食い逃げ与平

@cyatakusan

第1話食い逃げ与平

「はぁ、はぁ。やっと捕まえたぜ、この野郎!」


蕎麦屋”そば長”の主人、長介は、息を弾ませながら男の襟首を掴んだ。


「ちぇ。脚にゃア自信があるンだがなァ。」


苦笑しながら男・・・与平は、長介を見返る。


「とっとと蕎麦代、十六文払いやがれ!」


「そんだけでいいのかい?」


「けっ!」


悪戯な与平の笑みを、長介は鼻息で吐き捨てた。


「この間、逃げられちまったのは、俺が間抜けだったって事だ。その金まで取ろうたぁ思わねぇよ。」


「ほんッとあんたァ、話が解るねェ。」


与平は金袋から銭を取り出し、長介に差し出した。


「釣はいらねェよ。」


「言いやがれ!ったく、金持ってんなら、最初(はな)っから出せってんだ!」


ぶつぶつ垂れながら、長介は踵を返す。


「これで、俺の二十一勝二十敗だァな!」


その背中に、与平が声を投げ掛ける。


「二十一回も只食いされちまったのかよ畜生!」


長介は足元の土を蹴り上げた。

しかし、その仕草が少し楽し気に見えるのは、与平の気のせいだろうか。





「御免よ。」


ある日の夕刻。

長屋の引き戸が開けられた音に、与平は仕事の手を止め、振り返った。


「ん?そば長の大将じゃアねェか。」


「お前ぇ、飾り職人なんかやってやがったのか。」


長介は細工物の散らばる屋内を見回し


「邪魔するぜ。」


どかどかと土間から上がって来た。


「何だよォ。まさか、喰い逃げた分の蕎麦代払えッてンじゃア無ェだろうな。」


「へっ。見損なうねぇ。」


軽く笑い捨てると、長介はどっかりと胡坐を掻くと


「店ぇ、閉める事んなった。」


前置き無しに、それを語った。


「えッ!」


与平の顔が、さぁ、と青褪める。


「勘違いすんねぇ。高々手前ぇ一人に只食いされたくれぇで、傾く程ケチな商売してねぇよ。」


「だ、だッたら何で!」


自分のせいでは無いと知って微かに安堵はした物の、それでも勢い込んで問い詰める。


「俺ぁ、信州の生まれでよ。」


長介は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「二親は餓鬼ん頃におっ死んじまって、暫くはお袋の実家で厄介になってたのよ。」


