第2話
コピー機の紙を補充し、お湯を沸かし、換気を行い、新聞を取りに行く。
大澤めぐみは、そんな雑用を誰もいない事務所でこなしていた。気づいた者がやることになっているが、大抵は一番早く出社するめぐみがこの作業を行っている。掃除を行い、メールをチェックし、コーヒーを淹れ、始業時間まで他の社員と他愛もない会話を交わす。
「――そういえばさあ、土曜の夜更かし観た?」
隣のデスクの先輩、青識さんが聞いてきた。さっきからずっとしゃべりかけてくる。彼女には常に勝手に喋り続ける傾向があるが、受け身に回れるので楽と言えば楽だ。
「見ましたよー、盛りだくさんでしたね」
「もう桐谷さんが可愛くて…」
そんなくだらない会話が続く。
「――それにしても素人二人がゴールデンで2時間持たせるってすごいですよね」
「うんう…うん?二人?この前イルマニア出てたっけ?」
「あれ?出てませんでした?」
「どうだったっけ?見逃したかも。でもわたしイルマニアはちょっとダメだわー」
「あっ本当ですか。実はわたし結構好きですよ」
「うわー大澤さんセンスないわー」
朝礼で今日の予定が説明される。今日は朝から監査法人が来ることになっている。とはいえめぐみ自身は作成済の資料を提出するだけで、今日の監査に関して特にやることはない。午後から別件で外出するので、それまでに今日の仕事を終わらせる予定だ。
「大澤さん、ちょっとA社の注文の処理お願い出来ますか。僕は今日監査の対応があるから」
予定が狂った。春原係長である。柔らかな物腰だが、ノーモーションで仕事を丸投げしてくる要注意人物だ。
「すみません、今日わたし午後から出なきゃいけないので遅くなっちゃいますよ?」
「ああ大丈夫、今日中にやってくれればそれでいいから。それじゃあ頼みます」
つまり午前中にやるしかないではないか。人の話を聞いているのだろうか。そもそもA社から連絡がきたのは木曜だ。今日監査がある事は分かっているはずなのになぜ先週のうちにやっておかないのか。最初から誰かにやらせるつもりだったのではないか。
死ねばいいのに。
めぐみは心の中でそうつぶやいた。
――お待ちしておりました。こちらへどうぞ。
監査が来たようだ。
「今回監査を担当させていただきます○○です。本日はよろしくお願い致します。しばらく会議室をお借りしますが、どうか皆様、お気になさらず仕事を続けてください。」
監査の男はそう言うと、春原の方に歩み寄り、おもむろに組み伏せた。
「あがっ!?ゥッ―――!?!?!?」
澱みない動きで春原の動きを封じ、苦しむ春原を押さえつけながらバッグから取り出した容器詰めの液体を、春原の口に流し込む。何かの毒だろうか。春原は白目を剥いて痙攣し始め、すぐに動かなくなった。
何が起こっているのだ。
めぐみは呆気にとられていた。一つだけ確かなことは、春原係長が死んだということだ。
これでA社の注文処理しなくて良くなったのだわ。いや、でも係長が死んだら私が担当になるのだわ。
脳が状況理解を拒否しているのだろうか。なぜか妙に冷静な物思いにふける。
――さん…
――――さん!
「大澤さん!早く!逃げないと!」
青識に手を引かれ、めぐみは会社から逃げ出した。めぐみだけではない。気づけば社員全員が会社を脱出し、監査の男が春原の死体と共に会議室に立てこもる、という事態に陥っていた。
これだけの騒ぎである。誰かが通報したのだろう。事務所が入っているビルの前にパトカーが到着した。事情聴取だろうか、警察官の一人がめぐみに話しかけてきた。
「おめでとう大澤くん。春原は死んだのだ。」
…は?
「君の世界は常に君の望む姿であり続ける。春原は君の望む方法で死んだのだ。」
…すみません、意味が分かりません。あなた本当に警官ですか?
