後
先日とは反対側に、つまり名古屋側に一つ目の駅。
「今まで気づかなかった」
「僕もほとんど乗ったことがないよ」
二人が向かったのは、改札を抜けた先の小さなホームだった。すでに何人もの人がいて、旗を持った女性がいろいろと解説をしていた。
「楽しみ」
「うん」
そのローカル線は、山間を縫っていなかの村々を結ぶものだった。昔は水菜が高校に通うのに使っていたらしく、何度か幸也はその話を聞いていた。
美鶴はいなかを知らない。見るものすべてが新鮮だったが、何から見ていいのかもわからない状態だった。幸也はそんな彼女に、観るべきところを教えてあげたかったのである。
列車が、ホームに入ってきた。
「一両編成だ」
「うん」
入ってきたのは、前後に運転席がついている車両だった。普段美鶴が乗っているのは、八両編成。
列車に乗り込み、二人は四人掛けボックス席に向かい合って座った。多くの人が乗車し、最後にかごを持った制服の女性が乗り込んできた。
ワンマン電車に車掌が乗り込んでくるのかと幸也も驚いたのだが、発車直後にその女性はマイクを手にはきはきとした声で話し始めた。
「本日はご乗車まことにありがとうございます。この列車は……」
列車の行き先のみならず、鉄道の歴史や観光地、そして電鉄特製のお菓子の売り込みまで始めたのであった。
「すごいね」
「うん、すごい」
特製お菓子もいくつか売れ、観光客たちはワイワイと楽しそうに話していた。幸也が予想していた、静かなローカル線の旅にはなっていなかった。
列車は、急傾斜を上っていく。美鶴は、窓に張り付くようにして流れゆく景色を眺めていた。幸也にとってはどれもありふれたものだったが、美鶴は様々なものにたいして目を輝かせていた。
途中の駅で、観光客たちが大量に下りて行った。特に周りに何かがあるということではなく、駅名の縁起がいいということで訪れる人が増えている、とアナウンスされた。幸也と美鶴は同時に、「ふうん」と言った。
二人は、六つ目の駅で下車した。ホームの向かい側にも列車が来ており、二両はここですれ違っていく。列車が走り去るのを見送り、そのあともしばらく美鶴は線路を眺めていた。
「いいね」
「何が?」
「ここでしか、会えないんでしょ」
幸也はしばらく、その言葉の意味が分からなかった。顎に手を当てて、首をひねる。
「上下線が?」
「それ、乙な言い方よね」
小さいが駅員のいる駅舎を通り過ぎると、そこにはバス停と、いくつかの小さな店があった。
「ここが、目的地?」
「もちろん、この先だよ」
少し進み、角を曲がる。そこにはただ古いだけではなくて、趣のある木造の建物が整って並んでいた。
「わあ」
「城下町なんだって」
幸也も詳しいことは知らなかった。水菜の同級生がこの町の出身で、昔一度連れてきてもらったことがあったのだ。
「あっ、全部二階建てだ」
「う、うん」
「木の看板だ」
「大きいね」
美鶴は首を大きく振って、様々なものに驚いていた。幸也は、自分が都会に行った時も同様になるのか想像してみたが、都会のことを想像しきれなかったので、イメージがぼんやりしっぱなしだった。
人通りはほとんどない。静かな通りを、二人は並んで進んでいった。薬屋や和菓子屋は、昔から変わらずに、それでも少しずつ変化してここにあるのだろうな、と幸也はそんなことを思った。
「あ、城跡だって」
「本当だ」
道の先には山しか見えなかったが、確かに、城跡があるという看板が出ていた。
「行ってみたい」
「うん、行こう」
その先は、幸也も歩いたことがない道だった。次第に周囲の家もどこにでもある形になっていき、さらに進むとそれもなくなった。山に近づくと二車線の道に突き当たり、国道と書かれていた。
「まだ長そうだよ」
「でも、行ってみよ」
道と、木々。時折通る車。趣は全くない、どこにでもある山中の道になっていた。二人は次第に口数も少なくなり、ただ淡々と歩みを進めた。
「あっ」
「ここからだ」
青い看板に、左に曲がれば城跡だと示されていた。
脇道に入っていくと、うっそうと茂る木々の葉っぱが太陽の光を遮り始めた。幸也は、「凍結注意」の看板に軽く触れた。そして反対の手で、美鶴の手をつかんだ。美鶴は、少し笑みを浮かべた。
幸也は、小さい頃に父親と山登りに行ったことを思い出していた。疲れて前に進むのが嫌になり始めた頃、父は幸也の手を握ってくれた。
風の通る音、雲の流れる音まで聞こえるように幸也は感じた。
「あれかな」
美鶴が指差す先には、石垣があった。形の異なる様々な石が積まれ、その上には何本もの木々が生えており、大きな盆栽のようだと幸也は思った。
「あれだね」
さらにその先には駐車場があり、二台の車が止まっていた。二人はしばらく、辺りを散策した。
「あたしね、昔こういうところ来たことがある」
「こういうところって」
「昔お城があったけど、今はないところ。なんていうか、さびしいけど勇ましいっていうか」
年配の夫婦が、「思ったようなものはなかったわね」「そうだね」と言いながら、車に乗り込んだ。
「誰と行ったの」
「おじさん。小さい頃の楽しい思い出は、全部おじさんと」
