赤無垢の花嫁

作楽シン

第1話

 両親の地元では、花嫁は赤無垢を着るのだという。初めて聞いた時は、白無垢ではないの、と思わず聞き返したが、赤だと言う。


 私は、お盆休みと有給休暇で長めにもらった夏休みを使い、母と一緒に祖母の家に来ていた。


 両親の結婚式についてはあまり聞いたことがなくて、この時はじめて写真をみせてもらった。

 型物と呼ばれる二人並んだ写真の中、父は黒い紋付に縞袴、母は古い写真でも鮮やかな赤を着ている。白い顔以外は、綿帽子も羽織も掛下も、強い赤だ。


 衣紋掛けに飾られた着物もやはり赤だ。少しも色あせていない。

 赤い糸で背中に鶴が数羽舞っている。今にも飛び立ちそうに華やかだ。相良刺繍という高価なものだと言う。


「懐かしいわねえ」

 団扇で煽ぎながら額ににじむ汗をハンカチでぬぐい、母も着物を見ている。

 流れ込んでくる風に混じって、蝉の声が葦簀の中に遠慮なく入ってきていた。座卓の上の麦茶の氷が溶けて、涼やかな音を立てる。夏の音だ。


「孝幸さんの転勤もあったし、あんたは地元で式あげるのを嫌がっていたけどねえ」

 そう言いながら、祖母も懐かしそうに目を細めている。

「そんなこともあったわね」

 お母さんは、苦笑した。何度も言われた文句だったのかもしれない。


「お母さんは、大学はよその土地に行ったんだっけ。戻ってきて式をこっちであげたんだね」

 両親は同じ市の出身で、母が大学を卒業するのとほとんど同時に、お見合いをして結婚したそうだ。


 父はすでに転勤が決まっていて、私が生まれるずっと前に土地を離れたので、私はこの土地をあまり知らない。

 夏休みやお正月などに、母に連れられて祖父母の家に来ることはあるけれど、父の両親とはあまり会ったことがなかった。


「そうでもしないと、こんな田舎出て行けないじゃない。でも、お母さんも、ウェディングドレスが着たかったわ」

 そんなにここを離れたくてたまらなかったのだろうか。母は私の方へ手を伸ばして、髪に触れた。


「彩は髪も長いから、自毛で日本髪ができるし、きっと似合うわ」

「花嫁だもの。結婚式で困らないようにずっと伸ばしてたの」

 私はわざと得意げに言った。


 この暑い夏の最中、私は学生のころから四年間付き合った彼と結婚する。


 はじめ結婚式は父と母の里で、その土地で有名な神社で行うように言われ、私も彼もひどく渋った。

 私は華やかなチャペルやウェディングドレスに憧れていたし、彼の両親は今住んでいる土地の人だったし、会社の人や友人を呼ぶことを考えると、現実的ではなかった。


 そう訴えても、私の両親それぞれの実家から、お披露目はどうしても祖父母のいるこの土地でと言われた。

 だから職場の人や友人を招いた結婚式や披露宴は今住んでいる町でするけれど、その前にこの土地の神社で式をして、近くの大きなホテルで食事会をすることになったのだ。


 友達は、神前式も教会式も体験できていいじゃない、と言う。

 でも風習だとかしきたりに慣れない私には、こういった集まりはとても堅苦しく感じる。それは夫となる人と、ご両親も同じだろう。都会人の彼らには気が重いに違いない。

 花嫁の遠縁まで親戚がずらりと揃う中、彼らは家族とごく身近な親戚だけだ。母は、こういうものから逃げたくて、都会の大学へ行ったのだろうか。


「まさか、こんな真っ赤な着物を着ることになるとは思わなかったけど」

「珍しいでしょ」

