タダシイコト

清水らくは


 幸也は、コントローラーを静かに机に置いた。パソコンのデスクトップには、カラフルなイラストと、ユーザーネームとパスワードを入力するための枠が表示されていた。幸也はその画面を眺めたまま、固まっている。

 叩くべきキーは、全部で十二個だ。何百回とタイプしてきた。忘れたわけではない。

 幸也は、目を細くしてデスクトップをにらんだ。そこには、特別な景色は映っていなかった。それでも彼には、それまでに見たことのない景色に見えた。

「やらないよ」

 幸也は笑みを作った。唇だけが動く、不自然な笑みだった。

 手が震える。唇が渇いていく。大きく息を吐いたが、いつも通りの動きはできなかった。

 こうして幸也は、毎日欠かさず続けてきたネットゲームをやめた。




 リビングでソファに座りテレビを見ている幸也を、母親の水菜は食器を洗いながらちらちらと見ていた。もう一年、幸也がこの時間、自室にいないことなどなかった。八時から一時間だけ、ゲームをしてもいいという約束だったからだ。

 一年前、息子を前にして水菜は言った。

「一つだけ、ゲームを選びなさい」

 中学生になった幸也は、就職して家を出た兄から送られてきたパソコンを譲り受けた。

「一週間猶予をあげる」

 幸也は母親の言うとおりにした。彼は、母親の言うとおりにする子供なのだ。

 一週間、彼は様々なゲームを試した。水菜は息子が結論を出すのをただ待った。

 そして約束の日、幸也はあるゲームの名前を書いた紙を、母親に渡した。

 以来、彼は約束を守って一日一時間、そのゲームだけをしてきた。何かをおろそかにすることもなく、淡々とゲームを楽しんできたのだ。

 テレビを見る幸也の顔は、ほとんど動かなかった。水菜は、まだ声をかけなかった。




 例年のようにさわやかな暑さがやってきて、例年にはないにぎやかさもやってきていた。特徴のない田舎町だったはずの土地に、リニアの駅ができることになったのである。たんぼを区切る農道は、大型の重機を通すことも難しい。そのためにまずは、道を造るための工事が始まったのである。

 時折脇道で工事車両が通り過ぎるのを待ちながら、幸也は家へと帰るところだった。手にはスーパーの袋。その中にはカブトムシゼリーが入っている。

 竹林の裏、昔池があったという空地の横に差し掛かった時だった。向かいから、一人の少女が歩いてくるのが幸也の目に入った。何よりもまず印象付けられたのが、シャツに書かれたアルファベットのロゴだった。それはかつて一度だけ見たことがあるもので、名古屋のデパートでばあちゃんに買ってもらったのだと同級生が自慢していたのを、幸也は鮮明に覚えていた。高い服のはずだが、少女にとって特別なもののようには見えなかった。手足がすらりと長くて、その肌は白い。顔は小さく、髪は短く、目は細く、唇も薄い。幸也は彼女を初めて見たし、彼女のような雰囲気の人間も初めて見た。

 その少女はあたりをきょろきょろと見まわしていたが、近づいてきた幸也に気づいて微笑んだ。

「ねえ、この辺の人?」

 少しハスキーな声だった。

「うん」

「良かった。引っ越してきたばっかりでね。迷っちゃった」

「そうなんだ」

 幸也は自然と、右側に視線を移していた。川を挟んで山側には、新しい家が建ち始めいた。名古屋まで一時間ちょっとということもあり、いなかだがベッドタウンとして移住してくる人も増えてきたところなのである。きっとあちら側の人に違いない、幸也はそう思った。