「今でも会うの」
「ううん。亡くなったの」
美鶴は目を細めて、空を見た。
「そっか」
「ねえ、帰る?」
「うん」
「このままどっかいっちゃってもいいかもねー」
「え」
「いつも思う。このまま帰らなかったら。別の電車に乗ったら。下りなかったら。一人じゃできないけど、幸也とだったらとか」
「僕は……家に帰らなきゃ。母さんが待ってるもの」
「わかってる。わかってるし、結局は、あたしもちゃんと帰るから」
つわものどもがゆめのあと。幸也の頭に、そんな言葉が浮かんだ。それをどこで聞いたのかは全く思い出せなかったが、現状にぴったりの言葉だと、幸也は思った。
成長痛なのか筋肉痛なのか、幸也は足が痛くて眠れなかった。そしてそういう時の彼は、縁側に出てカブトムシを見ている。
ゼリーや樹液を舐めるカブトムシを見ながら、幸也は昼間のことを思い出していた。二人は自由に、行きたいところに行った。幸也から見た美鶴は、楽しそうだった。けれども、どこか苦しそうでもあった。
幸也は、普段の美鶴を知らない。どんな家にいるのか、どんな家族といるのか、どんな学校に行っているのか。興味がないわけではないが、聞けずにいた。
幸也は時折、田舎の町に閉じこもっているのは、虫かごの中にいるようなものだと考えた。けれども、美鶴の方がより虫かごの中にいるように感じたのだ。遠くから来て、遠くへ行って、それでも何かに閉じ込められているようだった。
幸也は急に、自分が悪いことをしているのではないかと思い始めた。それは、カブトムシに対してだった。彼らは、閉じ込められている。幸也がそれを選択したから、そうなっている。
これまで、虫に対してそんなことを感じたことはなかった。本当に突然だった。
幸也は、両手で虫かごを抱えた。手の中に、カブトムシたちの住まいが、生活が、世界があった。そのことが、怖くなった。
幸也は、虫かごのふたを取った。一匹のオスが、壁に角をぶつけているのが見えた。
「飛んでいってもいいよ」、
カブトムシたちは、夜空が現れたことにまだ気づいていないようだった。
幸也は、部屋に戻った。これまでの時間を無駄にしたかもしれないという後悔よりも、これまでできなかったことをしてしまえたという高揚感が上回っていた。
そしてその高揚感は、次の夜まで続いた。結局カブトムシたちは一匹も逃げず、それまでと変わらずかごの中で暮らしているのを見て、幸也の心は一気に冷めてしまうのであった。
その女性は、二人が種まきをしているときに現れた。
ある日草むしりを終え、きれいになった畑を見た幸也は、祖父とキュウリを収穫したときのことを思い出していた。みずみずしくて濃厚なキュウリの味は、今でも幸也の舌がおぼえていた。
「今の僕なら、できるかもしれない」
ふとそう思った彼は、美鶴に相談した。
「野菜を育てたい」
「面白そうね」
こうして、中学生二人による畑作りが始まった。
幼いころの記憶以外、幸也には何の知識もなかった。水菜に聞いても、「私は鶏係だったから」と何も得られなかった。教師は、インターネットだった。
倉庫からスコップや鍬を引っ張り出し、ホームセンターまで肥料と種を買いに行き、わからなくなると美鶴がスマートフォンで調べ、二人は何とか少しだけのスペースを準備することができた。
そしていよいよ、種をまく段階に入ろうとした、その時だった。
「こちらは井田さんのお宅ですか」
若い女性の声だった。
「あ、そうですけど……」
「ひょっとして幸也君?」
「はい」
「よかった」
その人は、うつろな目をしていた。そして、赤ん坊を抱えていた。
「嘉昭、あなたの叔父さんですよ」
幸也は、「おじさん」という言葉の意味についてしばらく悩んだ。「あなたの」という言葉と結びつけることに思い至り、ようやく意味自体は理解することができた。
「あの、僕が?」
「そう。お母様はあちら?」
「ええと、はい」
その人は、ゆっくりとした足取りで、家の方へと歩いて行った。
「知らない人なの」
「うん、見たことない」
「大丈夫かな」
「見に行く」
二人は母屋の裏に回り、風呂釜の部屋から中をうかがった。すでに先ほどの女性は家の中に通されていたようで、水菜との会話が聞こえてきた。
「では、亜子さんは淳也とはずっと一緒に暮らしてたんですか」
「はい。二年ほど前から」
「知りませんでした」
「そうですか。子どもができたことも、ご存じなかったんですね」
「何も聞いていませんでした」
美鶴の視線に、幸也は首を振った。就職してからの兄、淳也は、どのような生活をしているのかほとんど家族に知らせていなかったのである。
「そんな気はしていました。私も、どこかで得体が知れないところがありましたから」
「淳也が、ですか」
「はい。大学も、嘘なんですね」
「あの子がそう言ったんですか?」
「初めて会ったときは、大学四年生だって。卒業したら一緒に住もうと言われて、そうしました」
幸也は、その場にしゃがみ込んだ。膝を抱えるようにして、少し震えていた。美鶴は、そんな彼の背中をさすった。