「・・・」


「そこが、三代続く、老舗の蕎麦屋でよ。俺ぁ、そこで蕎麦打ちぃ身に付けた。」


「・・・」


「ところが、よ。」


「・・・何だよォ。」


「三代目の、とっつあんが、よ。」


「・・・」


「・・・胃の腑のでき物で、もう長かぁ無ぇらしいんだ。」


「・・・」


「それで・・・」


「大将ォ後継ぎに、ッてか。」


「ああ。」


「そンなら仕方無ェやな。」


「まぁな。」


「・・・」


「・・・」


暫く二人は、俯いたまま一言も無く。





「よォし!」


やがて、与平が突然、声を挙げて立ち上がった。


「大将の門出の祝いだァ!今夜は呑もうぜェ!俺の奢りだァ!」


「そりゃ、済まねぇな。」


「いいッていいッて!酒と肴ァ買ってくらァ!」


そう言い捨て、与平は長屋から駆け出して行った。


「おいおい、いいのかよ!?」


程無く戻った与平の手には、尾頭付きの鯛と、上酒の瓶が握られていた。


「いいッつッてンだろがよォ!」


眼を丸くする長介に、与平はかかか、と笑って応えた。





「ところで、よォ。」


夜も更け、いい加減酔いが回って来た所で、与平が口を開いた。


「大将は、何でしょッちゅう食い逃げするオイラを番所にでも突き出さなかッたンでェ?」


「俺ぁ、蕎麦打ちの他は、足の速いのが自慢よ。食い逃げ野郎に逃げ切られちまった、なんて恥ぃ曝っしな事ぁ言えるかよぉ。」


「・・・」


「・・・てのが、半分でよ。」


長介は、照れたような苦い笑いを口許に浮かべた。


「お前ぇが逃げる度、今日は追い付くか、捕まえられるか、ってぇ、少しワクワクしてたのも、実は本音さぁね。」


「オイラも、さ。」


酔ったせいばかりでは無い、赤く染まった顔を軽く伏せ、与平は応じるように、語った。


「他の店なら難無く逃げきれるッつぅのに、サ。大将のとこばッか通ッたのは、よォ。コイツとなら、いい勝負が出来る、ッてェ思ッてたからかも知ンねェ。」


「けっ!蕎麦が旨ぇからじゃ無ぇのかよ!」


「そ、それもあッけどよォ!」


「・・・」


「・・・」


「へへへ・・・」


「ウヘへ・・・」


「あははははは!」


「ひゃッはッは!」


二人は空が白むまで、盃を重ねた。





「・・・ン。」


与平が目を覚ました頃には、陽が既に高く昇っていた。

長介の姿は、見えない。


「何だこりゃア。」


代わりに、置手紙が一つ。


「!」


文面を読み、一瞬目を見開いた与平は


「あンの野郎!」


手紙をくしゃくしゃと丸め。

満面の笑みを、現していた。

手紙には


”食い逃げ与平から、騙りによって喰い逃げたり。是にて二十一勝二十一敗”


と、書いてあったのだ。





『この前ァしてやられたなァ。』


それから。

あの夜、急ぎの仕事の手を休めてしまった為、与平にとって三日ぶりの外出である。


『今日は大盛りに、天婦羅のッけて喰い逃げてやる。覚悟しやがれッ!』


足取りも軽く、そば長に向かう。

が。


「・・・えッ。」


そば長は、暖簾を出していなかった。

しかも。

閉めたままの雨戸に。

”忌中”の、貼り紙。


「・・・!」


与平が裏へ回ると、黒い着物の有象無象がたむろしている。


「なッ・・・!」


慌てて長介の住処である店の二階に上がると。


「ああ。良くおいで下さいました、与平さん。」


喪服の、長介の連れ合いが、目尻を拭っていた。

そして。

その傍らには。

寝床に身を横たえ。

顔に白い布を被せられた。


「たッ・・・」


その布をめくって見ると。


「大将ォ・・・」


それは確かに、長介だった。


「うちの人、病で先が無いってのに。」


呆然とする与平の背中で、長介の連れ合いが語る。


「あいつが喰いに来る間は・・・あいつに負け越したまんまでは、店閉められるか、って。」


「・・・」


「あんたの事ばっかり話してたんですよ・・・」


「・・・」


そこへ。


「おおい。おかみさん。」


大皿を手にした若衆が現れた。


「供物の団子、こんなもんでいいかな。」


「・・・!」


すると突然。


「あっ!な、何しやがる!」


与平は若衆に跳び掛かり。

皿の団子をむんずと鷲掴みにして。


「て、手前ぇ!」


口一杯に頬張り、その場から逃げ出した。


「ふ、太ぇ野郎だ!待ちやが・・・!」


「いいんです!」


与平を追おうとした若衆を、長介の連れ合いが声で制した。


「与平さんを追うのは、うちの人の役目。他の誰にも、譲りませんよ。」


若衆は、怪訝な顔で首を傾げ、泣き笑いの、長介の連れ合いを眺めていた。





『追ッて来やがれ!』


与平は。

走り続けていた。


『どうした!追ッて来やがれ!大将ッ!追ッて来ねェなら、これでお前ェの負け越しだぜッ!』


「ねぇ、母ぁちゃん。」


与平が通り過ぎた後。

親子連れの、幼子が母親に問うた。


「今のおじちゃん、何で泣いてたんだろうね。」






[完]

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