リストリクション

インターミッション:リストリクション

 伝蔵は背中がかゆくなった。

 もぞもぞと動いてみたがむしろ痒さが拡大している。ごそごそと畳を這って柱に背中をこすり付けた。ああ、少しマシになった。

 手鎖をつけられてそろそろ半月程か。まだまだ長い。懲りずに戯作を書いてはいるものの、やはりなにかと自由が効かないのはストレスが溜まる。つい、お菊にも辛く当たってしまう。昨晩も魚の骨が上あごに刺さったのに腹を立てて、女房をなじってしまった。勤めあがりのお菊に家事が務まらないのは承知の上だったが、手鎖に処されてから給金をケチって飯炊きにひまを出してしまったのが、伝蔵の運の尽きであった。ふた月ばかりならお菊だけでもなんとか賄えると思ったし、当人もできるというのだから、じゃあ夫婦助け合って生きようじゃないかと誓ったその舌の根も乾かないうちに、朝は辰の刻まで寝ているわ、洗濯ものは着るものがなくなるまでため込むわで、とても務まるとは思えなかった。おさんどんにしたって、見よう見まねで炊事はやってみるものの、物心ついたときから遊郭で花として育てられた身である。そこらの女房と同じようにはいかないのだった。昼に気疲れしてしまうせいか、肝心の閨事もこのところすっかりご無沙汰である。もっとも伝蔵も手鎖で自由が効かず、あまりそういう気にもなれなかったのだが。

 昨年、好いて菊園を身請けしたはいいが、どうも心までは開いてくれぬようだ、と伝蔵は感じていた。お菊は水揚げのすぐあとからずっと贔屓にしてきた。やはりその魅力は花魁にも劣らぬその器量である。そこいらの色黒とは次元が違う白肌。小股の切れ上がったいい女とはお菊のための言葉であると、伝蔵は心底思っていた。ただ見ているだけでもよかった。ただ、菊園は愛想の悪さで人気が今一つであった。伝蔵は多少冷たくあしらわれた方が嬉しいのだが、他の女郎たちは相手が山東京伝と知るとすぐさま媚びてきて面白くない。ところが菊園は相手がだれであろうと素っ気なく、無口で通していた。たまに眼光鋭く睨めつけるところも、伝蔵には魅力に思えていた。

 だから四六時中不機嫌なのはとくに気にしていなかったのだが、それでも女房である。気を許しているのかどうかはわかる。里にいたときと同じように床の相手はしてもらうが、里の様子と何も変わらない。身請け話を持ち出したときも、嬉しいのか嬉しくないのかさっぱりわからなかった。それもまた菊園らしさかと思い、そのまま話を進めてしまったのだが、果たしてそれでよかったのかどうか、伝蔵は今でも悩んでいた。


 廊下の奥から足音がした。

「伝蔵様」

「お菊か、なんだい?」

 柱に寄りかかりながら肩越しに答えた。お菊は伝蔵を旦那様とは呼ばない。

「滝沢様がおいでです」

「馬琴さんが? 今いく」

 伝蔵は億劫そうに立ち上がり、鎖をじゃりじゃり鳴らしながら、玄関へ向かう。

 狭い土間で曲亭馬琴こと滝沢佐七郎が恭しく頭を下げていた。いつも辛気臭いが、なんだか今日は一層沈んだ顔だ。

「馬琴さん、まあ上がんなよ」

「すいませんお師匠さま」

「師匠はよせって言ったろ。断ったはずだぜ」

「断られても師匠は師匠です」

「めんどくさいお侍だな」

 だいたいにして武家の戯作者はどこかおかしな御仁が多いが、この滝沢様は輪をかけて偏屈だと伝蔵は思っていた。これは蔦屋重三郎も同じ意見であった。

「お菊、茶を頼む」

 奥から、あい、と声がした。珍しく機嫌がいいようだ。客が武家だとだいぶ感じがちがう。お菊がお武家好きなのは廓の遣手婆あから聞いてはいたが、ここまであからさまだとは思っていなかった。


「で、どうしたい」

「それがその、深川の拙宅が流され申して」

「え、こなんだの大水でかい?」

「左様で」

「そりゃ災難だったな」

「ほとほと困り果て申した」

 滝沢佐七郎は長年の放蕩がたたって、近年では親族とは死別と絶縁で関係が途絶え、ほぼ身寄りがない状態であった。伝蔵は、その辺りを蔦重から大まかには聞き及んでいたが、実際こうして訪ねてくるところをみると、本当に他に頼るあてがないのだろう。ましてや伝蔵は幕府に楯突いた咎で手鎖刑に服している罪人である。縁を切りこそすれ、積極的に関わろうだなどと、どうかしている。