「高校の近くなんだけど」

「じゃあ、向こうの橋だ。案内するよ」

「わあ、ありがと。名前は? あたしは金森美鶴」

「井田幸也」

「幸也か。助かったよ、幸也」

 幸也が歩き始めると、美鶴はぴったりその右横についた。

「美鶴は、どこから来たの」

「春日井から」

「へー。なんでこんなところへ」

「なんでだろ。家庭の事情?」

 二人は小川に架かる橋を渡り、坂道を登り始めた。

「ところで、それは何?」

「カブトムシのエサ」

「カブトムシ飼ってるんだ! すごい」

「すごくはないよ。おじさんちで捕れた」

「やっぱりこっちはそういうのがあるんだあ」

 美鶴は空を見上げて、少しだけ目を大きくした。彼女はやっぱり都会の人間なんだ、と幸也は実感した。

「ここが高校だよ」

「うん、ここまで来たらわかる。本当にありがと」

 手を振りながら、美鶴は駆けていった。姿が見えなくなると、幸也は少し、彼女の実在を疑った。




「お父さんは、イケナイコトをしたの」

 幸也は、母親のその言葉を時折思い出す。小学二年生の時だ。

 ある日突然、家から父親がいなくなった。毎日同じ時刻に帰ってきて、同じ時刻に食事をして、同じ時間に寝る人だった。そして休みの日には同じ時間に散歩をして、同じ時間に絵を描く。いつイケナイコトをする余裕があるのか幸也にはわからなかったし、どういう風にイケナイコトなのかもわからなかった。

 水菜は困ったような、呆れたような顔をしていた。それ以上聞いて欲しくないだろうと思ったから、幸也は何一つ尋ねはしなかった。ただ、想像した。

 ある日兄が、幸也に言った。

「父さんは僕たちを選ばなかったんだ」

 幸也は、何も答えなかった。

「別の家に、別の家族といる」

 幸也は、少しだけうなずいた。それも、想像する仮説の一つだったから。

「幸也、母さんを支えられるのは僕たちしかいない。母さんに心配かけないようにしなきゃ」

 兄の目は、幸也の眼球の奥へと向いていた。

「うん」

 幸也は深くうなずいた。約束が、強く心を縛った。




 家の中が賑やかになった。

 いつもはがらんとしている客間に、いくつもの鞄が置かれている。幸也は母親を手伝って、干していた布団を運び入れていた。

「こっちはやっぱ涼しいなあ」

 幸也から布団を受け取ったのは、彼より二つ上のいとこ、真夏だった。幸也より頭一つ背が高く、長い髪は腰まで伸びていた。

「そうなのかな」

「涼しいよ。えらい涼しい」

 真夏は目を大きく開いて、はきはきと喋った。それに対して、幸也は伏し目がちだった。

「いつまでいるの」

「一週間ぐらいかなあ」

「そっか」

「カブトムシ見せてよ」

 幸也は黙って縁側に向かい、真夏はそれについていった。端の方に大きな虫かごが置かれていて、中には土や木の枝が入っていた。

「いないやん」

「今は土の中で眠っている」

「そうなの」

「水やらなきゃ」

 幸也は籠の蓋を開け、霧吹きをかけた。土の色が変わっていくが、どれだけ真夏が目を凝らしても、カブトムシは現れなかった。

「つまんない」

「夜にまた見なよ」

「はーい」

 真夏はそのまま庭に出て、池の端に立った。水中の、赤い線を目で追う。

「ばあちゃん、まだやんね」

「しばらくかかるって」

「花も少なくなった」

「そうだね」

 幸也も庭に下りて、真夏の横に立った。二人は幼い頃から、こうやって並ぶことが多かった。

「変わってくよね、ここも」

「そうなのかな」

「変わるよ。リニアが通るんよ」

「通るだけかもしれないよ」

「そうはいかんよ」

 幸也はしゃがみこみ、足元にあった植木鉢の淵に手を添えた。

「変わっちゃうのかなあ」




 電車を下りた幸也は、しばらくホームの真ん中に突っ立っていた。ひどい徒労感が、胸の中に重たく溜まっていた。

 片道五分。そこは普通電車の終点、幸也の住む市の中心街につながる駅だった。彼はそこまで時折買い物に出かけるのだが、今日はお目当てのものを買うことができず、そのまま地元の駅に戻ってきたのだった。