その後も話は続いた。それによると淳也は妊娠がわかるとあまり家に帰らないようになり、ついには連絡も取れなくなったということだった。学歴も仕事先も嘘で、しばらく何の手がかりもない状態だったが、ある日ふと亜子は思い出した。テレビがリニア新駅のニュースを映した時、「あ、うちだ」と言ったことを。その時は特に何も思わずにいたが、それは淳也が故郷について唯一口にしたことだった。
そして今日、とにかく亜子は、リニアの新駅ができるという土地までやってきた。いなかのことなので、名前だけの手掛かりで家を探すことができた。
幸也は、唇をかみしめ、拳を固くして話を聞いていた。
「幸也、行こう」
美鶴は、後ろから幸也を抱きしめた。
「うん、種をまきなかゃ」
幸也は、笑おうと思ったし、笑えていると思った。けれども美鶴は、彼の顔を見ようとはしなかった。幸也の複雑な表情は、隠されたままで済んだ。
畑に戻ってきた二人は、大根の種をまいた。二人とも何事もなかったように、予定していた作業を淡々と続けた。
「じいちゃんが、よく言ってたんだ。食べたいから、おいしく作れるって」
「それは、そんな気がするね」
「おいしくなりますように」
「なりますように」
手を合わせて目をつぶると、一気に幸也の瞳の中に涙が溢れ返った。流れ出すものに誘われるように、嗚咽が漏れた。
「兄ちゃん、悪い人だった」
「幸也」
「あの日、約束したのに!」
幸也の心の中に、母の言葉が響く。「お父さんは、イケナイコトをしたの」そして、幸也自身が独白する。「兄ちゃんも、イケナイコトをした」
いつか自分もそうなってしまうのではないか、そう考えると幸也は怖くて仕方がなかった。
「幸也、偉いよ」
「僕が?」
「今まで、我慢してたじゃない。自分のすべきことをするまで、泣かなかった」
美鶴の目は、大きく、まっすぐに、幸也をとらえていた。幸也はにじむ景色の中で、しっかりと見返そうとした。何かから逃げるたびに、父や兄に近づいてしまう気がした。
幸也は、涙をぬぐった。弾けた水滴が地面に落ちて、まいたばかりの種へ向かって染み込んでいった。
幸也は、倉庫の上にある物干し台から、あたりを眺めていた。坂を下って、竹林の向こうに広がる田んぼ。小川を挟んで、斜面になっている住宅地。さらに遠くにはいくつかの高い山々。幼いころからそれほど変わらぬ風景だったが、昨日までとも全く違うものに見えた。
今日は、美鶴は来なかった。美鶴の学校は少し早く夏休みが終わり、すでに二学期が始まったのである。
水菜も昨日から、元気がなかった。亜子が帰った後しばらくは自室にこもっており、夕食はいつもより一時間遅れた。それでも彼女は、幸也に対しては笑顔しか見せなかった。
幸也は、昨夜に限ってはよく寝た。何も考えたくないと思ったら、すぐに眠ってしまった。
歳の離れた兄は、幼い頃からよく幸也と遊んでくれた。父親でもあり、友人でもあった。幸也にとって兄は憧れの対象であり、正しさの象徴だった。
けれども、昨日のことで幸也は気付いたのだ。彼は、家での兄しか知らない。学校での兄、職場での兄について何も知らない。
幸也は階段を駆け下りて、車庫に停めてあった自転車にまたがった。そして、全速力で漕いだ。
町を越え、国道を少し進み、小さな電気屋の前で幸也は止まった。
「こんにちは」
「いらっしゃい……ん」
「お久しぶりです」
店番をしていた青年は、目を細めて来客の顔を確かめた。
「幸也君?」
「はい」
「おー、おー、どうしたの」
「兄のことを聞きたくて」
「え」
「兄は、どんな人でしたか」
青年は、首をひねった後、何回かうなずいて、言った。
「まあ、面白い奴だったよな。人気だった」
「他には」
「絵がうまかった」
幸也は、一息ついた後、ことさら険しい顔になって尋ねた。
「悪いところはありませんでしたか」
「悪いところ? あー、スーファミのソフト借りパクされた」
「えっ」
「あーいいよ、もう本体もないし」
「あ、はい……」
それだけでも幸也は驚いていたのだが、顔色が変わらないようにと努めた。
「他には……」
「あー、言っていいのかな」
「お願いします」
「もてたよ。もてたし、結構もめてたかな」
「え」
「うん、まあ、もてたからね」
「そう……ですか」
「知らなかったんだ」
「はい……ありがとうございます」
「どうしたの?」
「いえ、気になったんで」
青年は、カウンターから出て、幸也に歩み寄ってきた。
「問題起こしたのか」
「えっ」
「いつか、何か起こすんじゃないかと思ってた」
「そんな……」
「ごめん。でもさ、なんというか、危うい気はしていたんだ」
幸也は、思わず頭を抱えた。そして、うつむいたまま、さらに礼をした。
「あの、もし兄から連絡があったら、教えてください」
「え、行方不明?」
「かもしれません……」
「それは困ったね。わかった、絶対知らせるよ」
幸也は、何度も頭を下げながら店を出た。
あと何人かに聞きに行くつもりだったが、幸也の足は自宅へと向いた。
「くそっ、くそっ」
今幸也の胸に一番幅を利かせている感情は、怒りだった。
「知らなかったっ、何も知らなかったっ」
