雪幻

坂水

第1話 掌編

 雪の日に、足跡のない人影とすれ違っても、声をかけてはいけないよ。

 それは雪の幻燈、真夏の蜃気楼のようなもの。在りし日の記憶を映し出す。

 彼らには君の姿は見えない。でも、声は過去に届いてしまうから、ご用心……


 この地方には珍しく雪が降った日、正太は駅から家までの三十分の道のりを歩いていた。午前中から降り始めた雪は、夕方には止んだが、随分と降り積もった。夕食時に退社したのに、電車が遅れに遅れ、すでに午後十時を回っている。駅前の駐車場に車をおいて通勤しているが、タイヤはスタッドレスではない。諦めて徒歩で帰ることにしたのだった。

 十分程歩くと、同じ電車を降りて家路を急ぐ人の姿はすっかり消えてしまった。正太の家は、繁華街から離れた田地にポツンと建っている。東京の大学を卒業したが、実家に戻って就職したのだ。

 サクサクサク。表面が凍り始めた雪を踏む。サクサクサク。心地よい音と感触。こんなふうに雪の道を歩くのは、子どもの頃以来だ。足型が鋳型を押し付けたようにくっきり綺麗に残るのが面白い。いつしか正太は夢中になっていた。

 車が行き交う県道を外れ、いつもは通らない田んぼのあぜ道に入っていく。徒歩ならばこちらの方がずっと近道なのだ。

 と。――ほう、と正太は思わず溜息をついた。

 ばっさり稲の刈り口が残り、乾いた土が露出する、普段は寒々しいだけの冬の稲田。それが今は、一面の雪の原。ふわり起毛した毛布を掛けられたように純白に覆われ、なだらかな丘陵を描いている。雲間から顔を出した月と星が、濃紺の闇に沈む雪原を、薄紫色に浮かび上がらせていた。

 しばし、足を止めて、呆然と見惚れる。

 ふいに、小さな影が正太を追い抜いた。車が通らないあぜ道は、昼夜問わず、ジョギングやウォーキングをする人が多い。特に驚きはしなかったが――

 正太は眉根を寄せた。さっくり雪上に踏み出したはずなのに、その人影は足跡を残していない。奇妙に思い、人影がやってきやはずの後ろを見やるが、そこには正太がつけた一筋の足跡しかなかった。

 十メートル程先行く彼が着ているジャンパーと、首にぐるぐる巻きにしたマフラーを見て、硬直する。あれは……


 ――それは雪の幻燈、真夏の蜃気楼のようなもの。在りし日の記憶を映し出す……


 少し前、飲み屋で偶然隣に居合わせた男に聞かされた話を思い出したのは、その時だった。

 贔屓の球団ロゴが入ったスタジアムジャンパー。今は亡き祖母が編んでくれたケーブル編みのマフラー。

 ……あれは、僕だ。

 思わず、その人影――小柄な少年を追いかける。振り返る素振りもなく、正太は彼の前に回り込んだ。真っ赤な頬、横一文字に結んだ口、吊り上った大きな目――どこか怒ったような表情。いや、違う。正太は知っていた。

 少年はこちらには気付いていないようで、黙々と歩みを進める。正太も歩調を合わせる。

 少年は唐突に立ち止まり、辺りをきょろきょろと見回し……大きな、重い、白くこごった溜息をついた。ぶるぶると唇の先が震え、ぐずぐずと鼻が音を立て、見る間に瞳が潤んでくる――ああ。少年は泣くのを堪えていたのだ。


 正太の家には、クロという名の犬がいた。まだ若い雄犬で、仔犬の時分に正太が拾い、毎日、朝夕と散歩に連れて行った。ツヤツヤした黒い毛並み、先っぽだけへにゃっと垂れ下がった耳、ビー玉みたいにつぶらな茶色い目。「ワンワン」ではなく「フャンフャン」という独特な吠え方をする、愛嬌のある犬だった。イタズラ好きで、せっかく植えた花の球根を掘り返したり、干してあった洗濯物を引きずり落としたり、郵便受けに入っていた手紙を丸呑みしてしまったり。大人たちはカンカンになって怒ったものだ。その度に、正太はクロを庇い、また一緒になってゲラゲラ大笑いをした。最高の相棒だった。

 だが、ある日、正太はうっかり靴を庭先に出しっぱなにしてしまう。さんざんねだって買ってもらったばかりのスポーツシューズ。それはほんの一、二分のこと――ハッと気付いた時には、かかと部分が食い千切られ、無残な姿になっていた。