 日はすでに西の方に沈みかけており、空は赤くなっている。せめてもと思って買った漫画本の入った袋を、幸也はくるくると回していた。

 いなかの駅にしては、ホームが随分と長い。昔近くでとれた鉱物を運ぶため、貨物が停まっていたからだと幸也は聞いたことがある。南側にはスーパーや小さな商店が立ち並び、北側には田んぼが続いていた。その田んぼの中に、リニアの駅ができる予定である。

 乗降客はそれほど多くない。幸也はベンチに腰おろした。長い夏休み、いとこの一家も帰ってしまい、ただただ日々が過ぎていく。家が嫌いなわけではないが、できるだけどうでもいいことで時間をつぶしたかった。

 五分ほどした頃、下りの列車がホームに入ってきた。ドアが開き、数人の乗客が下りてくる。年配の女性と、初老の男性と、幸也が見たことのない制服の少女。

「幸也」

 名前を呼ばれて、幸也は少し飛び上がった。目の前には、彼を見下ろす少女が立っていた。

「み……つる?」

「あれ、わからなかったんだ」

 美鶴の着る制服は、濃い紺色に赤いスカーフ、肩口に白い波うったようなラインが入っている。幸也には、どことなくそれもまた都会的に感じられた。

「どこか行ってたの」

「学校」

「電車で?」

「うん。名古屋の学校だから」

「えっ」

「家が引っ越しただけ」

 幸也は少し、二学期になって美鶴が転校してくる日のことを想像していたので、肩透かしを食らわされた気分になった。

「そうなんだ」

「幸也は」

「買い物の帰り」

「そっか。ね、途中まで一緒に帰ろうよ」

「うん」

 二人は並んで、階段を上っていく。

「毎日通ってるの」

「今日はたまたま。でも、授業始まったら毎日だよ」

「大変だね」

「電車好きだから、大丈夫」

「そうなんだ」

「好きになった。小学校の時から電車通学だったし」

 改札で幸也は切符を渡し、美鶴は定期を見せる。駅舎を抜けるとそこは小さなロータリーで、タクシーが一台だけ停まっていた。バス停もあるが、幸也はまだバスがいるのを見たことがなかった。

「不思議な空間」

「えっ」

「駅の前って、どこもビルが並んでるんだと思ってたから」

「全然ないよ」

「そうなんだよね。静かで、澄んでる」

「そうなのかも。でも、変わっちゃうって」

 二人は踏切を渡って、線路沿いの道を進んでいった。

「これは、なんだったの」

「結婚式場」

「へー」

 二階建ての大きな建物は、住人を失って何ものでもなくなっていた。その先にはいくつかの民家があり、さらにその先は田んぼだ。

「幸也の家はどこ」

「この前会ったところのすぐ先だよ」

「見てみたい」

「いいよ」

 農道を進み、竹藪のわきを抜け、細い道を左に曲がって少し。

「ここだよ」

「大きい」

 母屋に、離れに、倉庫に、ミシン室。さらには広い庭に畑もあった。

「ばあちゃんの家なんだけど、今は入院してて」

「へー。あ、カブトムシは」

 クラスの女の子は全然興味ないのになあ、と幸也は心の中でつぶやいた。

「こっち」

 幸也は縁側まで美鶴を案内して、腰かけるように促した。

「あ、一匹起きてた」

 幸也が、虫かごの中の一点を指差す。

「あ、ほんとだ。ツノないね」

「メスだから」

「へー、初めて見た」

 ほとんど動かないカブトムシを、美鶴は必死になって見つめていた。幸也は窓を開け、家の中に入る。

 どの部屋も、とても静かだった。台所に入り、冷蔵庫から麦茶を出す。

「飲んで」

「あ、ありがと」

「おもしろい?」

「うん。カブトムシなんて、デパートでしか見たことが無かった」

「デパート……」

 しばらく美鶴はカブトムシに夢中になっており、幸也はそんな彼女を眺めていた。いよいよ日が傾いて山の背に乗っかった頃、美鶴は立ち上がった。

「面白かった。ねえ、また来ていい?」

「いいよ」

 手を振りながら、美鶴は去っていった。彼女の姿が見えなくなると、幸也は空を見上げた。少し、涙がこぼれそうだった。淋しい、と思ったことで初めて、幸せな時間を過ごしていたことに気づけたのだった。




