形式としてすでにSFを誤解している

 「形式としてすでにSFを誤解している」というのは、この作に限った話ではない。
 なぜゆっくり始まるのだろう。なぜ最後に何かが明かされるのだろう。
 言うとするなら、何かが明かされたところからSFの話は始まる。何かが明かされて終わるなら、その時点で形式としてすでにSFを誤解している。
 それは、氾濫するトリックに依存した話の影響もあるだろうと思う。だがトリックに依存するのは、形式の一つではあっても、SFの形式ではない。

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メメント・モリ