人間の終焉と、小説の終焉
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それはもう、半世紀も昔の話となるのだろうか。
ミシェル・フーコーは、人間の終焉を宣言する。
フリードリヒ・ニーチェが、神の死を宣告したときに、人間の時代を宣することになった。
神の担っていたものを、人間が担う時代が来たと語る。
けれどフーコーはその人間というものもまた、ひとつの知のエピステーメによって生み出された概念にすぎないという。
それは19世紀とともに、発明された概念だと語られる。
近代の黎明、真理というものが担う役割が変質し、知を担う存在としてひとという概念が創造された。
ひとという概念は、マルキ・ド・サドの小説において、象徴的に現れる。
フーコーは、こう語った。
「サドは古典主義時代の言説と思考の果てに到達した。彼はまさにそれらの限界に君臨している。彼以後、暴力、生と死、欲望、そして性が、表象のしたに巨大な影の連続面をひろげはじめ、われわれは今日、この影の連続面を、われわれの言説、われわれの自由、われわれの思考のなかにとり入れようとして、できるかぎりの努力をはらっているのだ。」
サドは真理の時代、正義の時代、信仰の時代が終焉し、ひとがその自由意思において語り行動する時代がきたことを告げる。
そのような時代をうけ、19世紀の小説はロマン主義の時代を迎えた。
ユーゴーの小説において、ひとは自由意志において秩序の崩壊したパリのバリケードに立ち、銃撃戦の中で死んでいく。
小説が19世紀の中でひとつの芸術ジャンルとしての位置を獲得していくプロセスは、ひとという概念が近代という枠組みの中で成立していくプロセスとシンクロしている。
つまり、人間という概念とともに、言語芸術としての小説は世界の中でその位置を手に入れていった。
だが、20世紀後半にして、その人間というものの終焉が宣言されることになる。
小説がかつてロマン主義の中で行使した、自由なひとの意思というものは、バロウズによって問いを投げかけられることになった。
そもそも、言語というものがひとの脳を侵食するウィルスのようなものではないと、誰が保証するのか。
語っているのは、わたしなのか。
語っているのは、言語なのか。
そもそも「わたし」ですら、近代という知のエピステーメによって発明された「概念」ではないと、誰が言い切れるのか。
少し、音楽の話をしよう。
バロウズは小説という芸術の形態が、他ジャンルと比較していかに遅れているかということを嘆いていた。
ジョン・ケージは4分33秒という作品を作った。
この作品を演奏したときに、観客は当然様々なものを聴く。
そしてあくまでも、4分33秒は聴かれることを意図した作品であり、演奏しないことを演奏する作品でもあった。
では、この作品を作り上げる主体は、誰か。
少なくとも、近代的エピステーメが造りだしたひとではないはずだ。
ケージは後に偶然を楽曲の作成にとりいれるため、東洋の易を使った作曲もこころみたという。
いうなれば、主体のない作品、ひとという概念からはずれたところに成立するもの、それを試みたのだといえる。
ただ、音楽というジャンルでは限界があった。
インスタレーションという手法は、そうした時代の要請から生まれたのではないかとも思う。
クリストは、自身の作品を作り上げるにおいて、社会的な働きかけを行い彼の作品を公開する場そのものが社会的に変容していくことも含めて、作品であると主張する。
ここではもう、作品は主体から離れある種の運動体となっている。
ひとというものが終焉した時代において、わたしたちは何を語ることができ、何を読むことができるのか。
まさか、ここでも旧態依然とした主体が生み出す「小説」を求めるなんて。
それこそ、馬鹿げている。
ここには、作者もない。
読み手も、いない。
あるのは、ノイズだけだ。
わたしたちが触れるのは、ある種の無秩序が生み出したノイズであろう。
4分33秒を演奏したときと、そう大差はない。
けれど、そんなものは、インスタレーションといった手法では、むしろやりつくされて陳腐化したものでしかないはずだ。
めざすとすれば、この次だろう。
それに期待する。