第8話
コピー機の紙を補充し、お湯を沸かし、換気を行い、新聞を取りに行く。
大澤めぐみは、そんな雑用を誰もいない事務所でこなしていた。気づいた者がやることになっているが、大抵は一番早く出社するめぐみがこの作業を行っている。掃除を行い、メールをチェックし、紅茶を淹れ、始業時間まで他の社員と他愛もない会話を交わす。
「――そういえばさあ、土曜の夜更かし観た?」
隣のデスクの先輩、青識さんが聞いてきた。さっきからずっとしゃべりかけてくる。彼女には常に勝手に喋り続ける傾向があるが、受け身に回れるので楽と言えば楽だ。
「見ましたよー、盛りだくさんでしたね」
「もう桐谷さんが可愛くて…」
そんなくだらない会話が続く。
「――それにしても素人二人がゴールデンで2時間持たせるってすごいですよね」
「うんうん。桐谷さんとイルマニアね。でもわたしイルマニアはちょっとダメだわー」
「あっ本当ですか。実はわたしもなんです」
「だよねーアレ好きな人間なんているのかねー」
「青識先輩。」
「はい?」
「わたし今日は青識さんにお伝えしたいことがあるんです。」
「んん?どうしたの?」
「ずっと前から気になってました。でも今までの私には無理で。だけど今ならできます。」
めぐみは椅子から立って一歩下がり、ゆっくりと手を上げる。
―――今から、青識さんを、殴ります。
めぐみは大きく踏み込みあげた拳を勢いよく振り抜いた。
「ガッ、痛!?ちょっとなにすんの大澤さん?」
椅子から転げ落ちる青識。
めぐみは気にする様子もなく、朝早く会社に持ってきた金属バットをデスクの下から取り出す。
「え…?何それ…ちょっとやめて。待って待って待って待っ」
怯える青識に金属バットが容赦なく振り下ろされる。
「があぁぁぁ!痛い!痛い!やめて!やめて!なんなの!?あんた私に恨みでもあんの!?」
―――いいえ、あなたに恨みはないわ。春原のときも、起爆のときも、ぴるすのときも。変異が起きるこのオフィスで唯一あなただけが変わらず接してくれた。
つまりあなたがこのオフィスに起こる変異の中心。あなたが変異の特異点。
「なに、なんなの…ね、ね、大澤さんちょっと落ちつこ?あんたちょっとおかしいよ…」
―――そう。おかしいのはわたし。わたしはあなたであなたはわたし。この世界の綻びはあなたでありわたし。あなた、つまり私自身を依り代にして赤ら顔を降ろす。そのためにこうしてあなたを殴っているの。
めぐみは喋りながらもバットで青識を殴り続ける。
「だああああ!いやああ!やめて!やめて!ねえ誰か!誰か!助けて!なんで誰も助けてくれないの!ねえ誰か!」
―――周りを、良くみるのだわ。
青識は周囲を見渡す。オフィスに誰もいない。いや、青識のデスクも椅子も、観葉植物もドアも窓もカーペットも何もない。
青識は自分がだだっ広い、白い空間にいることに気づいた。
「え?ちょっとなんなのここ…?何で誰もいないの…?いや、やだ!ごめんなさい!ごめんなさい!帰して!家に帰して!」
―――あなたの家はここよ。それに会社の人たちだけじゃない、みんなここにいる。今この世界はこの空間に凝縮されているの。だからあなたの居場所はここしかないの。
「嘘…そんな、嘘だわ…。うっ…。」
鈍かったインパクト音に水音が混じり始める。青識の反応も次第に鈍くなってきた。
―――そろそろね。
スカートを脱がしストッキングを破り、ショーツを脱がし始める。
「あ…?ちょっと…あんた…なにしてんの…?。いや…やめて、やめて、やめてやめて!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめん」
バットは巨大なバンテリンとなっていた。
―――さあ、これで仕上げよ。この世界に潜在する全ての赤ら顔が、今この場所に発現するのだわ。
「けおおおおおおお!!!!!!1145141919893」
ぴるすは爆発四散し、ぴるすの中から赤ら顔の歌舞伎役者が現れた。
―――来たわね。
白い空間が瞬く間に洋館の大広間へと変わっていく。大澤めぐみが子どものころ、一度だけ両親に連れて行ってもらった場所だ。幼いめぐみはいつかこんな屋敷に住みたい、こんな大広間でダンスパーティをしてみたいと夢見た。
めぐみ自身もまた、この場所にふさわしいフランス人形のような赤いドレスを身に纏っていた。
―――赤ら顔よ。わたしの全て、いや、わたしとわたしの同胞の全てが今この空間とわたしに収斂されているわ。わたしがあなたに飲み込まれるか、わたしがあなたを取り込むか。決着がつくまでわたしはあなたを逃さない。
ぴるすから生まれた歌舞伎役者はゆっくりと立ち上がり、めぐみと対峙する。
―――さあ。アリスゲームの始まりなのだわ。
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