 オンラインゲームには、つながりが存在する。どこのだれかは知らないが、ゲームの中では親友のように仲良くなることができる。

 幸也は毎日一時間だけ、その特別な世界に身を委ねていた。たった一時間。けれども彼にとって、一日の内で最も濃く、満足できる時間だった。

 時折幸也はその時間を夢に見る。失ってしまった現実は、眠りの世界でしか実現できない。

 一時間しか参加できないことは、グループを組むには都合が悪かった。幸也はしばらく、一人でゲームを楽しんでいた。しかしそのうちに、知り合いができて、彼の事情が伝わって、彼に合わせてログインしてくれる人ができた。

 毎日一時間だけの友人。幸也はその人をどこの誰かも知らないけれど、誰よりも信頼できる気がしていた。

 夢の中で、幸也は気付いてしまう。現実をなぞっていけば、楽しいことだけでは終われないと。

 カラフルな世界の中で、飛び跳ねる二つのキャラクター。協力すれば経験値が多くもらえるし、何より楽しい。

 幸也は、声にならない声で叫んだ。「夢よ覚めて!」

 世界が弾け飛ぶ光景の端に、幸也が一番見たくない光景が少しだけ映った。けれども彼は、目を開くことができた。ぐっしょりと手に汗がにじんでいた。きつく握りしめていたのだった。

 幸也はしばらく瞬きを繰り返していた。風に揺れるカーテンの隙間から月明かりが差し込み、壁を照らしている。そこは、まぎれもなく現実だった。

 起き上がり、ベッドから降りる。部屋を出た幸也は、廊下をゆっくりと歩き、そっと引き戸を開けた。離れから母屋への渡り廊下は、真っ暗だった。手さぐりで進み、台所につながるドアを開ける。台所、リビング、客間を抜け縁側へ。

 がさがさ、と音がしている。しゃがみこみ虫かごを覗くと、カブトムシたちが元気に活動していた。カブトムシゼリーに群がって食事するもの、枝に上ってツノを持ち上げる者、樹液の方を舐める者。夜は、彼らの時間だった。

 じっと、見つめていた。幸也は彼らに触れない。飼い始めたとき、遊びに来た友人が一匹のカブトムシを振り回して傷つけてしまったことがあった。友人は謝ったが、軽い調子だった。幸也は少し悲しくなって、悲しくなった理由について考えた。

 そして彼は思った。正しくないからだ、と。たとえ相手が虫でも、誰かを傷つけるのは正しくない。だから、悲しいんだ。

 以来幸也は、誰にもカブトムシを触らせなかったし、自らも必要が無ければ触れることはなかった。

 区切られた虫かごの世界は時に、幸也にゲームを思い起こさせる。パソコンという箱の中、ゲームという枠の中、サーバという区切りの中。あれだけ嫌な思いをしたのに、ログインさえしなければ全く関わることがなく生きていける。こんなに近いのに、カブトムシたちは自分と関わりなく動いている。幸也は、そういう不思議に思いを巡らせていた。

 幸也は考えた。「僕の箱は、どこまでだろう」

 兄と約束した日から、幸也にとって母のためを思って生きることが正しさであり、そのための枠の中で生きてきた。その外側に出ることなんて考えたことがなかった。ただゲームだけが、自由に羽を伸ばして、わがままに遠くまで行ける場所だった。

