PART 2 サトウカスミというらしい。
サトウカスミというらしい。
インターネットというのは本当に便利だ。首に下げたネームプレートからはその女の名字がサトウであることしかわからなかったが、そのサトウという名字を手がかりにコンビニの店舗名でツイッターを検索したら、サトウのアカウントが引っ掛かった。サトウはフェイスブックのアカウントをツイッターと連携させていたので、下の名前がカスミであることもすぐわかった。サトウカスミはアルファベットで名前を登録しているので漢字の表記まではわからなかったが、それは大した問題ではない。どのみち、仲良くなればわかることだ。
端的に言って一目惚れだ。
どうしてこんな美人がおれの地元のコンビニでアルバイトなんかしているんだと思った。悪友のヨシオは別に美人じゃないと言うが、ヨシオはどうしたって照ノ富士にしか見えないデブの女のヒモになって愛車だった初期型のシルビアをワゴンRに買い替えたような男なので(デブには初期型のシルビアは辛い)、審美眼が狂っているから当てにならない。
サトウカスミは美人で、それもその辺のアイドルでは比較にならない美人だ。おれは面食いなので間違いない。夜勤明けの朦朧とした頭で入った朝におれの弁当を温めてくれるサトウは控えめに言っても天使だ。
そして、明らかにおれに対するサトウの態度は他人に対するそれと違う。サトウの笑顔はおれにだけ優しいし、サトウの声色はおれにだけ綺麗だ。だが、サトウは金をもらって働いているプロだから、おれを意識していることは口には出さない。明らかににじみ出ているにもかかわらずだ。そこがまたいじらしい。
だから、おれの側からサトウカスミを迎えに行かなければいけない。サトウはおれがサトウのサインに気付き、おれがサトウにアプローチしようとすることを待っているのだ。おれはその健気な期待を裏切るわけにはいかないし、サトウと結ばれなければいけないのである。
だが、ぶしつけに「好きです」と言うわけにはいかないし、いきなりメールアドレスを書いた紙を突きつけるわけにはいかない。それは直接的すぎて、サトウが店の側からなにか咎められる原因を作ってしまう。それに、サトウはプロだから、客から告白されれば断らなければいけない建前なのだ。
そうではなくて、おれたちにだけわかる暗号のようなもので、おれはサトウの好意に気付いていますよ、ということをおれはサトウに伝えなければならない。それは、表面的には告白でもなんでもないから、店はサトウを咎めることはできない。プロは恋愛禁止でも、暗号を受け取ることまで禁止されてはいない。そしてサトウはおれの暗号に気付き、おれはコンビニ店員ではない素のサトウカスミと会い、結ばれることになるのだ。
どんな暗号ならサトウは気付くだろうか。それはサトウの趣味に関係するものが一番いいだろう。すなわち、おれがサトウの趣味に関する暗号をわざわざサトウに言うということは、おれがサトウに対して興味を持っていますよということをサトウに伝えるということになる。そうすれば、サトウは自分の好意がおれに伝わっていたことに気付く。あとは簡単だ。
おれはフェイスブックでサトウのタイムラインをざっと確認した。ほとんどの投稿が全体公開されているのは、おれがこうやってサトウのアカウントを見つけ出すことをサトウが期待しているからにほかならない。大丈夫だ、おれは気付いている。
サトウがフェイスブック、そしてツイッターでもよく投稿していたのは、馬の写真だった。馬といってもポニーではなくて、ゼッケンを着けて人が乗った競馬の馬だ。サトウは見かけによらず競馬が好きらしい。いまはCMでも若くてかわいい女が競馬場に行く様子を取り上げているし、サトウのような天使が競馬を好きであってもそれほどおかしくないのかもしれない。
それなら、おれは競馬に関する何かを暗号にすればいい。おれはちゃんと、サトウが競馬が好きなことを知っていますよ、ということをサトウに伝えられる何かだ。
競馬新聞をサトウのレジで買えばいいだろうか。いや、それではただの買い物だ。では、競馬の馬の写真でもこっそり見せればいいだろうか。それもまた直接的すぎる。競馬に興味のないやつには、それが競馬に関係するとわからないものがいいはずだ。そうすると、騎手のサイン色紙。これだ。
騎手のサイン色紙なら、競馬を知らないやつにはそれが騎手のサインだとはわからない。店内でただおれとサトウの二人だけが、これが競馬に関係するものだとわかる。それはまさに暗号だ。おれは、騎手のサイン色紙を手に入れればいいのだ。
だが、おれは競馬をまったく知らない。サトウが好きだというなら興味はあるが、いまのところ何の知識もないのだ。
おれはギャンブルが苦手だ。金はいつだって欲しいが、おれはギャンブルで金を増やせる自信も才能もない。おれの好きなエヴァンゲリオンがパチスロになったときに何度かパチンコ屋に行ったことはあるが、一瞬で三万円が消えた。おれにはこういうのは向いていないとすぐに理解して、それ以来一度もやっていない。
ヨシオにLINEを送った。ヨシオはおれと違ってギャンブルが好きで、パチスロも競馬もよくやっている。照ノ富士似のデブと付き合いだしたのも、パチスロで勝った金で行った飲み屋で隣にいたことがきっかけだ。
ヨシオによれば、騎手のサイン色紙は競馬場で手に入るという。レースで勝った馬の関係者がレース後に入るウィナーズサークルという場所があって、そこで色紙を持って待っていればサインをもらえるそうだ。大きいレースでなければ、比較的もらいやすいらしい。