「おめさん、炊事はできるのかい?」

「下男もおらぬ独り者ゆえ、たいていのことは自分でこなせますが」

「ああ、そうかい」

 ただの食客として匿ってもいいのだが、それでは遠慮して長くは居れぬだろう。それに、禄もないような浪人ではすぐに蓄えも食いつぶしてしまうに違いない。伝蔵はしばし考えた。考えたうえで提案をした。

「馬琴さんよ。とりあえず戯作者として独り立ちできるまで、うちに居たらどうだい?」

「それでは内弟子にしてくださると?」

「いいや、弟子はとらねえって言ったろ。食客として居てくれて構わないと言ってるんだ」

「しかしそれでは恐悦至極にて」

「そう言うだろうと思ってな、おめさんにうちの賄いを頼めないかと」

「賄い? 奥方様がおられましょう?」

「うちのは里の出だから、そっちはどうにも苦手でな。引き受けてくれると大いに助かるのだが」

「人助けとあらば、喜んで」

「そうかね。そいじゃ話は決まりだ。おい、お菊」

 御勝手からお菊がやってくる。

「湯がまだ沸きませぬ」

「ああ、とりあえず茶はいい。馬琴さんが今日からうちに住むからな、三吉呼んで書斎を片付けさせろ」

「あい」

「かたじけない」

 馬琴が深々と頭を下げると、お菊も深々とお辞儀をした。やはり武家相手だと対応が丁寧な気がする。女郎のころは相手の身分で対応を変えていただろうから、その習慣が染みついているのだろうか。

「おめさん、荷物もみな流されちまったのかい?」

「あ、いえ、主なものは寺に預かってもらっております」

「そうかね。おい、お菊、三吉に人足も呼ぶように言っとけ。馬琴さんの荷物を取りに行かせよう」

「なにからなにまでかたじけない」

「まあ、とりあえずおさんどんが助かるだけでも、おいらはありがてえのさ」

 伝蔵の心遣いに、滝沢佐七郎は深々と頭を下げた。


 佐七郎がやって来てから、伝蔵の生活は多少ながらも快適になった。とはいえ武士の男手なので、なかなか細部には気が回らないこともあったが、それでもお菊がやるよりはまだマシであった。職分を侵されて、普通の女房なら腹を立てそうなものだが、お菊はそんなそぶりも見せず、有閑奥方を満喫しているようにも見えた。伝蔵の手鎖が明けて、以前のように戯作が描けるようになれば、こんな蓄えを食いつぶすような生活ともオサラバできるわけで、そうすればヒマを出した使用人たちも呼び戻せる。それまであとほんの半月の我慢である。伝蔵はこのままでやり過ごす気でいた。


 佐七郎が来てから閨事はまったく控えていたのだが、珍しくお菊がお情けを頂戴と伝蔵に言い出した。伝蔵も手鎖の扱いに慣れてきたので、じゃあ久しぶりにと提案に応じ、久しぶりに夫婦めおととなったのである。


 丑の刻。ふと、伝蔵が目を開くと、月明かりの中で眼前に刃物が向けられていた。

 すわ強盗かと思い大声を出そうとするが、胸に乗っているのはどうやらお菊である。お菊の握る匕首が眼前に迫っていた。このまま振り下ろされれば、首を掻き切られて伝蔵はお陀仏である。

「お菊」

「伝蔵様」

「わしを殺すんか」

「いえ」

「殺さんのか」

「殺せません」

 ならばなぜ、と思ったが、それは愚問だと言葉を出す前に気づいた。

「殺せんのなら、降りろ」

「はい」

 お菊は匕首を脇に捨て、伝蔵の上から降りた。呼吸が楽になり、深呼吸をした。

 お菊はうなだれたまま、布団の傍らにへたりこんでいた。

「伝蔵様」

「なんだ」

「番屋に突き出してくださいませ」

「馬鹿をぬかせ」

 伝蔵は不自由ながら身体を回転させて手鎖のついた腕を下側に回し、ぐいと起き上がった。布団に胡坐をかくと、お菊に向き直った。障子から透ける月明かりで寝室はほのかに明るいが、お菊の顔は暗く陰っていて、どのような表情で殺そうとしていたのかまるで見えなかった。

「わしが嫌いか」

「いえ」

「憎いかね」

「……」

「言えんかね」

「……どうして憎いとわかりやんすか」

「戯作者を舐めるなよ」

「……あいすみません」

「毎度抱くたびにやられてりゃ嫌が応にも気づくわいや」

 伝蔵は深くため息をついて、己が女房をぼんやりと眺めた。どこから間違えたのやら。思えば、最初からなのかもしれん。いや、出会うずっと前からかのう。伝蔵はこの女が不憫でならなかった。山東京伝といえば江戸地本問屋のエースである。他の女子おなごなら股を濡らせて群がってくるものを、なんの因果か、心底憎む相手に身請けされちまうなんてな。他に情男いろでもおったのだろうか。遣手婆あも知らんのだから余程の相手であろうが、縁がなかったのだろう。伝蔵は月明かりで薄暗い部屋で、ただ黙ったまま、しばし思案した。


