走らされるメロス

紫水街(旧:水尾)

 これは、日本人ならば誰もが知る名作「走れメロス」について、物語の裏側と知られざる真実とを記したものである。



 メロスは激怒した。

 かの邪知暴虐の王に、ではない。作者の太宰治にである。



 知っての通り、メロスはシラクスの町において王に狼藉を働こうとして捕まり、セリヌンティウスを身代わりに村へ戻ってきた。そして妹の結婚式がいよいよ乱れ華やかになる頃、メロスは妹や友人たちに別れを告げて、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

 そして、眼が覚めたのは明くる日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。そこでメロスは、はたと思いとどまった。

 思えば町へ出かけたときから、何かおかしい心持ちがしていた。メロスは単純だが、穏やかな男である。いくら王の暴虐に怒ったとて、短剣で王を刺し殺そうなどという大それたことを考え付く筈もない。あのときメロスは、王を殺そうなどという気持ちは一切無かった。ただ王の間違いを正してやろうと、王に一言浴びせる心づもりでいたのである。ところが、町でメロスの口から出たのは、「呆れた王だ。生かして置けぬ」「市を暴君の手から救うのだ」というメロスが考えもしなかったような物騒な言葉であった。

「はて」

 それに加えて、メロスが買いに来たのは花嫁の衣装や祝宴の御馳走である。

「何故私は短剣などという物騒なものを懐中に忍ばせていたのだろうか」

短剣を持って町へ来た記憶もなければ町で買った記憶もない。いつから持っていたのか、とんと見当が付かぬ。

「一体どうしたことだろうか」

 考えれば考えるほど、町で自分のした行動の辻褄が合わぬ。メロスはその場に座り込み、考え込んでしまった。



 それを天から見てやきもきしていたのが、作者の太宰治である。今まで自分の書いた筋書き通りに動く人物たちをずっと上から見てきたが、何故かメロスだけは動かぬ。

「はてさて、自分の思い描いた通りに主人公が動かぬとは奇怪千万、これは何としたことだろうか」

 今まで小説を書いてきて、このような出来事の起こった試しがない。メロスと同じく作者も考え込んでしまった。

「何としてもメロスを走らせなければ、題名に合わぬではないか」

 作者は徐に万年筆を手に取り、原稿用紙の続きに書き付けた。

「身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た」



 メロスは突然、何者かに引っ張られるようにして立ち上がった。行かねばならぬ、お前は行かねばならぬ、さあ走り出すがよいという声が頭の中にがんがんと響き渡り、メロスはわけもわからぬまま闇雲に走り出した。走りながら、メロスの頭の中に次のような台詞が流れてきた。私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。それが自分の声なのか先程自分を走らせた謎の声なのかもわからなかったが、頭の中で響くその声を聴いているうちにメロスはつらくなってきた。

 なぜ自分が殺されて、あの王は生き残るのか。私は正直だった。生まれてこの方嘘などついたことは決して無かった。王のように人を殺したこともない。そして、何故あのとき私は短剣などを持っていたのか。なぜあのとき私は王に向かって殺すつもりがなかったことを伝えなかったのか。嗚呼、天道是か非か。自責の念はあとからあとからあふれてくる。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。セリヌンティウスを救うのだ。私の勝手な行動に巻き込んでしまった、唯一無二の親友を、あの悪逆非道の王の手から守らねばならぬのだ。



 それを天から見下ろしてほっとしていたのが作者である。どうやら自分が紙に書き付けたことには従うようであるとわかり、自分が考えた台詞をメロスの脳内に送ってメロスの行動を自分の意に沿うように操っていたのだ。

「これならばなんとか書き上げることが出来そうだ、助かった助かった」

 作者はこのとき、人生の中でも比較的落ち着いた時期であった。現代ではもっぱら自殺志願者として勇名を馳せている彼だが、そんな時期もあったのである。そして、今書いているこの本は自分の著作の中でも一、二を争う傑作になるような気がしてならなかった。本が売れれば、貧乏な生活ともお別れである。社会的地位も向上する。いいことずくめである。ひゃっほう。つい楽しい想像に夢中になってしまった作者を尻目に、メロスは早速昨日の雨で荒れ狂う川に突き当たり、渡ることが出来ずに天を仰いで泣き出していた。

「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです」



 数十分が経過し、メロスが哀願する声でふと我に返ったゼウスならぬ作者はやっと気付いた。原稿用紙に舟の存在を書き忘れていたのだ。メロスが間に合わぬとでもなると一大事である。慌てて書き加えようとした作者は、ふと思いついた。

「泳がせたほうが、メロスの友を想う気持ちも強い覚悟も読者に伝わりやすい筈ではないか、そうだ、泳がせよう。なあに大丈夫、溺れかかったら上から木の根でも垂らしてやるさ」

 気分はカンダタに糸を垂らしたお釈迦様である。自分が書く世界において、自分は神である。ゼウスである。自分がただ一言書き加えるだけで世界は変わるのだ。天上天下唯我独尊。作者は心地よい全能感に浸りながら、メロスの脳内に台詞を書き込んだ。