 幸也はゆっくりと考えて、問いではなく、問いだしたことについては解答を得ることができた。

 「枠のことを考えるのは、枠の外から来た人がいるせいだ」

 幸也はこの瞬間に、生まれて初めての気持ちを抱き始めた。




 長く続いた快晴の日々が過ぎ、空には雲が分厚く折り重なっていた。幸也は麦わら帽子をかぶり、畑で草むしりをしていた。

 幸也が幼い頃、畑は野菜であふれていた。彼の祖父が育てていたのだ。祖父は自分が食べたいものをひたすら植えた。キュウリ、ナス、スイカ、そしてキウイの木。幸也はそれらのものがとてもおいしかったことを、よく覚えている。

 祖父が亡くなると、畑には花が増え始めた。祖母は花が好きなのだ。

 そして祖母が入院して、畑の主役は雑草になった。

 夏は、幸也や水菜の想像以上に草たちに元気を与えた。幸也はすでに二時間ほど草をむしっているが、まだまだ雑草は生い茂っていた。

 幸也は、首にかけているタオルで額の汗をぬぐった。日差しの弱い日を選んだのだが、それでも汗はどんどん流れ出してくる。

「やあ」

 幸也の前に、薄い人影が現れる。彼が首を上げると、長袖の黒いシャツの少女が立っていた。

「美鶴」

「どこにいるのかと思ったよ。全然返事が無いから」

「そっか、母さんまだ帰ってないのかな」

「仕事?」

「うん。午前中だけ」

「幸也は?」

「もう少し仕事」

「手伝おっか」

「悪いよ」

「いいよ。お世話になったし」

 美鶴は、幸也の隣にしゃがみ込んだ。幸也は横目に彼女の手首や足首を見て、相変わらずの白さに少し驚いていた。

「用事とかなかったの」

「幸也に会いに来たんだよ」

「え」

「こっちの友達、幸也だけだし。迷惑だった?」

「そんな、全然」

「よかった」

 美鶴は雑草をつかんで引き抜こうとするが、手が滑ってうまくいかなかった。

「これ使って」

 幸也は自らの軍手をとって、美鶴に渡した。

「でも」

「まだあるから」

 幸也は立ち上がり、物置から軍手と麦わら帽子をとってきた。

「かっこ悪いかな」

「ううん。ありがと」

 美鶴は、麦わら帽子をかぶったが、少し大きかったので目まで隠れてしまった。くい、と後ろにずらして、おでこに引っ掛けるようにしてかぶった。

「広いよね」

「畑?」

「うん。ここだけで家が建ちそう」

「そうかも」

 二人はしばらく草むしりを続けた。雲がさらに分厚さを増して、日光による攻撃はそれほどなかったが、それでも大量の汗をかいた。

「あらあら」

 二人が顔を上げると、そこにはハットをかぶった女性がいた。水菜だ。

「お友達?」

「うん」

「金森美鶴と言います。最近このあたりに越してきました」

「かわいいわね。もう汗だくじゃない、部屋に上がりなさいな」

「え、でも」

「お昼は食べた?」

「いえ」

「じゃあ食べていきなさい」

 美鶴が幸也の顔をうかがうと、幸也は小さくうなずいた。