「のう、お菊」

「……あい」

「おめさん、死んでみるかい?」

「煮るなり焼くなり、好きにしなんせ」

「そうかい」

 伝蔵は再び横臥よこになった。すぐに寝息を立てる。お菊はそっと伝蔵に布団をかけ、自分もそこにもぐりこんだ。優しい香りがする。この香りは嫌いではない。伝蔵は良き夫であった。憎しみを忘れないようにするのが辛いほどに。しかし、この憎しみを捨ててしまうことは、自分が自分でないことになりそうで恐ろしかった。憎むことで苦界を生き延びてきた。人も殺めた。この手は血に汚れている。もう御曹司に抱かれる資格はないのだ。そして、こんな穢れた女を妻として娶ってくれた伝蔵に靡くことは罪だろうか。この夫が死ねというのなら、死んでもいいのかもしれない。いっそ死んでしまえば楽だろう。そうしてお菊は深い眠りに落ちた。


 翌々年、山東京伝が妻・お菊は、京橋屋敷の離れにて病死した。晩年は病の進行が激しく、夫と医者以外は誰とも面会していなかったと伝えられる。お菊の看病はすべて伝蔵が自ら行い、前年まで同屋敷に住み込んで暮らしていた滝沢佐七郎ですらも、お菊が倒れてからは一度も面会することはなかった。伝蔵はお菊の葬儀は行わず、墓も建てていない。ただ一言、蔦谷重三郎には「菊園は身請けする前からすでに死んでいた」と述べたという。身請け前よりなんらかの病に侵されていたものが、伝蔵のもとへ来てから不意に発病したのだろう。


 お菊が他界したとされる年、御曹司こと松平定信もまた、外交の失敗の咎で老中を失脚。時代の表舞台から姿を消した。蔦屋重三郎は、翌年東洲斎写楽を大々的に売り出すなど、かつての権勢を取り戻すべく数々のプロジェクトを仕掛けるが、一度失った勢いを完全に取り戻すには至らず、寛政九年、脚気で死んだ。


 伝蔵はと言えば、寛政十二年に遊郭玉屋の玉乃井を年季が明ける前に身請けし、後妻として迎えた。伝蔵は玉乃井を娶ってからは一切の吉原通いを断ったとされ、二人は仲睦まじく、伝蔵が死ぬまで寄り添って暮らしたという。


「お絢。具合はどうじゃ」

「あゝ殿。今朝はだいぶよいようです」

「それはよかった。於莵五郎はどうじゃ」

「乳をよう吸います」

「さよか。芳丸は病弱ゆえ、こやつには強く育って欲しいものじゃ」

 奉公人であった菓子屋の養女・絢を側室として迎えた水野忠光は、その子である次男・於莵五郎の誕生を心から喜んでいた。気がかりなのは正室・勝子と絢の折り合いであったが、それはあからさまに芳しくなく、いずれは絢には暇を出して、於莵五郎を正式に跡継ぎとして育てねばならぬと考えていた。

「殿はこないに早うから於莵五郎を見に?」

「ああ、いや、そうじゃ、白河様からお前にと祝いの品を賜ったぞ」

「白河様……」

「わしにではなく、お前にということじゃったが、どういうご縁なんじゃ?」

「ええ、若い時分におたなへおいでくださったことがございます」

「菓子屋にか。そういえば甘党だと聞いたことがあったのう」

 絢が紫紺の包みをひらくと、中には寄木細工の箱が入っていた。

「これは見事な秘密箱じゃな」

「綺麗……」

「開けるかのう」

「どうでしょう」

「中に何か入っておるかな」

 絢が箱を振ると、カタカタと音がした。何かは入っているようだ。於莵五郎が泣き出した。

「あらあら、お腹すきましたかね」

「わしは赤子が苦手じゃ。品は渡したからの」

「お気遣いありがとう存じます」

「うむ」

 忠光は泣き声に追われるようにそそくさと退散した。秘密箱を於莵五郎に渡すと、とたんに泣き止んだ。

「ととさまからの品だとわかるのかねえ。賢いお子だこと」

 カタカタと鳴るのが愉快なのか、喜んで箱を振り続けた。


 水野忠光から家督を継いだ水野忠邦は、のちに老中に就任。天保の改革を実行し、さらに大量の禁書を生み出すこととなるが、それはまた先のことである。

 忠邦は雅号として「菊園」を名乗り、「菊園風紀」などの書物を残している。が、それはほんの偶然である。

 

〈第三巻ワンダリン 第五章へ続く〉

 

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ストラタジェム;ニードレスリーフ 波野發作 @hassac

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