 正太は激怒した。クロはしゅんと、つぶらな瞳を悲しげに垂らしたが、立腹はなかなか収まらない。冬の寒い時期、クロは夜間、玄関に入れて眠らせていた。だがその晩は罰として、庭に出したままにしておいた。もっさりとした毛皮に覆われているので、一晩ぐらいはどうってことない。これで少しは懲りるだろう。

 時が経つに連れ、だんだんと怒りは収まり、なんとはなしに心配になって、夜中小用に起きたついでに正太は庭を覗いた。

 だが。クロが繋がれていたチェーンの先には、止め具が壊れた首輪がポツネンと残されているだけだった……。


 以来、少年はずっと待っている。よく歩いた散歩コースをひとり巡りながら。

 一体、どこに行ってしまったのか? 心に穴が開いたよう。さびしいのは我慢できる。ただクロが腹を空かしているのではないか、悪さをして虐められているのではないか、交通事故に遭っていないか。そう考えると堪らない。

 ……ああ。少年の震える肩を見下ろしながら、正太もまた湿った溜息を吐いた。少年に言ってやりたかった。

 ――もうお帰り。どれだけ待っても捜しても、アイツは帰ってこないんだよ、と。

 けれど周囲の大人にそう言われれば、言われるほど、意固地になってしまうことも知っている。結局、少年のひとりぽっちの散歩は、おまわりさんに呼び止められ、家まで送り届けられ、両親にこっぴどく叱られるまで一カ月も続くのだ。

 正太はせめてと、胸が潰れる想いで、そのまだ細い肩に手を置いた。無論、それは幻燈。実体があるわけではなく、浮き上がるラインに沿って、手を宙に留め置く。

 その時。――フャウーンフャンフャンっ!

 少年は顔を上げる。そう、そんな幻聴を何度も耳にした。だけど嬉しそうに転がる黒い毛玉はどこにもいなくて、なおいっそう切なくなるのだ……が。

 ……え? 正太は目を疑った。雪原を、一目散に少年の元へ疾走する、その黒い流星。

 クロ! 正太は声を上げずに叫んだ。千切れんばかりに激しく尻尾を振り、少年の足にぴょんぴょん飛びつく。だが少年は無反応。犬はきょとんと小首を傾げる。

 一体、どうして? よくよく見ると、クロの首には見慣れぬ青い首輪と散歩用のリードがついていた。

 フャンフャンフャンっ! 幻聴に、少年は足元ではなく雪原の彼方に視線を凝らす……。


 ……そうか。正太は理解する。これは人の記憶が映し出されているのではない。雪が見てきた記憶なんだ……

 きっと、どこか別の雪降る町で、クロはしょんぼり歩く少年の幻燈を見たのだろう。自分と同じように。そして今、正太は、時と場所を離れた少年とクロの幻燈を同時に見ているのだ。

 僕が聴いた、あの日の幻聴は、幻なんかじゃなかった。距離を超えて、時を超えて、届いたクロの呼び掛け。

 少年はしばらくして諦めたように歩き出す。

 クロはどうしたの? と不思議そうな顔でお座りをする。

 正太はどっと気持ちが溢れて動けない。

 ――と。どこからともなく、「クロー!」と少し困ったような女の人の声が聞こえてきた。クロは刹那、耳をぴんっと立てて、一目散に雪原を走り出す。

 ああ。きっと新しい家族が呼んでいるに違いない。

 迷い込んできた漆黒の犬に、偶然にもクロという名を付け、青く丈夫な首輪を買ってくれた優しい人たち。

 ……なんだよ、オマエ、元気にやってるじゃん。

 正太は、小さくやっかみ苦笑した。無論、安堵の気持ちのほうがずっとずっと大きいが。

 少年の背がだんだん小さくなる。

 クロはぐんぐん弾丸のごとく走る。

 二人の距離がどんどん広がる。

 少年が、愛犬の安否を知るのは、二十年以上も先のこと。その長さを思い、正太は少年を不憫に感じた。

 だから、ちょっとした仕返しをしてやることにする。

 笑みを浮かべたまま、かつてと同じようにスゥっと深呼吸して。


「クロっ!」 


 その大きな呼び声に、クロはピタッと足を止めて。何もいないはずの虚空を仰ぎ、フャウン? と首を傾げるのだった。

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