「今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる」メロスの頭の中に例の声が響いた。仕方ない。メロスは思い切って飛び込んだ。荒れ狂う流れに逆らいながら、メロスは考えた。

 先刻から私の頭に響く声は、どうやら私の声ではない。しかし、あの声には逆らえぬ。するとあれは、自分の心の奥底から響く、自分の正直な気持ちだろうか。いや違う。メロスは波を掻き分け掻き分け泳ぎ続けた。私の体は何かに引っ張られているかのようだった。あれは、なにか私よりずっと大きなものの意志に違いない。すると、あの声はゼウスの声であったのか。ゼウスが私の行くべき道を指し示していらっしゃるのだろうか。

 ついにメロスは、押し流されつつも対岸の樹木の幹に縋り付いた。ありがたい。メロスは岸に上がり、再び走り出した。走りながら考えた。

 すると、神は私に死ねと言っているのだろうか。これまで何一つお天道様に顔向けできないようなことはしてこなかった。その私にもう生きている必要はないとおっしゃるのか。私が何をしたというのだ。

 走り続けるメロスの胸に、言いようのない怒りがむらむらと湧き上がってきた。



 そのとき作者は考えていた。

「王城まですんなり辿り着いてしまっては面白くない。物語に起伏を、よりエンターテインメント性を持たせるためにも、ここでもう一つほど障害を設置しておくべきだろうか」

 作者は閃いた。

「山賊などはどうだろう」

 いそいそと山賊を原稿用紙に書き加えて、作者はほくそ笑みながらメロスを見下ろした。



 行き場のない怒りに震えるメロスがぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。

「待て」

「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ」

「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け」

「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つのいのちも、腹立たしいことにこれから王にくれてやるのだ」

「その、いのちが欲しいのだ」

「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」

 山賊たちはものも言わず一斉に棍棒を振り上げた。メロスは脅すように言った。

「私は生来、穏やかな男である。しかし今、残念ながら私はこの理不尽な世界に大層腹が立っている。はっきり言って激おこである。どうせ私はこれから死ぬのだ。貴様らが立ち去らないのなら、私は、恥ずべきことだが、怒りに任せて八つ当たりするぞ」

 何も言わずに山賊の一人が殴り掛かってきた。メロスは上から振り下ろされる棍棒の一撃を半身になって躱し、つんのめった山賊の顔面を膝で蹴り砕いた。そのままくずおれる山賊の手から棍棒をむしり取ると、剛腕一閃、メロスの手から放たれた棍棒はうなりを上げて飛び、別の山賊の鳩尾にめり込んだ。哀れな山賊の胃の内容物が口から吐き出され、周囲に立っていた山賊たちの体に降りかかる。

 あっという間に二人を倒された山賊達は、茫然自失の体であった。メロスは地面に落ちている棍棒を拾い上げ、さも凶悪そうな顔で周囲の山賊達を睨めつける。

 残る山賊が怯んだ隙に、メロスは棍棒を放り出し、さっさと走って峠を下った。走りながら考えた。

「先程は気が立っていたとはいえ、ついついやりすぎてしまった。本来私は穏やかな男だったはずなのに……。どこかおかしい。何かがおかしい」

 そのまま走り続けたメロスは、あることに気がついた。道が平坦になったのに、驚くほど楽に走れるではないか。実はこのときメロスにランナーズハイという現象が起こったのだが、当然メロスはそのことを知る由もない。ただ、さては神の助けかと思い当り、そこまでして私を間に合わせたいのかとやや複雑な気分になった。

 数十分走り続けると、さすがに疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。もう走れない。しかし、セリヌンティウスを救う為に、どうにかして進まなければならぬ。仕方なく、メロスは道端で手を挙げて立ち止まった。

 待つこと数十分、やがて一台のタクシーが通りかかった。

「どちらまで」

「シラクスの町まで頼む」

「へい」

 メロスを乗せたタクシーは軽快に走り出した。エアコンの効いた車内は大層快適で、メロスは「ああ快適快適、さすが文明の利器は違うわい」などと呟きながらシートに座ってゆったりと寛いだ。



 ふと原稿用紙の中を覗き込むと、あろうことかメロスがタクシーに乗っているので、見間違いかと驚いた作者は身を乗り出してバランスを崩し、椅子から転げ落ちてしまった。「あいててて」腰をさすりさすり見下ろせば、やはりタクシーである。タクシーはシラクスまでの道のりを軽快に走り続けている。

「おのれメロス、主人公のくせに楽をしおって」

 作者は怒りに震えながらペンを握りしめた。そもそもタクシーやエアコンが存在する時代ではないし、主人公がタクシーで刑場に乗り付けるという御都合主義的展開など私は許さぬ、断固として阻止せねば。