幸也は帰宅すると、兄の部屋に飛び込んだ。玩具がしまわれている箱をひっくり返し、スーファミのソフトを探した。そして、二本のソフトが見つかった。一本は、幸也も見たことがある物だった。兄もまた、母から一本だけゲームソフトを許されていたのだ。しかしもう一本は、見たことのないものだった。
「はは」
幸也の胸を襲った次なる感情は、ばかばかしさだった。悪は父で、正義は兄で。ずっと信じ続けていた、支えとなっていた思いがガラガラと崩れ去っていった。
そして幸也は、自らがなくしたと思っていたおもちゃも、その箱から見つけ出した。もはや、彼は適切な感情を見つけられなかった。
最後のカブトムシがこの世を去った日、初めて幸也は美鶴に電話をした。
「どうしたの」
「あ、うん。どうしてるかなって」
「今、洗濯が終わったよ」
「自分でしてるの?」
「言わなかったっけ」
幸也は、懐中電灯を持って畑の真ん中にいた。大根の成長を観察するのが、日課となっていたが、夜に来るのは初めてだった。
「美鶴は偉いなあ」
「幸也もだよ。ねえ、本当にどうしたの」
「笑わないでよ。不安なんだ。美鶴には僕のことがどう見えてるのかって」
「突然思ったの?」
「最近。父さんも兄ちゃんもイケナイコトしてて、僕も実はそうなんじゃないかって。美鶴にはそう見えてるんじゃないかって」
「幸也は、ちゃんとしてるよ。ねえ、行こうか」
「え、でも」
「どうせあたし一人だもん。待ってて」
電話を切ると、幸也は夜空を見上げた。月は円に近く、雲が出て星はまばらだった。星は、とても遠くに感じた。父と見た星空。兄と見た星空。一人で見る星空は、今まで見たものとは全く違っていた。
「いいよね、ここ。すごく星が見えるもの」
予想よりも早く、美鶴はやってきた。懐中電灯で彼女を照らすと、幸也は思わず声を上げた。
「ちょっと、美鶴」
「しょうがないじゃん、慌てて来たんだから」
美鶴はピンクのふわふわとした生地の寝巻に、青いパーカーを羽織っていた。
「ありがとう」
「というか、幸也ケータイ持ってたんだ」
「緊急用にって、何年か前のガラケー」
「なんか、合ってる」
「部屋に入ろう」
二人は、縁側から家の中に入った。リビングでは、水菜が本を読んでいた。
「こんばんは」
「あら、美鶴ちゃん。どうしたの」
「幸也君がさびしいから会いたいって」
「まあ」
「ちょっと、美鶴」
「間違ってないでしょ。あの、泊まっていっていいですか? どの部屋でもいいので」
「おうちの方は大丈夫なの?」
「連絡しておきます。帰ってこないかもしれないけど」
水菜は、本をテーブルに置いて頬杖をついた。
「じゃあ、客間で三人で寝ようか」
「いいんですか」
「本当の家族みたいで楽しいじゃない」
「はい」
三人は、客間を片付けて布団を敷いた。幸也は、枕を並べながら妙に懐かしさを感じていた。
「お兄ちゃんと、三人でこうやって寝たからね」
水菜は、そう言って真ん中の布団に入って、両手を横に伸ばした。
「あっ」
幸也は、思い出した。父がいなくなってから、息子二人で母を挟んで寝るようになった。両側から、母の手を握って。すでに大きくなっていた兄は嫌がったが、それでも最終的にはいつも三人で手をつないで寝ていた。
離れを片付けてからは、それぞれの部屋ができて三人で寝ることはなくなった。幸也はそれを特別なことだと考えたことはなかったが、思い出してみると大切な時間だったように感じていた。
水菜の両手は、久々に定員を満たした。右手に幸也、左手に美鶴。三人は明るい天井を見上げ、それぞれの笑みを浮かべた。
「母さん、この前のことだけどさ」
「なに」
「あの女の人が赤ちゃんを僕に見せて、おじさんですよ、って」
「そうだったの。確かに、そうね」
「兄ちゃん、どこで何をしてるんだろう」
水菜は、右手の力を少し緩めた。
「本当にね、どうしようもない子。でも、きっと大丈夫」
「大丈夫?」
「淳也は、逃げ切れるほど器用じゃないから」
美鶴は、横目でちらりと水菜の顔を見た。
「幸也は、心配してるんです」
「そうなのね」
「でも私、幸也は違うと思います。逃げ出せるほど、器用でもないし」
「そうね。確かに幸也は違う」
水菜は腰を浮かせて、電灯のひもを引いた。窓から入る月明かりが、部屋を薄く照らしている。
「幸也、人は誰でもちょっとぐらい悪いことはするの。お父さんも淳也も、ちょっとやり方がまずかったけど、幸也はきっとラインは踏み越えないでいられるから」
「僕は……」
「正しくいたい」その言葉を、彼は喉の奥にしまいこんだ。それ自体が、父や兄からかけられた呪いの言葉に思えてきたのだ。
風の音、虫の声が聞こえてきた。そして、少女の寝息。
「おやすみなさい」
幸也は、思い出した。もっともっと前には、彼は父と手をつないでいた。そして、幸也に「おやすみ」と言うのだ。
幸也は、まぶたを閉じて、心も閉じた。現実も過去も想像も、全てがいらないと思いながら、眠りへと向かった。
「幸也君、いつもありがとうね」
祖母は、孫に対して深々とお辞儀をした。
「うん、また来ます」
