驚いたのはメロスである。

 ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。などとぶつぶつ言っているところに大音声で「おい起きろメロス」、慌てて上を向くとぼさぼさの髪の男の顔が空から突き出しているのだ。吃驚仰天したメロスは、あやうくその真紅の心臓が止まるところであった。

「だ、誰だ、あなたがゼウスか」

 まだ衝撃でがくがくしながらやっとのことでメロスは問いかけた。

「いいから立て、さっさと走れ。筋書きが狂うのだ」

「筋書きだと? 何のことだ」

「私は作者だ。お前はただ私の思い通りに動けばよいのだ」

「作者だと? あなたはゼウスではないのか」

「ゼウス? 違うな、私はダザイだ」

「似たようなものじゃないか」

「うるさい、いいから立って走れ」

 メロスは驚きから立ち直るにつれて、先程の怒りがまた噴き出してきた。



 こうして、メロスはついに作者に激怒したのである。



「ダザイだかダサイだか知らないが、さては短剣も頭の中の声もすべて貴様の仕業だな。今まで真面目に生きてきた私を殺そうと、手を変え品を変え私を走らせおって。そんなに私を殺したいのなら今すぐ殺せ。さあ」

「何も殺したいわけではない。お前は私の書く物語の中の登場人物なのだ。私の言うとおりにしてもらわんと困る」

「いくら作者だろうと、貴様のような男の言いなりになるものか」

「おのれ作者に向かって何という口のきき方を。私はお前の生みの親だぞ」

「嘘をつけ。第一貴様が作者だというのなら、『メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。』という文を書いたのも貴様だろう。この通り私に親はいないのだ。どうだ参ったか」

「屁理屈ばかりこねおって。しかし、その屁理屈も結局は私が紙に書き付けたものなのだが」

「何だと。すると、私は貴様の言うとおりに今まで動いてきたのか。私の行動は全て貴様に縛られているのか。私が今まで考えたこと、感じたこと、全ては貴様が仕組んだということなのか、そうなのか」

「身も蓋もない言い方をすると、そうだな」

「ううむ許せん。私だって生きているのだ。一人の人間なのだ。人の運命は生まれる前から決まっているというが、こんな男に私の生き様を決められてたまるものか。貴様に私の、そしてセリヌンティウスの運命をやすやすと変えられて、私が黙っているとでも思うか」

「そんなことを言ったところで事実は変わらぬのだ。諦めろ。あきらメロス。なんちゃって。全てを受け入れて、とにかく走れ。絶対に悪いようにはしないから、な」

「ええい黙れ黙れ。さっさと続きでも何でも書いたらいいではないか。私は絶対に動かぬ。ええ動きませんとも。動くもんですか」

「残念だったな、私の筆は絶対だ。見ていろ、貴様は必ず走り出す」

「ふん。走らせたければお得意の声で囁いてみるがよい。だが、私は走ろうと思っても走れぬのだ、私の体は既に限界なのだ。できるものならやってみろ。私を走らせてみよ。ほれほれ」

「ほう、そうか」

 言うが早いか、作者は腕も原稿用紙に突っ込むと、メロスの横の地面を万年筆でぐいぐいと掘り返した。やがて、数百メートル掘り進んだところで、こんこんと冷たい清水が湧き出してきた。地下水脈を掘り当てたのである。

「ほれ、これでどうだ」

 メロスは起き上がり、身をかがめた。水を両手で掬って、一口飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。

「ううむ、悔しいがまだ歩けるような気がしてきたぞ」

「そうだ、その意気だ。もう少しでお前の友が磔になるぞ、さあ急げ」

「なんだか悔しいが、他ならぬセリヌンティウスを救うためだ。貴様の言うとおりにしてやろう。体力も回復した。ひょっとしたら、間に合うかもしれぬ。」

「いいぞ。そのまま立ち上がれ。そして走れ! メロス」

 メロスは立ち上がり、しかと地面を踏みしめて走り出した。



 道行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。野原で酒宴の、その宴席の真っただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させた。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。犬を蹴飛ばし、小川を飛び越えた。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。そして、少しずつ沈んでいく太陽の十倍も速く走った。日はまだ沈まぬ。一団の旅人とすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」日はまだ沈まぬ。再びメロスの頭の中に声が流れ始めた。「ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい」

 いい加減にこの頭の中の声をやめてほしいものだ。どうでもいいはずがない。私は走りたくない。私が今走っているのは貴様に引っ張られているからである。メロスは、胸の内で作者に毒づいた。



「しまった」

 作者は呟いた。メロスを間に合わせようと原稿用紙に「日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。」を書き殴り、同じようにメロスの速度を速めようとしてついうっかり「少しずつ沈んでいく太陽の十倍も速く走った。」と書いてしまったのだ。作者としての全能性が裏目に出てしまった。太陽の十倍がどれほどの速度か知らぬが、早く止めねばメロスの体が持つまい。

 慌てて覗き込むと、メロスはあまりにも早く走りすぎて周囲に衝撃波、現代でいうところのソニックブームを巻き起こして木々や家や人や馬を薙ぎ倒し、それによって衣服がちぎれ飛び、ほぼ全裸であったが、まだ走り続けていた。

「なんだ、この程度の早さならばこのままでよかろう。むしろ疾走感が出てよいといいうものだ」

 他人事の気楽さで、作者はあり得ないような速度で走るメロスを見ながらのんきに呟いた。



 それは走り続けるメロスの耳にも届いた。

「畜生、のんきにしてやがる。速いには速いが、この程度が太陽の十倍か。御都合主義も大概にしろ」

 日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。風圧により服が破れ、剥ぎ取られた結果、メロスは今、ほとんど全裸体であった。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。呼吸もできず、二度、三度と口から血が噴き出た。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。はるか向こうに小さく、シラクスの市の塔楼が見えた。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。塔楼は、夕日を受けてきらきら光っている。日はまだ沈まぬ。

