほど愚かではない。とりあえず二人分の入場券を買って入場門をくぐり、そこに置かれていたプログラムを手に取った。この日は、この府中のほかに、京都と福島でも競馬をやっているらしい。プログラムにはその日のレースに出る馬と騎手の名前が載っていて、幸いにも英語表記もされている。要するに、クリストフ・ルメールに会えれば、ソフィアはそれでいいのだ。おれはソフィアと一緒に、ルメールの乗るレースを探した。


 だが、この日の府中のレースにクリストフ・ルメールは乗っていなかった。インフォメーションで受付嬢に聞くと、ルメールは京都で乗っているそうだ。おれはナカジマに、ルメールはいないじゃないか、とLINEを送ると、ナカジマから、じゃあフクナガを応援しろ、フクナガはルメールに似ている、と返ってきた。フクナガは名前からして明らかに日本人だし、そもそも似ていればいいという話ではないのだが、おれはソフィアにそのことを伝えた。ソフィアは甲高い声で大笑いし、じゃあその人を応援するわ、と答えた。フクナガは府中のメインレースに乗っていた。


 メインレースまで時間があるので、おれとソフィアは場内で昼食をとりつつ、軽く散歩をしながら会話をした。競馬場はもっと混雑しているイメージがあったが、大レースのない日だからか、かなり空いている。そして、スタンドから少し離れると、緑豊かな公園のようになっていて、おれの想像していた競馬場とはだいぶ違っていた。

 おれの片言の英語が伝わっているか不安だったが、ときおりGoogle翻訳の力を借りたおかげで、どうにか意思疎通を図ることはできた。ソフィアは一人なのか、とおれが聞くと、事実婚をしていた男に見切りをつけて、傷心旅行を兼ねてバカンスに来たのだという。おれは聞いてはいけないことを聞いてしまったと思いうろたえたが、ソフィアが笑いながら話すので、少し救われた気分になった。見切りをつけてくれるような女もいないよ、とおれが言うと、ロベスピエールだって童貞のまま死んだのよ、問題ないわ、とソフィアは答えた。おれは別に童貞ではないのだが。


 別のレースを見ながら時間をつぶしていると、次がメインレースという時間になった。パドックに行くと、メインレースに出る馬が周回していて、騎手が跨るところだった。プログラムを見ると、フクナガは6番の馬に乗ると書いてある。あれがフクナガだって、とソフィアに伝えると、似ていないわね、とソフィアはまた甲高い声で大笑いした。背の高いフランス人の美女が大笑いする姿を周囲の人間が怪訝な表情で見てきたが、おれは関係のないふりをした。


 おれとソフィアは6番の単勝馬券を100円だけ買い、コースの方に向かった。なかなか忙しいが、全部のレースを買う客は一日中こうやって動き回っているのだろうか。そう考えると、競馬はおれには向かないなと思う。

 先ほどまでパドックを周回していた馬たちがコースに入り、ウォーミングアップのようにゆっくり走っていく。パドックは馬臭かったが、コース側に出ると、ピクニックのときのような芝生の匂いが鼻につく。

 メインレースは芝の2400メートルで、おれたちがいるスタンド側の手前の直線からスタートするらしい。競馬がわからなくても、目の前で馬が走っていればそれなりに楽しめるだろう。もし6番が勝ったらいくら儲かるのだろうか。そんなことを考えている間にすぐファンファーレが鳴り、馬たちがゲートに入る。ガシャンという音とともに、一斉に全馬が飛び出した。おれとソフィアの目の前を、馬たちが颯爽と駆け抜けていく。


 フクナガの6番はいいスタートを切り、先団に取り付いた。騎手たちはみんな腕を動かさずにじっとしているので、まだ勝負のタイミングではないのだろう。馬たちは左回りに向正面に向かい、コーナーを曲がってスタンド前に戻ってくる。向正面で後ろの方にいた馬が一気に順位を上げて先頭に立ち、観客は歓声を上げるが、フクナガはまだ同じ位置でじっと我慢している。

 最後のコーナーを馬の集団が曲がっていく。6番はいい位置だ。

 向正面で先頭に立った馬のリードがなくなり、その後ろにいた馬が先頭に立ち代わる。フクナガの馬は三番手まで来たが、まだフクナガの腕は動いていない。ダメなのか、それとも余裕なのか。

 残り200メートルの標識を過ぎたあたりでフクナガが腕を動かすと、6番の馬はスピードが上がり、二番手の馬に並んだ。もうすぐ先頭だ。周囲から、差せ、とか、そのまま、というオヤジの声がいくつも聞こえてくる。おれは思わず、

「差せ! フクナガ」

 と見よう見まねで叫んだ。そうすると、

「サセ! ウクナガ!」

 ソフィアの甲高い声が隣から聞こえてくる。


 6番はゴールの50メートル手前で先頭に代わり、一着でゴールした。

 払い戻しはたったの280円で、帰りの切符代にもならなかった。だが、ゴール後におれをハグしてきたソフィアの香りが、これまでに嗅いだことのないようないい香りだったので、当たってよかったということにしたい。


 帰りの武蔵野線で、おれはソフィアに、フクナガのことをウクナガと言ってなかったか、と聞くと、うまく発音できなかった、とソフィアは答えた。おれはフクナガのことを今後勝手にウクナガと呼ぼうかなと思った。



 おれは普段寝坊をしないのだが、なぜこんな肝心なときに目覚ましが鳴らないのだろう。そう思ったが、月曜の仕事が休みのときは目覚ましを掛けずに寝るというのがおれの習慣だった。しかし、そんな習慣を恨んでいる暇もない。ソフィアがフランスに帰るフライトまで、あと二時間強しかなかった。おれは無精髭のまま、歯も磨かずに家を飛び出した。


 ソフィアに、まだいるか、とメールを送ったが、返事は来ない。そもそも、見送りに来いとも言われていないし、ソフィアにとって、おれは飲み屋でたまたま一緒になって競馬場に行っただけの外国人でしかなかった。もし他の誰かが見送りに来ているならおれは邪魔なだけだろう。それでも、ソフィアのあのすらっとした身体と、あの甲高いが心地いい声を、おれは最後にもう一度だけ記憶に焼き付けておきたかった。


 幸い、国際線と国内線のターミナルを間違えるとか、成田と羽田を間違えるとかいうありきたりなミスは犯さなかった。だが、ソフィアがきのう言っていたフライトの時間まで、あと一時間と少ししかない。ソフィアはもうとっくにチェックインを済ませ、ここにいないかもしれなかった。

 そんなものだよな、とおれは思った。フランスの美女と偶然仲良くなり、一緒に競馬場に行き、ハグをしたというだけでおれにとっては贅沢すぎた。おれにはその思い出を反芻する権利があるのだし、帰って自慰でもしてもう一度寝よう。


「サセ! ウクナガ!」

 そう考えた時、あの甲高いが心地いい声が、おれの鼓膜に突き刺さった。

 振り返ると、昨日とは違う柄のワンピースを着たソフィアが手を振っていた。


 おれはウクナガでもフクナガでもないんだけどな。そう思いながら、おれはソフィアに手を振り返した。

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差せ!フクナガ キムラヤスヒロ @fdrbdr

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