ここ三日間、祖母のところには幸也が来ていた。駅近くの病院に移ったので、来やすくもなったが、なにより家に水菜がいないのであった。
外に出ると、すでに夕焼け空になっていた。駅までの道、幸也は何回か携帯電話を確認した。今日はまだ、着信がなかった。
水菜は今、東京にいる。
先週、電気屋の青年のところに電話があった。それは何か助けを求める内容だったようだが、幸也は詳細を聞いていない。
とにかく、兄の居場所が分かった。
その話を聞いた時、水菜は歯を食いしばった。そして、言葉を吐き出した。
「本当にたわけどもだね」
母は、淳也に会いに行くために何度も幸也に頭を下げた。幸也は、「大丈夫だよ」と繰り返した。
実際のところ、あと何日かこの状態が続けば、大丈夫かどうかは疑わしかった。幸也は学校から帰ると病院に行き、帰宅すると食事を作り、洗濯をした。そして、テスト期間も迫っていた。
それでも、母親がしていたことだから、自分もしなければならない、と幸也は思った。自分は、できる側の人間にならなければならない、と。
ただ、まっすぐ家に帰りたくはない、と今日の彼は思ったのだ。
町の中心部には大きなスーパーと、小さな店がいくつか並んでいる。その中に、小さな帽子屋があった。いなかの店だが、高級なものも取り揃えている。幸也は何度かそこを訪れたことがあった。
店の中に、紺色のハンチングが見えた。幸也は、ふらふらとそちらへと吸い寄せられていった。
幸也は、それが欲しかったわけではない。ただ、記憶にあったのだ。幼い彼は「何でも買ってあげるよ」の言葉に、野球帽を選んだ。友達が持っているのを見て、うらやましく思っていたのだ。けれどもそのあと、他にもいろいろな格好いい帽子を売っていることに気が付いた。その一つが、青いハンチングだった。
全く同じものかどうかはわからない。それでも、幸也の記憶をよみがえらせるには十分な類似性だった。
「いやあ、最近はなかなかいい物は売れなくてね」
店の奥から、声が聞こえてくる。
「でも、結構あるからうれしいですよね」
「ご主人みたいな人もたまに来てくれるから」
幸也は、首から上を動かさないようにして、眼球だけ動かして店の奥を見た。鼓動が食道を通って口から飛び出そうだった。
「いやあ、私もなかなか手が出なくてね。でも、本当に気に入ったのがあったら買いますよ」
「お願いします」
幸也の後ろを、通り過ぎていく男性。その人は、白いハットをかぶっていた。
それも、記憶の中と同じだった。
幸也は、振り返ってみた。店を出て右に曲がっていくその人の横顔が見えた。
間違いがなかった。そして、相手は全く幸也に気づいていない様子だった。
少し時間をおいて、幸也も店を出た。
「父さん……」
小さくなっていく背中を、幸也はずっと眺めていた。
そして、ポケットの中で携帯電話が震えた。
「もしもし」
「もしもし、幸也。今日ね、兄さんと話してね」
「うん」
「帰らないって。こっちで暮らすって言ってた」
「……」
「別の人と結婚してた。幸也、もうあなたが会うことはないと思う」
頭の中で記憶のかけらがぐちゃぐちゃに混ざり合って、幸也は何をどう考えればいいのかわからなかった。ただ、二回に分けて感じずに済んだ、得をしたという思いもあった。
「そっか。どうするの」
「明日帰る」
「わかった」
幸也は再び帽子屋に入り、安いキャップを購入した。
教室の机がすべて後ろに下げられて、生徒たちは広いスペースで作業をしていた。文化祭が近づく中、それぞれのクラスで準備が進められている。
幸也は、板に色を塗る係りだった。彼は特に行事に熱心になるタイプではないが、与えられた仕事はいつもきちんとしようとした。
「赤コーナー、オオタカズヒコー! 青コーナー、竹橋博義ー!」
突然、教室内に入場コールが響き渡った。作業に飽きた男子たちが、プロレスごっこを始めたのだ。
見学する者、顔をゆがめる者、応援する者などいる中、幸也は関心を示さなかった。まだ、作業に集中できていたのである。
次第に、参加する人数が増えてきた。タッチをされた者が、交代してプロレスを始める。
「ちょっと、そろそろやめなさいよ」
委員長が止めに入ったが、タッチされると少し戸惑った後エルボーをして見せた。教室内がどっと沸いた。
そのあと、最初の二人に戻って試合は続けられた。一人が振り上げたこぶしを押さえつけたときに、バランスを崩して二人は倒れこんだ。
廊下の窓が、砕け散る。
皆の時間が、止まった。そしてはっと我に返った時、視線はこぶしに集中した。幸い、けがはなかった。
当然のように教師が駆けつけて、ガラスの破片が片づけられた後、生徒たちは着席させられ、尋問されることになった。
幸也は、最初その様子をうつろな目で見ていた。よくあることが、たまたま大きくなっただけだと思った。文化祭というお祭りに向けて、気が大きくなっている人が多い。だから、ちょっとしたことは起こりうる。早く終わらないかな。そんなことを考えていた。
「少しでも参加した奴は手を挙げろ」
プロレスをしていた二人は当然だが、それ以外には一人しか手を挙げなかった。その一人は、周囲を見回して目を丸くしていた。幸也も、予想外のことにまぶたに皺を作った。