「ありがとうございます」

 水菜は、これい以上ない満面の笑みを美鶴に向けた。




 美鶴は、毎日のように井田家に来るようになった。畑や庭の仕事、家の掃除などを手伝い、昼食を三人で食べる。美鶴は家から、高級なお菓子を持ってくることもあった。

「食べさせてもらってるだけでは悪いから」

 美鶴の言葉に幸也は納得していたが、返礼としては高価すぎるものであることを水菜は理解していた。

 今日も美鶴は、お菓子の入った缶を抱いてやってきた。畑を見て庭を見たが、誰もいない。縁側に回り、窓を開ける。

「こんにちは」

 返事はなかった。少しの間待っていた美鶴だったが、あきらめて離れの方へと向かった。

「幸也ー」

 離れの廊下に面する窓ガラスががらっ、と開けられて、幸也が顔を出した。

「美鶴」

 その顔は、あまり元気がなかった。そして、手には洗面器を持っていた。

「どうかしたの」

「母さんが熱出して」

「大変だ」

 美鶴は、靴を蹴り飛ばすように脱いで部屋に上がった。水菜の部屋への扉は開けられたままで、ベッドで眠っている彼女の様子が廊下からも確認することができた。

「今朝から?」

「昨晩から」

「そっか……ねえ、おばあちゃんはどうするの」

「どうしようかと思って」

「私が看病してるから、幸也が行ってきて」

「え、でもそこまでしてもらっちゃ」

「あたしは十分いろいろしてもらってるよ。さ、準備して」

 美鶴は左手で洗面器を譲り受け、右手を幸也の肩に置いた。

「きっと、これが正しいよ」

「……うん」

 幸也は、部屋の中をきょろきょろと見渡した。いつも母が病院に持っていく鞄を探すが、見当たらない。

「幸也、風呂場……」

 水菜が、ベッドから指を伸ばした。

「風呂場?」

「洗濯物を入れて、そのままだから」

「そっか。大丈夫?」

「うん、寝てれば治るから」

 水菜の声はかすれている。美鶴はその傍らにしゃがみ込んだ。

「私がいますから。何でも言ってください」

「ありがとう。美鶴ちゃんは本当にいい子ね」

 伸ばしていた腕で、水菜は美鶴の頭を撫でた。美鶴は、少しはにかんだ。




 坂を上って、高校の横を過ぎて、さらにもう少し上ってさらに進んだところに病院はあった。自転車で三十分、幸也はへとへとになっていた。

 彼がここに来るのは、二回目だった。祖母が入院してすぐ、母と兄の三人でお見舞いに来た。その時は母の運転する車で来たのだが、以前の倍ほど坂道の傾斜があったように幸也は感じた。

 病院に入って彼がまず気になったのは、壁の色だった。白いと思っていた壁が、少し茶色く、ところどころひび割れていた。前に来た時には気付かなかった、建物の過ごしてきた年月が目についた。

 祖母の入院している部屋は、六階の奥にあった。入室しても何一つ音がしていなかったので、誰もいないのかと幸也は思ったが、どのベッドにも人が寝ていた。祖母は、横になって目を閉じていた。