「うん、聞いたことはあったけど、写真を見たのははじめて」


 以前、結婚式場のプランナーが言っていたけれど、最近は和装も型にはまらないことも多いのだと言う。

 芸能人の影響や、オリジナルということにこだわって、ドレスのトレーンのようなレースのついた羽織を好む人や、オーガンジーなどの透けた素材の綿帽子をつける人もいる。

 白無垢を嫌がる花嫁もいるそうだ。白は「嫁いだ家の色に染まる」という意味だから、現代の女性は反発を覚えることもあるらしい。


 それでも赤無垢、というのは初めて聞いたし、まさか両親の里でそのような変わった風習があるとは思わなかった。

 私にはとても異質なことに思えるけど、目の前の着物は、儀式の衣装にふさわしいような、軽々しく扱えない存在感を持っている。


「孫にはやっぱり、赤無垢を着てもらわないとね」

 同じようなことは、父の祖母も言っていたそうだ。


 白無垢でも、祝いの赤いさし色を入れた赤ふきで着ることがある。

 だけどこの赤無垢は、魔除けなのだと言う。


 昔この土地には鬼が棲んでいて、花嫁行列が通ると、花嫁を襲って食ってしまうことがあったのだとか。白は純潔で無防備すぎ、鬼の色にも染まるのだと、赤を着るようになったらしい。

 邪悪なものから守ると言う花嫁のベールと似たものかなと思うと、そう変でもない気がするけれど、やはり花嫁の色ではないかなと思ってしまう。


「妖怪なんて、友達に言ったらびっくりしてたけど。今の時代まだそういう風習があるんだって珍しがってた」

 やはり友人達は「伝統って感じでいいじゃない」と目を輝かせていた。でも自分の立場だったら私と同じように苦笑するに違いない。彼は気味悪がっていた。あからさまではなかったけれど。


「妖怪じゃなくて、鬼だよ」

 祖母は小さい子を叱るように言う。


 改めて、型物写真を手に取って見る。

 自分の準備のために色んな花嫁さんの写真を見たけれど、白い色は楚々としていて、初々しかった。あまり若くない人だって、輝いて綺麗だった。

 けれどこの写真は、やっぱりなんだか異様だった。頭の上から爪先まで鮮やかに赤い花嫁衣装は、華々しいのと同時に、どこか不穏で、妖怪じみているとすら思う。



 突然ガタガタと大きな音がして、私はびくりと肩を震わせた。

 桐の一枚板で作られた座卓の上で、ピンクゴールドのスマートフォンが震えている。


「びっくりした。電話?」

 母も驚いた顔で、私のスマートフォンを覗きこんだ。ディスプレイに、電話をかけてきた相手の名前が光る。

 慌てて飛びつくようにした私に、母は苦笑する。私は、バッグにしまっておかなかったことを後悔した。


「照れないで、出ればいいのに」

「ちょっと外出てくる」

「お山には行かないようにね。花嫁さんなんだから」

「分かってる」

 まだ震えている電話を握りしめて、私は玄関へ向かった。

 サンダルをつっかけて、日差しの強い外へ出る。日傘、とよぎったけれど、やめた。


 祖母の家を出ていくらかも歩かないうちに電話の震えが止まる。私は少しほっとして、スマートフォンを見る。

 不在着信一件。留守電はなし。


 私はひどいしかめっつらをしているだろう。大きくため息をはく。

 母や祖母の前で明るく笑っていた顔が再現できない。自分の結婚なのに、どうして自分の親にむけて気を遣わないといけないのだろうと思うと、理不尽な気持ちでいっぱいになる。