「おい、本当か」
他にも参加者は大勢いた。委員長も一度は乗った。けれどもみなうつむきながら、机の下に両腕を収納していた。
三人は前に呼ばれ、こっぴどく叱られた。幸也は、それ以外の生徒を軽蔑した。三人だけを犠牲にして許しているという意味で、自分自身も軽蔑の対象だと思い、肩を落とした。
その後、学校からの帰り道、幸也は何回もつぶやいた。
「イケナイコト、イケナイコト……」
そして、頭の中には美鶴の声が響いている。「イケナイコトは、楽しんだよ」
土曜日の昼。美鶴から呼び出された幸也は駅に向かった。
道の途中、田んぼでは稲刈りが行われていた。日差しも弱い。自転車に乗った同級生が遠くから手を振っていた。幸也も手を振った。
踏切を渡り、スーパーの裏を通り、駅へ。駅舎の中に入ると、待合室の隅に制服の少女は座っていた。
「やあ」
美鶴は幸也を見つけると、小さく手を挙げた。
「元気ないね」
幸也は、彼女の隣に腰おろした。
「そうね、元気ないから、さぼっちゃった」
「悪い子だ」
「うん、悪い子」
次の列車まで時間があり、二人の他には駅員しかいなかった。遠くで走る、工事用車両の音が聞こえてくる。
「学校が嫌なの?」
「学校に行く、自分が嫌なのかな」
「難しい」
「考えるとね、どんどん難しくなっていくよ」
美鶴は、髪をかきあげて、幸也の眼を見た。
「考えないと、簡単。行きたくないんだもん」
幸也は、美鶴の右手に左手をかぶせた。
「じゃあ、なんで行ってたの」
「普通行くでしょ」
「美鶴は普通?」
「普通だと、安心される。あ、成績は普通じゃダメ」
ぶろろぶろろ、と、駅舎の脇から音が聞こえてきた。幸也は立ち上がり、首をにゅっと外に出した。
「美鶴、行こう」
「えっ」
幸也は美鶴の手を引いて、駅舎から飛び出した。そしてそのまま、停車していたバスに飛び乗る。
「ちょっと、これ、どこ行き?」
「知らない」
「どこで下りるの?」
「適当。さぼりついで」
二人の他に乗客はいなかった。二人は、一番後ろの席に並んで座った。
「結構強引なんだね」
「僕も知らなかった」
「バス、久しぶり」
「……初めてかも。あ、修学旅行除いたら」
「それは初めてとは言わない」
バスはしばらく二人の町を走り、すぐに美鶴は全く知らない風景の中へと入っていった。
「電車とは全然違う」
「そうかな」
「違うよ」
電車よりもゆっくりと、バスは道を進んでいく。美鶴は窓にかじりついて、外を眺めていた。
「次で下りようか」
「うん」
行き先は、次の駅だと分かった。知らないところで下りた方が、楽しい。幸也はそう考えたし、美鶴もそう考えているだろうと思った。
バスが停車し、幸也が「二人分です」と言って小銭を運賃箱に入れた。「いつもありがとうございます」と運転手が行ったので、美鶴は少し笑った。
「ねえ、美鶴」
「なに」
「どうしよう」
「うーん」
二人が辺りを見回してまず見つけたのは、まずは自動車学校だった。用はない。そのほかには、ラーメン屋。
「……幸也、食べようか」
「うん」
二人は急に空腹を実感して、その欲求に従うことにした。
「どこかもわかんないところで、適当に入った店でラーメン食べるって、いいかも」
美鶴は、すまし顔だった。
「ああ、そうか」
ラーメンを食べ終え、店を出ると、幸也は手を打った。
「どうしたの」
「ここ、昔は街道だったんだよ」
「中山道?」
「そう、それ」
アスファルトで固められた道に、江戸時代を思わせるヒントは何一つなかった。それでも美鶴は、きらきらとした目でその道を眺めていた。
「幸也は、歴史の中に住んでるね」
「そうかなあ」
二人は、次のバス停までのんびりと歩いた。
「二十分後に来るね」
「帰るの?」
「きっと、それが正しいよ」
美鶴は、頬を緩め、そして、涙腺も緩めた。
「ありがと」
「なにが」
「うれしいから、感謝してるんだよ」
「うん、悲しそうだから、なんか、とにかくさ」
「ありがと」
二人はバスが来るまで、走っていく車を見ていた。様々な車があって、中には運転の荒いもの、改造しているものもあった。幸也は心の中に、そういうものたちを刻み付けていった。
「学校やめるかもしれない」
大型のトレーラーが走り去った後だった。
「大丈夫なの」
「わかんない。でも、それがタダシイ気がする」
「そっか」
目の前にバスが止まった。二人は強く手を握り合って、帰路についた。
「父さんを見た」
食卓にデザートのケーキが乗った時だった。幸也は、視線を上げて、水菜を見据えた。
「どこで」
「帽子屋で」
「そう……」
「知ってたの」
「知ってたような、そうじゃないような。相手とその時住んでたところは知ってた。それ以外は知らない」
「聞いたら、教えてくれた?」
「……どうかな」
ティーカップに注いだ紅茶が、荒めに波立っていた。
「父さんは、僕に気づかなかった」
「いつの話」
「兄さんが、結婚したって電話くれたとき」
「本当に、親子して、ねえ」
うつむいて、ケーキをほおばる水菜。彼女の眼の下のクマが、最近濃い。幸也はそれが、気になって仕方がなかった。