「ばあちゃん」

 呼びかけると、目を開けた祖母は首だけを動かして幸也を見た。

「なんですか」

「母さんが熱出ちゃったんだ。だから代わりに来たよ」

「母さんって、水菜のことかい」

「え、あ、うん」

「それはわざわざありがとうございます」

 幸也は、不安になって少し祖母に顔を近づけた。

「着替え、ここに置いとけばいいのかな」

「ええ、ええ」

 幸也は、ついに目をそらした。何が正しいのかを考えたが、答えは出なかった。

 幸也は、ただそこに座っていた。ふわふわとした時間が過ぎていく。祖母はいつの間にか再び目を閉じていた。

 幸也は、祖母の思い出の中から、何かヒントが得られないかと思いを巡らせていた。けれどもどうしても、そこには母がいて、祖父がいて、いとこがいた。

 祖母と二人の時に、どうしたらいいのかがわからなかった。

 幸也は結局、何も言わずにその場を立ち去った。




「どうしたの」

 リビングのテーブルで、幸也と美鶴は向かい合っていた。

 水菜は眠っており、夕食は美鶴が作った。その手際の良さに、幸也は目を丸くした。

「ばあちゃんが、僕のことを忘れてた」

「完全に?」

「わからないけど、多分」

「どうしたの」

「何もできなかった。何が正しかったんだろう」

 美鶴は、食事の手を止めて頬杖をついた。

「正解があるのかな」

「えっ」

「正しくないこと以外は、正しいことかもよ」

 幸也は、鋭い目つきで美鶴を見た。動物園でそれまで全く知らなかった動物に会った時のように、心の中がざわついていた。

「そんなこと、あるのかな」

「だって、正しいことも人それぞれだし、状況によるし、よくわかんないよ」

「でも、もっと何かできたんじゃないかと思う」

「じゃあ、次はがんばろ」

「美鶴は強いね」

 美鶴は、大きく首を振った。

「あたしは最初から、頑張らないから」

「そうは見えないよ」

「見せないようにしてるもん。ねえ、考えてみて。美鶴ちゃんは真面目だから、美鶴ちゃんは良くできるからって褒められて、ちょっとでもダメだったら本気で心配されるの。みんなでいたずらしても、私だけ呼び出されて怒られるの。『美鶴ちゃんはそんなことしちゃダメなんだよ』って。むりだよ。他の人よりも正しくなきゃ、認めてもらえないんだよ。だから、頑張ってるふりしてるの。真面目なふりしてるの。本当は、全然正しくなんかない」

 幸也は、美鶴のことを何も理解できていなかったことに気づいて驚いた。美鶴はいつも余裕があって、正解がわかっていて、何でもできる子だと思っていたのだ。

「でも、僕よりはずっといろいろわかってる気がする」

「ねえ、幸也。わかっているのと、実際にするのとは違うよ。正しいことは、楽しくない」

 幸也の上下の唇が、少し離れたままずっと動かなくなった。美鶴は、そんな彼の口元を見て、言葉をつづけた。

「イケナイコトは、楽しんだよ」

 そう言うと美鶴は素手でおかずをつかんで、口の中に放り込んだ。そして挑発するような目で、幸也の瞳を見つめた。

「みんな、イケナイコトを楽しんでる。怒られない程度に」

 幸也は、ようやく唇を動かして、大きく息を吸った。そして唇を舐めて、一拍置いてから言葉を押し出した。

「美鶴」

「なに」

「聞いて欲しいことがあるんだけど」

「もちろん聞くよ」

「ずっともやもやしてて、つっかえてて、誰に話していいかわからなかったこと」

「私でいいの」

「美鶴がいいと思った」

「うん、じゃあ聞かせて」

 幸也は両手で湯呑を持ち、ゆっくりとのどを潤した。天井を見上げて、床に視線を落とした。

「うん、ゲームの話なんだけど……」




 幸也は、毎日きっちり八時に、ゲームにログインした。夕食を終えた後の、きっちりと決められた一時間。

 母との約束というのが最初の理由だったが、次第にもう一つの理由が強くなっていった。画面の向こう側で、待っていてくれる人がいたのだった。

 二人はいつも、ゲーム内の同じ場所で待ち合わせをした。

 時間が区切られると、できることは限られる。ダンジョンの奥深くまで行ったり、飛行船を使って別世界に行くわけにはいかない。手軽に行ける場所で、できるだけ面白く過ごすために二人はいろいろと考えた。

 ただ、幸也と違い、その友人は時間を区切ってログインしているわけではなかった。彼はゲームの世界について、幸也の知らないことをたくさん経験していた。幸也は少しそれをうらやましいと思ったし、嫉妬することもあった。

