豊の国と耶馬台国

楠 薫

第1話

 宇佐神宮へ初詣に行った帰り、ふと海が見たくなって、国道10号線から大分県との県境を流れる 山国川沿いに河口へと車を走らせました。途中になだらかな丘陵があり、見晴らしが良さそうなので 立ち寄ってみて驚きました。

 新吉富村の牛頭天王ごずてんのう公園というその地は、眼前に山国川を挟んで、 「豊のとよのくに」のほぼ中央に位置する中津平野が広がり、牛頭天王と 名を変えた素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る八坂神社が隣接した、二千年ほど前の弥生後期の 遺跡だったのです。

 248年に卑弥呼が亡くなった後、「更に男王を立つるも国中服せず」、弱冠13歳で台与とよ (「臺與とよ」、「壱与いよ」とも表記)が耶馬台国の女王を継ぐことになります。 台与はその名から「豊の国」と関係があるのではないかと言われ、「豊の国」随一の神社、 宇佐神宮の社の建つ亀山かめやま(元来は小椋山(おぐらやま)あるいは小倉山おぐらやま)が 卑弥呼の墓だ、という説もあるほど。

 その宇佐神宮の元宮の一つが、かつて中津大貞おおさだに十万坪以上もの敷地を有していた、 こも神社です。

 継体天皇21年(527年)、筑紫君磐井つくしのきみいわいが蜂起、反乱を起こすものの失敗。 敗走中、中津平野の奥地、山国川沿いの「豊国上膳かみつけのこおりの峻しき山」で没したと言われています。


この乱の後、豊の国の中心的氏族、渡来系のはたの姓を名乗る人々が姿を消し、こも神社の足跡が 養老三年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱まで、あたかも存在そのものが無かったかの様に消失して しまっているのです。

 同じ頃、香春岳かわらだけを経て「宇佐郡辛国宇豆高島うさのこおりからくにうずたかしま」、 現在の宇佐郡稲積山いなづみやまの麓、辛嶋からしま郷に「天降あまふ」ったとされる、 当初は素盞嗚すさのおの尊を奉じていた辛嶋氏関連の社が、稲積六いなずみろく神社、 乙咩おとめ神社、さらに酒井泉神社、郡瀬ごうぜ神社(=瀬社せしゃ)と、建てられて行きます。


 その後も崇峻すしゅん天皇(588~592年)の御代に鷹居たかい社が、天智天皇(西暦662~671年)の 御代に小山田おやまだ社が建てられ、「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」(=承和縁起)によると、 辛嶋勝乙目からしますぐりにおとめが「それまで荒びていた鷹居社」に入って 元明天皇和銅元年(708年)社殿を建て(直し)たとあり、同5年 (712年)には官幣社に昇格、勝乙目が はふり意布売おふめ禰宜ねぎとなって栄えます。


 そして720年の隼人の反乱では、薦神社の三角みすみ御澄みすみ)池に自生する真薦まこも を刈って作った枕形の御験みしるし薦枕こもまくらをご神体に、神輿を奉じて日向まで行幸し、 乱を鎮めます。この薦刈神事は現在6年ごとに行われる宇佐神宮行幸会ぎょうこうえの中で 辛嶋一族が当時より行い伝えており、辛嶋一族は古来より薦神社の神事と 深い関わりがあったと思われます。


  さて、薦神社にようやく社殿が出来たのは、承和じょうわ年間(834~848年)。宇佐はこれより 遡ること百年以上、神亀2年(725年)に現在の宇佐亀山の地に移って社殿(一之殿)が、天平元年(729年)に 二之殿、弘仁14年(823年)に三之殿が建立され、現在の形式の本殿が完成します。

 宇佐亀山は三つの巨石を比売ひめ大神の顕現として祀る御許おもと山山頂の奥宮・大元おおもと御許おもと)神社の麓に位置し、先住の宇佐氏の磐座いわくら信仰に加え、御許山が 宇佐神宮菱形池の水源であることが指摘されています。薦神社は三角池そのものが内宮であり、 共に宗像三比売ひめ大神、沖津宮(沖ノ島)の田心姫神たごりひめのかみ、中津宮(大島) の湍津姫神たぎつひめのかみ辺津宮へつみや(玄海町田島)の市杵島姫神いちきしまひめのかみ を祀っています。


 ところがこの三比売大神は日本書紀巻第一神代上第六段一書第三の条によると、 「則ち日神の生れまする三の女神を以ては、葦原中國あしはらのなかつくにの宇佐嶋に降り居さしむ。

今、海の北の道の中に在す」とあり、最初は宇佐の地に降り立ったことを示しています。私にはこの 「(豊葦原中國とよあしはらなかつくに」が、単に葦がたくさん生えている高天原と黄泉の国の 中間にある人間が住む国という意味ではなく、豊の国や中津と、そして宇佐嶋が薦神社と関係が ある様に思えてなりません。

 と言うのも、かつて薦神社の三角みすみ池では、穢れ無き乙女が薦で清畳を織り、薦を束ねて枕とし、 池の小島の「薦休こもやすめ」と呼ばれる聖域にこれを敷いて神と衾を共にすることにより、 シャーマンとなって神のお告げを託宣したのではないか、と考えられているからです。

 また、薦神社の所在地、大貞おおさだの「貞」の字には占いの意味があると言われ、道教との関連性も 指摘されており、当時、薦神社が果たした役割を伺い知ることが出来る様に思います。


 ところで、卑弥呼の墓に関する魏志倭人伝の記述に「大作ちょう、徑百餘歩、(犬旬)葬者奴婢百餘人」 という下りがあります。冢は墳墓と違って土台部分から構築するのではなく、自然にある山や丘陵の頂上付近に 手を加えたものなのですが、牛頭天王ごずてんのう公園頂上付近の盛り上がりの部分はなんと約120歩。周囲にはたくさんの 埋葬者の跡があります。宇佐亀山まで社が転々としたことを考えると、卑弥呼は死後450年余を経て宇佐亀山に 埋葬されたと考えるより、宇佐神宮の元宮である薦神社、あるいはその周辺に埋葬されたと考えた方が可能性は 高い様に思えます。そう言う意味でも、牛頭天王ごずてんのう公園遺跡は非常に興味をそそられる遺跡です。

 それにしても卑弥呼の跡を継いだ台与は13歳。それまで争っていた国々を黙らせ、従わせてしまったという ことは、卑弥呼にも勝るとも劣らぬ巫女としての霊力の持ち主であるとともに、絶世の美少女だったに違いない と私は睨んでいるのですが、いかがなものでしょうか。

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豊の国と耶馬台国 楠 薫 @kkusunoki

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