 再びスマートフォンが震えた。今度は短く三回だけ。

 ディスプレイには、友人の名前が表示されていた。学生時代からの女友達からメールだ。

 内容は分かりきっているので、私は電話を握りしめ、そのまま歩き続けた。


 田舎の空は高くて広い。

 白い雲もうず高く伸び、緑の山々の上で真夏の空は鮮やかなコントラストだった。

 舗装されたアスファルトの道は照り返しで熱いけれど、私の住む町のように焼かれる強さはない。

 雄大な景色の中で私は、のんびりと穏やかにすることもできずに、手足をぎこちなくしてせわしなく歩いている。


 足は自然とひときわ大きな山へと向かっていた。母に「行かないように」と言われた山、幼い頃からいつも、近寄るなと言われていた場所だ。

 人があまり立ち入らず鬱蒼と木々の茂る山は、幼心にも恐ろしく、一人で来たいとは思わなかった。


 ここはいわくのある場所なのだと言う。祖父母は不吉を恐れ、母は娘が迷子になるのを恐れたのだろう。

 近くを通りかかり、迫りくるような木々を恐怖と興味で見上げた私を、母は強く叱責した。強く握られた手や、引っ張られた痛みや、母のいつになく鋭い声を覚えている。


 祖母にも母にも、女の子は来てはいけない場所なんだと何度も言われた。特に、花嫁は。

 でも私は今、誰にも会わずにすむところに行きたかった。行くなと言われる場所にこそ行きたかった。


 山へ入る道は唐突に始まっていて、アスファルトの脇に、人の足で踏み固められただけの細い道が伸びている。

 山道に踏み込むと、強い日差しは濃い緑に遮られて、幾分か暑さが和らいだ気がする。

 地面を踊る木漏れ日も涼やかで、肌に当たる風もひんやりしているけれど、道が険しくて汗がにじむ。髪をまとめず背に流しているせいで、首筋がじんわりと暑い。


 私は黙々と登り続けた。迷うかもしれないなど考えもせず、ただ道を進む。

 どれだけ歩いただろうか、息も切れて汗だくになって一休みしたいと思った頃、道は終わっていた。


 木漏れ日の下、道の先には、木で造られた古ぼけた鳥居があった。

 見て、ゾッと鳥肌が立った。汗をかいた肌が冷えるようだった。そんな異様な重苦しさが、ここにはあった。

 朱い色はなくて、苔がはえて緑かかった黒ずんだ色をしている。踏み固められた土の参道が伸びる奥に、ひっそりと古い祠が建っていた。その横にはずっしりとひときわ大きな木が枝を広げている。


 鬼がいる、という山だった。

 これは鬼のための祠だ。花婿は、花嫁を迎えに行く前に、ここに寄って鬼に祈るのだと言う。

 花嫁を奪わないように。


 私は信心深いタイプじゃない。それでも、禁忌がここにはただよっていた。――それでも、今の私にはそんなもの、どうだっていい気がしていた。


 鳥居をくぐって、参道を歩く。

 大人が二、三人手を広げて囲めるか、というようなその大木の陰にある祠は雨風にさらされて、鳥居と同じように湿気を吸って変色した木と、緑の苔の鮮やかさが、年月を思わせる。