おれは、どの騎手が人気があるのかヨシオに聞いた。いくらサトウが競馬好きでも、地味な騎手のサインは知らないかもしれない。
ヨシオは、ハマナカかタナベかフクナガだな、と言った。その三人は女にも人気があるという。
フクナガというのはオレも聞いたことがある。おそらくテレビのスポーツ番組に出ているのを見たのだ。確か親も騎手で、奥さんがアナウンサーだった気がする。グーグルで画像を調べてみたが、やはり見たことがある。競馬を知らないおれでも知っているのだから、サトウカスミは確実にフクナガを知っているだろう。おれはこのフクナガのサインをもらうことにした。だが、さっきの話によれば、フクナガが勝たないとサインはもらえない。フクナガは一日にどれくらい勝つんだとヨシオに聞くと、調子のいいときは朝から夕方までいれば三つは勝つ、と答えた。それならサインをもらうチャンスは充分ある。
夜勤明けで徹夜してそのまま行くつもりだったが、十一時過ぎまで寝てしまった。府中本町まで行くのだが南浦和から乗る電車の方向を間違えて途中で気が付いたので、府中の競馬場に着いたときにはもう午後の一時を回っていた。
入り口でもらったプログラムには、レースに出る馬と騎手が書かれている。おれは馬券には興味がない。大宮のハンズで買った色紙にフクナガのサインをもらうためだけにここに来ている。緑色の制服を着たスタッフにウィナーズサークルはどこかと聞くと、入り口からずいぶん奥の場所を案内されたので、そこに行った。ちょうどレースが終わったところで、騎手が集まった客にサインをしている。それを見ていれば何となく作法がわかるが、それほど難しいものではなさそうだ。いまサインをしている騎手はフクナガではないので、おれはその光景を遠巻きに眺めた。
プログラムを見ると、次のレースはフクナガは乗っていない。その次のレースには乗っているが、まだしばらく時間があるのでスタンドに入って月見そばを食べた。思ったよりもうまい。おれは競馬場がこんなに大きい場所だとは思っていなかった。ここが満員になるとすれば数万人ではきかないだろう。東京ドームに巨人の試合を観に行ったことがあるがそれよりもずっと大きい。迷子になりそうだ。
用を済ませてスタンドに戻るとコースに馬が入ってきている。騎手は小さいが馬は大きい。芝生の匂いが少し鼻につくが晴れているからか心地良さが勝つ。プログラムによればこのレースでフクナガは四番に乗っている。
ゲートの前でしばらくぐるぐると回った馬たちは合図か何かでゲートに入り、旗を振るおじさんの合図で一斉にゲートを出る。出遅れる馬もいるが、だいたい一斉に出るのだから大したものだ。フクナガの四番は見るところもなく後ろにいるままで終わった。
次のレースのフクナガは六番、その次は十三番だったが、どちらも負けた。十三番のほうは途中まで先頭だったので惜しい。プログラムによると、その次のレースで最後だ。フクナガは二番だ。この二番が勝たなければおれはフクナガのサインをもらえずに終わってしまう。サトウへの返事のためにも、フクナガには勝ってもらわないといけない。
最終レースはコースの内側の砂のレースだった。ダートというらしい。フクナガの馬は普通にゲートを出たがそのまま順位を上げない。おれは競馬を知らないので何もわからないがこれで勝てるのだろうか。フクナガはおれのためにこのレースを勝たないといけない。
もうすぐ直線に入るがフクナガはまだ後ろにいる。直線はけっこう長いがこの位置から勝つにはかなり速く走らないといけない。あと四〇〇メートルと実況が言う。おれの走る四〇〇メートルと違って馬の四〇〇メートルはすぐだ。そのすぐの間にフクナガは勝たないといけない。
あと三〇〇メートル。
フクナガの馬は少し順位を上げたが、まだ届かない。フクナガは勝たないといけない。
あと二○○メートル。
フクナガは五番目くらいまできた。フクナガは勝たないといけない。
あと百五十メートル。
フクナガは三番目。フクナガは勝たないといけない。
あと百メートル。
フクナガは二番目。だが先頭の馬と差がある。フクナガはおれとサトウカスミのために勝たないといけない。
あと五十メートル。
差は詰まっている。フクナガは勝たないといけない。勝て、フクナガ。
「差せ! フクナガ」
気付くとおれは、何年ぶりだろうというレベルの大声でそう叫んでいた。そして、フクナガの二番はゴール寸前で一着になった。フクナガはおれとサトウカスミのために勝ったのだ。
おれは猛ダッシュでウィナーズサークルに向かい、人をかき分けて最前列に陣取った。あとはフクナガのサインをもらって帰り、サトウカスミにサイン色紙を渡すだけだ。サインをもらうついでに、フクナガに感謝を伝えよう。
勝った二番の馬とその関係者がウィナーズサークルに集まってくる。
だが、その二番の騎手はフクナガではない外国人の男で、おれの手前の何人かにはサインをしてくれたが、おれの番まで来ないうちに、ゴメンネ、と言って引き上げていった。
おれはもう一度慌ててプログラムを見たが、二番の馬には間違いなくフクナガが乗っている。フクナガが勝ったんじゃないのか。おれは状況が理解できず、後ろにいたおじさんに、フクナガじゃないんですか、と聞いた。
おじさんは、フクナガはきょうは京都だろ、と答えた。
帰りにそのコンビニに寄ったが、いつもこの時間にいるはずのサトウカスミはいなかった。
寝る前にフェイスブックのサトウのページを見た。コンビニのバイトを辞め、結婚して地元に帰るそうだ。
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