 メロスは走り続けた。走りながら呟いた。

「くそったれ、何故私がこのような思いをしなければいけないのだ。もう止まってしまおうか。しかし、実際に今私は走っている。きっと、あの男の思い通りになっているのだろう。ああ悔しい。そして、いくらなんでももう日は沈んでいるはずだ。まだ沈んでいないのは、あの男が何か細工をしているに決まっている。その証拠に、先刻から太陽の位置が全く変わっていないのだから」



 日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。

 作者は腱鞘炎で痛む手首を酷使して、それこそ太陽の十倍の速度で原稿用紙に書き散らし続けた。

 走れメロス、何としても間に合わねばならぬ。私の手首が壊れる前に、早く。

 日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。日はまだ沈まぬ。



 走るメロスを発見し、「ああ、メロス様」とメロスの横に付いて走りながらメロスに呼びかけようとしたフィロストラトスは、メロスのあまりの速さによって生じた衝撃波で吹き飛ばされた。

「走るのはもうやめてください。もう無駄でございまああああッッッッ!?」

「いや、まだ日は沈まぬ。それに、間に合うか間に合わないかは問題ではない。私は今、ちょっと腹立たしいがあの男の筋書き通りに走っているのだ。ついてこい!フィロスト……どこへ行った! 話の途中だぞ!」

 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、作者にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。



「よしっ!」

 固唾を飲んでメロスを見守っていた作者は、メロスが刑場へと飛び込んだ瞬間躍り上がった。

「なんとか間に合ったぞ…さあ最後の仕上げだ」



 メロスは最後の力を振り絞って群衆を掻き分け、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

「セリヌンティウス、私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」

 メロスの口が勝手に動いた。メロスは慌てて否定しようとしたが、口が動かぬ。目の前の友を見ると、友も同じく不思議そうな顔をしながら口をぱくぱくさせていた。作者め、また私とセリヌンティウスをいいように操りおって。しかし、メロスの口は動かない。

セリヌンティウスは済まなそうな顔をしながら手を振り上げ、メロスの頬を音高く殴った。

「ぎゃっ」

メロスは思わず悲鳴を上げた。

「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」

セリヌンティウスも同じように言ったが、自分で言おうとした言葉でないことはすぐにわかった。メロスは自分の腕が勝手に動くのを感じた。「許せ、セリヌンティウス」心の中で友に謝りながらも、メロスの腕は持ち主の意に反して動き、セリヌンティウスを激しく張り倒した。

「おぐっ」

 セリヌンティウスも悲鳴を上げた。

「ありがとう、友よ」

 二人の口が同時に動き、そして二人は抱擁した。抱擁しながら、二人は互いに先程殴ったことを詫びた。双方自分の意志でないことはわかっていたため、二人は被害者意識からますます固く抱きしめあった。

 暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

 どっと群衆の間に、歓声が起った。

「万歳、王様万歳」

 その中でメロスだけが叫び続けていた。

「私は認めん。そんなわけがあるか。そんなに簡単に改心するなら私が王城へ出向いた時に改心していてもおかしくなかったはずだ。私は何のために走ったのだ。都合が良すぎる。虫唾が走る。今すぐこの茶番をやめろ。おい作者、聞いているのか。こんなこと書いていて恥ずかしくないのか。貴様それでも作家か」

 メロスの叫びは、群衆の歓声に掻き消されて、誰にも届かなかった。やがて叫び疲れたメロスは、がっくりと肩を落として深い溜息をついた。

 そのとき、ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。セリヌンティウスは、気をきかせて教えてやった。

「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」

 そのとき、作者がこの後どのような展開にしたいのかを一瞬で理解したメロスは、娘の手からマントを叩き落として喚いた。

「今までずっと全裸体で走ってきたのだ。今更誰がこの程度で赤面するものか。見せるほど立派なものは持っていないにしても、もうとっくに慣れておるわ。大方私が照れるシーンを最後にこの物語を終わらせる気だろうが、そうはさせん。最後くらい貴様に逆らったって罰は当たるまい。絶対に終わらせんぞ。こんなしょうもない結末は絶対に認めぬ」



 作者は苦笑した。

「無駄なことを」

 そして赤ペンに持ち替え、原稿用紙に腕を突っ込んだ。

「これで最後だ、無駄な抵抗は止さんか」

 メロスの両頬に赤インクを塗りたくると、作者は腕を引っ込めて黒に持ち替え、最後の行にゆっくりと書き付けた。

「勇者は、ひどく赤面した。」



 メロスは作者の腕が消えていった空を仰ぎ、吠えた。

「おのれ作者め、そこまでするか」

 頬を赤く塗りたくられて激しく「赤面」したメロスの怒号は、やっとのことで日が沈んだシラクスの町に、虚しく響き渡った。



 かくして、稀代の名作「走れメロス」は完成した。

 しかし、原稿の完成から出版までに、作者による大幅な推敲、そして文章の大量削除があったことは言うまでもなかろう。

 一人の人間として、ただ操られるを良しとせずに自分の頭で考え続け、精一杯運命に逆らったメロスの苦悩とその生き様は、こうして作者の手によりついに語られることなく闇に葬られたのである。

 メロスは、ただの善良で単純な男ではない。不貞腐れもするし、怒鳴りもするし、後悔もする。しかし、悩み、苦しみながらも文字通り前へと走り続けた彼こそ、間違いなく、真の英雄であった。

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走らされるメロス 水尾 @elbaite

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