 その色合いは、もう木の一部になってしまったかのようだ。だけど、小さいのにどこかじっとりと重い空気があった。


 握りしめたままのスマートフォンが、ぶるぶると震えた。静かな山の中、マナーモードのバイブレータの音ですら大きく聞こえる。ディスプレイに、名前。

 私はため息をつき、強く気持ちを込めて息を吸い、そして諦めてスマートフォンの着信ボタンをスワイプした。

 言葉を発するのに、さらに一つ息を吸う。


「もしもし」

「……彩?」

 一拍遅れて、相手も声を返した。低い、静かな男性の声。


「そうだけど。今外なの」

 なるべく普通に応えたつもりだったけれど、我ながらぎこちない。ざわざわと葉擦れの音が彼にも聞こえているだろうか。


「ああそうか。悪い。明後日、そっちにつく時間を知らせておこうと思って」

 うん、と私はただ頷く。

 昼の一時には駅に着くから、ご飯はお弁当ですませるから、と告げる彼に、うん、とただ応える。余計なことはあまり話したくなかった。


「なあ」

 そっと、彼は言う。

 電話越しにも優しい声。私は何も言えず、ただため息を返す。

 穏やかで好きな声だった。大きな声を出さず、静かに話すのが好きだった。その声で彼は言う。


「こうするのが一番なんだから。元通りに、ちゃんとするのが一番なんだから。ご両親も悲しむだろうし。彩だって人に知られたくないだろう」

 いつもの言い聞かせる声。彼は私が何か不快なことをしても怒ったりはせず、そっと注意をしてくれる人だった。

 私が、自分が悪いのは分かっていても、拗ねて謝れずにいるのを、根気強く待ってくれて。


「……まだ怒ってるのか」

 だけど、よく言ったものだ。

 まだ、とは、よく言うものだと、不快感に胃が殴られるようだった。

 目の前が一瞬黒くなり、顔から血が引いてくような感覚。暑さも手伝って、うまく息ができない。


「なあ、彩」

 応えない私に、電話の向こうから心配そうな声がする。いつもの、私を受け入れ続けてくれた声。

 だけど今は、よくそんな声が出せるものだとしか思えない。自分の顔が歪んでくるのが分かる。


「ねえ、本当にもう連絡取ってないの」

「……なんで」

「またメールが来たの。さっき着信があった直後に」

 友人からのメールは、謝罪と言い訳だらけだ。一体どんな言い訳が通ると思っているのか、笑ってしまう。


 私の婚約者は、私に指輪を贈ったその裏で、私の友人と浮気をしていた。

 大学の頃の友人で、卒業して就職しても頻繁に会っていた、親友と思っていた友達だった。


 別の友人が、すごく迷ったんだけど結婚する前に知った方がいいと思う、と言って、携帯で撮った写真を見せてくれた。

 仲良く手をつないで飲み屋から出てくる二人。見たくもなかったキスの写真。さすがにこの後追えなかった、と友人は言っていたけれど。


 問い詰めると彼は浮気を認めて、謝罪した。すぐに、簡単に、大袈裟な謝罪をして、私をなだめた。

 わがままな私を言い聞かせる、いつもの態度で。


 別れるべきと思った。もし自分ではなかったら、別れなさいと言ったと思う。

 友人もそう言った。戸籍を汚す前に別れるべきだと。


 けれどお互いの両親に挨拶もした後で、式場も契約していて、ドレスも選んで、友人にも職場の人にも知らせた後だった。

 私は別れたいのだろうかと考える。分からない。浮気する男は何度でもする、婚約期間にできるような男は、絶対にする。だけど分からない。

 二人で式場をまわって、ドレスを選んで、あの華々しくて誇らしくて楽しくて浮かれていた時間。あの裏で彼らは、私を裏切っていたのだ。


 めちゃくちゃに泣いて謝った友達は、親友だと思っていた友達は、私をどんな目で見ていたのだろう。

 プロポーズされて、結婚が決まって、ブーケはあげるからね、と浮かれて話していた私を、本当はどんな目で見ていただろう。

 私を嘲笑って、楽しんでいたのだろうか、少しでも申し訳ないと思っていただろうか。例えそう思っていたのだとしても、少しも許せるとは思えない。私が馬鹿みたいで憐れで、絶対に別れてやるものかとも思う。


 人に知られて困るのは私ではなくて、裏切った彼なのに。

 きっぱり捨てて、二人のしたことを人に知らしめて、辱めるのが彼らにとっての罰でもあるのに。

 友人の謝罪のメールは全部取ってある。どうしてやろうか、とずっと考えている。もしかしたら彼は、友人をかばうために私を誘導しているのかもしれないとも、思うけれど。


 でも何より、裏切られた絶望が胸の内を黒く塗りつぶして、怒りで震えて、だけどみっともなくて、ただただみっともなくて、婚約者と親友に裏切られるなんて、見栄と未練と憎悪でぐちゃぐちゃになって、何もできずに話は進んでいく。