「ねえ、僕はどうなんだろう」
「え」
「母さんに似たから、大丈夫かな」
「幸也……」
幸也はふーふーと息を吹きかけてから、ティーカップに口を付けた。
「一つ決めたんだ。ずっと正しいのは難しいなって。だからせめて、無責任な人間にはならないようにする」
「そう。それはいい目標ね、幸也」
美鶴は、ケーキを口に運んで、少し落とした。それを手でつまみ、指を舐める。
「でも、気をつけなさい。強い決意は、目を曇らせることがあるから」
「うん」
食事を終えた幸也は、部屋に戻りパソコンを立ち上げた。キーボードの上部には、プロ野球チームのロゴが描かれたシールが貼られていた。幸也はよく、兄の淳也とキャッチボールをした。淳也はプロ野球選手にはなれないから、プロ野球観戦がしやすい仕事に就きたい、と言ってもいた。
幸也は、慎重にシールをはがした。
そして、彼はカラフルなアイコンをダブルクリックする。カラフルなイラストと、ユーザーネームとパスワードを入力するための枠が表示された。
幸也は、手首をぐるぐると回した。そして、目を閉じる。
「よし」
大きく息を吐き出して、幸也はキーボードへと指を伸ばした。叩くべきキーは、全部で12個。
何回も何回も入力した文字列は、指が忘れていなかった。十二個の文字を入れ終え、幸也はエンターキーを叩いた。
画面の中に、一体のキャラクターが現れる。それは、ゲーム内における幸也の分身だった。衣装や装備に一円もかけていないので、見た目は非常に地味で、それが自分らしくもある、と幸也は感じていた。
サーバを選び、ゲームの世界へと入っていく。空は暗く、ごつごつとした岩で建物が作られていた。降り立ったのは、あまり馴染みのない町だった。
「そっか」
幸也は、最後にログアウトしたときのことを思い出した。ダンジョン内で通信を切ってしまったため、最寄りの町に飛ばされた上での再開となったのである。
町にはいくらかの人がいたが、誰も幸也を気に留める様子はなかった。派手な衣装、装飾の施された武器、かわいらしいペット。課金して購入されたもので彩られた人たちが、駆け抜け、集い、会話している。
地味で特徴もない幸也のキャラクターは、ベンチの横にぽつんと立っていた。
幸也は、いつもの町に行くべきかどうか迷っていた。そこに行かなければ、何が同じで何が違うのかがわからない気がした。ただ、わかるべきなのかどうかは不明なのだ。
五分ほど悩んで、彼は意を決してあるボタンをクリックした。そこには、「フレンドリスト」と書かれていた。
新しく開かれたウィンドウには、何も書かれていなかった。
「そうだよね」
かつてそこには、友人の名があった。たった一人の、この世界での友人。
フレンドリストに登録できる名前には数に限りがあるので、友人が多い場合、ログインしないものは削除されてしまう。
何より、もう、友人とは呼べないんだろう。幸也は思った。
幸也は友人の名前を検索してみた。帰ってきたのは、「ユーザーが見つかりません」という文字だった。友人の友人も検索してみた。そちらも、いなかった。
「この前の大量アカ停止、結構死んだよねえ」
町の中で、誰かが話した文字がチャットウィンドウに表示されていた。
「やっぱツール使ってるやつ多かったんだなあ」
現実世界の幸也は、かわいた笑い声を吐き出した。ゲームの中の幸也は、ただただ立ち尽くしていた。
ログインして三十分たった時、幸也はキャラクターを動かし始めた。武器を一切使わず、ひたすらダンジョンを走った。モンスターに当たるたびに、体力を表す数字が減っていく。回復のアイテムを一切使わず、幸也はひたすら奥へと進み続けた。
大きなワニが、空から降ってきた。幸也は弾き飛ばされ、沼の中へ落ちていった。そこはモンスターだらけで、どんどん体力が削られていった。
そして、ついに幸也の体力はゼロになった。キャラクターが幽霊になり、画面の中をたゆたう。「あなたは死んでしまいました。町に戻ってやり直しましょう」そんなメッセージが表示される。
幸也は再び暗い町に立っていた。経験値が少し減ってしまったのが、先ほどから変わったことだった。
これで、違法に得た分はなくしてしまえた。幸也は思ったが、すっきりとした気持ちになることなどなかった。
幸也はゲームからログアウトすると、アカウント削除の手続きをした。幸也は、一つの世界から姿を消した。
年に一度、井田家は親戚が集合して皆で出かける。祖父の墓参りをし、年末年始の準備をし、帰りにそばを食べてくるのが恒例となっていた。
ただ今年は、幸也は参加していなかった。彼は、淳也の部屋で漫画を読んでいた。そして、ベッドでは美鶴が寝ていた。
昨日、幸也のところに来た美鶴は見るからに苦しそうだった。熱を測ると八度七分あった。
「病院に行かなきゃ。ご両親は?」
水菜の問いかけに、美鶴は吐息のような声で答えた。
「年末は海外……」
水菜は、美鶴に井田家で寝ていくように言った。
「前は私がお世話になったでしょ。今度は私たちがお返ししなきゃ。ね、幸也」
「うん」