 一時間という縛りは幸也が決めたわけではないし、それが最善と思ったわけではない。ただただ、母の言うとおりにするのが正しいと思うからそれを守っていた。

 ゲームをしていくにつれて、さらにその奥に進みたいという思いが幸也の中で強くなっていった。彼はその思いを原動力に、限られた時間を思い切り楽しもうとした。

「時間がもう少しだし、戻ろうか」

 ある日のチャット欄。もう少しでボスの部屋までたどり着くという時だった。

 幸也は、その先を楽しみにしていた。そしてたまたま母親が出かけていて、そのままゲームを続けてもばれないだろうという確信があった。

 けれども、葛藤の末に、幸也は約束を守ろうと思った。

「わかった」

 二人はアイテムを使って、ゲーム内の奥深い場所から、多くの人々が集う街へと戻ってきた。

「今日もありがとう、また明日」

「おお、また明日な」

 時計が九時を示す直前、幸也はその世界から姿を消した。

 そんな風に、幸也は毎日、制限された幸せな時間が過ごせていた。しかしある日、友人は世界に新たな者を連れてきた。

 その日、友人の隣には幸也の見たことのないキャラクターがいて、幸也がログインしたとき二人は親しげに会話していた。

「今日はこいつも参加したいって」

 友人の言葉に、新たなキャラクターは笑顔を示した。幸也は内心戸惑っていたが、態度では示さなかった。

 その日は、三人でダンジョンに行くことになった。二人は、幸也がログインしていない時間には、よく会って共に行動しているということだった。

 三人でグループを組むと、敵も倒しやすいし、経験値のボーナスも付く。だから大勢でグループを組むのは、ゲームの中では普通のことだった。けれども幸也は三人以上で行動するのは初めてだったし、なにより知り合ってすぐの人と共にいることに違和感があった。

 それでも、一時間という限度の中で、いつものように楽しみたいとも思った。幸也はいつもと同じように、プレイを続けた。

 そして五十分ほどたったころ、幸也は異変に気付いた。いつもよりも異様に、モンスターの数が多かったのだ。

 グループの人数が増えると、そういうことが起こると聞いたことがあった。しかしそれにしても多い、幸也はそう感じた。そしてドロップしたアイテムが、とてもすばやく回収されていった。ほとんどは、友人の友人が吸い上げるようにして拾っていた。

 幸也は確信した。これは、違法なものだ、と。

 目の当たりにしたのは初めてだが、プログラムをどうにかしてそういうことができるというのは彼も聞いたことがあった。そして友人は、それに対して何も言わなかった。当然のように受け入れていた。常習犯なのだろう、幸也はそう思った。

 そして、幸也は気付いた。違法なものによって呼び出されたモンスターを倒し、違法な人とグループを組んだボーナスをもらい、自らももう共犯者になってしまったのだと。

 現実世界の幸也は、こめかみから汗を流していた。意図的ではない。それでも、汚れたものを受け入れてしまったことに後悔し、よくわからない焦りに追われていた。

 しばらく、手が惰性で動いていた。

 そして、幸也はキーボードをたたいた。

「やばい、落ちそう」

 それから数秒して、彼はモデムのコンセントを引っこ抜いた。インターネットが切断され、強制的にゲームからログアウトする。

 肩で息をしていた。何をすればいいのか、何をすればよかったのか、幸也には全くわからなかった。

 ネットの世界から切り離されたパソコンを前に、幸也は何度かつぶやいた。

「正しくない。あれは正しくない」

 ゲームの運営会社に通報すべきだろうか。しかし証拠はないし、友人にも迷惑がかかるかもしれない。

 なにより、こわかった。誰かが正しくないことを告発するのは、恐怖なのだと幸也は知った。

 彼がまず選んだのは、とにかく自らを罰することだった。彼の分身であるキャラクターはすでに穢れてしまった。幸也の認識では、それは免れられない事実だった。だから、もうそのゲームはしてはいけないのだと、そう思った。




「と、いうことがあったんだ」

 話し終え、幸也はお茶を口に含んだ。初めて人に話したおかげで、心の中に引っかかっていたものが少し減ったように感じていた。

「そうだったんだ」

「つまんない話なんだけど……」

「そんなことないよ。幸也にとってはすごく大事なことなんだよね」

「そう、そうなんだ」

 美鶴は、右手を差し出した。

「あたしは、大丈夫だよ」

「え」

「あたしは、そんなつまんない人をつれてきたりしない。でもね、覚えておいて。全部正しくしようとしたら、壊れちゃうから。許される範囲で、イケナイコトを楽しんでいかないと、がんじがらめになっちゃうから」

 幸也は、左手を差し出した。二人は、まっすぐに指を絡めた。

「でも、正しいのがいい」

「それが、幸也らしさなんだね」

 二人は、とても静かな笑みを浮かべて、うなずき合った。

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