 そして母と祖母の、あの赤い着物を見る顔を目にしたら、何も言えなくなってしまう。


「たまたまだよ。まさか、会ったりするわけない」

 彼は驚いた声だ。

「……信じられない」

 驚くなんて、そんな資格彼にはない。

「信じられるわけないじゃない!」

 私は耐えられなくて、大きな声を出した。

 じゃあ、やめるか、と彼は言わなかった。私も言わなかった。




「うるさい」


 唐突に左の耳から声がとびこんで、私は驚いて右耳から携帯を離した。反射のように電源ボタンを押して、電話を終える。


 禁忌の山に、この祠に、人がいるはずがない。

 だけど鳥居の下に、木漏れ日で斑になった男性が立っていた。暑くないのか、真っ黒な着物を着ている。見たところ若いのに、珍しい。

 驚いた私の顔をみて、相手も目を見開いた。


「裕子」

 聞き覚えのある名前だ。私は少し考えてしまった。ざわざわと風に揺れて木が鳴る。


 ああ、お母さんの名前だ。

 知り合いだろうか。地元でお母さんの知り合いなら、もっと年上の同年代の人ばかりの印象で、違和感を覚える。

 お母さんの友達の息子さんとかだろうか。


 土を踏みつけて、着物の男性が歩いてくる。近くで見ると、綺麗な顔の人だなと思う。目も髪も、濡れたように黒い。

 観察して、私は息をのんだ。

 その頭には角がはえていた。



 さわさわと風に葉の鳴る音がする。蝉がうるさく鳴いている。


「そんな訳がないか」

 男性は、間近で私の顔を見て、奇妙な表情をした。諦めのような憐みのような。


 そんな訳がない、とは私の言いたいことだ。

 だけど間近でみたその頭には、やはり二本の角が生えている。そして少しも汗をかいていなかった。私なんて汗でメイクは剥がれて、髪が肌に貼り付いてみっともないのに。


 こんな場所で、冗談のような格好をしている人なんて、無視するべきだと思った。だけど私はもう、そんな理性の声なんか聞きたくなかった。


「……それ、本物?」

「人間は私を見るとそう言う」

 彼は苦笑した。触ってみろ、と言う。身をかがめて頭を出した。さらりと黒髪が揺れる。


 ずいぶんと気軽なひとだ。いや、鬼なのか。

 見ず知らずの男性の頭に触るのは躊躇ったけれど、私は母の名を呼んだこの人に興味を覚えて、手を伸ばした。柔らかい髪が手に触れる。


 間近で見たところ、何かで固定しているようすはなかった。指先で角に触ってみる。ひんやりしている。握ってみると、固い。取れるだろうかと思って、引っ張ってみた。


「痛い」

 少し苛立った声で、私はハッとした。

「あ、ごめんなさい」

 私は慌てて手を離した。本物だ、と思った。力を入れて引っ張ったのに取れない。


 鬼の話を聞いたばかりだからだろうか、彼との電話で気持ちを揺さぶられたばかりだからだろか、私は鬼のことにあまり驚かなかった。いや、驚いたけれど、いるんだな、と思った。

 あまりに普通にそこにいて、人と同じような姿形だったからでもあると思う。ああ、喉が渇いたな、と思うのと同じくらい、普通にそこにいた。


 絵本などで見る鬼はもっと恐ろしげだったけれど、ここにいる男性は、恐ろしい空気などまるでなかった。

 婚約者の彼のように、穏やかな空気すらあった。


 ――ここは、鬼の祠だ。

 真夏の、明るい日差しの木漏れ日の下で、その鬼は立っていた。


「誰かと待ち合わせ?」

 彼は母の名を知っていた。同名の別人かもしれない。

 鬼はどう見ても若いし、母の知り合いとも思えないし、聞き間違いかもしれない。――けれど、花嫁をとって食ったという鬼が彼なら、見た目よりずっと年をとっているのかもしれない。なにせ、鬼なんだから。

 それに私の母は、極端に私がここへ近寄るのを嫌がった。


「昔な」

 鬼は現れた時と同じ唐突さで、私から離れた。

 踏み固められた土を歩き、ぼうぼうに生えた草を踏みわけ、祠の苔など気にせず、もたれて座る。鬼の祠に。




「ねえ、鬼って人を食べるの」

「人間は私を見ると、同じことを言う」

 鬼は笑った。

「昔はよく食った。今は人を食うと面倒なことが多いから、前ほどは食えなくなった」


 昔とはどれほど昔のことなのか。

 あまりにもさらりと言うので、冗談のようだった。それがかえって真実のようでもあった。


 でも恐くなかった。変質者を見た時のような、不可解な物を見た時の怖気も起きなかった。日が頭の上にあって、静かで、私はすでに婚約者のことで正気をなくしていたのかもしれない。