 作者は腕を原稿用紙に突っ込み、タクシーのガソリンタンクに、ペンで一言「穴」と書き加えた。



 たちまちガソリンが漏れだして、タクシーは止まって動かなくなってしまった。

 何事かと車外に出てエンジンを調べていた運転手が、後部座席のメロスに大変申し訳なさそうに言った。

「すみません、どうやらガソリンが漏れているようです。お代はいらないので降りてください」

 こうして、メロスは車から降ろされた。

「何故こうなるのだ」

 一声吠えると、メロスは仕方なくまた走り出した。



 走るメロスを見下ろしながら、作者は非常に焦っていた。タクシーで距離を稼いだとはいえ、時間が足りぬ。メロスは、このままでは間に合わぬに違いない。日はもう西に傾いている。今更物語を書き直すわけにもいかぬ。急げ。できるだけ急ぐのだメロスよ。

 そのとき太宰に、友人から電話が掛かってきた。

「おお、私だ、太宰だ。何の用だ」

「何の用だ、じゃない。俺の自転車を早く返しやがれ」

「はっはっは、忘れていた。すまんすまん」

「馬鹿野郎、そう言ってもう何ヶ月経つと思ってやがる。忘れないようにどこかに書いておけ。今度返さなかったら桜桃投げつけるからな」

「わかったわかった、でも桜桃はやめてくれ」

 作者は万年筆を取り、「自転車」とメモした。

 上の空で書いた作者は気づかなかった。よりにもよって、今まさに執筆中の原稿の上に書いてしまったことに。



 ひいひい言いながら走り続けるメロスの前に、一台の自転車が忽然と現れた。立ち止まって辺りを見回してみても、持ち主と思しき人影は見当たらぬ。

「ありがたい、これぞまさに天佑神助と言ったところか。使わせてもらおう」

 メロスは颯爽と自転車に跨ると、ペダルを踏み込んだ。走り出してしまえば楽なもので、「走り、泳ぎ、とうとう自転車にも乗った。これで私もトライアスリートの仲間入りか。日頃から体を鍛えておいて損はないな」などと他愛もないことを考えながら、ふんふんと鼻歌交じりに走り続けた。



 さて、電話を置いた作者は、執筆で凝った肩を解すべくラヂオ体操を始めていた。

「やれやれ、座りっぱなしというのも存外疲れるものであるなあ!」

 ぐーんと伸びをしたあとに「さてさてメロスはどれほど走ったかな」と原稿用紙を覗き込んだ作者は、驚きと怒りの入り混じった呻き声を上げた。

「目を離すとすぐに楽をしおって」

 元はと言えば自分が書き込んだ自転車なのだが、怒りに燃える作者の頭からそのことは都合よく消え去っている。

「ちゃんと走らんかい!!」

 震える手で万年筆を逆手に握りしめ、作者はのたくるような字で「両輪パンク、ハンドル破損、胴体部分分解」と書きなぐった。



 気分よく走っていたメロスは、何かが弾けるような音を聞いた。「はて」と思う間もなく掴んでいたはずのハンドルがぽきりと折れる。「うおっ」バランスを崩したメロスの尻の下で、とどめとばかりに胴体部分のネジやボルトが弾け飛び、へし折れた。

「あああああああ」

 突如バラバラになった自転車のおかげで、メロスは誰も見ていない広野の真ん中で大リーガーばりのヘッドスライディング(正確に言えばフェイススライディング)を決めた。そしてその体勢のまま数十秒間突っ伏して、しばらくのあいだぷるぷると震えていた。この怒りを誰にぶつければよいのかわからなかったからである。

 ふらりと立ち上がったメロスは、もはや叫ぶ気力もなく、ノロノロと歩き出した。メロスの脚は強靭だった。しかし、自転車に乗っているときもペダルを漕いでいたことに変わりはなく、つまりは働きづめであったのだ。走り出そうにも脚が重くて叶わぬ。メロスはそれでも歩き続けたが、脚は重くなるばかり。ついには脚を引きずって歩くようになってしまった。

 やがて、作者の必死の願いもむなしく、原稿用紙の中でメロスがついに肉体的限界を迎えたのだった。



 メロスは立ち止まり、そのまま前のめりに倒れた。もう動けぬ。

 ここで止まってしまう悔しさと、肉体的な痛み、そして友への申し訳なさがメロスの中で混ざり合い、進退窮まったメロスはとうとう不貞腐れ始めた。

 そもそも短剣が懐に入っていたこと、言おうとも思わなかった台詞が口を衝いて出てきたことからおかしかったのだ。今思えば、あれも神が私を殺そうとして細工したに違いない。神だから、そのぐらい朝飯前だろう。ひどい神もいたものだ。私のせいではない。私はわけもわからぬまま、全力で走ってきた。セリヌンティウスを死なせまいと、この理不尽な神に従いながら本気で走ってきたのだ。しかし、もう動けぬ。許せ、セリヌンティウス。私は悪くない。だから、絶対にごめんなさいは言わない。

 メロスは草原にごろりと寝転がった。



 慌てたのは作者である。早く走り出してもらわなければ、本当に間に合わぬ。しかしメロスは作者の流す頭の中の声にも歯向かい、絶対に動こうとしない。不貞腐れてひたすら言い訳を呟き続けている。仕方ない。作者は原稿用紙に顔を突っ込んで、寝転がるメロスを見下ろして叫んだ。

「おい起きろメロス」

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