「大塚君が春海君の死を望み、九代目監査員がハウルの動く城君を殺したのだ。すべては君が望んだことだ」
交差点の向こうにある商業ビルの電光掲示板に先ほどの警官が映り、めぐみに話かけてきた。
警官の顔は、赤かった。
めぐみの脳が急回転する。一瞬で相手を組み伏せる、そんな芸当がただの監査法人職員に出来るだろうか。男が取り出した液体は毒ではない、どこかで見たことがある第2類医薬品ではなかったか。男の顔色は何色だっただろうか。
あれは監査の男ではない。赤ら顔のラ・マンチャの男だ。
…わたしは殺して欲しいなんて頼んでない。わたしのせいじゃない。
「君が望めばヒューマンビートボックス君を生き返らせることも出来るし、そもそも彼が死んでいない世界を作り出すことも出来る。あるいは、フィッシャーマンズホライゾン君が存在しない世界も思いのままだ。すべては大塚家具跡目騒動君の気持ち次第だ」
わたしが、望む世界…
どれだけの時間が経っただろうか。一日かも知れないし三日位かもしれない。あるいはもう百年も二百年も経過しているのかも知れないし、一秒二秒やそこらかもしれない。
赤ら顔の歌舞伎役者がジャニーズの足を折り、監禁する。そんな様子が、もうずっと目の前で繰り広げられていた。
実のところ、めぐみは自分がなにを望んでいるのか分からなくなってしまっていた。
最初は春原を生き返らせたり自分が望む世界を好き勝手に作り出していたが、もはやそのことはめぐみの記憶にはない。いまやめぐみが辿る事が出来る最初の記憶は、赤ら顔の歌舞伎役者とジャニーズだけなってしまった。
めぐみの五感は失われつつあり、もはや目の前で延々と繰り返される骨折を見ることしかできない。いや、今見ている映像も脳に焼き付いた残像のようなもので、既に視覚も失われているのかもしれない。
もう飽きたのだわ。
めぐみは意識を放棄する事にした。
歌舞伎役者もジャニーズもめぐみの世界から消え失せた。今後彼らがこの世界に現れることはないし、めぐみの世界は何物も生み出さないだろう。
―――ぃ
―――――ィ
―――――――イ
聴覚を手放したはずのめぐみの耳に、懐かしい声が聞こえてきた。
アーイ↑
イルマニア
埼玉入間
代表さ
アーイ↑
カギを開け、玄関のドアを開く。
めぐみがさっき買ったのと同じ飲料を、歌舞伎役者が飲んでいる。そんな様子がテレビに映っていた。インターネットでは彼を赤ら顔にしたり、顔を左右対称にしたりと心ない画像が作られているが、彼は立派な九代目松本幸四郎だ。めぐみはテレビをつけっぱなしだったことを思い出した。どうやら月曜から夜更かしが終わり、次の番組に向けてCMをやっているようだ。
部屋には特に変わった様子はない。出かける前と同じワンルームである。
なんてことはない。全てはくだらない妄想である。相変わらず世の中はつまらないままだ。
本当にそうか。
めぐみは珈琲を飲みながら自問自答した。
九代目松本幸四郎を見ながら珈琲を飲むなんて中々粋ではないか。世の中は退屈だが言い換えれば平和という事だ。仕事だってつまらない事ばかりではない。まだまだこの街も探索してない所がたくさんあるはずだ。イルマニアも桐谷さんも飽きたとはいえ嫌いじゃない(イルマニアは今日のスペシャルには出ていなかったけれど)。
案外、これが自分の望んだ世の中なのかも知れない。
「マツコとマツコかよ。二連続マツコはさすがに飽きるのだわ」
めぐみはCM明けのテレビ番組を見てそんなことをつぶやきながら、明日はどこに出かけようかと思いを巡らせていた。
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