 私を食べるのかしら、と少し思ったけれど、この鬼にはそういう不穏な空気が少しもなかった。


「お前はなぜ怒っていた」

 鬼は私の手のスマートフォンを見ながら言う。電話が分かるなんて、昔話とは違うな、と思うとやはり妙で、おかしい。


「わたし、結婚するの」

 思ったよりもするりと言葉が出た。

「でも私の婚約者は、他に恋人がいたの。だから、怒ってたのよ」


 母にも、誰にも言えなかったのに。知らせてくれた友人にも相談などできなかった。二度と言わないでとそれきり、誰にも言わなかったのに。

 鬼は鼻で笑った。


「人間は嘘をつく」

 そういう生き物だ。そんなことで怒るなど馬鹿げている、と思っているようだった。

「人と約束をしたことがあるの」

 鬼のくせに、と思った。鬼は私を見て、唇をゆがめる。


「昔ここで人間の女と会った。毎年夏になると現れる女だった。ある年、また翌年来る、その時一緒に行くと女は言った。だが来なかった」

 それだけのことだ、と鬼は言った。

「人は裏切る。言葉を鵜呑みにするなど馬鹿げていると思った。だが、もしや、とも思った。俺はここにいたが、女は来なかった」


 待っていたとは言わなかった。待っているとも言わなかった。

 だが鬼が、待つとはなしにでも、待っていたことなど分かる。もしこの鬼が昔語りの鬼なら、少し、数十年気にかけるくらい、大したことではないのかもしれないけれど。


「まだ待ってるの?」

 鬼は答えなかった。母の名を呼んだ鬼。私がこの山に来ることを、ひどく恐れた母。

 ――女の子は、特に花嫁は近づくなと、きつく言いつけられるこの山に現れたという女の人は、どういうつもりだったのだろう。


「お前も、赤い着物を着て嫁ぐのか」

 鬼は、母の花嫁姿を見ただろうか。

「そうよ」

「他の土地では、花嫁は白い着物を着るものだろう。なぜお前たちは、赤を着る」

 赤は祝いの色。赤は魔除けだと、母は言った。

 鬼に襲われないための魔除けだと。


「赤い色、恐くないの」

「赤は血の色。赤を恐れて、人が食えるか」

 それはそうだ。妙に納得した。


 だけど人々は魔除けと信じて、願いを込めて、あの衣装を娘に贈るのに。

 憐れなくらいに無力だ。鬼自身は、彼のための魔除けなんだってことすら知らないのに。むなしくてかわいそうだ。

 ――私も。疑うことなく彼を信じていた自分が、何故だか重なる。かわいそうだ。

 昔は花嫁が襲われたので赤無垢を着るようになったと言うけれど、鬼は面倒を恐れて襲わなくなっただけなのかもしれない。


「知らなかったの。あれはみんな、あなたへの花嫁だったのに。花嫁が襲われることが多かったから、鬼へ差し出す花嫁も用意するようになったのよ。だから、よそとは違うの」

 風が流れて、汗に濡れた私の髪を重たく揺らす。涼しげな鬼の髪はさらさらとなびいた。


 私は短い参道を歩いて、祠のそばに立つ。地面に座って祠にもたれる鬼が見上げてくる。その涼しげな瞳を見返した。


 じんわりと汗がにじむ。これは、暑いから。ただそれだけ。ああ喉が渇いたなと思う。暑いから、それだけ。


「ねえ、約束の人は待っても来ないよ。わたし、あなたと行くわ。嘘ではない証しに、赤い着物を着てあなたに嫁ぐ」

 ――私も鬼に嘘をつく。人間だから。


 黒い気持ちがずっと心の底に淀んでいる。私はずっと憎悪の中を漂っていた。その憎悪の底から、手を伸ばす。


 鬼は穏やかに私を見ている。

 鬼はとても若く見える。だけど昔話のまま生きて、昔の約束を何十年も覚えている鬼は、ただただ年寄りなのかもしれない。

 だから木のように穏やかで、枯れた目で私を見る。婚約者の彼の、意志を隠す穏やかさとは違う、意志の見えない深い目で。


「だから、花婿を殺して、花嫁を奪ってもいいのよ」

 あれはお飾りなんだもの。




 髪は結いあげて日本髪に。目を伏せて、赤い目張りを施される。ひやりとして筆がくすぐったい。

 見慣れない鏡の中の自分を見ているうちに、美容師は私の唇に真っ赤な紅をひく。水化粧をした白い顔の中で艶々と光っている。


 なんだか、狐みたい。少しおかしい。

 赤い着物に赤い綿帽子、白い顔が浮き上がるようだった。ますます、妖怪じみていると思う。どこか禍々しさすら感じた。


 やがて花嫁の家に、花婿が迎えに来る。

 祖母が出迎え、私は母に手を引かれて玄関を出た。そこに黒羽二重の紋付き袴を着た彼がいる。

 彼は土地の風習にならって、鬼の祠にお参りをすませてきたはずだった。私はこれから、迎えに来た彼と一緒に、地元の大きな神社へ向かうのだ。土地の人たちは長い花嫁行列を楽しみにしているそうだ。


 赤に染まった私を見て、彼は少し奇妙なものをみるような顔をしたけれど、目が合うといつものように微笑んで「綺麗だよ」と言った。

 本心などしまってしまえる、そういう男だ。


 私は笑顔で、ありがとうと応える。私も本心を心の中の祠にしまう。もう黒い感情は私の中にはない。


 彼の着物が白だったらいいのに、と思う。

 黒羽二重の紋付きではなくて、白だったら良かったのに。さぞ美しく赤く染まることだろう。


 そんなところを想像しながら、私は晴れやかにこの家の門を出る。

 

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