母屋の方では集まってきた親戚たちが騒がしくしていたが、離れでは美鶴が眠っており、水菜と幸也が交代で看病していた。そして、今は二人を残して、皆が出かけており、家全体が静けさに包まれていた。
幸也は、時間の穏やかさに安心感を覚えていた。リニアの駅ができるとか、突然甥がやってくるとか、とにかくいろんなことが起こって、そのたびにいろんなことを考えて、疲れてしまったのだ。幸也は、考えることをやめようとはしなかった。だから、できるだけ考えるべきことが少なければいいのに、と思っていた。
だが、静寂は続かなかった。
「ん」
幸也は、振り返った。その視線の先には壁しかないが、方向的には母屋があった。
耳を澄ましてみると、確かに音が聞こえてきた。
最近は田舎にも空き巣が多いという話を、学校でも聞かされていた。
幸也は、ベッドを確認した。美鶴はぐっすりと眠っている。
そろりと扉を開け、幸也は母屋に向かった。リビングの窓から中をうかがうが、誰もいなかった。次に、廊下の窓から客間を覗く。仏壇の前に、ごそごそと、動く影があった。
彼も、危ないことはわかっていた。自分の力が弱く、思慮が足りないことも分かっていた。
しかし、幸也は動かずにはいられなかった。庭の方に回り、温室から祖母の部屋に入る。
ゆっくりと、客間へと近づいていく。すでに音はほとんどしなくなっていた。物色は済んでいた。
幸也は、猛然と駆け出した。足音に気づいた男が振り返った時には、小さな体が下半身に絡みついていた。男は押し倒された。
「おい、なんだよ、待ってくれ俺は……幸也か」
「俺は、なんなんだよ。その手に何持ってんだよ」
男の右手には、通帳と分厚い茶封筒が握られていた。
「待て、待て、話を聞け幸也」
「聞きたくないよ、兄ちゃん」
淳也は無理やり幸也を引きはがし、距離を取った。
「ばあちゃんが俺に貸してくれるって言ったんだ。勘違いするなよ、な」
「ばあちゃんは……ばあちゃんはもう、僕のことも分からないのに!」
「え、いや、その、俺のことはわかったんだよ、うん」
幸也は、本当は見たくはなかった。ちっぽけになってしまった兄から、目をそらしたかった。
それでも、幸也は淳也のことを見つめ続けた。
「兄ちゃん」
「なあ、幸也。兄さんがイケナイコトをするはずがないだろ」
淳也は、満面の作り笑顔で幸也に迫った。
「兄ちゃん、イケナイコトは楽しいんだって」
「幸也……」
「知ってるから。もう僕、いろいろ知ってるから」
淳也の拳が、幸也の頬を打ち抜いた。バランスを崩した幸也は、障子に体を打ち付けて倒れた。
「だからなんだっていうんだ」
冷たく言い放つと、淳也はその場から逃げ去った。
幸也の額から、一筋の血が流れ落ちた。しかし、幸也の表情は穏やかだった。悔しさを感じないわけではないが、一つの幻想を完全に消し去れたという意味では、すっきりもしていた。
「幸也?」
ふらふらとした足取りで、美鶴が部屋に入ってきた。
「美鶴、寝てなきゃ」
「だって、すごい声が……ちょっと、血が出てる!」
「え……あ、ほんとだ」
「治療しないと!」
「大丈夫」
幸也は額をぬぐった手についた血を見て、口角を上げた。
「やっぱり、同じ血なのかな」
「えっ」
「いや、きっと違うような、気がする」
幸也は口をきっと結んで、前を見据えた。
「さあ、美鶴、戻ろう。あ、母さんに連絡しなきゃ」
「ちょっと、何があったの」
「久々に会えた人がいるんだ。嬉しかったよ」
幸也の心の中に、昔の淳也の言葉が響く。「母さんに心配かけないようにしなきゃ」と。幸也は、その言葉を噛みしめた。「せめて僕だけは」幸也は呪縛から解き放たれ、自分自身と誓いなおしたのである。
幸也と美鶴は、倉庫の上の物干し台に並んで立っていた。美鶴は画板を首からぶら下げ、色鉛筆で絵を描いている。
「なんでここにしたの」
「今のここが、好きだから。あそこが駅で、あそこらへんが車庫になるんでしょ」
「それはそれで、好きになるかもよ」
「その時は、また描く」
「宿題じゃなくても?」
「うん。あ、どうかな。気分次第」
強い風が吹いて、美鶴の髪と紙が大きくなびいた。
「ちょっと休もうよ」
「そうだね」
美鶴は画板と色鉛筆を置いて、手すりにもたれかかった。
「初めて会ったのはあそこらへんだったね」
「そうだったっけ」
「忘れたの?」
「いまだに、土地勘がないの」
「そうなんだ」
「まだ、この土地の人間にはなってない感じ。……あのさ」
「なに」
「やっぱり、学校はやめるなって。高校からなら、説得できるかも」
「そっか。でも普通、そうだよね」
「うん。だから、何とか頑張る。いつか、ここの人間になれたらいいな」
「なれるよ」
二人は、自然と手をつないだ。工事用のトラックがすぐ下を走り抜けて、建物がガタガタと揺れていた。
「変わっちゃうんだよなあ」
幸也は、全てを受け入れようと思った。できるかはわからないけれど、それが自分に合っていと思ったのだ。
タダシイコト 清水らくは @shimizurakuha
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